読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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誤った自信に注意しよう。じきに,他人と違って自分の研究では統計に関するへまをやらかさないという自己満足におちいるかもしれない。だが,この本ではデータ分析に関する数学について綿密な紹介をしたわけではない。この本で紹介したような単純な概念的な誤りのほかにも,統計でへまをやらかす方法はたくさんある。通常とは違う実験を計画したり,大規模な試験を実施したり,複雑なデータを分析したりするのなら,始める前に統計学者に相談しよう。有能な統計学者ならば,疑似反復のような問題を緩和する実験計画を提案することができるし,研究上の課題に応えるための正しいデータ(そして正しい量のデータ)の収集を助けることができる。多くの人が犯してしまっているように,データを手に持ちながら統計コンサルタントのオフィスにおもむいて「で,これが統計的に有意だということがどう分かるんだい?」と聞くような罪を犯してはならない。統計学者は研究における協力者であるべきで,マイクロソフトのExcelの代用品であってはならない。チョコレートやビールを統計学者のところに持っていくなり,あるいは次の論文の共著者にするなりすれば,引き換えに良い助言を得ることができるだろう。
アレックス・ラインハート 西原史暁(訳) (2017). ダメな統計学:悲惨なほど完全なる手引書 勁草書房 pp.161
もちろん,報告に不足があることは,医学に限られた問題ではない。心理学者の3分の2が,論文の中での結果変数のいくつかを割愛することが時々あると認めている。これによって,結果報告の偏りが生み出されることになる。また,心理学者は同じ現象を別々の角度から調べるために,1つの論文の中で複数の実験を報告することがよくあるのだが,心理学者の半数がうまくいった実験だけを報告したことを認めている。こうした習慣は,調査に回答した人のほとんどが弁明の余地がないだろうと認めているにもかかわらず,しつこく残り続けている。
アレックス・ラインハート 西原史暁(訳) (2017). ダメな統計学:悲惨なほど完全なる手引書 勁草書房 pp.141
困っている人たちの支援のためのチャリティのイベントをボランティア精神で積極的に進めている実業家や芸能人に対しても,困っている人たちの助けになっているというところには目を向けずに,
「慈善事業をすればよいイメージを与えられるし,どうせ人気取りだろう」
と冷めた目で見ている。
学問や芸術の振興のための基金づくりに奔走している学者や芸術家に対しても,その社会的な理想の追求といった側面には目を向けずに,
「自分が活躍する場がほしいんだろう,結局目立ちたいんだよ」
と吐き捨てるように言う。
国民のよりよい生活のためにと政治生命を賭けて頑張っている政治家や,会社の立て直しのために私生活を犠牲にして頑張っている経営陣に対しても,その公共的な貢献に目を向けることなく,
「結局,権力の座につきたいってことだろう」
と,一刀両断に切り捨てる。
豊かな社会を実現するために,人びとのためになる新たなサービスの実現に邁進している実業家に対しても,その社会貢献の側面には目を向けることなく,
「金儲けをしたいだけだろう。金儲けの手段が社会貢献につながれば評判もよくなるし,さらに儲かるってわけだ」
と,突き放した見方をする。
こんな具合に昔なら偉業とたたえるようなことでも,そこに利己的な欲求を読み取ろうとする。そこには,自分自身の利己的な欲求構造が投影されている。自分がそうした利己的な思いが強いために,他人の行動を見ても利己的な欲求がやたら気になってしまうのだ。
もちろんだれにも自己愛はあるし,社会貢献している自分に陶酔するといった気持ちはあって当然だろう。だからといって,社会貢献につながる行動を否定してしまったら,世の中は非常に殺風景になってしまうだろう。
「したことの実質」よりも,それが「人の目にどう映るか」に重きを置いた解釈をしがちな時代。そんな社会風潮が,ますます世知辛い世の中を生んでしまう。それも自己愛過剰な社会の特徴といってよいだろう。
榎本博明 (2012). 病的に自分が好きな人 幻冬舎 pp.107-109
「自分の可能性を信じろ」
「妥協せずに,好きなことを追求すべきだ」
「夢をもて!諦めるな!」
「自分らしく輝け!」
このような自己愛地獄に閉じ込めようと言わんばかりのメッセージがあちこちから突き刺さってくる。そこには「やりたいこと」と「できること」の線引きがない。これでは,自分の可能性を限定し,その他の可能性を取りあえずは切り捨てて,目の前の仕事に没頭するというのが難しい。
榎本博明 (2012). 病的に自分が好きな人 幻冬舎 pp.107
教育における「権威」が,上からの押しつけだとか,学習者の自発性を損ねるなどの理由で忌み嫌われ,教育の世界から排除されねばならないもののように扱われるようになって久しいですが,それが知識の公共性という性質を忘れ,知識を教えることへの公的責任の放棄を意味することにどうして気づかないのでしょう。そのときの権威の主体は,国家でも共同体でもありません。そういう抽象的なエージェントではなく,生徒にとっての教師,子どもにとっての親,教わる人に対する教える人が権威の主体です。そのときの親,教師役はすでにオフィシャルな存在なのです。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.194-195
