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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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宇宙人の外見は?

 テレビのSF番組,『スタートレック』によって確立され,それ以来受け入れられてきた愉快な特性の一つは宇宙人の外見だろう。彼らがいかに奇妙で見慣れぬ文化から,宇宙のどこからやって来ようと,頭の鱗やこぶの数や色がどうであろうと,彼らには2つの目,2本の腕があり,2本の足で歩き回る。誰か平凡な俳優に奇妙な頭をつけるのがエキゾチックな生物を作るいちばん安上がりな方法だというスタジオ側の言い分もよくわかるが,私はこれが現実であって,宇宙のどこかに変わった都市があり,通りには,こぶや鱗がなければ私たちのように見えなくはない通勤者たちが溢れていると思いたい。これには生物学的正当性がある。主張したいのは,どのような問題に対しても解決策はわずかな数しかなくて,私たち人体のデザインには,良い解決策がすでにいくつか取り込まれているということだ。

マイク・ハンセル 長野敬・赤松眞紀(訳) (2009). 建築する動物たち:ビーバーの水上邸宅からシロアリの超高層ビルまで 青土社 pp.83-84
(Hansell, M. (2007). Built by Animals: The Natural History of Animal Architecture. Oxford: Oxford University Press.)
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現在は大量絶滅期のただ中にある

 さて次には,私たち人間が作った新しい生息場所に動物を引き寄せる話だ。生息環境を変える支配的な種は私たち人間である。建築活動によって世界をこれほど変えてきた種は他に例がない。私たち以前にやってきたつくり手が生息環境にもたらした影響や生物多様性は,私たちがもたらす影響について何か教えてくれるだろうか。私たちは生物多様性を増すのとはほど遠く,多様性を事実上減少させる過程にあるというのが第一印象だ。地球上の生命の歴史は,大量絶滅を5回経験してきたと考えられている。比較的短期間に,通常は数百万年のうちに,多様な生物種の10パーセントから40パーセントが消滅する事態だ。最後に起きたのは約6500万年前の恐竜の絶滅だった。現在私たちは第6回の大量絶滅のただなかにあり,それは私たちが原因になっているという考えが,生物学者の間で高まっていて,私もそれに同意する。「突入しかねないので大いに気をつけるべし」でなく,大量絶滅の「ただなかに」いる点に注意しよう。この事態は,ホモ・サピエンスがアフリカから移住を始めて(約10万年前とされるが,議論の余地もある)以後,ほんの7,800年前にマオリ族がニュージーランドに定着して地球の包囲が完了したときに始まった。
 私たちが絶滅に関与していることを示す累積する証拠としては,人間がヨーロッパとアメリカ大陸に到着して間もなく大型哺乳類が絶滅するようになったことがある。大型哺乳類は,人間が導入するまでニュージーランドに定着することがなかった。それらの代わりとして草を食ったり捕食したりする役割はモア—飛ぶことができない鳥の仲間で,人間を見下ろす3メートルの高さにもなる—のような巨大な鳥が果たしていた。人間が到着して間もなく,おそらく12種類いたと思われるモアが絶滅した。それとともにその他数種類の鳥も同じ運命をたどり,その中にはハーストイーグルという過去最大のワシも含まれていた。翼長が推定2.6メートルのこの鳥は,おそらくモアを捕食していたと思われる。だから私たちが自分をビーバーと比較する場合,生息環境を破壊する能力は私たちの方がはるかに大きい。それにもかかわらず私たちは間違いなく新しい生息地もつくり出し,それがいくらかの種に生活空間を与えることになっている。
 クモがテレビを見ているあなたの前を横切ったり,夜中に風呂場の白い壁面にぶら下がる影がくっきり浮かび上がったりするのを見て,あなたは驚き,自分の個人空間にそれが侵入したことに慌てるかもしれない。しかしこのクモはほぼ確実に,家の屋根とか壁の窪み,床下などの居場所から偶然あなたの空間にさまよい出たのだ。それがそこで何をしているのか考えてみたことがあるだろうか。クモはあなたの家の食物連鎖の頂点にいる捕食者だ。そしてパンくずや皮膚の落屑,家の湿った場所に生える菌類などを食べる小さな昆虫とかダニに至るまでの完全な生態系がその「下に」ある。

マイク・ハンセル 長野敬・赤松眞紀(訳) (2009). 建築する動物たち:ビーバーの水上邸宅からシロアリの超高層ビルまで 青土社 pp.65-66.
(Hansell, M. (2007). Built by Animals: The Natural History of Animal Architecture. Oxford: Oxford University Press.)

