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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ランダム・リンク

 規則的なネットワークの中で暮らしていて,離れた2つの地点AとBのあいだを移動したいと考えているとしよう。残念ながらこの場合は,しんどくても1歩ずつ進んでいくしかない。結局のところ,規則的なネットワーク内のリンクは近い位置にある点どうしを結んでいるだけで,離れた2点間をつなぐ短絡路(ショートカット)や架け橋(ブリッジ)はいっさい存在しない。けれども,ランダム・リンクを何本か入れてやると,このネットワークの性質は変化する。たまたま,新しく入れたリンクのうちの数本が遠く離れた2地点のあいだに延びていることもあるだろう。遠方への旅をしなければならないとしても,今度は一種の長距離高速道路を利用して旅の苦労を取り除くことができるし,高速を下りたあとは,短い距離を何段階かたどれば正確な目的地に到着することができる。
 そこで,世界の全人口,60億の人からなる円周に戻ることにしよう。ここではだれもが,直近の50人の隣人とつながっている。この規則的なネットワークの隔たり次数はざっと6000万だ。これは,1回に50人分移動したときに,60億人からなる円周を半周するのに要する回数に等しい。しかしながら,数本のランダム・リンクを入れると,この数字は急激に小さくなる。ワッツとストロガッツの計算によれば,新たに入れたランダム・リンクの割合が1万本につき2本でも,隔たり次数は6000万から約8に下がる。もし1万本につき3本の割合なら,5まで下がる。一方,ランダム・リンクがこれくらい少なければ,社会のネットワークならではの構造を作りだしているクラスター化には目立った影響は生じない。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.82-83
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)
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実際に弱い絆は役に立つ

 さて,橋渡しをする弱い絆が社会のネットワークにおいてきわめて重要なら,弱い絆は人脈を作るうえでも決定的に重要と考えられるかもしれない。仕事を探しているとき,親友に話したほうがうまくいく公算が大きいだろうか?それとも遠い知り合いに話したほうがいいのだろうか?有能な社会学者グラノヴェターは,答えをあれこれ考えるだけでは飽きたらず,答えを見つけるための独創的な調査方法を考案した。彼は縁故によって最近職を得た多数の人に聞き取り調査をした。それぞれのケースについて,彼らがどのようにして仕事を見つけたのかを尋ね,さらに,雇い主にコネをつける仲立ちをした縁故者とどんな関係だったのかを調べた。素朴に考えれば,強い縁故のほうが重要なはずだと思うだろう。なんといっても,友人のほうが人となりをよく知っているし,しょっちゅう会ってもいるし,親身になって助けてくれるからだ。
 けれども,グラノヴェターの聞き取り調査では,対象者のうちの16パーセントが「しょっちゅう」会っている人のつてで仕事を得たのに対し,84パーセントの人は「時たま」あるいは「ごくまれに」しか会わない人のつてで就職していた。職を得た人たちがネットワークに送りだした情報——私は仕事を探していますという意思表示——は,強い絆ではなく,むしろ弱い絆を通って伝わっていくことで,より効果的に,そしてより大勢の人に広がったらしい。このことはかなりはっきりと説明できるように思われる。親友に打診するのはたしかに簡単だが,ニュースはあまり遠くには広がらない。親友たちは互いに共通の知人をもっているから,彼らの多くはすぐに,そのニュースを2度3度と聞くことになるだろう。しかし,自分が何を必要としているかを,たとえば遠くにいて1度も会ったことのない親戚など,あまり親密でない知人に広めれば,少なくともそのニュースはより広くいきわたる可能性がある。ニュースは自分が属す社会集団を閉じこめている境界を越えて流れ出し,きわめて大勢の人々の関心をひくのだ。「個人の観点からすれば,弱い絆は重要な財産なのである」とグラノヴェターは結論している。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.65-66
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

