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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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アフリカ発祥

 しかしながら,言語学者ジョゼフ・グリーンバーグの分類によれば,セム語族は,アフロ=アジア語ファミリーを構成する6つを超える語族の1つにすぎない。しかも,セム語族以外の語族(つまり222の現存言語)の分布が見られるのはアフリカ大陸だけである。セム語族に属する諸語の分布範囲も,主としてアフリカに限定されている(19ある現存言語のうち12がエチオピアだけに分布している)。これらの事実は,アフロ=アジア語がアフリカ大陸を起源としていること,および,アフロ=アジア語ファミリーの1つの語族だけがアフリカ大陸から近東へ拡散したことを示唆している。つまり,西洋文明の精神的な支えである新・旧約聖書やコーランを著した人びとの言語は,アフリカ大陸で誕生した可能性がある。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.266
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マダガスカルとボルネオの共通点

 そして,もっとも特異なのがマダガスカル島である。東アフリカの海岸線から250マイル(約400キロ)のところに位置するこの島は,インド洋を挟んでアジアやオーストラリアから隔てられている。どの大陸よりもアフリカ大陸に近い島に居住しているマダガスカル人は,人種的に2つの要素が混じり合った人びとである。当然のことながら,1つの人種的要素はアフリカの黒人である。そして,マダガスカル人の容貌からすぐ推測できるように,もう1つは熱帯東南アジア人の要素である。言語もまた特徴的で,マダガスカル島ではアジア人,黒人,混血を問わず,すべての人種がオーストロネシア語を話している。そして,彼らのオーストロネシア語は,マダガスカル島から4000マイル(約6400キロ)離れているボルネオ島で話されているマーニャン語に近い。わずかなりともボルネオ人に似ている人種で,マダガスカル島から数千マイル以内に居住しているのは,当のボルネオ人だけである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.264

中国が統一されているという奇跡

 われわれは,中国が統一されていることを当然のこととし,それがどれほど驚くべきことであるかを忘れている。だが,たとえば遺伝子レベルで中国人を考察すれば,中国が統一されているとの思い込みはありえなかったはずである。人種の分類上,中国人は,大雑把にモンゴロイドとしてくくられる。しかし,中国人のあいだには,スェーデン人とイタリア人とアイルランド人のちがいよりも,もっと多様なちがいが見られる。とくに,北部の人と南部の人は,遺伝子的にも外見的にも非常に異なる——北部の中国人はチベット人やネパール人に近く,南部の中国人はベトナム人やフィリピン人に近い。私の友人の中国人たちは,外見だけで北部の人なのか南部の人なのかをすぐに識別できる——北部の中国人は,南部の中国人より背が高い。体重も重い。色白である。鼻先も尖っている。目も蒙古ひだと呼ばれるものの影響で「つり上がっていて」小さい。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.173

アボリジニ減少の理由

 アボリジニが,食料を生産しようとしたヨーロッパ人の邪魔になったのはたしかである。彼らが,生産性の高い農地や酪農地に開墾できる土地に住んで,狩猟採集生活を営んでいたからである。ヨーロッパ人たちは,2通りの方法でアボリジニの人口を減少させた。1つは,銃で撃ってしまうことである。この方法は,ヨーロッパ人たちが1930年代にニューギニア高地に入り込んだときにはもはや黙認されなくなっていたが,18世紀後期や19世紀初頭においては容認される選択肢であった。ちなみに,オーストラリアでは,1928年のアリス・スプリングスにおける31人のアボリジニの虐殺を最後に,大量虐殺はおこなわれていない。ヨーロッパ人たちは,アボリジニが免疫や抵抗力を持っていない病原菌を使う方法によっても彼らの人口を減少させた。シドニーに最初のヨーロッパ人の移住者がやってきたつぎの年の1788年には,感染症で亡くなったアボリジニの死体が町のあちこちにころがっていた。記録を見ると,アボリジニたちは,おもに天然痘,インフルエンザ麻疹(はしか),腸チフス,チフス,水疱瘡,百日咳,結核,そして梅毒で死亡している。
 アボリジニの独立社会は,ヨーロッパ人たちの持ち込んだ銃と病原菌によって,ヨーロッパ人たちが食料生産しやすい地域からことごとく排除されてしまった。どうにか無傷で残ったのは,オーストラリア北部や西部で,ヨーロッパ人には無用の土地で暮らしていたアボリジニたちの社会だけだった。ヨーロッパ人は,1世紀の植民地化のあいだに,4万年つづいてきたアボリジニの伝統をほぼ一掃してしまったのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.167-168

