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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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日本語は階級差の少ない言語

 英語ではこのように高級語彙,つまり専門家や学問,特殊技術に携わる人々が用いる知的な用語の殆どが,一般の人々にはその意味が分からない古典語の要素で組み立てられているため,英米での新聞や雑誌などは少数のインテリを念頭においた高級紙と,一般大衆向けのものとにはっきりと分かれています。これに反して日本では国民の全てを読者とする全国紙がいくつもありますが,これは日本語が社会の上下を区別する必要のない言語だからです。そしてその理由の大きな部分が,漢字という古典外来要素に対して,英語などの場合とは違い,訓読みという誰にでも理解できる一種の<意味状の注釈>が用意されていることです。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 p.30
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久しぶりに

久しぶりにこの1ヶ月間の検索フレーズTOP 20を紹介。
1位はソシオメーター理論。卒論のため?レポートのため?
2位は自己制御。これも最近論文をよく見るので,卒論かなあ。
3位はフリン効果。知能検査の素点かIQ値かを区別して理解する必要がある。「知能指数が上昇する」という表現は誤解を招きやすい。知能指数(IQ)はある時代と集団内で標準化されているので(標準化作業が放っておかれれば別だが…現実には放っておかれているが),ある年代のIQ平均は(理想的には)常に「100」である。フリン効果はIQの換算前の素点の変動として理解するか,もしも別の世代が,別の時代に標準化された知能検査を該当年齢で受けたら,という条件のもとで理解するのが正確か。

1 ソシオメーター理論
2 自己制御
3 フリン効果
4 冷笑主義
5 ラッセルのティーポット
6 オフレコ 意味
7 ホーダー
8 サモアの思春期
9 操作的定義
10 自己制御
11 カリカック家
12 ドーパミン 快楽
13 トウモロコシ黒穂病
14 ドーパミン 快楽
15 角膜移植  視覚 イメージ 旋盤
16 基本的帰属錯誤
17 極論 意味
18 想像上の観衆
19 逆転バイバイ
20 fmri 利点

単数・複数は無駄

 これまで日本人の中には,複数の概念が日本語では必ずしも言葉の上で明示されないから,科学的思考の発達が遅れたなどという人がいました。しかし一匹の犬を a dog,二匹以上の犬を dogs とすることが科学的といえるでしょうか。これでは二匹以上がすべて十把ひとからげにされて互いの違いは無視されてしまっています。
 日本語(やトルコ語,朝鮮語,蒙古語など)では,数の概念を明示する必要のあるときは,それを表す言葉(数詞,形容詞など)を名詞の前に置きます。<二羽の雀>,<沢山の花>,<多くの人>のようにです。よほど記憶力の悪い人ならいざ知らず,例えば<沢山の>といわれれば,次に来る<花>が複数であることは誰にとっても自明でしょう。
 ですから,<沢山の花々が咲き咲きましたました>などと,複数概念をいちいち各項目ごとに繰り返さないのです。つまり因数分解の要領ですべての語彙項目に含まれる複数の概念を先頭に括りだしてしまうわけです。しかしこの点ヨーロッパの多くの言語はみな,<沢山の花々が咲き咲きましたました>のような無駄なことをいつまでもやっているといえます。

鈴木孝夫 (2009). 日本語教のすすめ 新潮社 pp.21-22

間違った思い込みはやめるべき

 機械化や遺伝子改変技術の革新が進むことによって,世界中の農業国で規模の拡大,人手減らしが進行しています。農民1人当たり日本の20倍以上の農地を持っているアメリカやオーストラリアでも,さらに規模が拡大し続けているのです。
 今後はアメリカのライバルとしてブラジルが登場する可能性が大ですが,ブラジルの農作物の生産コストはアメリカよりさらに低いのです。日本の農家も規模拡大路線をとれとよく言われていますが,日本の農家が少々規模を大きくしたところで,彼らに追いつくことは不可能なのです。
 穀物のような基礎食糧の分野では,日本は世界の農業大国には到底かないません。
 日本政府はもう,「何かのときに,食糧を輸入できなくなるかも知れない」という間違った思い込みにもとづいた政策をやめるべきです。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 p.230