現在の日本では小学校から高校まで,基本的にすべて学年制で運営されていますが,能力には大きな遺伝的差異があるのですから,これほどナンセンスな制度もないといっていいほどです。それがまかり通っているのは,行動遺伝学の知見を許容できていないからでしょう。教育の目的の1つは知識を習得させることにあるはずですが,残念ながら我が国の学校教育制度は,そのような習得主義に立っていません。だから入学や卒業が形式的,儀式的なものになり,卒業できれば,あるいは入学できればそれで目的は達したことになっています。しかしひとたび習得主義や知的能力に大きな個人差があるのはみなさんもご存知でしょう。まったく能力の違う人たちに,同じ内容を教えたところで知識が定着するはずがありません。
例えば,これが自動車学校だったら,どうでしょう?知識や技能を学んでいない生徒を,形式的に進級,卒用させたら交通事故の件数は間違いなく跳ね上がります。1つひとつの知識をちゃんと覚えたか,技能が身についているかを生徒ごとに確かめ,できていない生徒がいたらできるまで指導する。知識を教えるとはそういうことです。
いまの学校で教えている知識は,自動車の運転と同じくらい,いやそれよりも重要ではないのでしょうか?
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.189-190
いま注目を集めているアクティブラーニングというのは,生徒を能動的に授業に参加させて(「能動的」に「させる」という表現自体が自己矛盾ですが),グループで議論しあったり,共同で作業するというといった学習方法を指します。アクティブラーニングが授業のバリエーションの1つとしてあるのはよいでしょうが,そればかりを強調して一律に実施すると,かえって学習の多様性が損なわれてしまう可能性があります。例えば,一人で本を読むことは受動的な学習に見えますが,自己と対話しながら知識を吸収していくのは重要な活動ですし,これによって自分の才能を開花させていく生徒も確実にいるわけです。何かが「流行る」ときは,その流行によって光の当たらないものにこそ,注意を払い,光を当てる必要があります。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.166
子どもがある先生に出会い,ぜひともこの人に習いたいと思った,この学校の校風や教育方針にぞっこんなど,個人的な事情で進学先を決めるのはよいでしょう。けれど,偏差値が高いとか世間的な評判がいいとか,そうした理由で学校を選んでも大した違いはありません。
そんなばかな,と思うでしょう。じゃあ,なんで一生懸命勉強して偏差値の高い大学に入ろうとするのか,と。しかし教育経済学の双生児研究はこのことをものの見事に説明してくれています。一卵性双生児でもちがう大学へ行くきょうだいがいます。中にはレベルの違う大学に行くことになってしまったケースもあります。一卵性双生児は遺伝要因も共有環境も同一ですから,その二人の差は,いわば同一人物が環境の違いだけでどのくらい異なる結果をもたらすのかという,絶対にすることのできない統制実験が,自然に成り立っているのです。
それによると差がありませんでした。もちろん通常は偏差値の高い大学の卒業生のほうが生涯賃金は高くなります。しかし偏差値の高い大学と低い大学に別れ別れに通うことになった一卵性双生児で収入を比較すると,その間に差はなかった。おかしいじゃないかと思われるでしょう。からくりはこうです。収入の差は,通った大学のレベルによるのではなく,もともとの能力によるものなのです。このような双生児は,ここでいう非共有環境(そこには偶然も含まれます)によって,たまたま行く大学のレベルがちがってしまった。しかし遺伝的素質や共有環境は同じ。それが7~9割の能力を規定します。大学ごとの一般的な能力水準は,偏差値の高い大学のほうが高いので,大学間で比較すると,偏差値による収入の格差が生まれます。しかしそもそも学生の能力水準がもともと異なるからであり,大学が異なるレベルの教育をしたからではないのです。
このことから,学歴や大学のレベルは,実質的にどんな教育を受けたかの指標ではなく,どの程度の能力をもっているかの指標(シグナル)にすぎないというシグナリング理論が成り立つわけです。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.157-158
英才教育の項目で述べたように,芸術やスポーツなど個人プレイが求められる分野で傑出した才能を見出すのはそれほど難しくはありませんし,逆に,極端に何かの能力が劣っていたり,犯罪に走る傾向がある人も比較的容易に見つけることができます。
難しいのは,傑出しているわけでもなければ,極端に劣っているわけでもないふつうの人の持っている素質や性向といったものをどうやって見出すかでしょう。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.