オーストラリアの食料生産上のリスク

 オーストラリアでは,農業も起こらなかった。オーストラリアは,世界の大陸のなかでもっとも乾燥した大陸であるばかりでなく,土壌がもっとも不毛な大陸である。さらに,オーストラリアでは,他の大陸のように気候が季節が1年周期で変化しない。オーストラリアの気候は,エルニーニョ。南方振動(ENSO)(訳注:南太平洋にあるタヒチ島とオーストラリアの北部にあるダーウィンの気圧が振動する現象)の影響で,1年周期ではなく,数年周期で不規則に変化する。予測不能の厳しい旱魃が,予測不能の豪雨と洪水をはさんで,何年間か続いたりするのだ。そのため,ユーラシア種の作物を栽培し,収穫物をトラックや列車で運搬するようになった現在でも,オーストラリアでの食料生産にはリスクがつきまとう。順調な気候が続くあいだに何年かかけて育てた家畜を,旱魃で一度に失ってしまうこともある。もしも,アボリジニが農業を営んでいたら,この不順な天候によって同じ問題に直面していたであろう。順調な気候が続くあいだに村に定住し,作物を栽培し,子供を産み育て,集団の人口が増加したとしても,旱魃がめぐってくれば,集団の人口を養うだけの食料が確保できず,多くの人びとが飢え死にしてしまったことだろう。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.148-149

ニューギニアの特徴

 ニューギニアの社会が,言語学的にも,文化的にも,政治的にもばらばらであることは,その地形の複雑さや,小規模血縁集団や集落のあいだで戦闘がひんぱんに繰り返される状態がずっとつづいていたことで説明できる。ニューギニアは,世界でも飛び抜けて言語の数が多い地域である。面積はテキサス州よりわずかに大きいだけなのに,世界に6000ある言語のうち,なんと1000がニューギニアに集中し,数十を超える言語グループに分かれて存在しているのである。そして,それぞれの言語は,英語と中国語のちがいに匹敵するほど異なっている。ニューギニアの言語の半数は,言語人口が500人にも満たない。最大の言語人口を誇った言語グループでも10万人そこそこである。しかも,何百もの小集落に分裂しているニューギニア人は,同じ言語グループの集落や,他の言語グループの集落を相手に激しく争っていた。そして,これらの集団は,族長や職人を支えたり,治金技術や文字システムを発達させるにはあまりにも小さすぎた。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.145-146

ミードの誤りは有名だが,これは誰のこと?

人口25人の小規模血縁集団を3年間観察して,殺人は1度も見かけなかったという調査結果にもとづき,人類学者が小規模血縁集団や部族社会を非暴力的で穏やかな社会と理想化していたこともあった。しかし,そのような集団では,殺人など起こるはずがないのである——大人十数人と子供十数人が,避けようのない死とともに日々暮らしている社会で,3年ごとに大人が1人殺されたら集団が存続しえないことは想像にかたくない。とはいえ,小規模血縁集団や部族社会をもっと長期にわたって,詳しく観察した調査では,殺人が主な死因の1つであることが明らかになっている。私自身も,ニューギニアのイヤウ族の女性たちが,自分の身のまわりで起こった殺人について話すのを耳にしたことがある。それは,ある女性人類学者がイヤウ族の女性たちにそれまでの人生について取材しているところに,たまたま出くわしたときのことだった。彼女たちは,夫の名前を尋ねられると,暴力によって殺された複数の夫の名前を,誰もがつぎつぎと口にした。彼女たちの典型的な受け答えは,つぎのようなものであった。「私の最初の夫は,奇襲をかけてきたエロピ族の男たちによって殺されてしまった。2番目の夫は,私を欲しがった男によって殺された。そして,3番目の夫になったその男も,仇をとりにきた2番目の夫の弟によって殺された」。こうした事件は,穏やかと思われていた部族社会で頻繁に起こっていた。規模が大きくなるにしたがい,部族社会が集権化されるようになった一因も,そこにあったと思われる。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.102-103

首長社会

 首長社会は,集権的に統治されている社会であり,そうした非平等な社会につきもののジレンマに陥っていたことは明らかである。首長社会は,個人で得るには費用がかかりすぎて実現不可能なサービスを提供できる。その反面,富を平民から吸い上げ,首長たちによる搾取をいとも簡単に可能にする。もちろん,どちらか一方を優先的におこなう社会もあるが,この2つは不可分に結びついており,搾取がおこなわれるか賢政がおこなわれるかは程度問題にすぎない——つまり,エリート階級が泥棒とみなされるか大衆の味方とみなされるかは,再分配された富の使い道に対する平民の好感度がどれだけかによって決まる。数十億ドルという税金を私物化したザイールのモブツ大統領は,人民にほとんど再分配しなかったので泥棒政治家である(ザイールには,ちゃんと機能する電話網すらない)。そしてモブツとは正反対に,私腹を肥やさず,税金を広く賞賛される政策に費やしたので,立派な政治家と思われているジョージ・ワシントンは,ニューギニアの村々より富が不公平に偏っているアメリカ合衆国の裕福な家系の出である。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.100-101

