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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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観察できるのは1点のみ

 われわれが成功とか失敗とかを目にする場合,われわれはたった1点のデータ,つまりベル曲線上の1点を観察しているにすぎない。観察しているその1点が,はたして平均値を表しているのか異常値を表しているのか,当てにできる出来事なのかまれな出来事なのか,われわれにはわからない。しかし最低でもわれわれが知っておくべきことがある。それは,標本点は標本点にすぎないということ,つまり,それを単純にリアリティとして受け入れるのではなく,標準偏差という文脈の中で,あるいはそれを生み出した可能性の幅の中で,それを見るべきであるということ。ワインの格付けが91点でも,同じワインが繰り返し格付けされたり別の人間によって格付けされたりするときに生じるバラツキの評価がなければ,その数字は無意味である。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.212
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)
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共和国に科学は不要である

 ラヴォアジェは,多くの科学実験の資金を稼ぐべく,国に保護された収税吏たちの,ある特権的で私的な会のメンバーになっていた。そのような地位を手にしていると,市民が感動してその人間を自宅に招き入れ,温かいショウガ風味のカプチーノをご馳走する,などといった時代は,たぶん歴史上存在しないだろう。逆に,フランス革命が起こったとき,それが災いの元になった。1794年,ラヴォアジェは会の残りのメンバーとともに逮捕され,ただちに死刑を宣言された。いつもひたむきな科学者だった彼は,後世の役に立つようにと,いくつかの研究を完成させるための時間を要求した。それに対する裁判長の有名な答えは,「共和国に科学者は不要である」だった。近代科学の父はただちに首を切り落とされ,死体は合同墓所に投げ入れられた。彼は助手に,切り離された頭がいくつしゃべろうとするかを数えるように言ったとされている。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.193
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

ラプラスって…

 フランス革命前,ラプラスは王立砲兵隊の審査官という実入りのよい地位を手にし,また幸運なことにナポレオン・ボナパルトという名の,先行き有望な16歳の志願者を審査した。1789年にフランス革命が起きると彼は少しの期間嫌疑をかけられたが,他の多くの者とは違い無傷で浮かび上がると,「王室への抑えきれない嫌悪」を宣言し,ついに共和制国家から新しい特権を手に入れた。
 しかし,ついで1804年に知り合いのナポレオンが皇帝になると,彼はただちに共和主義をかなぐり捨て,1806年,伯爵の称号を与えられた。ところがブルボン家が戻ると,ラプラスは自著『確率の解析的理論』の1814年版で,ナポレオンを叩き,こう書いた。「広範な統治を熱望する皇帝たちの衰退は,確率の計算に精通した者により,非常に高い確率で予言することができる」。ちなみに,その前の1812年版は「ナポレオン大皇帝」に献呈されていた。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.183-184
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

ドーピング検査の偽陽性

 同様の問題は,運動選手の薬物問題でも起きる。ここでもまた,頻繁に取り上げられるはずが直接関連ない数字が偽陽性率である。この数字が,選手がクロである確率の見方をゆがめてしまう。
 たとえば,世界的なランナーで1983年の1500メートルと3000メートルの世界チャンピオンだったメアリー・デッカー・スラニーは,カムバックを目指していた1996年のアトランタ・オリンピックで,テストステロン使用のドーピング違反で告発された。国際陸連(2001年から正式に「国際陸上競技連盟」として知られている)は,いろいろ討議した末,スラニーがドーピング違反をしたと裁定し,実質的に彼女の選手生命を絶った。スラニー裁判でのいくつかの証言によれば,彼女の尿に対してなされた検査の偽陽性率は1パーセントだったという。たぶん人びとはこの数字を聞いて,彼女がクロである確率は99パーセントだと納得したことだろう。
 しかしすでに見てきたように,それは真実ではない。たとえば,1000人の選手が検査され,10人に1人はクロなのだが,検査によってドーピング違反が暴き出される各率は50パーセントだったとしよう。すると,検査された選手1000人ごとに100人がクロになったはずだが,実際にはそのうちの50人だけが検査でクロにされただろう。一方,偽陽性率は1パーセントだったから,潔白である900人のうち9人がクロとされただろう。したがって,このドーピング陽性検査だと,彼女がクロである確率は99パーセントではなく,84.7パーセント[59分の50]だったことになる。
 表現を変えると,あなたはこの84.7パーセントという証拠にもとづきスラニーはクロだと確信するだろうが,その確信の程度は,スラニーがサイコロを振ったときたぶん1は出ないだろうというあなたの確信の程度[6分の5]とほぼ同じだ。確かにこの数字は合理的な疑いを催させはするが,それ以上に重要なことは,大量の検査を行い(毎年9万人の選手が尿検査をされている),このようなやり方にもとづいて判断していくと,それによって多数の潔白な選手が糾弾されてしまうことだ。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.176-177
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