生物多様性の減少・促進の判断も難しい

 つくり手が生息環境を複雑化するにつれて生物多様性が促進される証拠は有力だが,動物のつくり手が生息場所を破壊し,種の多様性を減少させることは考えられないだろうか。私たちが注目してきた草原や海底堆積物の場合とは異なり,すでに高度の多様性が見られる場所では,そのような可能性も高い。そうした例の一つを,ビーバーが住む森林と川に見ることができる。ビーバーが生物多様性を減少させるという確かな証拠もいくらかある。ビーバーは落葉樹や広葉樹を食べるが,食い尽くしてしまって針葉樹が犠牲になることもある。ビーバーが川やダムをせき止めて魚の産卵場所を破壊したり移動水路を妨害したりすることもある。しかし他方では多様性を促進させるような変化ももたらす。彼らが木を切り倒すことによって花を咲かせる植物が繁茂する空き地がつくり出され,新たな種類の鳥を引き寄せる昆虫がやって来ることもある。ダムに溜まった静水はプランクトン様の甲殻類やカの幼虫の生息地になる。その結果として,プランクトンを食べるコガモのようなカモ類が利益を得る事もある。冬になると,カの成虫はビーバーの小屋の中に避難して,小屋の主の血を吸うことができる。ビーバーによる生態系工学の正味の影響は,おそらく生物多様性を促進しているのだろう。

マイク・ハンセル 長野敬・赤松眞紀(訳) (2009). 建築する動物たち:ビーバーの水上邸宅からシロアリの超高層ビルまで 青土社 p.54
(Hansell, M. (2007). Built by Animals: The Natural History of Animal Architecture. Oxford: Oxford University Press.)

何を賞賛しているのだろう

ほかにも1つ,理屈に合った手順を示している摂食行動の例がある。北米アメリカカケスという鳥の行動だ。多くのカラス科の鳥のようにこの鳥も餌を隠しておいて,あとで食べる。この種の鳥は群で行動するから,餌を隠すとき群の仲間が見ていると,盗まれる危険がある。野外観察によると,そのような盗みはしばしば起こり,檻の中の実験例では,別の鳥が餌を隠すところを観察していた鳥は,かなり上手にそれを探し当てることがわかった。この種の泥棒行為に対抗するために,最初に獲物を隠すところを見られたと知っている鳥は,その後で近くに鳥がいないとき,それを別の場所に移す。この行動自体も非常に興味深いものだが,一般に若くて未熟な鳥は隠し場所を移す行動をとらない。しかし別の鳥が隠すのを見て,そこから一回盗んだ経験をした後には,その行動をとるようになる。泥棒をしてみてから,自分も盗まれる可能性を認識するようになるらしいのだ。このレベルの高度な認識は,シロアリが築きあげるどんなものよりも素晴らしいと言えるのではないかと思うが,それでも私たちはシロアリの塚の構造に驚嘆する。私たちはいったい何を賞賛しているのだろうか。動物のつくり手たちが行動を長続きする記録として残してくれることは確かに科学者にとって好都合ではあるが,行動の重要性を評価する場合には,そのような記録を残さない動物の行動と公平に比較するように気をつけなければならない。

マイク・ハンセル 長野敬・赤松眞紀(訳) (2009). 建築する動物たち:ビーバーの水上邸宅からシロアリの超高層ビルまで 青土社 p.22
(Hansell, M. (2007). Built by Animals: The Natural History of Animal Architecture. Oxford: Oxford University Press.)

