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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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経済的自立は恵まれている

 経済的に自立していないのはけしからん,という意見もありますが,今の状況で経済的に自立するのは大変です。むしろ,経済的に自立できる人は恵まれた人だと思った方がよいのではないかと思います。
 例えば,結婚後に子どもが生まれて退職した女性を考えてみましょう。彼女は確かに,経済的に自立してはいません。経済的に恵まれない家に育ち,やむなく高校を中退した人も,自立できるほど稼げないかもしれません。会社をリストラされて次の仕事がみつからない元サラリーマンは,経済的に自立してはいないでしょう。彼らはけしからん存在でしょうか。
 私は今のところ経済的に自立していますが,将来何があるかわかりません。重い病気になって働けなくなるかもしれませんし,大学をクビになるかもしれません。そういう可能性は,誰にでもあるのではないでしょうか。

神永正博 (2010). 未来思考:10年先を読む「統計力」 朝日新聞出版 pp.116-117
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大学の学費上昇=貧乏人は来るな

 大学教員ですので言いにくいことではありますが,大学の学費は,物価の上昇率よりもずっと速く上昇しています。
 例えば,1975年度,国立大学の授業料は年間3万6000円でした。これが2008年度では,授業料が53万5800円(現在,国立大学は独立行政法人化されているため幅がありますが,この数字が標準額です)になっています。私立大学で同じように比べてみると,18万2677円だった授業料が,84万8178円になっています(学部学科で違うので,あくまで参考ですが)。
 この34年で,国立大学の授業料は,額面で約14.88倍,私立大学は約4.64倍になっています。ところが,消費者物価指数をもとに,物価が何倍になったかをみてみると,約1.83倍にしかなっていません。
 いかに大学の学費が高くなっているかがわかります。今や国立大学でさえ,初年度にかかる入学金と学費の合計は,80万円を超えます。理由はどうあれ,大学教育が昔に比べて数倍もの価値があるものになったとは言い難く,どうみても高くなりすぎている,といわざるを得ません。これでは,貧乏人は大学に来るな,といわんばかりではありませんか。

神永正博 (2010). 未来思考:10年先を読む「統計力」 朝日新聞出版 pp.83-84

母子家庭の相対的貧困率

 日本における母子家庭の相対的貧困率は,OECD諸国の中でもかなり高く,トルコに次いで2位というありさまです。日本では,結婚して出産してシングルになる,というのは,貧困への最短コースのようです。
 少子化対策の中であまり議論になりませんが,母子家庭(もちろん父子家庭もですが,貧困率は母子家庭の方がずっと高い)でも,子育て上大きな問題がないように支援するべきではないでしょうか。そうすれば,出産してから貧困に陥るリスクが下がるので,結果的に少子化にも効果があると思われます。
 ただ,母子家庭に対する支援の方法は,なかなか難しい問題を含んでいます。現在でも児童扶養手当が支給されていますが,児童が18歳に達した日を含む年度で打ち切りになってしまいます(障がいを有する場合は,20歳の誕生月まで支給)。大学進学のための費用は,自力でなんとかしないといけないわけです。
 現在は,大学進学が当然になってきているので,この点は緩和の必要があると思われます。

神永正博 (2010). 未来思考:10年先を読む「統計力」 朝日新聞出版 pp.75-76

同時に成り立ちうる

 ビッグファイブについての議論の最後に,こうした因子構造と一貫性論争との関係について整理しておく。ビッグファイブの普遍性,とくに文化を超えた安定性を根拠にして,ビッグファイブの性格論が一貫性論争を止揚したような議論が散見されるが,それは正しくない。端的に言って,一貫性論争とビッグファイブは関係がないのである。先にも述べたようにビッグファイブの因子は,その因子の次元上で人の性格が個人差を示す,あるいは個人内で変動する,変化の次元であり,その次元が安定していることと,その次元上に布置される個人や個人の性格,性格関連行動が一貫していることとはまったく無関係である。個人とその性格は5次元で表現される空間内の一ヵ所に長くとどまることもできるし,状況の変化に応じて空間内を自由に動き回ることもできる。一ヵ所にとどまる個人には通状況的一貫性があると言えるし,動き回る個人には通状況的一貫性がない。極端な場合,一貫性論争におけるミッシェルの主張と,ビッグファイブの特性論の両方が同時にまったく正しいということも,何ら矛盾なく想定できる。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 p.153