食糧問題の本質は「足りすぎていること」にある

 大規模な機械化農業を展開して,世界一の輸出国となっているアメリカでさえ,農業をやっているより,ニューヨークで仕事をしている方が,ずっと収入が良いのです。ですから農業の保護政策は,アメリカでさえ巨額の金をかけて歴代の政権が行なっていることなのです。
 しかし食糧問題を論ずる前提として,まず国民や政治家が正しい情報を知らなくてはなりません。
 食糧問題の真実は,「足らない」ではなく,むしろ「足りすぎている」にあることをです。
 「食糧が輸入できなくなったときに困るから」と,「食糧自給率」を高めるため,国民に「もっと米を食べましょう」と訴えたり,農家に米増産の待機体制を維持させたり,「不測の事態」に備える備蓄倉庫の拡充をしたりすることなどは,誤った農業政策であると私は考えています。
 このような農業政策には,将来性がまったくありません。
 いまでさえ,備蓄倉庫に貯蔵された米は毎年膨大な量になり,それを古米として処理するのに困っているのが現状なのです。来るかどうか根拠もあやふやな「食糧危機」に備えて農家に米をつくらせて,行き場のない米を備蓄倉庫に隠し,その先その米をどうするというのでしょう。
 食糧危機説で国民の不安をあおりながら,農家に対しても「あなたがたが日本を救うのだ」みたいな話をしているのは,問題です。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.227-228

この道一筋の悪い面

 日本人は「この道一筋何十年で,一芸を極めて」という生き方がすごく好きで,何かというと「何とか道」にしてしまう。
 東京大学にも「システムなんとか」という学科はたくさんあるのですが,そういう名前をつけておきながら,ある1つの分野の追究をはじめてしまう。日本には職人気質というか,1つのことにのめり込むのを良しとする文化があって,「この道何十年,ついに奥義を極めた」という人が尊敬される。
 反対に冷静な多元的な分析は「専門性がない」とあまり好感を持たれない。
 「私はこれ一筋」という熱い言い方をする人に対して,システム的なものの見方で分析すると,「評論家」と言われて嫌われます。
 「全体の中で君のやっていることはこのぐらいの重さだよ」と相対化されるのは,日本人はすごく嫌なのです。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.202-203

助けたければ米や小麦を輸入しろ

 私の研究室にいるエチオピアからの留学生は,日本に来てから4,5年も経つので,日本人と一緒に食事をするときには,「おいしい」と言ってご飯を食べています。
 しかし彼に聞いても,「エチオピアに帰ったらもちろんお米は食べません。エチオピア人が日本から援助米をもらっても困ってしまうでしょうね」と言います。彼らはそれより,「日本のような先進国と比べたら私たちは決定的に貧しいのです。他には何の技術もありません,でも穀物を作ることはできるから,穀物を増産して,余った分を日本や欧米に輸出して,そのお金で自分たちで新しい産業に投資したり,学校を建てたりしたいのです」と言います。
 ところが先進国は彼らのつくる穀物を決して買おうとしません。「穀物は自分たちのところでも余っているから」と言って買おうとしないわけです。
 先進国から農業技術を導入して穀物を増産しても,売り先がない限り過剰生産になって,農作物の値段が下がり,農民がよけい苦しむことになってしまいます。
 本当にアフリカの人たちを助けたいと思ったら,援助する代わりに米や小麦を輸入してあげることです。その方がはるかに役に立ちます。これは別に私だけの意見ではありません。アフリカの国々の連合体であるアフリカユニオンや,開発経済学者の中でも多くの人たちが同様の指摘をしています。
 ですがメディアではそうした声はほとんど紹介されません。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.118-119

なぜアフリカでは肥料を投入しないか

 ところがアフリカは貧しい状態のまま,飢えに苦しんでいる人たちも大勢いるのに,肥料を使おうとしない。なぜなのでしょうか。
 私の研究室にはエチオピアからの留学生がいるので,彼から聞いた話を紹介しましょう。
 エチオピアではアメリカの財団から援助を受けて,1980年代前半,化学肥料を使って穀物をつくったことがあったそうです。これはデータ的にも生産性の如実な増加として記録されています。
 ところが「たくさんできた,嬉しい」と思ったのも束の間,豊作のため現地の穀物価格が暴落してしまったのです。
 アフリカの農村では輸送のための道路や港湾設備などのインフラが整備されていないので,余分にできた穀物を地域の外に運び出すことができないのです。生産した農産物はすべて地元で消費するしかありません。
 その状態で化学肥料を投入して生産性が上がってしまうと,大量に余ってしまって,価格が暴落してしまうわけです。エチオピア国民がいくら貧しいと言っても,「今年はたくさん小麦が穫れたから去年よりたくさんパンを食べるか」ということにはなりません。需要が増えたとしてもせいぜい1,2割でしょう。ところが食糧品の価格は,ちょっとでも余ると一気に下がってしまいます。
 肥料のおかげでたくさん収穫できたけれども,価格の暴落で逆に貧しくなってしまったエチオピアの農民は,翌年から肥料を入れるのをやめてしまったそうです。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.115-116