行動遺伝学の研究から導き出された重要な知見の1つは,個人の形質のほとんどは遺伝と非共有環境から成り立っていて,共有環境の影響はほとんど見られないということです。共有環境を作る主役は親でしょう。つまりどんな親かということが,子どもの個人差にはほとんど影響がないということなのです。
しかし,これは親が何もする必要はないということではありません。親が子供に対して直接・間接に示す家庭環境が,子供の個性を一律に育てるわけではないということが示されているだけに過ぎません。行動遺伝学が説明するのは,あくまでも「個人差」要因です。子どもにとって,親や家庭(あるいはそれに相当する人や環境)が大事で意味があることはいうまでもないことです。親や家庭は,子供の居場所であり,安全基地であり,最初に出会う社会です。そして食事や身の回りのしつけを通して,一人前の大人になるのに必要な体づくりやさまざまな社会ルールについての知識を学びます。
ここで大事なのは,子育て本のパターン通りに誰にでも当てはまる教科書のようなかかわりをするのではなく,自分が経て来た経験に根差す価値観に基づいて,子どもの中にある形質を見つけるように努力することだと思います。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.124-125
性格というものは,そうした非相加的な意味があるのではないでしょうか。私のカラープリンター理論が表しているように,性格は3つからせいぜい5つの特性を組み合わせることで無限の色あいを持った性格をつくり出せます。橙色が群青色よりも優れているわけでもなければ,黒が白より劣っているわけでもない。それぞれの色がそれぞれの働きをし,ほかの色との組み合わせの中で,それぞれに重要な意味をもって絵画の中で生かされている。そういうことが遺伝子レベルでもあるからこそ,非相加的遺伝効果が表れ,そして一見,適応的でないと思われる遺伝子も,今に残っているのではないかと推察されるのもです。もしそうだとすれば,遺伝的な不平等と思われることも,実は不平等ではないといえるかもしれない。
このように遺伝には,相加的遺伝と非相加的遺伝があり,さらに個々の形質には多数の遺伝子がかかわってくるとなると,親とまったく同じ特徴を持った子どもが生まれることは極めてまれだということがわかります。わたしが「遺伝は遺伝しない」という所以です。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.94
例えば体重の遺伝率が80%だからといって,体重60kgの人の80%分の48kgまでが遺伝でできていて,残り12kgが環境でつくられたという意味ではありません。これは日本人の平均体重が60kgだからといって,日本人がみんな60kgだという意味ではないことと似ています。その集団にはいろんな体重の人がいて,その体重のばらつきの原因は,一人ひとり異なる遺伝要因のばらつきと,それぞれに異なる環境要因のばらつきが合わさったものです。そのとき体重のばらつき全体のどの程度の割合がそれぞれの要因によるばらつきで説明できるかをあらわしたのが,この数値なのです。
それじゃあ,一人ひとりの遺伝と環境の状態については,何も考えていないのかと思われるでしょう。決してそうではありません。
例えばあなたの体重が75kgだとしましょう。そしてあなたと同じ年齢と身長の平均体重は65kgだとします。平均より10kg重いわけです。ほかにもあなたと同じ条件で10kg重い人たちがたくさんいるとしましょう。その人たちがみんなあなたと同じ遺伝的素質と環境で育ったとは限りません。あなたは本来,ふつうに食べていれば遺伝的には70kgになる素質なのに,食べすぎがたたって5kgオーバーして75kgなのかもしれない。またある人は遺伝的素質は本来80kgになる人だけれど,ダイエットして75kgなのかもしれません。またもともと75kgの素質の人がふつうの食生活を送っているのでありのままに75kgかもしれません。
このように同じ75kgの人の遺伝的資質と環境にはそれぞればらつきがあり,その総和としてそれぞれの人の体重があるわけです。そして実際は遺伝的素質も環境も,それぞれさまざまにばらついているので,表現型としての体重も人によってばらばらに違う。このときの遺伝のばらつきと環境のばらつきが,相対的にどの程度なのかを示したのが,ここで表した遺伝と環境の説明率なのです。
