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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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フラット化された社会は不公正

 フラット化された情報社会は,必ずしもすべての人に等しく,価値のある情報を恵み与える存在ではない。むしろ不公正であり,能力ある者は有益な情報を得て栄え,生かせない者は塔の底辺で這いつくばる。情報が先鋭化するほどに,人々は細分化されセグメント化されて孤立化し,フラット化が進んでお互いに対立するホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」状態となる。

山本一郎 (2009). ネットビジネスの終わり:ポスト情報革命時代の読み方 PHP研究所 p.181
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分断された情報による無知の牢獄

 専門とされる情報量が増大することで,その専門を修めるための学習は常に長くなり,他の専門との相関を作り上げることは極めて困難となる。情報化社会は知的労働者の楽園となるはずが,実際に起きていることは分断された情報による無知の牢獄のようなものである。
 マウスひとつ動かせばあらゆる情報にコンタクトできる社会は,実際のところ自分の知りたい情報をいつまでも引き出せる無限の扉であって,知らなくて済む情報からはいつまでも隔絶され続ける社会でもある。

山本一郎 (2009). ネットビジネスの終わり:ポスト情報革命時代の読み方 PHP研究所 pp.179-180

半年間ROMれ

 ネットでは,新参者が見当違いの質問をすること自体が忌避され,「半年間ROMれ」,つまりログを読んで必要な知識を得てから発言しろ,と言われる。そこに新たな知識を求めた人々を受け入れる寛容の精神はあまり存在しない。これら人間の争いを遥か下に眺め,知識を神のいる天に届くまで積み上げるデータベースは,人間が知識労働をするために必要な専門知識の量を極大化し,塔を登ることができる人と,そうでない人との埋めがたい差をはっきりさせてしまったのだ。
 そして,高い専門性同士は,往々にして激しくその対立を引き起こす。他の専門性が持つ情報の価値を,理解できなくなるからだ。広く国民が知るべき普遍的な情報は狭くなり,共通の知識としてその教養を磨き,人としての知的誠実さを示す土壌は細りつつある。そもそも共通の知識というものが社会の中ではお手軽なものとして検索して知って済ませる構造に埋め込まれてしまっているからだ。

山本一郎 (2009). ネットビジネスの終わり:ポスト情報革命時代の読み方 PHP研究所 p.177

情報化社会になって

 私たちは,過去に暮らしたあらゆる人々よりも,遥かに豊富で大量で良質の情報を居ながらにして得られる恵まれた環境にあるはずだ。しかし,それら先人の暮らしより遥かに文明的で安全であることは差し措いても,どれだけ幸福な生活を送ることが可能となっただろうか。情報通信の技術革新が,私たちの抱える問題を直接解決してくれる技術ではなかったとしても,その一助となっているのであれば,私たちの社会はもっと協調的で穏やかで安寧に満ちたものになっていたはずである。
 実際には,各人の利害は情報技術の進展によってより先鋭化し,競争は激化し,対立構造が顕著になっている。所得の大小で経済格差が拡大していると喧伝されたり,エリート教育をめぐる是非,老人と若者の世代間対立といった,社会の土台における対立構造だけではない。ワードショーで語られる犯罪者のプロファイルでは,その個人がオタク的小児性愛趣味を持っていたというだけでゲームやアニメが悪者に仕立て上げられる。これは,視聴者がこれらの属性を持たず,遠い存在であるから平気で叩けるのである。社会の中で,遠くにあるものが常に脅威として映し出され,同じ共同体の中で暮らす同志としての帰属意識は,社会問題を考える上であまり表出されることがない。
 情報化社会が進展したにもかかわらず,私たちが生きていく上での見通しは曖昧模糊とした茫洋のただ中にある。下手をすると,隣人がどのような人々であるかすら知らない。手を伸ばせば情報を得ることができるにもかかわらず,日常に氾濫する情報の海の中で,身の回りのことすらろくに知ることのない現代人が量産されているのが実状ではないだろうか。