分類すること

 文化人類学者はよく,人間社会をいくつかのカテゴリーに分類しようとする。しかし,人間社会の多様性は,音楽様式や生活様式などと同様,時間の経過とともに連続的に変化するものであり,段階的に線引きする分類はどうしても不完全なものにならざるをえない。それらは,すべての段階で連続しており,前段階の終わりとつぎの段階のはじまりの区別そのものが恣意的である(これは,19歳を未成年とするのか,それとも若い大人とするのかの問題に似ている)。また,異なる順序で出現するものを段階という区画に押し込むことになるので,どうしても不均質な分類にならざるをえない(ブラームスとリストはロマン派の作曲家としてひとつに分類されているが,これを知ったら,彼らは墓の中で嘆き悲しむことだろう)。とはいえ,恣意的に段階を区切る分類方法は,注意事項を念頭に入れておけば,音楽や人間社会の多様性について論じるには便利である。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.88

才能はその生活の中でのみ生かされる

 人類の科学技術史は,こうした大陸ごとの面積や,人口や,伝播の容易さや,食料生産の開始タイミングのちがいが,技術自体の自己触媒作用によって時間の経過とともに増幅された結果である。そして,この自己触媒作用によって,スタート時点におけるユーラシア大陸の「一歩のリード」が,1492年のとてつもないリードにつながっている——ユーラシアの人びとがこういうリードを手にできたのは,彼らが他の大陸の人びとよりも知的に恵まれていたからではなく,地理的に恵まれていたからである。私の知っているニューギニア人のなかにいるであろう,エジソンに匹敵する才能の持ち主たちは,自分の才能を蓄音機の発明に使っていない。彼らは,ニューギニアの密林で自給自足の生活を送るという,自分たちの状況に見合った問題を解決するためにその才能を使っているのだ。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.83

日本で銃が放棄された経緯

 江戸時代の日本で,銃火器の技術が社会的に放棄されたことはよく知られている。日本人は,1543年に,中国の貨物船に乗っていた2人のポルトガル人冒険家から火縄銃(原始的な銃)が伝えられて以来,この新しい武器の威力に感銘し,みずから銃の製造をはじめている。そして,技術を大幅に向上させ,1600年には,世界でもっとも高性能な銃をどの国よりも多く持つまでになった。
 ところが,日本には銃火器の受け容れに抵抗する社会的土壌もあった。日本の武士には多数の階級があり,サムライにとって刀は自分たちの階級の象徴であるとともに芸術品であった(低い階級のひとびとを服従させる手段でもあった)。サムライたちは,戦場で名乗りをあげ,一騎打ちを繰り広げることに誇りを持っていた。しかし,そうした伝統にのっとって戦う武士は,銃を撃つ足軽たちの格好の餌食になってしまった。また,銃は,1600年以降に日本に伝来したほかのものと同様,異国で発明されたということで,所持や使用が軽蔑されるようになった。そして幕府が,銃の製造をいくつかの都市に限定するようになり,製造に幕府からの許可を要求するようになり,さらに,幕府のためだけに製造を許可するようになった。やがて幕府が銃の注文を減らす段になると,実用になる銃は日本からほとんど姿を消してしまったのである。
 近代ヨーロッパの統治者の中にも,銃を嫌い,その使用を制限しようとした人びとがいた。しかし,一時的にせよ銃を放棄すれば,銃を持つ近隣諸国に侵略されてしまうヨーロッパにあって,そうした銃の放棄は長くつづかなかった。日本が新しい強力な軍事技術を拒否しつづけられたのは,人口が多く,孤立した島国だったからである。しかし日本の平穏な鎖国も,たくさんの大砲で武装したペリー艦隊の訪問によって1853年に終わりを告げ,日本人は銃製造再開の必要性を悟ることになる。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.74-75