擬人化は判断を誤らせる

 動物に対する理性的な判断を妨げる第二の障害がある。それは動物行動の分野で科学者を悩ませる問題,すなわち《擬人観》だ。これは正当な根拠がないまま人間の目的,考え,感情を他の動物に当てはめる傾向をいう。学生のころ,私は擬人観が科学に背くものだと警告された。1972年にあの明敏で多彩な科学者,チャールズ・ダーウィンが著書『人および動物の表情について』を出版した。T.W.ウッズによる数々の巧みなエッチングの中には「失望して不機嫌なチンパンジー」と注釈のついたものがあった。その後間もなく,動物行動学分野では科学者はそのようなことを述べながら同時に科学で信頼を保っていくことができない状態となり,その状態はその後100年間の大半続いた。20世紀始めの科学者は,いわゆる心理学的内観(「考えることについて考える」とでも言える)の研究方法によって引き起こされた心身関係をめぐる実りのない論争で手足を縛られていたのだ。当時まだ日の浅い動物行動学の科学者は,実験によるアプローチと客観性を重視していたので,この方法を拒絶した。チンパンジーが「失望する」か否かのデータを集めることは非現実的で,データのない憶測は無意味だった。
 正直に言えば,私はどちらかと言えば擬人観が好きだ。だが決して説明としてではなく,アイディア源あるいは研究方針に刺激を与える仮説としてである。

マイク・ハンセル 長野敬・赤松眞紀(訳) (2009). 建築する動物たち:ビーバーの水上邸宅からシロアリの超高層ビルまで 青土社 pp.18-19
(Hansell, M. (2007). Built by Animals: The Natural History of Animal Architecture. Oxford: Oxford University Press.)

必要とされるのは高度な人材

 こうなると,いよいよお役所的な「スキル教育」が無意味になってくる。かつてなら,スキル教育で階段の入口にエントリーしやすくすれば,あとは,エスカレーターに乗っていくことが可能だった。今はこの段階がない。求められるのは,高度な理工学系教育を受けた人材か,幹部候補生として習熟を積んだ人材に限られる。いや,これは言いすぎだった。中小・零細企業などでは今でも段階を用意して待っている企業は少なくない。ところが,こちらに関しては,働く側の「嗜好の壁」にぶつかり,応募する人が少ない。つまり,大企業における高度理系人材と幹部候補生となる難関大学卒業者,および中小零細企業での一般人材が不足し,他方では,人が余る,という構造になる。もう,ミスマッチというような,ちょっとした掛け違いを直せば元に戻る状況ではなく,ディスマッチと呼ぶのがふさわしい。
 こんなディスマッチが生まれるくらいなら,過去に戻ればいい,と喝破するのは間違いだろう。経済成長の果実を社会全体が享受し,その結果,海外旅行にいつでも行けるし,ファーストフードも100円均一ショップも,かつてでは考えられないようなお買い得品を並べている。25年前は,給料が今より3割も安いのにマクドナルドのハンバーガーは250円もした。こんなに生活が楽だから,働く人は嗜好の壁を年々高くする。そして国際競争を考える企業は単純労働をパッケージ化し,残った正社員の仕事は高度化する。これは,社会の構造変化なのであって,一方的に過去が良かったわけではなく,いいことと悪いことが錯綜しているはずだ。
 30年以上前,私の父親世代のころ,休みは週に1日しかなく,年間労働時間は,今より300時間も多かった。首都圏の小さなマンションは年収の8倍がアベレージで,手の届かない多くのサラリーマンたちは,片道2時間かかる遠方に家を建てた。本当に,過去はそんなに良かったのだろうか?

海老原嗣生 (2009). 雇用の常識「本当に見えるウソ」 数字で突く労働問題の核心 プレジデント社 pp.137-138

社会の富裕化に伴い失業率は伸びる

 ここで言いたいのは,仕事を選り好みするな,ということではない。本当に食うに困る状況にまでなれば,目の前にある仕事に何でも就くようになるのだろうが,ある程度余裕がある状態だと,人は,仕事を選ぶ。それはむしろ自然なことである。したがって,社会の富裕化に伴い,構造的失業率は上昇していく。

海老原嗣生 (2009). 雇用の常識「本当に見えるウソ」 数字で突く労働問題の核心 プレジデント社 p.134

まずは就職してみる

 人材サービスに関わる人が必ず言うのは,「高望みしないで,まずは就職してみる」ということだ。無名の企業でも,入社するとけっこう良かった,という場合が多々ある。そして,そういう無名企業は人材層も厚くはないから,同期や若手社員の中で目が出るのも早いだろう。2,3年してその会社にどうしても飽き足りないなら,大手へ第二新卒転職を考えればいい。大手よりも自由・伸び盛りの「当たり」企業で長居できたら,なおよいだろう。