一貫性論争は擬似問題

 しかしここまで分析してきたように,客観的な観察データを用いて,行動の通状況的一貫性を示すことは,ひとつは観察データ自体が観察できなかった,観察しなかった状況要因から自由になれないこと,もうひとつは観察対象である学習された行動自体が通状況的一貫性をもたないものであることから,じつは非常に困難なことだった。行動観察データだけを指標とする限り,性格概念は状況要因から独立にはなれないし,傾性概念としての性質しかもたない。また心理学的測定では,測定する性格概念が理論的構成概念であったとしても,それを操作的に定義して行動観察に置き換えた時点で,概念が傾性概念になってしまい,その測定値からの性格関連行動の状況を超えた予測や原因論的説明の根拠が揺らぐことについても論じた。
 こうした観点から見直すと,一貫性論争では,性格心理学がその基礎とするデータを行動の観察だけにおく限り反論のしようのないテーゼに対して,できるはずのない方法による反論が試みられたわけで,そこから意味のある成果が得られることはそもそも期待できなかったのである。その意味で渡邊・佐藤は,一貫性論争が「擬似問題」であったと指摘している。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 p.112

それはむしろ問題行動

 多くの研究者は発達過程で学習によって形成された性格が,成人になると通状況的一貫性をもって行動を決定するようになる,というヴィジョンをもつ。しかし実際には,そうした「学習された行動の内在化」には実証的な根拠がないし,成人の性格や性格関連行動の安定性も,役割や社会的関係などの状況要因に依存している可能性が大きく,状況が変化すればそれにつれて変化すると思われる。むしろ,もし周囲の状況が大きく変化しても乳幼児期・青年期に学習した行動パターンが堅持されているような場合,それは環境への不適応につながるし,客観的には「一貫性のある行動」というよりも,「問題行動」とみなされることが多いだろう。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 p.106

一貫性論争の教訓

 心理学は性格以外の分野でも,人の行動や心的活動を指し示す日常的な概念を,ほとんどそのまま科学的分析の中に取り入れていることが多い。記憶,忘却,感情,欲求や意欲,不安,攻撃,自尊心といった心理学的概念のほとんどが,心理学が誕生する以前から日常的に人の行動や心的活動を意味するために使われていた日常概念そのものであるか,少なくとも,日常概念と密接に結びついている。
 一貫性論争の教訓は,そうした日常概念を心理学の中に取り入れるときに,そもそもその概念が日常的に用いられている時の用法や,その用法の根拠となっている論理をきちんと分析し,その用法や論理に心理学的な妥当性や根拠が与えられるかどうかを明らかにすることの必要性を示している。そうした分析によって,もしその概念の用法の根拠が心理学的に妥当化されない場合には,その概念を心理学で用いることをやめるか,さもなくば,その概念を心理学的に明確に定義し直し,心理学ではどのような根拠に基づいてどのように使用するのかを明確に定めることが必要である。性格概念においては,そうした再定義や根拠の明確化が不十分なまま,心理学者が一般人と同じ素朴実在論の上に立っていたために,大きな混乱が生じたと考えるべきだろう。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 pp.87-88

性格と内的実体

 性格概念と対応する内的要因が生理的要因や解剖学的要因のように,客観的に観察可能な要因である場合には,それと性格概念との対応は(性格概念が客観的に測定可能になっているという条件で)実証的に確認することができる。しかし,心理学において性格概念と対応させられている内的要因は,ほとんどが心理学的な実体(つまり「こころ」の構成要素)であり,客観的に観察可能ではない。
 性格概念と内的実体との対応が実証的に確認できない場合に,その対応の根拠となるのは,性格概念と関係する性格関連行動が通状況的に一貫することだけである。状況と対応しない(状況から独立である)以上,内的であるだろう,という排中律的な判断が行われる。ただし,そうした判断によって明らかになるのは,その性格概念が何らかの内的実体と対応している,ということだけであり,どのような内的実体と対応しているかは理論的にしか説明されない。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 pp.52-53

性格概念から性格関連行動への説明

 同僚が仕事に集中して大きな成果を上げたときに,それを評して「彼は努力家だからね」と述べたとする。このとき「努力家」は性格概念であるので,その性格概念から「仕事に集中して成果を上げる」という行動が,性格関連行動として説明されたことになる。
 ただし,このときこの説明が意味するのは,これまでの彼の行動から彼に帰属された「努力家」という性格概念について,新たな行動的レファレントが追加された,ということを記述しているにすぎない。彼は努力家である,なぜならこれまで仕事その他の活動に集中し,大きな努力を注ぐ,そうした努力が人一倍であるという行動が見られたからである。そして今回またその行動リストに新たにひとつが加えられた。つまり過去の行動によって帰属された性格概念から論理的・意味的に演繹される行動が実際に観察され,性格概念の帰属がより妥当性を高めたことが確認されたのである。「彼は努力家だからね」という説明には,それ以上の意味はない。
 ここでは,「努力家」という性格概念と,そこから演繹される性格関連行動とは論理的にも時間的にも並立の関係にあって,性格概念が論理的または時間的に行動に先行することは特に意識されていない。また,こうした説明における性格概念は完全に観察に還元されるもので,その意味で,性格概念から性格関連行動を説明することはトートロジーである。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 pp.49-50