山本一郎 (2009). ネットビジネスの終わり:ポスト情報革命時代の読み方 PHP研究所 pp.144-145

専門家は厚かましく

 他の分野でもそうだけれど,典型的な子育ての専門家はやたらと自信たっぷりな言い方をする。彼らはどちらかの立場に与して自分の旗を高々と掲げる。この問題にはいろいろな側面があって,なんてことは言わない。条件とかニュアンスとか,そういうものの臭いがすることを言う専門家の話なんて誰も聞いちゃくれないからだ。自分が編み上げた平凡な説を通念に押し上げるなんて錬金術をやろうと思ったら,専門家はあつかましくやらなければいけない。それには一般の人たちの感情に訴えるのが一番だ。感情は筋の通った議論の天敵だからである。感情に関して言えば,そのうち一つ——恐れ——は他よりとくに強力だ。凶悪殺人鬼。イラクの大量破壊兵器。BSE(牛海綿状脳症)。幼児の突然死。専門家はまずそういう怖い話で私たちを震え上がらせる。意地の悪い叔父さんがまだ小さな子にとても怖い話をするみたいに,そうしておいてアドバイスをするから,とても聞かずにはいられない。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 p.175

中絶の合法化と犯罪

 言い換えると,アメリカで何百万人もの女性に中絶を決心させた要因は,そうした人たちの子供が,もしも生まれていたら不幸せな人生を送り,たぶん罪を犯していただろうと予測する要因そのものでもあるようなのだ。
 実際,アメリカでは中絶の合法化がさまざまな結果を招いた。子殺しが劇的に減った。できちゃった結婚も減ったし,養子に出される赤ん坊の数も減った(代わりに外国で生まれた赤ん坊を養子にするのがはやった)。妊娠は30%近く増え,一方出産のほうは6%減った。つまり,女性たちは中絶を産児制限の方法として使い始めたわけだ。さしずめ,荒っぽくも劇的な保険といったところなんだろうか。
 もで,中絶合法化がもたらした一番劇的な効果が現れるまでには何年もかかった。犯罪への影響だ。1990年代の初め,「ロー対ウェイド」裁判の後に生まれた最初の世代が10代後半になるころ——つまり,若い男の子たちが一番犯罪者になりやすい年代になるころ——犯罪発生率は下がり始めた。この世代に欠けていたのは,もちろん,犯罪者になる可能性が一番高い子供たちだ。そして,子供をこの世に連れて来たくなかった母親の子たちが欠けたこの世代全体が成年になるにつれて,犯罪発生率は下がっていった。望まれない子供はたくさんの犯罪を引き起こしていた。中絶の合法化で望まれない子供が減ったのだ。中絶の合法化は,そうして,犯罪の減少をもたらした。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 pp.164-165

中絶禁止の影響

 1966年のルーマニアにもう一度戻ってみよう。何の前触れもなく突然に,ニコラエ・チャウシェスクは中絶を禁止すると宣言した。中絶禁止以降に生まれた子どもたちはそれ以前に生まれた子どもたちより犯罪者になる可能性がずっと高かった。なぜだろう?他の東欧諸国やスカンジナビア諸国の,1930年代から1960年代のデータを調べても同じような傾向が現れる。ほとんどの場合,中絶は全面的に禁止されてはいなかったが,中絶を受けるためには裁判所から許可を取らなければならなかった。中絶を却下された女性は子供を愛せなかったりいい家庭環境を作れなかったりする場合が多かったのを研究者たちが発見した。所得や年齢,教育,母親の健康といったデータを調整してもなお,そういう子供は犯罪者になる可能性がとても高いことがわかったのだ。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 pp.161-162

クラック・ブームの影響

 アメリカ黒人に取って,第2次世界大戦からクラック・ブームまでの40年間は,安定した,時によっては急激な改善がはっきり見られた時期だった。とくに1960年代に公民権が法律に盛り込まれてからは,アメリカ黒人の社会的地位がやっと向上した証拠がはっきり現れている。黒人と白人の所得格差は縮小していた。黒人の子供の試験の点と白人の子供の点もそうだった。おそらく一番心強い進歩は乳幼児の死亡率だ。1964年でさえ黒人が乳児の間に死ぬ確率は白人の2倍だった。それも下痢や肺炎みたいな初歩的な病気で死ぬことが多かった。連邦政府が病院の区別をやめさせてからはそれが変わった——たった7年間で,黒人乳児の死亡率は半分に減った。1980年代までに,アメリカ黒人の生活はほとんどすべての面で良くなっていたし,改善がとどまる兆しは見えなかったのだ。
 そんなときにクラックがやってきた。
 クラックが黒人に限って大流行したわけではぜんぜんないけれど,黒人の住む界隈での吹き荒れ方が一番ひどかった。先ほど挙げた社会的地位向上の指標でもそれがわかる。何十年も下がってきていた黒人の乳児死亡率が1980年代に急に上がっている。未熟児や捨て子の比率もそうだ。黒人の子供と白人の子供の成績格差も広がった。投獄される黒人の数は3倍になった。クラックが与えた害はとても大きく,クラック使用者とその家族だけでなく,アメリカ黒人全体で平均してみても,この集団に戦後見られた進歩が急に止まってしまったばかりか,10年分も逆戻りしている。1つの原因がクラック・コカインほどひどい被害をアメリカ黒人に与えたのはジム・クロウ法以来だった。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 pp.133-134