ベルヌーイって…

 もしこれまで実在した数学者の中でもっとも不愉快な数学者は誰かと問われたとき,ヨハン・ベルヌーイの名を挙げておけば,それほど的をはずしていないだろう。彼は歴史書で,嫉妬深い,虚栄心が強い,怒りっぽい,頑固,癇癪持ち,自慢好き,不誠実,このうえない嘘つき,などと,さまざまに評されてきた。数学の世界では多くのことを成し遂げたが,息子ダニエルと争った賞を息子が手にするや彼を科学アカデミーから追い出したり,兄のヤーコプやライプニッツのアイデアを盗み取ろうとしたり,水力学に関するダニエルの本を盗作し,出版日を偽って,自分の本が最初に出版されたかのように見せかけるなど,そうしたことでも名を馳せていた。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.154
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

狂気のゲーム

 もう1つ,狂気のゲームを紹介しておこう。カリフォルニア州がその市民につぎのような提示をしたとしよう。1ドルまたは2ドル払った者のうち,ほとんどの者は何ももらえないが,1人は大金を手にし,1人は暴力的な方法で死刑にされる。はたしてこんなゲームに申込む者がいるだろうか?それがいるのだ。それも意気込んで。「州の宝くじ」と呼ばれているのがそれだ。
 もちろんいま私が書いたような形で州がそれを宣伝しているわけではないが,実際にものごとはそのように運んでいる。というのも,1人の幸運な人間がゲームごとに大金を手にする一方,何百万というほかの競合者が券を買うために車で各地の発券所に向かったり,そこから戻ったりする際,途中で何人かが事故で死んでいるからだ。米国道路交通安全局の統計データを使い,それぞれの人間がどのぐらい遠くまで車を運転し,券を何枚買い,何人の人間が典型的な事故に巻き込まれるかといった前提を立てると,そうした不慮の死に対する合理的な評価は,1回の宝くじでおよそ1人が死ぬ,ということになる。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.118
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

科学革命とは

 科学革命は,ヨーロッパが中世から脱却したころに支配的だった思考方法に対する反発だった。そのころは,この世のあり方に関して人びとが抱いていた信念を何か系統だった方法で推し量れるような時代ではなかった。たとえば,ある町の商人たちは絞首刑になった人間の衣服を剥ぎとって盗んだが,それでビールの売上げが伸びると信じていたからだった。また別の町には,祭壇のまわりを裸で歩きながら神を冒涜するような祈りを唱えれば病を治癒できると信じる教区民たちがいた。さらには“相性の悪い”トイレでの小用は不運をもたらすと信じる商売人さえいた。じつはその人物,2003年にCNNのリポーターに自身の秘密を告白した証券売買業者である。そう,今日もなお迷信にしがみついている人間はいるのだ。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.94
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

モンティ・ホール問題のポイント

 モンティ・ホール問題が理解しづらいのは,注意深く考えないと,母親の役割同様,司会者の役割が正しく認識されないからだ。しかしゲームを動かしているのは司会者なのだ。ドアが3枚ではなくつぎのように100枚あると仮定すると,司会者の役割が明確になるかもしれない。あなたはやはりドア1を選択するとしよう。ただし,今度の場合それが正解である確率は100分の1だ。一方,残り99枚のドアのうちの1つにマセラティがある確率は100分の99である。前の場合と同様,ここで司会者は,あなたが選択しなかった99枚のドアのうちの1枚を除き,すべてを開く。その際,もしその中にマセラティを隠しているドアがあれば,それを開かないように司会者は十分注意している。
 さて,司会者がそれをし終えたあとも,あなたが選んだドアの背後にマセラティがある確率は100分の1のままだし,残りのドアのうちの1つの背後にマセラティがある確率もやはり100分の99のままだ。しかしいまや司会者が介入したことで,他の99枚のドアすべてを代表するたった1枚のドアが残っている。だから,その残されたドアの背後にマセラティがある確率はじつに100分の99だ!