多様化しているだけ

 いま,日本の水産物の輸入の中心は,エビ・カニ,サケ・マス,マグロといった高級食材です。動物性タンパク質を補給するための水産物というより,美味しいものを楽しむために贅沢品として水産物を輸入しています。
 タラやイトヨリのすり身といった水産加工品の材料もかなり輸入していますが,年間1兆7000億円ほどの水産輸入額のうち,半分くらいのお金をエビ,カニ,マグロ,ウナギを買うために使っています。
 日本で魚の消費量が減ってきているのは事実ですが,それを「魚離れ」と呼び,大きな問題であると捉えるよりは,むしろ「どんな食べ物でも手に入るようになったことで,魚も1つの選択肢となり,消費量も一定のレベルに落ち着こうとしている」と考えるほうが自然です。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 p.57

魚のピークも過ぎている

 日本でも最近,「魚離れ」が取りざたされています。
 しかしそういう話のときによく出てくる,「日本人は昔から魚食民族だった」という言い方は,実は眉唾なのです。もちろん,魚を食べる多くの料理法が日本にはあり,昔から魚を食べていた点では間違いないのですが,現在のように,かつての日本人も大量の魚を食べていたかというと,それは違うとはっきり言えます。
 というのも日本における明治期からの水産物消費量のデータを調べてみると,消費が増え出したのは大正時代に入ってからなのです。
 1910年ぐらいから消費が増えはじめ,第二次世界大戦にともなって大きく減り,戦後再び増え出しています。
 1960年代には急増していますが,1980年代後半にピークをつけて以後は,1人当たりの消費量が減りはじめています。
 こうしたデータから,私たち日本人が本格的に魚を消費しはじめたのは,1960年くらいから始まる比較的新しい現象であり,それももうピークは過ぎているということがわかってきます。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 p.55

そんなに肉ばかり食べない

 アメリカや西ヨーロッパの人たちは「自分たちが世界で一番進んでいる」と思い込んでいて,何となく「世界中のみんなが俺らと同じライフスタイルに変わってゆくはずだ」と考えている節があります。肉なら1人当たり1年に120キログラム食べていることが,「肉を食べられる」先進国の証拠であり,それに達していない国は遅れているように目に映るわけです。
 けれども世界はそれほど単純ではありません。文化には多様性があって,それが食の嗜好にも影響してくる。「文明の衝突」ではありませんが,食文化はもっとも保守的な価値観に根ざすところです。一朝一夕でも変わるものではないのです。食料受給を予測するのにはそうした観点も重要です。

川島博之 (2009). 「食料危機」をあおってはいけない 文藝春秋 pp.35-36

早く大人になろうとしているのだ

 若い人にときどき見られる傾向として,「俺,それ駄目」「私,それだけは許せない」というような「嫌悪の主張」がある。もともと子供ほど好奇心があって,いろいろな対象に目を向ける素直な感性を持っているはずなのに,何故,若者はこういう言動をとりやすいのだろうか?僕が思いついたのは,「若者は,年寄りの真似をすることで,早く大人になろう,大人として認めてもらおうとしている」という理屈である。年寄りほど,難しい顔で「つまらないからやめておきなさい」と言いたがる。子供から見ると,大人というのは,「それは駄目」「それは危ない」という否定指向のシンボルなのだ。だから,若者は自分にとって危険なものを早く見極めそれができたと主張することで,「豊かな経験」的なものをアピールしようとしている。自分も一人前の大人であることを無意識に主張している姿なのだ。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 p.167

素直に行動すれば個性的

 個性に強いも弱いもない。良いも悪いもない。「個性がない」という状態がそもそもありえないことだし,「個性的」という表現に至っては,なにか全然違うイメージをみんなが抱いている可能性がある。違う言葉でいえば,「珍しい」くらいの感じだ。
 個性を出す方法は極めて簡単である。素直に行動していれば,その人の個性のままになる。それでは不都合がある場合には,少し首を引っ込めて,我慢をしなければならないかもしれない。あまりに個性的だと,人に理解をしてもらえないことになるからだ。でも,個人から発するものを,言葉という共通の通信手段に乗せる段階で,たいていは首を引っ込めたのと同じ状態になるから,そんなに気にすることではない。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 p.124

良いものはいずれ悪くなるはず

 それにしても,「今調子が良いもの」にみんながむかうのはどうしてなのだろう?今良いものは,いずれは悪くなるものなのに,今調子が良い会社に就職希望者が殺到する。不思議な光景である。
 おそらく,「勝ち取った」という満足感を得たいのか,あるいは,「自慢ができる」という優越感が欲しいのか,そういうものが動機だろうとは想像するけれど,しかし自分の将来を,そんな些末な(他者に対する見栄のような)動機で決めてしまうのは,本当にもったいないことだと僕は考えてしまう。いかがだろう?