資本主義企業と同じ構造

 言い換えると,クラック売人ギャングの仕組みは普通の資本主義企業とほとんどおんなじ:でっかく稼ぐにはピラミッドのてっぺん近くにいないとダメだ。社員はみな家族とか言ってる経営者のタテマエと全然違って,ギャングの給料は企業社会と変わらないぐらい偏っている。歩兵はマクドナルドでハンバーグをひっくり返してる人やウォルマートで棚を並べ替えてる人といろんな意味でそっくりだ。実際,J.T.の歩兵はだいたいみんな,違法な仕事のしょぼい稼ぎを補うために,まっとうな業種で最低賃金レベルの仕事もやっている。別のクラック売人ギャングのリーダーは,歩兵にもっと払ってもやっていくのは簡単だけどそれは賢いやり方ではないと語っている。「ええか,ワシの仕事を狙っとるニガーを山ほど抱えとるわけよ」と彼は言っていた。「そりゃまああいつらの面倒はみてやらんといかんけど,ボスはワシやっちゅーのをたたき込んでやらんといかんのや。まずワシがワシの取り分を取らんと,ワシはもうボスやのうなってしまう。ワシが損かぶったりしたら,あいつらワシをヘタレのクソったれじゃと思いよるからな」。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 pp.

リステリンが作りだしたもの

 広告も通念を創造するいい道具だ。たとえばリステリンが手術用の強力な消毒液として発明されたのは19世紀である。その後,蒸留したものが床用洗剤や淋病の薬として売られるようになった。しかし,大ヒットするのは1920年代になってからのことで,用途は「慢性口臭」対策だった——その頃のよくわからない医学用語だが,ようは臭い息のことだ。リステリンの新しい広告に出ているのは打ちひしがれた若い男女だった。結婚しようと思ったのに,相手の腐った息に嫌気がさしたのだ。「あんなので彼とやっていける?」きれいな女の子がそう自問しているのである。それまでは,臭い息は一般的にそこまで破壊的なものじゃなかった。でも,リステリンがそれを変えてしまった。広告研究者のジェイムズ・B・トウィッチェルは次のように述べている。「リステリンが作り出したのは,うがいよりもむしろ口臭のほうだ」。たった7年の間に,メーカーの売上高は11万5000ドルから800万ドルを上回るまでになった。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 pp.103-104

通念

 「通念(conventional wisdom)」という言葉を作ったのはウルトラ筆達者な経済学の賢人ジョン・ケネス・ガルブレイスだ。彼は通念という言葉をいい意味では使わなかった。「私たちは真理を自分に都合のよいことと結びつける」と彼は書いている。「自分の利益や幸せと一番相性のよいことを真理だと考えたり,あるいはしんどい仕事や生活の大変な変化を避けるために一番いいやり方を正しいことだと思ったりする。また,私たちは自尊心を強くくすぐってくれることが大好きだ」。ガルブレイスは続けて,経済・社会的行動は「複雑であり,その性質を理解するのは精神的に骨が折れる。だから私たちは,いかだにしがみつくようにして,私たちのものの見方に一致する考えを支持するのだ」。
 つまり,ガルブレイスの見方によれば,通念は,単純で都合がよくて居心地よさそうで,実際居心地がよくなければならない——正しいとは限らないけれど,通念は必ず間違っていると言いきるのはバカなことだ。でも,どこかで通念は間違っているかもしれないと気づいたら——いい加減な,あるいはお手盛りな考えが残した飛行機雲に気づいたら——そのあたりは疑問を立ててみるのにはいいところだ。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 p.102

