忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

北アメリカを廃墟にした原因

 一般的に,1492年当時,新世界にはアステカ人やインカ人だけがたくさん住んでいたと思われがちである。しかし論理的に考えればすぐわかるように,北米にもアメリカ先住民たちが数多く住んでいた。現在でも有数の肥沃な農地が広がっているミシシッピ渓谷を中心に,人口の稠密な集団社会を形成していたのだ。これらのアメリカ先住民たちは,ヨーロッパ人征服者によって滅ぼされたわけではない。北米のアメリカ先住民社会は,ヨーロッパ人がやってきたときには,すでにユーラシア大陸の病原菌によって壊滅状態におちいっていた。たとえば,北米に最初にやってきたヨーロッパ人征服者であるエルナンド・デ・ソトは,1540年,合衆国南東部を行軍したとき,廃墟と化したアメリカ先住民の村落をいくつも見かけている。それらは,デ・ソトの行軍の2年前に大流行した疫病によって住民が死に絶え,遺棄されてしまった村落であった。デ・ソトが北米にやってくる以前に,海岸地域に上陸していたスペイン人のなかに病原菌を持っている者がいて,彼らとの接触を通じて沿岸地域のアメリカ先住民がまず感染し,そこから疫病が内陸部の先住民のあいだに広がり,スペイン人の病原菌がスペインの軍勢よりも先に米国内陸部を襲ったのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.311-312
PR

ユーラシア大陸にはは家畜化可能な動物が多かった

 ユーラシア大陸の人びとは,たまたま他の大陸の人びとよりも家畜化可能な大型の草食性哺乳類を数多く受け継いできた。このことは,やがてユーラシア大陸の人びとを人類史上いろいろな面で有利な立場にたたせることになるが,この大陸に家畜化可能な大型の草食性哺乳類が多数生息していたのは,哺乳類の地理的分布,進化,そして生態系という3つの基本的要素がそろって存在していた結果である。ユーラシア大陸は,世界の大陸のなかでもっとも面積が広く,そのぶん生態系も多様だったので,家畜化の候補となりうる動物がもっとも多く生息していた。つぎに,南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸では,ユーラシア大陸やアフリカ大陸とは異なり,更新世の終わり頃に,家畜化の対象となりうる動物が数多く絶滅してしまった——おそらく,これらの大陸に生息していた哺乳類は,すでにかなり高度な狩猟技術を発達させていた人間集団に突然さらされるという不運に見舞われたのではないかと思われる。最後に,ユーラシア大陸には,家畜化に適した動物が,他の大陸よりも高い割合で生息していた。アフリカ大陸で群をなして暮らす大型哺乳類をはじめとする,いままで家畜化されなかった動物の特徴を詳しく調べてみると,それぞれがどうして家畜とならなかったかがわかる。トルストイは,マタイの福音書22章14節の「招かれる人は多いが,選ばれる人は少ない」という言葉も認めることだろう。


ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.260-261

アフリカの動物はなぜ家畜化されないか

 オナガーより気性が家畜化に向いていないのが,アフリカに生息している4種類のシマウマである。彼らを荷車につなぐことができたというのが,家畜化の試みにおいてもっとも成功した例である。シマウマに荷車を引かせることは,19世紀の南アフリカで何度も試みられている。また,変わり者のウォルター・ロスチャイルド卿が,ロンドンの町をシマウマに引かせた馬車で走りまわったこともあった。しかし,シマウマは歳をとるにつれ,どうしようもなく気性が荒くなり危険になる(馬のなかに気性が荒いものがいることは否定しないが,シマウマとオナガーは,種全体がそうなのである)。シマウマにはいったん人に噛みついたら絶対に離さないという不快な習性があり,毎年シマウマに噛みつかれて怪我をする動物監視員は,トラに噛みつかれる者よりもずっと多い。また,シマウマを投げ縄で捕まえることはほとんど不可能に近い。投げ縄が飛んでくると,ひょいと頭を下げてよけてしまうのだ。ロデオ大会の投げ縄部門で優勝したカウボーイでさえ,投げ縄でシマウマを捕まえることはほとんどできないという。
 つまり,シマウマに鞍をつけることはほとんど無理なのである。そのため,南アフリカで熱心に試みられたシマウマの家畜化も,しだいに関心が薄れていった。最初は見込みがあると思われたワピチやエランドを家畜化すしようとする試みが実際にはそれほど成功しなかったのも,彼らが大型で危険な動物であり,いつ攻撃的な行動に出るのか予測がつかない動物だったことが影響している。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 p.256