尺度と検査

 性格を心理学的に測定するために,知能検査の構成を通じて確立された心理学的測定の論理が用いられることは先にも述べた。性格についての心理学的測定用具は,性格尺度と性格検査に分類することができる。おもに特性論的な考えに依拠して,特定の性格特性だけを測定するために構成された測定用具を性格尺度(personality scale)と呼ぶ。不安尺度,外向性尺度,カリフォルニアFスケール,刺激欲求尺度などは,いずれも性格尺度である。
 特定の性格特性だけを測定することではなく,ひとりの人の性格全体か,全体ではなくても複数の性格特性を同時に測定することを目的とした測定用具を,性格検査(personality inventory)と呼ぶ。たとえば類型論に基づいて人をいずれかの類型に当てはめることを目的としたテストは,性格検査である。特性論に基づいても,性格尺度のように特定の性格だけを測定するのではなく,複数の特性を測定することでより広範な性格を測定しようとするものは性格検査である。MMPI,YG性格検査などが典型的な性格検査であり,一般にパーソナリティ・アセスメントと呼ばれるものの大半もそうである。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 p.32

性格概念の定義

 本書では,あえて性格観や人間観,世界観を持ち込まずに,このあとの議論を明確にすることだけを目的に,性格ということばが現実に指し示しているもの(概念のレファレント)の最大公約数を具体的に示すことによって性格を定義する。すなわち性格とは,「人がそれぞれ独自で,かつ時間的・状況的にある程度一貫した行動パターンを示すという現象,およびそこで示されている行動パターンを指し示し,表現するために用いられる概念の総称」である。
 性格概念(personality constructs)とは,先の性格の定義で述べたような,個人が示す独自で,かつ時間的・状況的にある程度一貫した行動パターンを指し示す構成概念,ならびにそうした個々の行動パターンを統合した上位概念のことである。
 ただし,性格概念はそうした行動パターンを構成する行動そのものを指すことばではなく,それらを抽象化した概念である。性格概念は,性格という「現象」を指し示すだけのために用いられることもあるし,人間の内部にあって性格という現象を引き起こすような実体を指し示すために用いられることもあるが,本書ではどちらも性格概念と呼んで,特に区別しない。「太郎君は引っ込み思案である」というとき,「引っ込み思案」が性格概念である。「引っ込み思案」自体は具体的な行動ではなく,目に見えない抽象的な概念である。引っ込み思案,恥ずかしがり,人見知りなどの性格概念を統合して「非社交性」と呼ぶ場合,この「非社交性」も性格概念であるし,非社交性を敏感性,非活動性などと統合して「内向性」といった,より上位の概念に表した場合も,この「内向性」が性格概念である。

渡邊芳之 (2010). 性格とはなんだったのか:心理学と日常概念 新曜社 pp.23-24

認知療法と行動療法のかかわり

 認知療法と行動療法には歴史的なつながりがある。認知療法は,心理学の認知革命と時を同じくして開発されたからである。行動療法の支持者の中でも認知を重視する人はベックの認知療法を受け入れたが,純粋な行動主義を信奉する人々は激しく反発した。こうした人々からの認知的なものに対する批判は強烈だった。また,行動主義者から最初に寄せられた批判の一部は,正統な議論も誤解によるものも含め,現在も続いている。つまり行動主義からの批判は,理論的にも,歴史的にも重要だと言えるのである。
 行動主義者からの批判はベックの認知療法に向けられるものではなく,すべての認知的治療法を対象とする。批判の根本は,行動変容における認知の役割に関する理論的相違にあり,その背景には心理学の「認知革命」がある。行動主義者による批判の背後にある熱意は,認知主義者が,行動療法から分離独立するのでなく,行動療法の顔を(認知行動療法へと)変容させてしまったことに由来する面が大きい。この動きに対して,行動主義のある一派は,認知主義的メンバーをも代表する組織の一員であるよりはと,アメリカ行動療法学会(AABT)を脱退する道を選んだほどである。ウォルピが最初に言ったように「認知は行動の下位集合である」はずなのに,なぜ認知的アプローチが行動主義的アプローチと別のものとして公認されているのかと,その後も困惑したままの会員もいた。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.161-161