知らないことを知っているから専門家

 専門家ってやつはどいつもこいつも自分の持っている情報を利用して人をひどい目に遭わせようとしてるんだって思ったなら,あなたは正しい。専門家はあなたが知らない情報を知っているからこそ専門家なのだ。彼らの作戦はとても手が込んでいて,あなたはせっかく情報を持っているのにどうしていいかわからなくなっているかもしれない。あるいは,彼らのノウハウに感動してもう楯突く気もなくなっているのかもしれない。医者に血管形成をしておいたと言われれば——最近の研究によると,血管形成には心臓発作を防ぐ効果はほとんどないようだけれど——医者が自分の持つ情報優位を利用して自分か自分の友人に数千ドルほど稼がせたなんて思わないだろう。しかし,テキサス大学サウスウエスタン医療センターの心臓内科の専門家デイヴィッド・ヒルズが『ニューヨーク・タイムズ』に語ったように,医者も,車のディーラーや葬儀屋さんや運用会社と同じ経済的インセンティブを持っている。「あなたは心臓内科医で,町で内科をやっているジョー・スミスがあなたのところに患者を送り込んできたとする。彼らに治療しなくても大丈夫だと言ったとしたら,ジョー・スミスは2度とあなたのところに患者を連れてこないだろう」。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 pp.79-80

情報の非対称性

 取引の一方がもう一方よりもたくさん情報を持っているということはよくある。経済学者の専門用語でこれを情報の非対称性と言う。私たちは,誰か(普通は専門家)が他の誰か(普通は消費者)よりもよくわかっていることが資本主義ではよくあると思っている。でも実際は,あらゆるところでインターネットが情報の非対称性に致命的な打撃を与えている。
 インターネット上では情報が通貨だ。情報を,持つ人から持たざる人へ伝達する媒体として,インターネットは素晴らしく効率的である。定期生命保険料がそうだったように,情報はあってもてんでばらばらだったりすることもある(そういうときインターネットは,数えきれないほどの干し草の山から針を次々と吸いつけていくばかでかいU字磁石みたいな働きをする)。ステッソソン・ケネディがジャーナリストもいい子ちゃんぶった社会派も検察官も誰にもできなかったことをやってのけたように,インターネットは消費者保護団体にはできなかったことをやってのけた。専門家と一般人の格差を大幅に縮めたのだ。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 p.76

インセンティブの味付け

 インセンティブの味付けは基本的に3つある。経済的,社会的,そして道徳的の3つだ。インセンティブの仕組み1つが3つとも兼ね備えていることはよくある。近年の嫌煙運動を見てみよう。1箱3ドルの「罪悪税」はタバコの購入意欲を挫く強い経済的インセンティブだ。レストランやバーでの喫煙が禁止されていることは強力な社会的インセンティブである。そしてアメリカ政府が,テロリストは闇でタバコを売って資金を調達していると主張するとき,あれは耳の痛い道徳的インセンティブになっている。

スティーヴン・D・レヴィット,スティーヴン・J・ダブナー 望月衛(訳) (2007). ヤバい経済学[増補改訂版] 東洋経済新報社 pp.21-22

再分配の意味

 この点に関して,プーショとメザールのネットワーク・モデルは概括的な教えを与えてくれる。それは,他の状況が同じであれば,「交換」を促すことが,富をより平等に分配するのに役立つというものだ。プーショとメザールは,リンクを伝わって移動する富の量を増やしたり,あるいはそのようなリンクの数を増やしたりしたとき,つねに平等性が増すことを発見した。逆に,投資の見返りに伴う変動の激しさと予測の不確実性を大きくすると,逆方向の作用が働き,平等性は減少した。後者の場合,「金持ちほどますます豊かになる」影響が増幅されるのだから,不平等性が増すことになんの不思議もない。もちろん,このモデルはきわめて観念的なものであり,社会政策に事細かな勧告を提供するためのものではない。それでも,明白なものもあればそれほど明白でないものもあるとはいえ,どのようにすれば富の分布を変更できるか,いくつかの非常に基本的な提言を与えてくれるかもしれない。
 たとえばこのモデルから,金をまがりなりにも平等なやり方で社会に再分配することを考えるなら,(別に驚くことではないだろうが)課税が財産の格差を平準化する一助となりそうなことがわかる。結局のところ,課税はネットワークに何本かのリンクを人工的に加えることと同義で,富はそれらのリンクづたいに富者から貧者へと流れていく。課税によってパレートの法則が変わることはないが,課税によって冨の分配は多少なりとも平等なものとなり,富者のパイの分け前はそのぶん小さくなる。ちょっと意外かもしれないが,プーショとメザールのモデルは,経済全体での消費の増大を目指す経済手段であれば,どんなものでも結果的には同様の富の再分配がもたらされることを示唆する。ということは,たとえば贅沢品の販売にさまざまな税を課すのは,消費を抑えることになるため,富の格差を拡大するのに資しかねないのだ。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.312-313
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