栽培化可能な植物・家畜化可能な動物の制限

 ニューギニアとメソポタミアの肥沃三日月地帯の比較からはいろいろと教えられることが多い。まず,ニューギニアの狩猟採集民は,肥沃三日月地帯の狩猟採集民と同じように,自分たち独自の方法で自発的に食料生産をはじめていた。しかしニューギニアの農業は,栽培化可能な穀類やマメ類,家畜化可能な動物が野生種として生息していなかったために,高地に居住していた人びとをタンパク質不足におとしいれてしまった。栽培化可能であった根菜類が高地では充分に成長しない品種であったことも,ニューギニア農業の足かせとなった。とはいえ,ニューギニア人が自分たちの生活環境に分布している動植物について無知だったわけではない。彼らは,今日地球上で暮らすどの民族にも負けないくらい,自分たちが入手可能な野生植物について充分な知識を持ち合わせていた。その点を考慮すると,ニューギニア人は,栽培化に値する野生植物はひとつ残らず見つけて,試せるものは試したと推測できる。サツマイモが伝わったときにニューギニア人がどうしたかを見れば,新種の作物を自分たちのものにする能力が彼らにあったことは明らかである。今日のニューギニアにおいても,新しく伝わった農作物や家畜を真っ先に手に入れられる部族や,そうしたものを取り入れようとする意欲のある部族の人びとが,新種の作物の受け容れに意欲的な文化的土壌のなかで,そうする意欲のない部族や新しい作物を入手できない部族を犠牲にしながら,自分たちの農耕エリアを拡大している。つまり,ニューギニアの人びとが独自に誕生させた食料生産システムの展開が制約された原因は,この地域の人びとの特性にあったわけではなく,この地域の生物相や環境要因にあったのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.221-222

行動の優先度

 狩猟採集民から自分たちで食料を生産する生活への移行にこれほど時間がかかり,この変遷が徐々に進行した潜在的要因は,人が自由にできる時間と労力の絶対量が限られていることにある。時間と労力をどのように使うかについてさまざまな意思決定が下された結果として,人びとは狩猟採集生活から食料を生産する生活へと移行したのである。狩猟採集漁労民は,採餌行動をおこなう動物と同じように,いろいろな行動をするが,使える時間と労力が限られているため,どの行動にどれだけの時間と労力をかけるかが問題となる。誰よりも先に農耕をはじめた人が,朝起きて,今日1日何をしようかと考えている様子を想像してみよう。数カ月後に野菜がたくさんとれるように畑を耕そうか。今日は肉が少ないから魚介類を集めに行こうか。それとも,何もとれない可能性は大だが,もし取れたら肉がたくさん手にはいるからシカ狩りに行ってみようか。人間も動物も,採餌行動をとるときは,いくつかの選択肢の優先度を考え,どの行動に時間と労力を費やすかを無意識のうちに決めている。好きな食べ物が得られる場合や最大の収穫が得られる場合をまず最優先し,それがうまくいかなかった場合には次善の食物を入手できるように,順次,優先度の低い行動を選択していくのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.154-155