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.86-87
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

引用者注:モンティ・ホール問題
テレビのゲーム番組で,競技者が3つのドアの選択権を与えられるとします。1つのドアの後ろには車が,残りのドアの後ろにはヤギがいます。競技者が1つのドアを選択したあと,すべてのドアの後ろに何があるかを知っている司会者が,選ばれなかった2つのドアのうちの1つを開けます。そして競技者にこう言います。「開いていないもう1つのドアに選択を変えますか?」選択を変更することは競技者にとって得策でしょうか?

答えは?

 われわれはマリリン・ヴォス・サヴァントを賞賛しなければならない。なぜなら,彼女は初歩的な確率の問題に対する大衆の理解を高めようとしているだけでなく,挫折感を抱かせるようなあのモンティ・ホール問題を経験してからも,そうした問題を書きつづける勇気をもっているからだ。ここでの話を終える前に,彼女のコラムからとったもう1つ別の問題を取り上げておこう。これは1996年3月のものだ。

 これは父がラジオで聞いた話です。デューク大学で2人の学生が学期間中ずっと化学でAの成績をとっていました。ところが学期末試験の前夜に彼らは別の州でパーティをしていて,デューク大学に戻ったのは期末試験が終わってからでした。タイヤが1つパンクしたというのが担当教授に対する2人の弁解で,再試験をしてもらえないかを教授に尋ねました。教授はそれに同意し,試験問題を書き,2人を別々の部屋に入れて試験を受けさせました。問題用紙の表に書かれていた最初の問題は5点満点の問題でした。ついで問題を裏返すと,2問目は95点満点の問題で,「パンクしたのはどのタイヤだったか?」という問題でした。2人の学生が同じ答えを書く確率はいくらだったでしょうか。父と私は16分の1だと考えています。それで正しいですか?

 いや,そうではない。もし2人の学生が嘘をついていたのであれば,彼らが同じ答えを書く正しい確率は4分の1である。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.82-83
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

2人とも女である確率は?

 この双子の問題では普通つぎのような追加の質問がなされる。<2人のうち1人が女だとすれば,2人とも女である確率はいくらか?>。この問いに対して以下のように推理する人がいるかもしれない。2人のうち1人が女なのだから,目を向けるべきは残る1人,その子が女である確率は50パーセントだから,2人とも女である確率は50パーセントである,と。
 これは正しくない。なぜだろうか。問題文は1人が女だとしているが,<どの>1人かを言ってはいない。このことが状況を変える。混乱するかもしれないが,それはそれで結構。なぜなら,それがカルダーノの手法のパワーを示す格好の例であるからだ。カルダーノの手法が推論の仕方を明確にしてくれる。
 その新しい情報——2人のうち1人が女,という情報——は,2人とも男であるという可能性をわれわれが考慮しないでよいことを意味している。だからカルダーノの手法を使うとき,<男,男>という可能な結果が標本空間から除外される。そして標本空間には3つだけ,可能な結果が残る。<女,男>,<男,女>,<女,女>だ。これらのうちの<女,女>だけが好ましい結果——つまり,2人とも女という結果——だから,その各率は3分の1,あるいは33パーセントである。これで,問題文が<どの>1人が女であるかを特定しなかったことが,なぜ問題なのかを理解できると思う。たとえばその問題が,<最初に生まれてくる子が女だと仮定すれば>2人とも女である確率はいくらか,を尋ねていたとるれば,<男,男>と<男,女>が標本空間から除外されていただろうから,各率は2分の1,あるいは50パーセントということになっただろう。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.82
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