ゼロから発明はなされない

 実際に「XがYを発明した」として知られる発明の陰にも,あまり知られていない先駆者が存在する例は多い。たとえばわれわれは,ジェイムズ・ワットは,やかんから立ちのぼる湯気にヒントを得て,「1769年に蒸気機関を発明した」と聞かされている。しかし,これはよくできた作り話であって,ワットが発明を思いついたのは,トーマス・ニューカメンが57年前に発明し,100台以上が製造されたニューカメン型蒸気機関を修理していたときである。そして,ニューカメンの前には,英国人のトーマス・セイヴァリーが1698年に蒸気機関で特許をとっていた。そして,セイヴァリーの前には,1680年頃にフランス人ド二・パパンが蒸気機関を設計していた(しかし,実際に作製はしていない)。しかも,パパンの前にも,オランダ人の科学者クリスティアーン・ホイヘンスをはじめとする先駆者がいて,蒸気機関に着目していたのである。もちろん,こうした事実があるからといって,ニューカメンがセイヴァリーの蒸気機関を大幅に改良した事実や,ワットが(分離型蒸気コンデンサーと複動エンジンを組み合わせて)ニューカメン型蒸気機関を改良した事実が否定されるわけではない。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.55

発明者も利用法は予測できない

 格好の例が,トーマス・エジソンの蓄音機である。この偉大な発明家は,蓄音機を完成させた1877年に,それに10通りの使い道があることを公表している。エジソンのリストには,遺言の録音,盲人用の本の朗読の録音,時報のメッセージの録音,そして英語の綴りの録音教材などがふくまれていた。しかし音楽の録音再生にはたいして重きがおかれていなかった。エジソンは,蓄音機の発明から数年を経た頃,自分の助手に向かって,蓄音機には商業的価値がないと告げたことさえある。ところが彼は,数年後に考えを変え,蓄音機を口述用録音再生装置として売りはじめた。しかし,蓄音機をジュークボックスに作り変えて販売するものが登場すると,自分の発明の品位をけがすものだと反対している。エジソンが,蓄音機の主な用途は,音楽の録音再生にあることをしぶしぶ認めたのは,発明から約20年たってからのことだった。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.52-53

「発明は必要の母」である

 これらの事例は広く知られている。そしてわれわれは,著名な例に惑わされ,「必要は発明の母」という錯覚におちいっている。ところが実際の発明の多くは,人間の好奇心の産物であって,何か特定のものを作りだそうとして生みだされたわけではない。発明をどのように応用するかは,発明がなされたあとに考えだされている。また,一般大衆が発明の必要性を実感できるのは,それがかなり長いあいだ使い込まれてからのことである。しかも,数ある発明の中には,当初の目的とはまったく別の用途で使用されるようになったものもある。飛行機や自動車をはじめとする,近代の主要な発明の多くはこの手の発明である。内燃機関,電球,トランジスタ(半導体)。驚くべきことに,こうしたものは,発明された当時,どういう目的で使ったらいいかがよくわからなかった。つまり,多くの場合,「必要は発明の母」ではなく,「発明は必要の母」なのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.52

実体の模倣とアイデアの模倣

 文字システムは,「実態の模倣」か「アイデアの模倣」のいずれかによって1つの社会から別の社会へと広がっていった。誰かが何かを発明したとき,それがうまくはたらいていることを知っている人が,わざわざ自分で似たようなものを独自に作りだそうとするだろうか。技術や概念といったものは,「実態の模倣」か「アイデアの模倣」で伝播するのがふつうである。
 何かの発明が「実態の模倣」によって伝播されるときは,入手可能な情報が詳細にわたって模倣借用され,一部が修正されたりして使用される。「アイデアの模倣」では,基本的なアイデアが借用されるだけなので,最終成果物がオリジナルと類似していることもあれば,まったく類似していないこともある。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 pp.26-27

ゼロから考案する困難さ

 まったくゼロの状態から文字システムを考案することは,既存のシステムで使われているものを拝借するのにくらべ,比較にならないほどむずかしい。発話,つまり,コミュニケーションの目的で人間が発する一連の音素を最初に文字で表そうとした人は,いま,われわれがあたりまえと思っている言語学的法則を,自分で見つけださなければならなかった。たとえば,区切りのない音の連続的なつながりに聞こえる発話を文字で表すためには,その発話を記述可能な単位要素の並びにまで分解できなければならない。表記対象が音素であれ,音節であれ,あるいは単語であれ,この過程を省略して,発話を表記できる文字システムを作りだすことはできない。また,人の発話は,誰でも同じではない。話し声の大小,甲高さ,しゃべるスピードなどは各人各様である。だが,そうした発話上のバリエーションは意味に影響せず,文字での表記においては無視できる。そんなことでさえ,最初に文字システムを考案した人は自分で気づかなければならなかった。そのうえで,単位要素として取りだされた音を記号で表す方法を考案しなければならなかったのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 下巻 草思社 p.18

