ジュリアン・ジェインズは,刺激的な本を書いた。「意識の起源——2つに分かれた精神の消失」(邦題『神々の沈黙——意識の誕生と文明の興亡』)と題した本のなかで,およそ3千年前まで,人間の行動と意思決定は,幻聴や幻覚に強く影響されていたと述べた。つまり,「2つに分かれた」脳によって生み出され,神の声として解釈された幻聴や幻覚が人間の行動を左右したと考えた。ジェインズによれば,大能の左右差は紀元前2000年頃からおよそ1千年にわたって起きた大災害に対する反応として生じた。この大災害には,洪水,地震,民族の大移動,戦争と殺戮,そして株の暴落が含まれる。これらの大災害のせいで,左半球において自己意識が芽生え,さらに個人の行為に対する責任感が出現した。結果として人々は神の声を待たずに,自分の行動を自分自身で決定できるようになったのだ。ジェインズによれば,このような変化は叙事詩「イーリアス」や「オデュッセイア」の文体にはっきりと見ることができる。イーリアスには自分自身に対する言及がなく,一人称の使用もほとんどない。一方,オデュッセイアでは一人称がうまく使われており,全体的に「現代的」な仕上がりになっている。脳の左右差は,ジェインズによると,言語それ自体とは何一つ関係がないそうだ。言語はこれらの重要な出来事が起こる遥か前に進化したと彼は述べた。
ジェインズの理論はまるでナンセンスだ。この本でこれまでに紹介した人間の進化に関する事実と全く相容れない。言語に関連する脳の左右差は,少なくとも200万年も前に存在した証拠がある。さらに,脳の左右差がたった1千年で進化することなど,どう考えてもあり得ない。ただし,左半球が意図的な行為を司っているというアイデアは,長く信じられてきたものだ。マイケル・ガザニガは,35年もの分離脳患者の研究から,左半球が全般的な翻訳機能を持つと結論した。分離脳患者とは,外科手術の結果,左右の脳の連絡が絶たれた患者である。この手術はてんかんの症状を緩和するために行われる。ガザニガによれば,左半球の翻訳機能とは「われわれに自分の行動を制御している感覚」を与えるものだ。これを支持する実験結果もある。健常者の脳活動を測ったところ,形態に関する強制二肢選択課題において,2本の指のどちらを動かすかを選ぶことは左半球が司っていることが示された。これは右手,左手のどちらの手の選択についても同じだった。
マイケル・コーバリス 大久保街亜(訳) (2008).言葉は身振りから進化した:進化心理学が探る言語の起源 勁草書房 pp.274-275
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