DNA鑑定の落とし穴

 不幸にして,裁判所に提示されるDNAがらみの統計データがもつ力は強い。オクラホマで,裁判所はティモシー・ダーハムという男性に禁固3100年以上を言い渡した。犯行時刻に彼が別の州にいたことを11人が証言していたにもかかわらず,である。ところが,最初の分析で研究所が検体中のレイプ犯のDNAと被害者のそれを完全に分離しなかったため,レイプ犯と被害者のDNAの組み合わせが,比較されたダーハムのDNAに対し「陽性」という結果を出したことが明らかになった。その後の再検査により間違いであることがわかり,ダーハムは4年近くの刑務所暮らしの後,釈放された。
 人間的要因による間違いの推定値はいろいろだが,多くの専門家はそれを約1パーセントとしている。しかし多くの研究所の間違いの率(エラー・レート)がこれまでまたく推定されてこなかったから,裁判所はしばしば,こうした総合的な統計値に関する証言を容認しない。また,たとえ裁判所が偽陽性に関する証言を容認したとしても,はたして陪審員たちはそれをどのように評価するだろうか。10億分の1の偶然の一致と,100分の1の研究所の間違いによる一致という2種類の間違いを教えられると,ほとんどの陪審員が,総合的な間違いの率は両者の中間,たとえば5億分の1あたりにあるに違いないと考えるだろうし,そうであれば,ほとんどの陪審員にとって,その値は依然として合理的な疑いを催すようなものではない。しかし確率の法則を使えばまったく違う答えが出てくる。
 その考え方はこうだ。偶然の一致と研究所の間違いはどちらもあまり起きそうにないから,両方が同時に起きる可能性は無視することができる。したがって,求める確率はどちらか一方が起きる確率であり,それはすでに述べた足し算の規則によって得られ,つぎのようになる。

 研究所が間違う確率(100分の1) + 偶然の一致(10億分の1)

 ここで後者は前者の1000万分の1だから,2つの確率の和は「研究所が間違う確率」にかなりよい近似で一致し,その確率は100分の1だ。したがって,2つの可能な原因が提示された場合,偶然の一致の確率に関する専門家のとりとめのない証言をわれわれは無視すべきで,そのかわり,それよりずっと確率の高い研究所の間違いに注意を向けるべきだ。しかしまさにそのデータを法律家が提示することを,裁判所はしばしば容認しないのだ!したがって,頻繁に繰り返されるDNA不過誤[間違いのないこと]の主張は,誇張されている。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.58-59
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

DNA鑑定の偽陽性

 DNAの証拠がはじめて導入されたとき,多くの専門家が,偽陽性は起こり得ないと証言した。今日DNAの専門家は,ランダムな個人のDNAが犯罪試料のそれと一致する確率は100万分の1か10億分の1と証言するのが普通だ。そういう確率だから,陪審員が<監獄に入れて鍵を捨ててしまえ>と考えるのも致し方ないことかもしれない。
 しかし,陪審員にはしばしば提示されることのない別の統計データもある。それは,たとえば研究所が,試料を採取したり操作したりする際に偶然混ぜ合せたり取り違えたりして間違いを犯すという事実に関するものだ。間違いが,解釈の誤りや不正確な報告書作成による場合だってある。こうした間違いの1つひとつはまれではあるが,DNAのランダムな一致ほどまれということではない。たとえば,フィラデルフィア・シティ・クライム・ラボラトリーは,あるレイプ事件の被告の基準試料と被害者のそれとを取り違えたことを認めたし,セルマーク・ダイアグノーシスという試験会社も同様の間違いを認めた。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.57-58
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

可用性バイアス

 5番目にnがくる6文字の英単語と,ingで終わる6文字の英単語とでは,どちらの数が多いだろうか。ほとんどの人間がingで終わる6文字の英単語を選ぶ。なぜだろうか。ingで終わる単語は,5番目にnがくる6文字英単語より思いつきやすく,数が多いように思えるからだ。
 しかし,その推測が間違っていることを証明するのに『オックスフォード英語辞典』を調べる必要はないし,勘定の仕方を知る必要さえない。というのは,5番目にnがくる6文字の英単語のグループには,ingで終わる6文字の単語が含まれているからだ。心理学者はこの種の間違いを「可用性バイアス」と呼んでいる。われわれは過去を再構築する際,もっとも生き生きした記憶,それゆえもっとも回想しやすい記憶に,保証のない重要性を授けてしまうのだ。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 p.46
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