弱い絆がポイント

 グラノヴェターが取り上げたいちばんのポイントは,不可解に思えても非常に重要だ。社会の架け橋は社会のネットワークを1つにつなげるうえできわめて大きな力となるから,架け橋になっているのは強い絆,たとえば親友間の絆のはずだと思うかもしれない。しかしすでに見たように,強い絆はこの点に関してはほとんどの場合,まったく重要でない。なくなってもたいして影響はないのだ。事実は正反対で,架け橋となるのはほとんどどんな場合でも弱い絆である。グラノヴェターは単純な論理のもつ鋭い刃先を巧みにあやつって,驚くべき結論に到達することができた。すなわち,強い絆よりも弱い絆のほうが重要性をもつ場合が多いのは,弱い絆は社会のネットワークを縫い合わせるうえで不可欠な紐帯の役割をしているからだというのである。弱い絆は社会の「近道」で,これらが失われてしまうとネットワークはバラバラに崩れ落ちてしまうだろう。「弱い絆の強さ」は,グラノヴェターのきわめて重要な1973年の論文の絶妙なタイトルになっている。論文の中心をなす考え方は不思議な印象を与えるが,実世界の状況に置きかえれば直観的に理解できるようになる。
 だれでも,家族や仕事の同僚,友人などとは強い絆で結ばれている。かりにこれらの人々とのあいだの直接の絆の1つがなくなっても,他の人たちとはまだ共通の友人や家族の別のメンバーなどを通じて短い道筋でつながっているだろう。したがって,個人的なレベルでは交友関係がどれほど重要なものであろうと,また,その交友関係がその人の社会的な活動にどれほど大きな役割を果たしていようとも,そのような強い絆がきわめて重要な社会の架け橋となり,社会のネットワークを1つに貼り合わせる接着剤の役割をしているとは考えられない。他方,めったに顔を合わすことも連絡を取り合うこともない知人もいるだろう。たとえば大学の同窓生で,当時もそれほど親しくなかった人たちである。こうした人たちとのつながりは弱い絆ということになる。10年前の夏にいっしょに仕事をした男性が,いまはオーストラリアのメルボルンの水産会社で働いているなら,こちらから見れば,彼はすべての面で異なる社会的世界で活動していることになる。この男性との絆が社会の架け橋になるかもしれない。男性とは2,3年に1度,手紙をやりとりする程度かもしれない。しかし,もしこのかすかなつながりが壊れてしまえば,お互いの消息を聞くことも,思いがけず再会することも2度とないだろう。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.62-63.
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

1人が24人を知っていれば

 ここで見えてきたことのなかに,地球全体の社会的ネットワークの性質に関する注目すべきヒントが1つある。少なくとも考え方としては,中間に介在するリンクをどうたどってもつながらないペアが何組か存在するとしてもおかしくはない。ウズベキスタンのジャガイモ売りとエクアドルのコーヒー農園の労働者を取り上げてみよう。たとえ長く込みいった交友関係の連鎖を通してであっても,この2人がつながっているとほんとうに確信していいのだろうか?エルデシュのグラフ理論からすると,答えはイエスのように思われる。結局のところ,60億の人々からなるネットワークの場合,エルデシュの計算が与える重要な比は,ほぼ0.000000004,つまり約10億分の4なのだ。
 この数字は,もしも人々が事実上ランダムにつながっているのなら,世界のすべての人が完全に結合した社会の網構造でつながっているためには,基本的には1人がほぼ2億5000万人に1人の割合でだれかを知っていればいいことを意味している。つまり,1人が24人を知っていればいいのだ。これはけっして多い数字ではない。常識の範囲で知り合いを定義すれば,たぶんほとんどの人には優に24人を超す知り合いがいるだろう。したがって数学的には,世界じゅうのどんな2人でも,介在する社会的つながりをたどればつながってしまうのは少しも不思議ではない。エルデシュがもたらした輝かしい成果は,このことをもう少しで証明できるところまできている。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 p.52
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

道路が何本必要か

 発展途上国で町と町を結ぶ道路建設の仕事を任されたと想像してほしい。引き受けた時点では道路は1本もなく,ただ50の町が孤立した状態で地図全体に点在している。これらの町を連結するのが仕事なのだが,ことはそう簡単ではない。いくつかの制約にも直面している。まず,たとえ場所を正確に指定して道路の建設を要求しても,およそ無能な道路局は無視するばかりで,どこか別のところ,行き当たりばったりで選んだ2つの町のあいだに道路を造ってしまうかもしれない。要求すれば道路は建設されるのだが,どこにできるかはいっさいわからないのだ。
 さらにわるいことに,この国は資金にきわめて乏しく,そのため建設する道路の本数は可能なかぎり少なくしなければならない。したがって問題はこうなる。最低,何本の道路があれば十分か?財源の制約がなければ,2つの町がすべてつながるまで道路の建設をつづけるよう道路局に命じることもできるだろう。その場合,50の町すべてが他の49の町と道でつながるためには,1225本の道路が必要になる。だが,どの2つの町であろうと,道から1度もはずれることなくほぼ確実に車で行けるようにするには,最低で何本の道路を造ればいいのだろうか?
 これは,グラフ理論ではもっともよく知られた問題の1つである。もちろん,必ずしも町と道路の必要はない。家と電話回線,人と人との交友関係,ひもでランダムにつながれた犬の群れなど,他にもいろいろな形で表すことができる。基本的な問題はどれも同じだが,問題を解くのはけっして簡単ではない。だから答えがわからなくても気にする必要はない。実際,この難問を解くにはポール・エルデシュ並の才能が求められるのだ。ちなみに,エルデシュが解いたのは1959年のことで,大多数の町を確実に結ぶには,98本の道路をランダムに配備すれば十分なことがわかったのである。98本はかなりの本数のように思えるかもしれないが,50の町のあいだに建設可能な1225本の道にリンクを張るのは,思ったほど非効率的ではないのだ。