海老原嗣生 (2009). 雇用の常識「本当に見えるウソ」 数字で突く労働問題の核心 プレジデント社 p.110

能力主義≠成果主義

 こういう論をかざす人たちは,能力主義の意味がわからず,言葉の響きから,「能力主義=成果主義」と思い込んでいるフシがある。能力主義は日本オリジナルな人事制度であり,もう40年も前から国内の多くの企業に浸透してきた。「能力は積み重なるものだから,年とともにアップする」という考えのもと,給与は年齢を重ねるに伴い上がりこそすれ下がることはなく,その結果,企業は人件費増大に悩んできた。そこで,能力だけでなく成果も給与の算定に組み込み,それにより,「業績と給与の帳尻が合う仕組み」として,90年代後半に成果主義が浸透し始めたのだ。

海老原嗣生 (2009). 雇用の常識「本当に見えるウソ」 数字で突く労働問題の核心 プレジデント社 pp.33-34

遺伝的プログラムの自由度

 偉大な生物学者フランソワ・ジャコブが次のようにうまく言っている。「生きている有機体がすべてそうであるように,人類も遺伝的にプログラムされているが,それは学習のためのプログラムだ。より複雑な有機体であれば,遺伝的プログラムの拘束力は小さくなっているが,それは行動がさまざまな角度から詳細に規定されておらず,有機体に選択の機会があるという意味だ。遺伝的プログラムの自由度は進化につれて増大し,人間性において頂点に達するのだ」と。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 p.157

脳画像研究の変遷

 脳画像法の発達とともに,研究テーマは精神的能力の探究をより深めている。知覚神経の機能と運動性についての初期の研究から,言語,記憶,理性,感情,道徳的判断など,もっとも入念につくられた機能へとテーマは移った。スタンフォード大学のジュディ・イレスは出版物に載ったテーマ群の変化を分析した。彼女は1991年から2001年までに498の異なる雑誌に掲載された,3426にのぼる機能的MRIと次第に複雑になっていく認知機能の研究についての論文をリストにした。「社会的・政治的影響があるテーマ,たとえば個人間の協力と競争,暴力的な人間の脳の違い,脳の構造と機能への遺伝子的影響などの著しい増加が,分析によってわかった」。そして彼女はこう警告を発している。「応用範囲の拡張を慎重におこなわなければ,観察結果の適用範囲を有効と認めたり確認したりはできない」。そして,とりわけ強調されたのは,「利益がリスクを上回ることを保証するために,医療,教育,立法府,そしてメディアの分野における行為者が神経科学者との間で相互作用すべき」ということだ。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 p.125

化学的分析で知能は分かるか

 研究室には,脳の化学分析によって知性の測定ができるという神話が,相も変わらずはびこっている。2000年,アメリカの心理学者たちが発表した研究論文では,知的能力は神経細胞によってつくられる分子,N-アセチルアスパラギン酸(NAA)とともに変化することが明らかにされている。このことから,NAAが知性の<指標>になると彼らはすぐさま結論づけた。性急きわまりないこの結論は測定のなんたるかを気にもかけていないが,科学的アプローチを装っている。生成物の量を測ることがそのまま知性の計測になることはありえないし,この知性という基礎概念ですら知性の形態の多様性を考えると問題点が多い。それに,2つの測定値が同時に変化するからといって,2つの間に原因と結果の関係があるわけではない。車の速度を落としたときにガソリンの残量の値が下がってきたことに気づいたとしても,だからといってこの2つの現象につながりはないのと同じだ。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 pp.114-115

同性愛の生物由来は根拠なし

 現在までのところ,同性愛は生物学的原因に由来するもので,ホルモンや脳や遺伝子の問題だと主張する説に,科学的なものは1つもない。ホルモンや脳や遺伝子の問題だと主張する研究者たちがいた。彼らの研究結果は完璧に否定されたにもかかわらず,メディアでの成功が大きかったものだから,以来,この説は人々の頭にこびりついている……。
 この同性愛についての研究には科学的な正確性がまったくなかったものの,論文は「ネイチャー」誌と「サイエンス」誌で発表された。両誌はゆだねられた論文を選考する際に厳しい選択基準を使うことで有名だが,残念ながら数年前から徐々に,メディアへの強い影響があるような論文が相手だと,この種の例外が稀ではなくなっている。90年代初頭にこの研究が発表されたとき,アメリカのイデオロギー的背景はとくにうってつけだった。同性愛者のための活動団体は,違いを正当化するため,マイノリティとしての権利を主張するため,生物学的論拠を使った。しかし,その論拠は両刃の剣だった。保守派にとっては,同性愛を正当化するこの研究は伝統的価値観を脅かすものだ。おまけに,いわゆる同性愛遺伝子が1993年に発表されたことで,同性愛嫌いの人々は同性愛を生物学的異常呼ばわりし,危険性のある胎児を中絶して排除すべきだと主張できるようになった。悪い遺伝子は撲滅すべきだという,DNA構造の共同発見者であるノーベル賞受賞者ジェームズ・ワトソンの主張そのままである!