農耕民になるデメリット

 しかし実際には,すべての食料生産者が狩猟採集民より快適な生活を送っているわけではない。今日,狩猟採集民より快適な生活を送っている食料生産者は,裕福な先進国にしか存在しない。彼らは,遠くはなれたところに土地を所有し,そこで人を使って農業をするというビジネスを展開することで,自分は農業労働に従事することなく食料を生産している。この方法によって彼らは,狩猟採集民よりも少ない肉体労働で,より快適な生活を送りながら,飢えの恐怖に怯えることなく,より長い寿命をまっとうしている。しかし,世界の食料生産者の大部分は,貧しい農民や牧畜民によって占められているのだ。彼らは,かならずしも狩猟採集民より楽な生活を送っているわけではない。1日あたりの労働時間を調べてみると,貧しい農民や牧畜民のほうが狩猟採集民より少ないどころか。場合によってはより長い時間を働いているのだ。考古学の研究によれば,多くの地域において最初に農耕民になった人びとは,狩猟採集民より身体のサイズが小さかった。栄養状態もよくなかった。ひどい病気にもかかりやすく,平均寿命も短かった。これがみずからの手で食料を生産するものの運命だと知っていたら,最初に農耕民になった人びとは,その道を選ばなかったかもしれない。それなのに,なぜ彼らは農耕民となる道を選んだのだろうか。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 p.150

定住生活が身分を作りだす

 また定住生活は,余剰食糧の貯蔵と蓄積をも可能にする。いくら食料を貯蔵・蓄積しても,近くに定住してそれを守ることができなければ意味がないからである。移住生活をする狩猟採集民が,たまに数日分の食料を貯めることもあるが,近くで守れなければごちそうをとっておいても無駄である。食料の貯蔵・蓄積は,食料生産に携わらない人たちを養ったり,村や町で特別な仕事に従事する人たちを養ったりするのに不可欠なものである。そういう人たちは,移住生活をする狩猟採集民の社会にはほとんど存在せず,定住型の社会が登場してから初めて出現している。
 そうした特別な仕事に従事する人たちといえば,まず王族と官僚がある。狩猟採集社会は,常勤の官僚や世襲制の王が存在しない比較的平等な社会で,集団単位や部族単位で小規模な政治機構を有していることが多い。身体が健全な者ならだれもが狩猟採集活動に従事し,1日の時間の大部分を食料獲得のために費やさなければならないからである。それにひきかえ食料の貯蔵・蓄積が可能な社会では,政治エリートが,他の人たちが生産した食料を自由にできる。税金を課すことができるし,食料生産に従事しなくてすむ。そして,自分の時間のすべてを政治活動に使えるようになる。その結果,中規模な農耕社会ではときとして首長が支配する集団が形成されるようになるが,王国が形成されるまでにはいたらない。王国が形成されるのは大規模な農耕社会だけである。農耕社会に見られる複雑な政治組織は,構成員の平等を基本とする狩猟採集民の社会よりも,征服戦争を継続させることができる。北アメリカの太平洋北西沿岸やエクアドル沿岸などでは,豊かな環境に居住する狩猟採集民が定住型の社会を発達させ,食料の貯蔵・蓄積を可能にし,初期の形態の族長支配を形成したが,そこからさらに進んで王国を作りだすまでにはいたっていない。
 課税によって集められた食料は,王族や官僚以外にも食料生産以外の仕事を専門にこなす人たちを養うことを可能にした。貯蔵・蓄積された食料は職業軍人の存在も可能にするが,このことは征服戦争の遂行能力にもっとも直接的に関係している。たとえば,職業軍人を抱えていたことは,大英帝国が充分に武装したマオリ族を最終的に敗北に追い込むうえで決定的な要因となった。マオリ族も何度かめざましい勝利をあげはしたが,常時戦場に駐屯できる軍隊を維持することができず,1万8000人の英国部隊の攻撃の前に,最後は疲弊し,敗れ去っている。食料の貯蔵・蓄積はまた,征服戦争に宗教的な正統性を与える僧侶の存在も可能にする。刀剣や銃器などの製造技術を開発する金属加工職人などの存在も可能にするし,人の記憶を上回る記録を書き残せる書記などの存在も可能にする。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.128-129