引用者注:ここでの「可用性バイアス」は,「利用可能性バイアス」と呼ばれることもある。

ギリシア人が確率理論をつくらなかった理由

 なぜギリシア人は確率の理論をつくらなかったのだろうか。未来は神々の意志にしたがって開かれると多くのギリシア人が信じていたから,というのが1つの答えである。たとえば,もしアストラガリ投げの結果が,「バラック校舎の裏でのレスリングでお前を押さえ込んだ,あのがっしりしたスパルタ娘を娶れ」ということであれば,ギリシアの若い男はけっしてそれをランダムなプロセスの幸運な(あるいは不幸な)結果だとは見なかった。それを神の意志と見た。そうであるなら,ランダムネスを理解するなどというのは筋違いのことであり,ランダムネスの数学的予測などというのは不可能だったと思われる。
 別の答えは,ギリシア人を偉大な数学者に変えたあの哲学そのものにある。彼らは,論理と公理によって証明される絶対的真実を主張し,不確かな見解に異を唱えた。たとえばプラトンの『パイドン』で,シミアスがソクラテスに「確率の議論はペテン師のすること」と言い,「確率を使う際に十分な注意が払われないなら,それは人を欺くものになりかねない——幾何学においても他のことにおいてもそうである」と指摘し,カーネマンとトヴァスキーの研究に先鞭をつけている。また『テアイテトス』の中でソクラテスは,「幾何学で確率や見込みを議論するような数学者は,一流数学者の名に値しない」と述べている。


レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.45-46
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

カーネマンのきっかけ

 カーネマンとトヴァスキーの研究に弾みをつけたのは,あるランダムな事象だった。1960年代の中ごろ,当時ヘブライ大学の新参の心理学教授だったカーネマンは,いささか退屈な仕事を引き受けることに同意した。それは,イスラエル空軍の飛行教官たちに行動修正の理論と,飛行訓練へのその応用について講義するという仕事だった。カーネマンは,前向きな行動に報酬を授けることは効果をあげるが,失敗を罰することはそうではないことを,十分納得いくように説明した。ところが,受講生の1人が言葉を返してつぎのような意見を述べた。そしてこのことがカーネマンにあるひらめきをもたらし,以後何十年ものあいだ,彼の研究の指針となる。
 「私は,見事な操縦には,訓練生たちをしばしば暖かく褒めてきましたが,すると次回は決まって悪くなります」と,飛行教官は言った。「また下手な操縦には生徒たちを怒鳴りつけてきましたg,おしなべて次回は操縦が改善されます。ですから,報酬はうまくいくが罰はそうではない,などと仰らないでください。私の経験はそれとは合致しません」。他の教官たちもみな同意見だった。カーネマンには,飛行教官の経験は真実であるように聞こえた。しかし一方でカーネマンは,報酬は罰よりもうまくいくことを証明した動物実験を信じていた。
 彼はこの明白な矛盾をあれこれ考えた。そして突然ひらめいた——怒鳴ったあと改善が見られることは確かだが,見かけとは違い,怒鳴ったことが改善をもたらしたのではないのだ,と。
 どうしてそんなことが?その答えは,「平均回帰」と呼ばれる現象にある。平均回帰とは,どんな一連のランダムな事象においても,ある特別な事象のあとには純粋の偶然により,十中八九,ありきたりの事象が起こる,というもの。

レナード・ムロディナウ 田中三彦(訳) (2009). たまたま:日常に潜む「偶然」を科学する ダイヤモンド社 pp.13-14
(Mlodinow, L. (2008). The Drunkard’s Walk: How Randomness Rules Our Lives. New York: Pantheon.)