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 pp.118-119

やりたくないだけ

 もう20年以上もまえに僕が見出した法則の一つに,「悩んでいる人は,解決方法を知らないのではなく,それを知っていてもやりたくないだけだ」というものがある。方々で何度も書いたり話したりしている。
 悩んでいる人を揶揄しているのではない。人間というものは,自分のことを一番よく考えている。貴方のことを一番考えているのは貴方なのだ。これは例外なくすべての人に当てはまることだろう。
 どうすれば良いのかは,わっているけれど,その方法を素直に選択できない状況下にある。だから悩むのである。
 解決の方法がないわけではない,というのが,この法則の意味だ。道に迷っているのではない。道は目の前にあるけれど,なんらかの理由でその道を通りたくないのである。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 p.109

自由の本質

 自由の価値というのは,過去の自分よりも,今の自分が,そしてさらに将来の自分が「より自由」になっていく変化を感じることにある。常に自由に向かって進む,その姿勢こそが,自由の本質だといっても良い。目指すものが自由であるなら,目指す姿勢もまた自由である。そういう不思議な連鎖が自由の特性だといえる。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 p.89

暗いことを規制する法律はない

 ついつい,「明るいことは良いことであり,暗いのは悪いことだ」とイメージしてしまう。「お前は暗いな」という言葉が悪口になっている。明るい犯罪者と暗い正義の味方,というのは,僕は「バットマン」くらいしか知らないけれど,けして「あってはならない」ものではない。暗いのがどこがいけないのか。その論理的な理由は特に思い当たらない。籠もること,暗いことを規制する法律はないのである。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 pp.70-71

達成感は不自由から解放されたことを意味する

 そもそも,「終わった!」「達成した!」という感覚こそが,人から与えられたノルマだから感じるものだといえる。
 自分の発想でやり始め,自分が自分に課した目標であれば,たとえ見かけ上それを達成したとしても,新たな目標が必ず出てくるし,途中できっと不満な部分に出会い,あそこを直したい,もう一度ちゃんとやり直したい,という気持ちになるはずだ。自分の自由でやると,絶対にそうなる。経験がある人にはわかるだろう。
 コンテストや競技,あるいは競争というイベントのときだけに「やった!」という達成感がある。とりもなおさず,それは自由を獲得したというよりは,不自由から解放されただけのことで,単に自由の出発点に立ったにすぎない。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 pp.62-63

それは自由ではない

 本来,自分の時間は自分のためにある。何をするかは自由なはずだ。
 しかし,ブログを書くことが日常になると,ついブログに書けることを生活の中に探してしまう。人が驚くようなものを探している。写真に撮って人に見せられるものを見つけようとしている。たとえば,1年かけてじっくりと考えるようなもの,10年かけなければ作れないようなもの,そういった大問題や大作ではなく,今日1日で成果が現れるような手近な行為を選択するようになるのだ。
 知らず知らず,ブログに書きやすい毎日を過ごすことになる。
 これは,「支配」以外のなにものでもない。人の目を気にし,日々のレポートに追われるあまり,自分の可能性を小さくする危険がある。十分に気をつけたほうが良いだろう。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 p.53

もう捨てられない

 そもそも,農業というものが既に自然の営みではない。極めて人工的な行為だ。田畑で穫れる作物とは,ようするに「養殖」された植物である。自然とはほど遠い人工的な環境によって大量生産され,また品種改良された製品なのだ。
 これを成し遂げたのは科学である。農業はテクノロジィの上に成り立っている代表的な行為だ。林業もそうだし,水産業だって,海岸で銛を使って魚を捕っていた原始的な漁に比べれば,現在のやり方は工業に限りなく近いものになっている。
 「人工」や「科学技術」を捨てて,過去へ戻ることはできないし,まして現在の人口を支えることはまったく不可能なのだ。

森博嗣 (2009). 自由をつくる 自在に生きる 集英社 p.45.

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