選択に向き合え

 改めて言っておきたいのだが,問題は単に偽情報や湾岸危機にあるのではない。
 問題はそれよりもずっと奥が深い。私たちは自由な社会に住みたいのだろうか。それとも自ら好んで背負ったも同然の全体主義社会に住みたいのだろうか。
 とまどえる群れが社会の動きから取り残され,望まぬ方向へ導かれ,恐怖をかきたてられ,愛国的なスローガンを叫び,生命を脅かされ,自分たちを破滅から救ってくれる指導者を畏怖する一方で,知識階級がおとなしく命令にしたがい,求められるままスローガンを繰り返すだけの,内側から腐っていくような社会に住みたいのだろうか。
 そして,他人が支払ってくれる報酬を目当てに,世界を叩きつぶしてまわる傭兵国家になりさがりたいのだろうか。どちらを選ぶかは,私たちしだいだ。この選択に1人1人が向きあわなければならない。答えは,私やあなたのような一般の人びとの手中にあるのだ。

ノーム・チョムスキー 鈴木主税(訳) (2003).メディア・コントロール:正義なき民主主義と国際社会 集英社 pp.70-72

なぜ興味を抱かない

 1969年に南アフリカのナミビア占領が違法だと裁定されたとき,アメリカは食料や医薬品について制裁措置をとっただろうか?戦争におもむいただろうか?ケープタウンを爆撃しただろうか?
 いや,アメリカは20年間「静かな外交」をつづけていた。
 その20年間も,決して波乱がなくはなかった。レーガンとブッシュの時代だけでも,南アフリカによって約150万人が周辺諸国で殺された。
 南アフリカとナミビアで起こったことは忘れよう。どうしてか,それは私達の感じやすい心をゆさぶらなかったのだ。アメリカは「静かな外交」をつづけ,結局は侵略者が報酬を手にするのを許した。侵略者にはナミビアの主要港と,安全上の懸念を払拭する数々の便宜が与えられた。私たちが掲げていた原則はどこへ行ったのだろうか?
 繰り返すが,それが戦争におもむく理由にならないのは,子供でも論証できる。私たちはそんな原則を掲げてはいないからだ。ところが,誰もそうしなかった——重要なのはそこなのだ。そして,当然の結論を,誰も指摘しようとはしなかった。戦争をする理由は1つもない。皆無である。

ノーム・チョムスキー 鈴木主税(訳) (2003).メディア・コントロール:正義なき民主主義と国際社会 集英社 pp.61-62

選択している

 前回の作戦についても少し述べておこう。手始めに,前述したマサチューセッツ大学での調査の話をしたい。この調査からは,いくつかの興味深い結論がでている。質問の1つに,違法な占領や深刻な人権侵害を正すためにアメリカは武力介入すべきだと思うか,というものがあった。約2対1の割合で,アメリカ国民はそうすべきだと考えていた。違法な土地占拠や「深刻な」人権侵害があった場合には,われわれは武力を用いるべきである,と。
 アメリカがこの助言に従うなら,私たちはエルサルバドル,グアテマラ,インドネシア,ダマスカス,テルアビブ,ケープタウン,トルコ,ワシントンなど,あらゆる国の都市を爆撃しなければならなくなる。それらはみな違法な占拠や侵犯や,深刻な人権侵害という条件を満たしているのである。こうした事例の多さを知っていれば,サダム・フセインの侵略や残虐行為も,多くの事例のうちの1つでしかないことがよくわかるだろう。フセインがやっていることは,とびきり極端な行為ではないのだ。
 どうして誰もこのような結論に到達しないのだろう?

ノーム・チョムスキー 鈴木主税(訳) (2003).メディア・コントロール:正義なき民主主義と国際社会 集英社 pp.53-54

犠牲者は何人か

 質問の一つに,ヴェトナム戦争におけるヴェトナム人犠牲者は何人くらいと思うか,というのがあった。
 今日のアメリカの学生の平均的な答えは,約10万人。公式の数字は約200万人である。実際の数字は,300万から400万といったところだろう。この調査を実施した人びとは,もっともな疑問を呈している。ホロコーストで何人のユダヤ人が死んだかと今日のドイツ人に聞いたとき,彼らが30万人と答えたならば,われわれはドイツの政治風土をどう思うだろう?その答えから,ドイツの政治風土を推して知るべきではなかろうか?質問者はあえて答えを求めなかったが,この疑問は追求する価値がある。その答えから,わが国の政治風土も推して知るべきではなかろうか?その答えとは,とても多くのことを語っている。

ノーム・チョムスキー 鈴木主税(訳) (2003).メディア・コントロール:正義なき民主主義と国際社会 集英社 p.40

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