ねらいを定めた対策

 皮肉なことに,たとえばエイズについて言えば,流行を押しとどめるための妙案は,現在実施されているような大勢の人を対象にした治療や教育ではなく,少数の特定の人たちにうまくねらいを定め,特に念入りに選び抜いた対策を施すことなのだ。複雑なネットワーク理論からこのことを洞察して実地に移すのは,たしかに容易なことではないだろう。けれども,少なくともこのことを理解していれば,疫学者や保健衛生に携わる人たちは基本的な作戦と戦略が見えてくるし,それが,エイズの流行だけでなく,将来新たな病気が出現したさいにも,いい結果をもたらしてくれるかもしれない。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 p.295
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

自然世界の弱い結びつき

 種間の相互作用は,食うか食われるかの関係を通して,あるいは同じ餌や棲息地をめぐる競争を通して生じる。もし,ある捕食者が他の1種だけしか食べないのなら,その捕食者にはひたすらこの種を食べる以外に選択の余地はない。このケースでは,2種間の相互作用は強いものになるだろう。反対に,もしも捕食者が他の15の種を餌にしているのなら,どの種もときどき食べるということになる。この場合,捕食者と餌である15種とのあいだの相互作用は相対的に弱いものになるだろう。さてここで,近年の気候の変化をはじめとする偶然の要因によって,捕食者の唯一の餌であった種の個体数が著しく減ったと想定してみよう。捕食者にとって食べ物を見つけるのは難しくなるが,それでも他に取るすべはない。どんなに数が減ろうとも,その唯一の餌を探しつづけなければならず,結果として,餌としている種をますます絶滅へと追いやることになる。こうなると,捕食者の個体数も著しく減少してしまうかもしれない。このような2種間の強い結びつきは,両者の個体数に危険な変動が生じる可能性を生み出している。
 まったく対照的に,弱い結びつきなら,このような窮地におちいることはない,とマケンらは論じている。たとえば15の種を被食者としている捕食者を考えてみよう。理由はともかく,もし被食者のうちの1種の個体数が非常に少なくなれば,捕食者がごく自然にとる対応は,その被食者の数をさらに減少させることではなく,それ以外の14種に目を向けることだろう。結局のところ,他の14種は相対的に数が多いのだから,この14種は以前より捕まえやすくなる。注目する相手を変えることで,捕食者はひきつづき餌にありつけるし,絶滅の危機に瀕していた被食者のほうは個体数を回復することができるだろう。このように,種間の弱い結びつきは,危険な変動を防ぐ働きをしている。弱い結びつきは,生物群集における自然の安全弁になっているのだ。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.237-238
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