動植物の栽培化の意義

 このように,動植物の栽培化および家畜化は人口の稠密化に直接的に貢献している。栽培化や家畜化は,より多くの食料を生み出すことによって,狩猟採集生活よりも多くの人口を養うことを可能にする。そして,食料が生産できるようになると,定住生活が定着する。これは栽培化や家畜化が社会におよぼす間接的な影響である。狩猟採集民の多くは,野生の食物を探して頻繁に移動するが,農耕民は,自分たちの畑や果樹林のそばにいなくてはならないからである。この定住生活は,出産の間隔を短くし,それがまた人口の稠密化につながっている。野営地から野営地へ移動しなければならない狩猟採集民の母親は,身のまわりのものを運びながらの行動を強いられ,幼児を1人しか連れて歩けない。次の子供は,先に生まれた子どもがみんなの足手まといにならず歩けるようになるまでは産めない。現実に,移住生活をしている狩猟採集民の女性は,授乳時の無月経や,禁欲,間引き,中絶などによって,つぎの子を産むまでに約4年の間隔をあけている。それにひきかえ定住生活をしている人びとは,子連れで移動する必要がないので,養えるかぎり多くの子供を産み育てることができる。多くの農耕社会において,出産間隔はおよそ2年で,狩猟採集民の半分である。この高い出生率は,1エーカーあたり,より多くの人びとに食料を供給できる能力とあいまって,食料生産をおこなう人びとが,狩猟民族よりもずっと高い人口密度を得ることを可能にしたのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.127-128

読み書きが差をつけた

 あるふれた言い方になるが,アタワルパやチャルクチマ,そしてモンテスマをはじめとする数多くのアメリカ先住民の指導者たちがヨーロッパ人にだまされてしまったのは,スペイン人に関する詳細な情報を得ることができなかったからである。スペイン人が新大陸にやってくるまで,新世界から旧世界を訪れたものが1人もおらず,そのためヨーロッパ人に関する詳細な情報を得ることができなかったのである。そうした事情を十分考慮に入れても,われわれの結論は,もしアタワルパの属していた社会がもっとさまざまな人間の行動パターンというものを経験していたなら,アタワルパはピサロ側をもう少し疑ってかかっていた「はずだ」ということにならざるをえない。ピサロ側もまた,カハマルカに来たときには,1527年と1531年にインカの民を尋問して得た情報しか持ち合わせていなかったからである。ところが,ピサロ自身は文字が読めなかったとはいえ,読み書きの伝統を持つスペイン側は,書物などから情報を入手して,ヨーロッパから遠く離れた場所の同時代の異文化や,何千年間のヨーロッパの歴史について知っていた。ピサロは明らかに,コルテスの成功した戦略を学んでアタワルパを襲撃しているのだ。
 要するに,読み書きのできたスペイン側は,人間の行動や歴史について膨大な知識を継承していた。それとは対照的に,読み書きのできなかったアタワルパ側は,スペイン人自体に関する知識を持ち合わせていなかったし,海外からの侵略者についての経験も持ち合わせていなかった。それまでの人類の歴史で,どこかの民族がどこかの土地で同じような脅威にさらされたことについて聞いたこともなければ読んだこともなかった。この経験の差が,ピサロに罠を仕掛けさせ,アタワルパをそこへはまり込ませたのである。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.118-119

馬の起源と意義

 馬は,紀元前4000年頃,黒海北部の大草原で飼いならされるのとほぼ時を同じくして,それまでの戦いのあり方を一変させている。人びとは馬を持つことによって,自分の足だけが頼りだったときよりもはるか彼方まで移動できるようになった。奇襲攻撃も可能になったし,彼方の精鋭部隊の反撃の前に引き揚げることができるようにもなった。馬は黒海周辺で最初に導入されてから,あらゆる大陸に広がっていった。そして馬は,20世紀初頭にいたるまでの6000年のあいだ,戦場における有効な武器であった。カハマルカの戦いで果たした馬の役割は,まさにこのことを如実に物語っている。第一次世界大戦まで,騎馬は陸軍の中心的な戦力であった。馬を所有していたこと,鉄製の武器や甲冑を所有していたこと,これらの利点を考慮に入れれば,金属製の武器を持たない歩兵相手の戦いにおいて,スペイン側が圧倒的な数の敵に勝ちつづけたことはさほど驚くべきことではない。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.113-114