認知療法の背景

 認知療法は認知行動療法におけるいくつかの動き,とくに構成主義と精神統合療法の動きとともに発展してきた。こうした動きは,認知療法に刺激を与えた。近年では,情報処理モデルとしての認知療法よりも,認知療法の現象学的性質のほうが重視されるようになっている。この変化は,認知療法の基本的前提を反映したものとも言える。認知療法は,1970年代に優勢だった,人間の体験をコンピュータでたとえる機械論的なアナロジーに頼るのではなく,患者がいかに自分の現実を構成するかが重要であるということを基本前提としているのである。構成主義は患者にとっての現実を強調するが,その現実が正確であるか,合理的であるかは問題にしない。このように,セラピストは患者の体験に現実性を押しつけないようになっていくと考えられる。構成主義を支持する人は多く,現代の各種認知的治療法の自己定義にも大きな影響を及ぼしている。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.159

誤った二分法

 ベックの認知療法に関する研究がとりわけ多いせいだと思われるが,認知療法はすべての認知的治療法の代表として,ときにはすべての短期療法の代表として,反対派からの批判の矢面に立ってきた。しかし同時に,各認知療法や認知的処理論のあいだでも,大きな意見の相違が存在する。
 哲学的な論争ではよくあることだが,認知療法と他の治療法とのあいだで誤った二分法が作り出されている。曰く,「認知療法」対「行動療法」,「認知療法」対「体験的治療」,「認知療法」対「薬物療法」等々である。実際には,認知療法はこれらいずれの治療法とも相容れないものではなく,それが適切ならばこれらを採用しさえしている。精神療法の統合が進むにつれ,認知療法は独特の治療法であり続けるかどうかが問われることになるかもしれないが,目下のところ主として問題にされているのは,認知療法の理論的基礎と,回復過程での精神病理的認知の変化の実証である。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.156

対人志向性と自律性

 うつ理論を再構築するなかでベックは,ストレスとして影響を受けやすいでき事の種類は,人のタイプによって異なる,という仮説を立てた。そしてクリニックの外来患者を対象とする研究をしたところ,対人志向性(sociotropy)と自律性(autonomy)という2つの大きなパーソナリティのタイプあるいはモードを確認した。両者は環境中の異なったタイプのでき事に反応し,それがうつの病因となると考えられた。対人志向性タイプは,積極的な社会的交流に充足感を求めるという特徴を持つ。このタイプの患者の場合,社会的絆の破綻がきっかけでうつ病になることが分かった。これは,社会的絆の破綻がうつ病の主要素だとするボウルビーの研究結果と一致する。また,もう一方の患者群は,第2のパーソナリティモードである自律性を示した。自律性タイプの特徴は,達成への欲求,可動性つまり他舎の支配からの自由,そして孤独を好むことである。自律性タイプの場合は,目標達成が妨げられるとうつになることが分かった。この2つのパーソナリティタイプあるいはモードは,一側面の両極端を表すもので,二分法的分類でも絶対的分類でもない。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.97

情動・行動・認知

 認知療法は行動療法の技法を用いるが,これは認知に変化をもたらすためである。さらに,認知の変化は新たな行動をうまく維持するために必要であり,行動の変化は認知の変化をいっそう促進する可能性があると考える。
 認知療法は,情動(emotion/affection),行動(behavior),認知(cognition)の各側面を統合して人の機能を説明しようと試みる。この3側面への手がかりとして,また変化を達成する主要動因として,認知療法では認知の側面を重視するが,それでもやはりすべての側面に取り組む必要があるとする。
 「認知療法が誕生するまでのセラピストは,洞察力をはたらかせる(つまり精神分析家)か,行動主義をとる(つまり人間中心主義者)かのどちらかで,この2つが重なることはありませんでした。思考と感情と行動パターンの関連性を研究できるとか,まして成果が得られるなどとは,だれも考えていなかったのです」とマイケル・マホーニーは語る。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.91