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 pp.78-79

性を決める決定因はあるのか

 性染色体ではない染色体(常染色体)上にある別の遺伝子が,性的な分化に寄与しているという事実も発見された。この報告は私たちに表現の見直しを余儀なくさせる。「性染色体だけではなく常染色体にもある数個の遺伝子が協力しあい,どれかが主導的役割を果たすこともないまま,性決定がなされるとする学説は,徐々に受け入れられつつある」とエヴリン・ベルとジョエル・ヴィールは書いた。今日では,生物学的性を形成するのは,胎児のときから思春期の体を再編する時期,そして生涯にわたってずっと,多くの遺伝子を参加させる長いプロセスとしてみなされている。有性の存在を形成するために働く一連の要因であっても,どれもが一つだけでは決定的ではないのだ。結局のところ,人は男性的・女性的第二次性徴をさまざまな割合で持ち,この特徴は一生涯変化しつづける。一方の端に<非常に女性的>があり,もう一方の端に<非常に男性的>がある指標のなかで,各人が自分なりの男らしさと女らしさの比率を有するのだ。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 pp.67-68

性染色体の異常

 実際のところ,性染色体の異常を示す人々が見つかることは稀ではない。フランスではおよそ40万人がXXXXX,XXXX,XXY,YYX,X,Y,YYといった型の染色体を有していると見積もられている。肉体的外観とは反対の遺伝的性は,異例ではない。女性に典型的な性染色体(XX)を有する男性の数は,およそ1万人と推定されている。数はもっと少ないが,XYを有する女性も存在する。「非定型の性染色体を持つ人々(XYの女性やXXの男性)の発見は,しばしば不妊の原因を探す診察の折に偶然なされるものであり,その場合でも生殖器のレベルでは性別があいまいなわけではない」と,ヴィルジュイフにあるギュスターヴ・ルシ研究所の生物学者ジョエル・ヴィールは明言している。「このことから,彼らの数はおそらく少なく見積もられている」。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 pp.66-67

脳の可塑性

 脳の可塑性もまた,知的能力の発達のために活躍してくれる。生後すぐ養子になり,恵まれた環境で育てられている子供たちは,不遇な環境で育てられている子供たちに比べて,IQテストで良い成績をとることが,多数の研究によってわかっている。もっと遅くに養子縁組された場合でも,環境の影響はとても重要だ。最初にIQテストでとても控えめな点数しかとれなくても,5歳の時点で恵まれた家庭に養子に入った子供たちは,成績が向上していく。養子縁組から数年後にテストした場合でも,養子先の家庭の社会経済的階層が高ければ高いほど,IQテストの結果は良い。遺伝子が胚の発育を導き,脳の発達に影響を与えるにしても,知的発達という面においてはすべてが幼児期にすんでしまうというわけではない。それゆえ,成績不良の子供たちを助けるための補習プログラムが重要なのだ!

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 pp.57-58

fMRIの使い方

 機能的MRI(fMRI)は,被験者が暗算をしたり,言葉を読んだり,顔を見分けたりするときに神経細胞の活動がどのような変化を見せるのか,算定できる。直接的に神経細胞の電気活動(神経インパルス)を測定できるものではない。測定は,ある領域の神経細胞が活発化するときに引きつづいて起こる,酸素化血液の集中を対象とする(検出されるのは,酸素を吸着したヘモグロビン分子の磁化だ)。活動中の脳野の画像は,実のところ,局所的な血流量の画像である。よって,神経細胞の機能の状態を直接的に反映するものではなく,結果として,画像の解釈は慎重におこなわなければならない。fMRIのもう一つの限界は,時間要因だ。信号の記録とデータ収集の手順は,最低でも数分を要する。神経の活動は千分の一秒単位だから,はるかに長い。つまり,fMRIは脳の働きをリアルタイムで表示できないのだ。それにもかかわらず,コンピュータのディスプレイ上で実験者が被験者の活動中の脳をリアルタイムで見ていると思われがちだ。これはありえない。最終的に,数値化されたデータが得られるのは,何時間もかけて情報処理し,脳の領域を再現するために色コードを割り当てたあとなのだから。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 p.52