多様性はどこも同じ

 ポリネシアで発生した多様性は,世界の他の地域で見られるものと本質的に同じである。もちろん,世界の他の地域の多様性のほうがポリネシアよりずっと変化に富んでいる。ポリネシアのように石器に頼る民族も世界じゅうの大陸で出現しているが,南米では貴金属の利用に熟達した社会も生まれている。ユーラシア大陸やアフリカ大陸では鉄器を使うようになっている。しかし,ポリネシアでは,ニュージーランド以外の島々には金属資源がなかったので,鉄器や貴金属の利用はもともと起こりえなかった。ユーラシア大陸には,ポリネシアに人が定住するようになる以前にいくつもの帝国がすでに出現している。後世には,南米や中米にも帝国が出現している。ポリネシアにも帝国の前進と呼べるようなものが2つ出現したが,そのうちのひとつであるハワイ諸島はヨーロッパ人が来てから統一されたものにすぎない。ユーラシア大陸と中米は独自の文字を発達させているが,ポリネシアでは文字が生まれることはなかった。イースター島の謎めいた文字も,島民とヨーロッパ人との接触のあとに生まれたものかもしれない。
 つまり,ポリネシアの社会を見ても,世界じゅうの社会の多様性すべてを見ることはできない。ここで見られるのは,そのほんの一部だけである。しかし,ポリネシアが世界の一角にすぎないことを考えれば,この結果はまったく驚くにあたらない。くわえて,ポリネシアに人類が住みついたのは遅く,最古のポリネシア社会でも3200年しかたっていない。これに対して他の大陸では,人類が住みついたのがもっとも遅い大陸(南北アメリカ大陸)でさえ1万3000年前である。トンガやハワイの人びとにあと数千年という時間があったら,彼らはおそらく太平洋の支配をめぐって争う二大帝国になっていたかもしれない。帝国統治のために独自の文字を発達させていたかもしれない。ニュージーランドのマオリ族も,軟玉などを使った道具だけでなく,銅製や鉄製の道具を発達させていたかもしれない。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.95-96

予測困難

 タイムマシンに乗って紀元前1万1000年頃の世界に行った考古学者は,南北アメリカ大陸の住民の生活ぶりを目のあたりにして,明らかに先にスタートを切って他の大陸の人びとを一歩リードしていたアフリカの住民は,1000年のうちに,初期のアメリカの住民に追い抜かれたと結論づける可能性もある。その後は,アフリカ大陸より50パーセント広い南北アメリカ大陸の大きさと,環境的な多様性がアメリカの住民により有利に作用したのかもしれない。
 つぎに考古学者は,ユーラシア大陸に目をむけて,以下のように推論する可能性もある。ユーラシアは世界最大の大陸であり,アフリカを除けばもっとも長く人類が住んでいる。人類は,100万年前にユーラシアに住みつく前はアフリカに長く住んでいたが,初期人類が相当に原始的な段階にあったことを考えれば,この事実は意味がない。考古学者はまた,2万年前から1万2000年前にヨーロッパ南西部で花開いた旧石器時代後期の文化を見て,その工芸品や複雑な道具の存在から,少なくとも局地的には,ユーラシア大陸の住民は他の大陸の住民よりも先にスタートを切り,一歩リードしていたと考えるかもしれない。
 最後に,考古学者はオーストラリア・ニューギニアに目をむけて,まずその小ささ(もっとも小さな大陸である)を指摘するかもしれない。そして,ほとんどが人間の住めない砂漠で覆われた地域であることや,他の大陸から孤立していること,アフリカ大陸やユーラシア大陸よりあとに人類が住みついたことなどに注目し,オーストラリア・ニューギニアでは人類の発達が遅れたと考えるかもしれない。しかし,オーストラリア・ニューギニアの住民こそ,世界のどの地の人たちよりも早く舟を作りだしたのである。彼らが洞窟内に壁画を描いた時期も,ヨーロッパのクロマニヨン人と同じくらいに早い。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.73-74