行動にいたる閾値の集合

 集団に見られる不可解な行動を前にしたとき,人がよく口にするのは,群衆が狂気に走ったり分別をなくしたりすること,つまり集団行動や群集心理である。群衆の行動を予測するのがどんな場合でもきわめて難しいのは事実だ。けれども,群衆の気まぐれな行動の背後にある理由は,少なくとも一部は,実際にはそれほど不可解なものではない。1970年代の後半にマーク・グラノヴェターは,ちょっとした数学を使って,このことを見事なやり方で立証している。
 グラノヴェターは,だれにも騒乱に加わる「閾値」があるという発想から出発した。大半の人は理由もなく騒乱に加わることはないだろうが,周囲の条件がぴったりはまったときは——ある意味で,限界を越えて駆り立てられれば——騒乱に加わってしまうかもしれない。パブのあちこちに100人がたむろしていたとして,そのなかには,手当たり次第にたたき壊している連中が10人いれば騒動に加わる者もいるだろうし,60人あるいは70人が騒いでいなければ集団に加わらない者もいるだろう。閾値のレベルはその人の性格によって,またこれは一例だが,罰への恐怖をどの程度深刻に受け止めているかによっても変わってくる。どんな状況におかれても,また何人が参加していようとも,暴動に加わらない人もいるだろうし,反対に,自分の力で暴動の口火を切ることに喜びを覚える人も,ごく少数ながらいるだろう。
 むろん,ある人の閾値を実際に判定するのはかなり難しいだろう。しかし,このことはそれほど重要ではない。理論的に考えれば,だれもがなにがしかの閾値をもっているはずだ。グラノヴェターが述べているように,この閾値とは「問題となっている行動(いまの場合なら暴動に加わること)をする個人にとって,考えられる利益が考えられる犠牲を上回る」ところである。そして興味をそそられるのは,この閾値,というよりむしろ閾値が人によって異なるという事実が,複雑で予測不能な集団の行動にどのような影響をおよぼすかである。
 具体的に示すために,パブにいる100人の閾値を0から99までとし,各人の閾値はその人特有で,同じ閾値の人はいないと考えよう。ある人は閾値1,別の人は2,さらに別の人は3という具合である。このケースでは,大きな暴動は避けられない。閾値ゼロの「過激分子」が口火を切ると,これに閾値1の人が加わり,騒乱は燎原の火のように広がっていって,最後には非常に高い閾値をもつ人までもが呑み込まれてしまう。しかし注目してほしいのは,騒乱の連鎖に加わっているたった1人の人物といえども,その性格次第で結果を微妙に左右してしまうということである。かりに,閾値が1だった人が2の閾値をもっていたとすれば,最初の人物が物を手当り次第にぶち壊しはじめても,残りの人々はただたむろして眺めているだけで,警察を呼ぶことすらしたかもしれない。だれも2番手になって騒ぎに加わろうとしなければ,連鎖反応は生じようもない。
 このようにたった1人の人物の些細な性格のちがいでも,集団全体に大きな影響をおよぼすことがある。けれどもグラノヴェターが述べているように,もしこのような2つの種類の事件を報道する新聞があったとしても,その微妙なちがいを区別することはしないだろう。区別するなら,最初の事件は「過激な連中が放埒な振舞いに加わった」という記事になり,もう一方の事件の記事は「厄介者が狂ったように窓ガラスをたたき割っているのを,分別ある市民たちのグループはじっと見ていた」となるだろう。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.167-168
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

べき乗則と自己相似性

 べき乗則は,河川のネットワークのどこか一部をとって拡大すれば,そこに全体と非常によく似たパターンが現れることを意味している。言いかえれば,河川のネットワークは見かけとはちがって,それほど複雑ではないのだ。無数に生じる偶然の出来事のために,河川のネットワークはどれもその水系特有のものになっているだろう。それにもかかわらず,あるスケールで進行していることは,別のスケールで進行していることと,どんな場合でも切っても切れない関係にある。河川のネットワーク構造の背後に単純性が隠れていることを示しているこの特徴は,「自己相似性」と呼ばれており,河川のネットワークに見られるような構造を「フラクタル」と言うこともある。べき乗則の真の重要性は,なんの意図ももたない偶然によって左右される歴史の過程のうちにすら,法則にも似たパターンが生じる場合があることを明らかにしてくれる点にある。自己相似性という性質をもつがゆえに,河川のネットワークはどれもみな似たものになっている。歴史や偶然は,法則にも似た規則性やパターンの存在と,なんの矛盾もなく両立できるのである。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.159-160
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

スモールワールドの利点

 迅速で効率的な信号の伝達は,スモールワールドの構造がもたらしてくれるもっとも単純かつ明白な利点である。けれども,もう1つ別の利点がある。マーク・グラノヴェターが指摘したように,社会のネットワークでは,親友の集団内で絆が緊密に集まっているということは,たとえそのうちの数人がネットワークから離れても他の人たちはまだ密接なつながりを保っていることを意味する。別の言い方をすれば,クラスター化したネットワークでは,1つの要素の喪失が引き金となってネットワークの劇的な崩壊が起こり,つながりのないバラバラの断片になってしまうことはないのである。脳の内部でもこうした組織的構造が有効な役割を果たしているかもしれないと考えられる。というのは,ある特定の部位が損傷を受けたり破壊されたりしても,信号を駆けめぐらせて他の部位と協調する能力にはほとんど影響が見られないからだ。たとえば,ブロカの中枢に損傷を受けた患者は人が話す言葉を理解することはできないが,聞き取ることは完璧にできるし,計算や将来の計画の立案をなんの苦労もなくおこなうことができる。もしも,この部位へのダメージによって,たとえば視覚野と海馬との連絡も断ち切られてしまうとか,あるいは,少なくとも信号がある部位から他の部位に行くのに長い距離を通らざるをえなくなってしまうのなら,視覚情報の短期的億も損なわれてしまうだろう。スモールワールドの構造形式は,このような事態になるのを防いでくれているように見える。スモールワールドの構造のおかげで,脳は効率的で機敏なだけでなく,欠陥をものともしない能力も獲得したのだ。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.100-101
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

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