カテゴリ内の変動の方が大きい

 とはいえ,驚くことに,相違はだれの目にも明らかというわけではない。MRIを使った千件あまりの研究のうち,性別による違いを指摘したのはおよそ十件だけであり,それでさえ,同性のバイオリン奏者の脳と数学専攻の学生の脳との違いや,運動選手の脳とチェスのチャンピオンの脳との違いと比べてさほど大きくない。というのも,成長期の脳は環境,家族,社会,文化などからの影響をすべてとりこむものなのだ。その結果,私たち1人1人は脳を活動させて思考をまとめる自分なりのやり方を持つ。実際,同性間には実に幅広い多様性が見られるので,たいていの場合に男女の間の相違よりも目立つくらいだ。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 p.21

脳についての小史

 頭蓋骨の中にしまいこまれている脳は,16世紀に初期の解剖がおこなわれるようになるまで知りえないものであった。長い間,魅惑の対象として想像上の特質をまとわされてきた。古代から現代に至るまで,時代ごとにそのときのヴィジョンがそこに投影された。灌漑装置や光学器械,最近になるとコンピュータというふうに,脳はその時代の機械になぞらえられてきた。紀元前4世紀頃には哲学者アリストテレスが,「水で満たされている脳は,血液を冷やす役目しかなく,心臓が魂の座である」と主張していた。2世紀になると,ギリシャの医者ガレノスは羊と子牛で実験をおこない,脳につながった脊髄が「感覚と動作に不可欠」だと記した。アラビアの哲学者であり医者だったアビセンナは西暦1000年,この奇妙な脳みその塊が腸を連想させるとして,「上にある腹」と言い切っている。1540年にベルギーの解剖学者ヴェサリウスが始めて以降,レオナルド・ダ・ヴィンチが言うところの「ゼラチン質のカリフラワー」は解剖して調べられるようになったが,試行する器官は謎に包まれたままだ。19世紀になると,脳の形状や構造が研究され,脳の重さが測定され,事故の犠牲者の場合は脳損傷部分が探し当てられ,精神病患者の場合は機能を見きわめるための手がかりだけが得られた。そのころから,なぜ能力が人によって違うのかを説明する学説がこしらえられるようになる。骨相学や頭骨計測法が,明白なイデオロギー上の偏見を支えるようになった。脳の大きさによって,黒人と白人,労働者と経営者,男と女の違いの正当さが説明された。そうなると,女性の地位は覆しようのない生物学的解釈にぶつかってしまう。<か弱い性>とも呼ばれる女性の小さな脳は,知的に劣っていることの証明だという解釈だ。

カトリーヌ・ヴィダル/ドロテ・ブノワ=ブロウェズ 大谷和之(訳) (2007). 脳と性と能力 集英社 pp.19-20

エネルギー概念の大衆的使用

 日常の会話で人びとが「私にはエネルギーが残っていない」というとき,それは科学者にとって「私は物理的な仕事をするキャパシティをもっていない」ことを意味している。しかしこのコンセプトの大衆的な使用は,場のコンセプトの利用と同じく,まともな科学者なら承知しないようなアイデアをふくむまでに拡大した。その一つが「精神エネルギー」で,ニューエイジの思想家にたいへん愛好されている。彼らがこのアイデアを信じているのは,彼らの哲学がそれがあるべきだといっているからだと思われるけれど,これは16世紀の教会の傲慢な考え方に危険なほど近い。彼らがガリレオを迫害したのは,宇宙は完全であるべきであり,その中心は地球であるべきだと信じていたからだった。
 観測は地球が宇宙の中心にないことを明らかにしたが,いっぽうで「精神エネルギー」のような存在が観測で証明されたことは一度としてなかった。バートランド・ラッセルのからかい半分の忠告「ある命題を,それが真実だと支持する根拠が一つもないときに信じるのは望ましくない」は,とりわけこの場合に相応しいようだ。

レン・フィッシャー 林 一(訳) (2009). 魂の重さは何グラム?—科学を揺るがした7つの実験— 新潮社 p.234

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