お金の使い道を

 生きているあいだにいくら金を儲けたとしても,それをあの世にもっていくことはできない。生きているうちに使わなければ,それは別の誰かのものになる。どうせなら,もっと多くの人たちに役立って欲しい。そうした思いを実現する寄進という行為は,人が生きた証としての意味をもつ。
 葬式は,いくら金をかけてもその場かぎりのもので何も残らない。参列した人々の記憶に残るだけである。
 ならば,具体的に死後に何かを残した方がいい。それだけの経済力があるのなら,葬式に金をかけるよりも,よほど有意義なはずである。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 p.172

墓参りは東アジアの風習

 墓参りの慣習は日本以外の東アジアでも共通することで,中国や台湾,韓国では熱心に墓参りをする。沖縄は,墓の形態が本土とは異なっていて,門中墓という一族の大きな墓があり,墓参りの折には家族,親族がそこに集まって,掃除し,持ち寄った料理を一緒に食べる。墓参りは,家の祭りであるとも言える。
 ところが,これがヨーロッパになると,墓参りの慣習はほとんどない。墓をもうけるものの,それは個人を葬る空間にすぎず,残された家族が命日などにその墓に参ることはない。そもそも個人墓が主流で,日本のような家の墓はない。墓参りをしないため遺族も墓の場所を忘れてしまう。墓に参ることがあるとすれば,著名人のものに限られる。それは一種の観光である。
 場合によっては,遺体を火葬場に持ち込んだ後,遺族が火葬の終了を待たずに返ってしまうこともある。遺骨は火葬場で処理され,遺族がそれを持ち帰って墓を作ったりしないのである。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 pp.148-149

戒名は仏教と無関係

 戒名のなかに使われることばは,どれも基本的に仏教の教えとは関係しない。たとえば,山本五十六の「大義院誠忠長陵大居士」という戒名を眺めてみたとき,仏教の教えを彷彿とさせる文字は使われていない。むしろ,義,誠,忠といった文字は,儒教と関連しているように思える。仏教の各宗派が,自分たちの養成する僧侶に戒名のつけ方を教えないのも,戒名と仏教信仰との関係が明確ではなく,むしろ縁がない可能性が高いからである。
 このように,戒名の実態は,仏教界での建て前とは大きくずれている。戒名を,仏教徒になった証,ブディスト・ネームとしてとらえるには明らかに無理がある。無理があるからこそ,生前戒名を勧める動きも,さほど広がりを見せていないのである。
 院号がインフレ化し,戒名料が高騰するのも,戒名の本質が,死後の勲章だからである。勲章なら,できるだけ立派で,見栄えのいいものがいい。そうした見栄や名誉欲が,戒名問題の背景にある。そして,立派な戒名が,葬式を贅沢なものにしていくのである。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 pp.118-119

日本独自の戒名

 他の仏教国でも,出家して僧侶になったときに世俗の世界の名前を捨て,出家者として新たな名前を与えられる。その点で戒名は仏教の伝統だと言える。だが,ここで注意しておく必要があるのは,それはあくまでも出家者のためのもので,一般の俗人が授かるものではないという点である。
 日本でも,出家した僧侶はその証に戒名を授かる。その点は,他の仏教国と同様である。ただ,一般の在家の信者の場合にも,死後には戒名を授かる。それが,日本にしかない制度なのである。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 pp.95-96

日本の葬式が贅沢になるのは

 釈迦の教えからすれば,死後,地獄に堕ちることを恐れたり,西方極楽浄土への往生を願って莫大な金を費やすことは,無駄で虚しい営みのはずである。
 ところが現世において豊かで幸福な生活を送った貴族たちは,死後もその永続を願い,現世以上に派手で華やかな浄土の姿を夢想した。たんに夢想しただけではなく,浄土を目の前に出現させようと試みた。
 ここにこそ日本人の葬式が贅沢になる根本的な原因がある。少なくとも浄土教信仰が確立されなければ,浄土に往生したいという強い気持ちは生まれなかっただろうし,死後の世界を壮麗なものとしてイメージする試みも生まれなかったに違いない。

島田裕巳 (2010). 葬式は,要らない 幻冬舎 p.62

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