安藤寿康 (2016). 日本人の9割が知らない遺伝の真実 SBクリエイティブ pp.76-77
本物の宇宙船の内部といえば,私は無重力状態でおだやかにゆったりと浮遊する人の姿を思い描く。2012年の初めにNASA宇宙飛行士のロナルド・ギャレンに会ったとき,彼は国際宇宙ステーションでの6ヶ月間のミッションを終えて帰還したばかりだった。彼は,本物の宇宙船の音環境は静穏からは程遠いと教えてくれた。宇宙遊泳で船外に出たときでさえ(彼の過去のミッションには6時間半に及ぶ宇宙遊泳が含まれていた),静寂など存在しなかったという。逆に静かだったら,それは呼吸用の空気を循環させるポンプが機能を停止したということなので,不安に駆られたはずだ。宇宙船は,冷蔵庫や空調装置やファンなどの騒々しい機械装置だらけである。理論上は騒音も軽減もできなくはないが,音が静かでそのぶん重たい装置は軌道への打ち上げ費用がかさむ。
トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.245
音の発生源の位置を感知するのに,主な方法は2つある。誰かに左側から話しかけられているとしよう。声はまず左耳に届く。右耳に届くまでにはほんの少し余分に時間がかかるからだ。脳は音の大きさについても細かく識別できる。音が右耳に届くには頭のまわりを回析する必要があるので,高周波の音はかなり小さくなる(低周波の音の大きさは,頭による影響をほとんど受けない)。脳は低周波の音が左右の耳に届く時間差を検討し,左右の耳に聞こえる高周波の音の大きさを比較することによって,音がどこから来るかを特定する。
トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.181
イングランドの海岸周辺には,かなり遠くの音が探知できるように設計された音響ミラーが残存している。コンクリートでできた醜悪で巨大な椀型の装置が海に面して設置されていて,多くは直径が4~5メートルある。20世紀初頭に敵の飛行機に対する早期警報システムとして建造された。ほとんどが椀型だが,ケント州のデンジには壁型のものがあり,変色したコンクリートが大きな弧を描いている。これは高さが5メートル,横幅が60メートルで,2階建てバス5台を縦に並べたのと同じくらいだ。接近してくる飛行機のエンジン音が増幅できるように,水平方向と垂直方向に湾曲している。
軍が実験したところ,この巨大な帯状の装置は32キロ離れたところにいる飛行機を探知することができた。これは敵機が英仏海峡を3分の1ほど渡り終えたあたりだ。しかし気象条件が悪いと敵機が10キロ以内に接近するまで探知できない場合もあり,エンジン音がもっと静かな飛行機については聴取するのに苦労した。条件のよい日でも,ほんの10分ほど早く警報が出せるだけだった。1937年に実用的なレーダーシステムが開発されると,各地に音響ミラーを設置して広い範囲を網羅しようという計画は中止された。
トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.168
残念ながら,動物たちは人間の出す騒音のせいで鳴き方を変えることを余儀なくされている。水中の哺乳類や魚も例外ではない。洋上に風力発電所を設置するのは環境にやさしい発電方法だろうか。海底にタービンを設置するための杭打ち作業で騒音に襲われるゼニガタアザラシの身になれば,おそらくそうは言えないだろう。スクロビー・サンズ洋上風力発電所の建設工事中,イングランドの海沿いの町グレート・ヤーマスに程近い岩の上で観察されるアザラシの数は減少した。くい打ち作業の騒音は1メートル離れたところでおよそ250デシベルと激しく,動物の聴覚系を物理的に損傷するおそれがある。
トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.116