『人格障害の認知療法』

 1990年,ベックは元の弟子たちと共同執筆した『人格障害の認知療法』を出版した。この著書で,認知療法は長期療法へと適用範囲を広げ,また根底にあるスキーマへの重点的取り組みがいっそう明瞭になった。ベックはスキーマを,経験や行動を系統立てる認知構造であると定義し,いっぽう信念やルールはスキーマの内容であるとした。スキーマは,行動から推測でき,また面談や問診を通しても判断できる。パーソナリティ障害の場合,スキーマは認知,感情,行動により堅固に保持されている。したがって,介入はこの3つの側面のすべてを通じて行なう必要がある。つまりパーソナリティ障害の治療では,認知の論理すなわち合理性の検討,情緒的カタルシスの促進,行動随伴性の設定のいずれかだけでは不十分なのである。
 ベックらはパーソナリティ障害の認知療法を,これほど複雑ではない障害の認知療法を修正したものだと説明する。パーソナリティ障害患者に認知療法を行なう場合には,イメージ法を使って過去の体験を思い起こし,それを通してスキーマを活性化して,スキーマにアクセスしやすくすることに重きが置かれる。とくに患者が過去の体験認識を認知的に避けている場合には,これが大切である。スキーマの発達とはたらきを探り,さらにこれに挑む際には,子ども時代の体験を素材とすることも重要になる。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.78

認知療法が受け入れられた理由

 心理学で,とりわけ行動療法で認知療法が受け入れられたことについて,ベックは「心理学はパラダイム変化の影響を非常に受けやすいのです。精神療法セラピスト,つまり臨床心理士は,どちらかというと精神力動的モデルに執着していましたが,理論心理学者はさまざまな段階を順々に経て,行動的段階からしだいに認知的段階へと移行していきました」と語る。さらに認知療法の実証的裏づけが,理論心理学者には説得力を持った。「心理学はしっかりした理論的基礎を持っているために,実証データから受ける影響は精神医学よりもはるかに大きいのです。精神医学のほうは,ベテラン臨床家の合意によって議論が進められる例がずっと多く見られます」とベック。心理学の主流となりつつあった流れにベックが乗った時期が,ちょうど「精神医学の主流が現象学的なものから生物学的な原因と治療へ,そして薬物療法を重視する現在の傾向へと移り変わっていく時期と重なっていた」ともベックは述べている。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.59

自動思考の発見

 1959年,ベックは若い男性うつ病患者を治療していた。すると自由連想を行なっている途中に,患者が怒ってベックを避難しだした。そこでどんな気分なのかと患者に尋ねたところ,「申し訳ない気持ちです」という答えが返ってきた。ベックを怒鳴りつけながら,同時に「こんなことを言うべきではなかった。医者を責めるのは間違っている。嫌われてしまうだろう」というような自責の念を感じていたのである。患者が声に出した思いと同時に,こうした別の思いをめぐらしていた事実に,ベックは強い印象を受けた。患者の怒りが罪の意識を直接呼び起こしたのではなく,二次的な思考の連鎖が,態度に表れた感情と罪悪感との媒介として働いていたのである。
 他の患者でもこのような内的独白があるかどうかを調べてみると,やはりそれぞれが,治療セッション中に口に出さない考えを抱いていることが分かった。しかし多くの場合,患者たちは,ベックに尋ねられるまで,これらの思考をそれほど意識していなかった。このもう1つの思考の流れは,随意的思考に比べれば意識されないが,それでも,それ自体が命を持っているかのように現れてくるのだ。
 これが「自動思考」だった。それは,瞬時に浮かぶ筋の通った思考で,患者は何の疑いもなくその考えを受け入れていた。その思考が,患者の体験に1つ1つ注釈を付けていくのだった。うつ病の人の場合,この「自動思考」に,ネガティブな偏りが見られた。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.46

ベックと精神分析

 クッシング病院の精神科は,ボストン精神分析協会の影響を色濃く受けていた。「患者に見られる事柄がすべて奥深く暗い,目に見えない力という観点から解釈された」。あるときベックが「所見の定式化はこじつけで,実証されていない」と友人たちに言うと,自分自身が抵抗を感じているから事柄を理解できないのだと指摘され,ベックはその指摘を受け入れた。「私の心にはそれがまったく見えていないのかもしれないと思いました」。自分の実用主義的な性格が邪魔して,精神分析が直感に反していると思うのかもしれないと考えたのである。そこで自分の不信感をとりあえず棚上げにし,本気で精神分析を理解してみることにした。6ヵ月間の実習期間が終了したとき,ベックはそのまま精神科に留まる決心をした。長く続ければ,さらに的確な考察ができるようになると信じたからである。また,精神分析専門医が楽々と診断をする手際にも魅了された。精神分析は「すべてのことに答えを持っていたのです。精神病,統合失調症,神経症,その他どんな状態も理解できる。正しい,明らかに正しい精神分析的理解をすることができました。さらに精神分析は,たいていの患者に病状を改善できるという望みを与えるものでした。とても刺激的に思えました」。

マージョリー・E・ワイスハー 大野 裕(監訳) 岩坂 彰・定延由紀(訳) (2009). アーロン・T・ベック:認知療法の成立と展開 創元社 pp.39

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