アメリカでも同じ

 私としては,オーストラリア・ニューギニアの大型動物の場合と同じように,アメリカ大陸における大型動物の絶滅を気候の変化で説明しようとする仮説を受け容れることはできない。アメリカ大陸の大型動物は,22もの氷河期を生き延びたあげく,23番目の氷河期の終わりに,危害がないとされる人類の前で,そろいもそろってほとんど全種同時に突然に死に絶えている。当時衰退しつつあった生息地だけでなく,かなりの繁栄を見ていた地域でも死に絶えているのだ。したがって私は,クローヴィスの狩猟民たちによって絶滅させられたものと思う。学説論争はいまだ決着がついていないが,最終的にどちらの学説が正しいと証明されるにせよ,これらの大型動物の絶滅は,それらを家畜として飼いならす機会をアメリカ先住民から奪うことになった。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.66-67

大型動物の絶滅

 私個人としては,オーストラリア史上,数えきれないほどの干魃に遭遇しながら何千万年も生き延びてきた大型動物が,最初の人類がやってきたとたん,短期間(ここでいう短期間とは百万年のスケールで考えた場合のことで,数千年などというのはほんのわずかの期間にすぎない)のうちに偶然に,突然死に絶えたとは考えにくい。大型動物の絶滅は,乾燥地帯のオーストラリア内陸部だけでなく,多湿地帯のニューギニアやオーストラリア南東部でも起こっている。彼らは,乾燥地帯でも,熱帯雨林地帯でも,寒冷雨林地帯でも,あらゆるところで死に絶えているのだ。したがって私の考えでは,大型動物は,人間によって(食用のために)直接的に殺されたり,(人間が放った火によって焼き殺されたり生息地が開拓されたことで)間接的に滅ぼされたように思える。オーストラリア・ニューギニアから大型動物がいなくなってしまったことは,それが殺戮仮説の指摘するような理由によるものであろうと,天候仮説の指摘するような理由によるものであろうと,それ以降の人類の歴史に非常に大きな影響をおよぼしていることはたしかである。これから見ていくように,これらの大型動物の絶滅は,それらを家畜として飼いならす機会を人類から奪ってしまったのである。そのため,現代においてもオーストラリア人やニューギニア人は土着の動物を家畜化していない。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.61-62

人間が滅ぼした

 オーストラリア・ニューギニアの大型動物(メガファウナと呼ばれる)はすべて,人間が渡ってきたあとに絶滅しているが,その正確な時期については諸説ある。数万年にわたって驚くべき数の動物の骨が堆積した遺跡がいくつも発掘され,調査されているものの,この3万5000年間においてはオーストラリア・ニューギニアに大型動物が存在していた痕跡はまったく残っていない。したがって,それらの大型動物は,おそらく人間がこの地に登場してすぐに姿を消してしまったと思われる。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 p.59

歴史による実験

 生物学的差異による説明と,一見,同じくらいの説得力がありそうなのが,つぎのような説明である。オーストラリアに移り住んだ人びとは,先住民たちが四万年以上にもわたって鉄器を持たない狩猟採集民の生活をしていた大陸で,100年もたたないうちに,文字文化を持ち,産業化され,集権的政治構造を持つ民主国家を築きあげた。これは,先住民とヨーロッパ人を実験材料に,人間社会のちがいを再現したようなものではないか。オーストラリア先住民社会とヨーロッパ系オーストラリア人社会は,構成員こそ異なっているが,舞台はまったく同じである。この2つの社会のちがいが構成員のちがいによって生まれたことを証明するのに,この実験以上の証拠が必要だろうか。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 pp.25-26