自然が私たちの心身に役立つ理由をめぐっては,3つの対立する説がある。1つ目は進化にかかわるもので,食糧が見つかる肥沃な自然環境を探し出すのを助けるために,自然界の事物を好ましいと思う性向が進化したのだと主張する。2つ目は心理学的な説で,自然は私たちに「自分よりも大きい」何かに属しているという感覚を与えることによって,過度な自己中心性やネガティブな思考に陥るのを妨げるのだと訴える。第3の説は,自然界の中で人の回復を助けてくれる場所には「ソフトな魅力」があると主張する。つまりそのような場所には雲や夕日,風にそよぐ葉の動きなど,見た目に魅惑的で心を落ち着かせてくれるものが存在し,このソフトな魅力が心に平穏をもたらす助けになるというのだ。これらの説は,美しく感じられて心地よい自然界の音に対する私たちの反応を説明するには役立つかもしれない。しかし,そうでない音についてはどうだろう。
トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.97-98
音は私たちの祖先が描く題材にも影響したらしい。音響考古学のスティーヴン・ウォラーはこの研究をもっと厳密な科学にしようと,描かれているものを音響の異なるエリアごとに統計的に分析した。彼は「ネイチャー」誌に発表した論文でこう述べている。「フォン・ド・ゴームやラスコーの深い洞窟では,音の反射レベルの高い場所で馬,雄牛,バイソン,鹿の絵が見つかり,音響効果の弱い場所ではネコ科の動物の絵が見つかる」。どうやら太古の祖先は,自分たちの描いた壁画のまわりで物語を語るときに洞窟の音響を利用していたらしい。鳴き声や足音の大きな有蹄動物の話をするときには反射音で声を増幅したが,大きな音を立てない猫の話をするときには音を強める必要がなかったのだろう。
トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.77
どの程度の残響が望ましいかは,聴いている音楽によって決まる。ハイドンやモーツァルトの複雑な室内楽は,宮廷や貴族の屋敷で鑑賞するために作曲されたので,1.5秒くらいの短い残響時間をもつ狭い部屋で演奏するのがベストだ。フランス・ロマン派の作曲家エクトル・ベリールズは,ハイドンやモーツァルトの作品が「あまりにも広すぎて音響的に不適切な建物で」演奏されるのを聴いて,これなら部屋で演奏するほうがましだと不満を書き残している。「弱くて平板で,調和を欠いた音だった」
ベリオールズやチャイコフスキーによるロマン派の音楽,あるいはベートーヴェンの音楽には,室内楽よりも豊かな響きが求められるので,たとえば2秒ほどの残響時間が必要となる。オルガンや合唱団の楽曲ではさらに長い残響が求められる。著名なアメリカ人コンサートオルガニストのE・パワー・ビッグズは,こんなふうに語っている。「オルガン奏者は与えられた残響をめいっぱい利用し,さらにもっと欲しいと言うでしょう……多くのバッハのオルガン曲は残響を利用するように考えられています。有名なニ短調のトッカータの冒頭の装飾音に続く休止を考えてみてください。明らかに,これはなおも空中に漂っている音符を味わうためにあります」
トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.33-34
「残響」とは,言葉や音楽がやんだあとも室内で反射して聞こえる音をいう。ミュージシャンやスタジオエンジニアは部屋が「生きている(ライブ)」とか「死んでいる(デッド)」などと言うことがある。ライブな部屋とは,たとえば声が響いて気分よく歌える浴室のような部屋だ。デッドな部屋とは,ホテルの豪華な客室のように,柔らかい調度品やカーテンやカーペットなどに声が吸収されて響きにくい部屋だ。部屋が音をよく反響させるか,それとも静まり返るかは,主に反響によって決まる。短い残響が生じる部屋では音がすぐには消えず,言葉や音楽が微妙に強調されて華やかになる。大聖堂などの非常にライブな場所では,残響がまるで生命をもつかのごとく鳴り響き,細部まで堪能できるほど長く持続する。残響は音楽の質を高め,壮大なコンサートホールでオーケストラの奏でる音の厚みを増すのに重要な役割を果たす。適度な残響があれば声が増幅され,部屋の両端にいる人が互いの声を聞き取りやすくなる。残響などの音響的な手がかりから感じられる部屋の広さが,ニュートラルな音や快適な音に対する情緒反応に影響するということを示す証拠も存在する。私たちは,広いスペースよりも狭い部屋のほうが静穏で安全,そして快適だと感じやすい。
トレヴァー・コックス 田沢恭子(訳) (2016). 世界の不思議な音 白揚社 pp.24