人種差別の受容

 今日,人種差別は,西洋社会で公には否定されている。しかし,多くの(おそらく,ほとんどの!)西洋人は,個人として,あるいは無意識のうちに,依然として人種差別的な説明を受け容れている。日本やその他多くの国々では,人種差別的な説明がいまだ何の言い訳もされないまま,まかりとおっていたりする。アメリカやヨーロッパやオーストラリアの社会では,高等教育を受けた白人でさえも,話がオーストラリア大陸のアボリジニのことになると,アボリジニ自身に原始的なところがあると考えている。たしかに外見的にはアボリジニは白人とはちがう。ヨーロッパ人の植民地時代を生き延びたアボリジニの子孫の多くは,いま,白人が支配する現代のオーストラリア社会で経済的な成功をおさめることのむずかしさを感じはじめている。

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰(訳) (2000). 銃・病原菌・鉄 上巻 草思社 p.25

時代は変わっている

 親世代と子世代のもっとも違う点は何か。それは,今はやり直しがきく時代だ,ということだ。学歴で選別され,歩む道が最初から異なる社会人人生は,ナンセンスである。たとえ学力に劣っていたとしても,たとえ一流大学出身でなくても,それをリカバーするものがあれば,評価してくれる会社はいくらでもある。一度仕事についたら,文句を言う前に,まずはやれるだけやってみることだ。そして酸いも甘いも体感した上で,最初に歩み出した道が違っていたと気づけば,途中で方向転換すればいい。転職者が負け犬呼ばわりされる時代はとっくの昔に終わっている。経験したこと,積み上げたものに価値があれば,やり直しはいつでもできる。
 大事なことは,迷ったらやってみる,一歩前に出てみる勇気を持つことだ。最初から自分の希望を100%満たす会社や仕事なんて,あるはずがない。仕事をしたこともない者に,その仕事が向いているかどうかわかる道理はないのだ。判断するのは,やってみてからでも遅くない。そして踏み出した道で,まずは経験と実績を積み上げることだ。石の上にも三年という格言は,人生の勝ち組になる鉄則である。すぐに辞める者を,世の中は評価しない。親は,逃げそうになる子をじっと見守る強さを持たなければならない。それが本当の愛情というものだ。苦労せずして成長することなどあり得ないということを,大人は我が身をもって知っている。

中村昭典 (2009). 親子就活:親の悩み,子どものホンネ アスキー・メディアワークス pp.201-202

突き放す勇気

 時には突き放す勇気が必要な時もあるだろう。自立するということは,自分で考え自分で決めるということそのものである。子どもの本音を理解しないままに「好きにしたらいい」と言うことは,「こうしなさい」と言い聞かせ,親の敷いたレールを走らせることと大差ない。
 一方で,ろくに話も聞かないで,子どものことを一番わかっているのは親の私だと言わんばかりに,「あそこはダメよ」「お前にはココが向いているんじゃないか」と否定・断定することも,避けなければならないことだ。親の一方的な決め付けや判断によるアドバイスは,子どもの心を閉ざしてしまいかねない。それよりも,自分を見守ってくれている,ちゃんと私の,僕のことを理解してくれているという存在になることこそが,子どもの親に対する期待ではないかと思う。

中村昭典 (2009). 親子就活:親の悩み,子どものホンネ アスキー・メディアワークス p.169

「子どもの人生だから」

 こうした中で,「子どもの好きなようにすればいい」という親は,本当に子どもの自主性を重んじた,物わかりのよい,理解ある親と言ってもいいのだろうか。本当は子どものことがよくわからず,また将来どうすればいいのか親自身も描けないがゆえに,「子どもの人生だから」と都合のいいことを言っているだけではないだろうか。

中村昭典 (2009). 親子就活:親の悩み,子どものホンネ アスキー・メディアワークス p.168

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]