マーク・ブキャナン 阪本芳久(訳) (2005). 複雑な世界,単純な法則:ネットワーク科学の最前線 草思社 pp.50-51
(Buchanan, M. (2002). Nexus: Small Worlds and the Groundbreaking Science of Networks. New York: W. W. Norton & Company.)

科学には努力が必要

 科学的知識の収集が特別だというのは,それが私たちの自然な直観から逸脱しているというだけではない。それに要する特別な種類のコミュニケーション——ある人間の心がどうはたらくかだけでなく,ほかの人間の心が伝えられた情報に対してどう反応するか——もそうである。科学の発展は,きわめて奇妙な形の社会的相互作用によってもたらされる。そこでは,私たちの動機づけシステムのいくつか(不確かさを減らしたいという欲求,ほかの人々を唸らせたいという願望,そして創意工夫に富んだ美の魅力)が,進化的背景に合ったものとはまったく異なる目的のために用いられる。言い換えると,科学の営みは,認知的にも社会的にも,きわめてありそうもないものであり,これこそが,科学が少数の人間によって,限られた数の地域において,そして人間の長い進化の歴史にあってはほんのごく最近になって発展した理由である。哲学者のロバート・マコーリーは,これと同じような論拠に立って,人間の心にとって宗教が「自然」であるのに対し,科学はまったく「不自然」だ,と結論している。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.417-418
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

純化した宗教は宗教的か

 こうした対立を回避するもうひとつの方法(一部の科学者の間ではとりわけポピュラーだが)は,純化した宗教を作り上げるというものである。その形而上学的教義は,宗教的概念のいくつかの側面(創造する力というものが存在し,私たちはその力を知るのが難しいが,その力こそがなぜ世界がいまあるようにあるのかを説明する,など)を救うが,不都合な「迷信」(たとえば,神様は私の話すことを聞いてくださっている,人は自分のおかした罪への罰として病にかかる,儀式を正しく執り行うことがきわめて重要だ,など)のすべての痕跡を消し去ってしまう。そのような宗教は科学と両立するだろうか?もちろん両立する。というのは,それがまさにその目的のために作られているからである。しかしそれは,私たちが通常宗教と呼ぶものになりうるのだろうか?まずなりえない。人々は,社会の実際の歴史において,実際場面での認知的理由から宗教的思考をしてきたのだ。これらの宗教的思考は,あるはたらきをする。死や誕生や結婚といった状況について適切な説明を生み出すのである。そういった人間的な目的や関心事に手を汚さない形而上学的「宗教」は,エンジンのない自動車のような市場価値しかない。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.416-417
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

宗教 vs. 科学

 知識について考えてみよう。宗教 vs. 科学の論争が西洋において特別の展開を見せたのは,宗教が教義的であっただけでなく,独占的でもあったからである。それは,事実の経験的主張に干渉するという大きな誤りをおかし,宇宙や生き物についてのきわめて厳密で,杓子定規で,表向きは説得力をもったたくさんの主張をし,それらが神の啓示によって保証されているとした。しかし,私たちはその主張が誤りだということを知っている。キリスト教は世界で起こることについて独自の記述を与えようとしてきたし,一方,現在では,それとまったく同じ話題について科学的説明がなされており,どの話題についても,科学的説明のほうがすぐれていることが判明している。キリスト教はこれまでどの闘いにも敗れ,しかもそれは完全な敗北だった。当然,このことはキリスト教にとっては都合が悪い。明らかに,一部の人々は,起こったことを公然と無視し,聖書に書かれてあることが真の地質学的知識と古生物学を教えてくれるという空想の世界に暮らしている。しかし,これには努力がいる。信者の多くは,免責条項——宗教は科学では答えられない疑問をあつかう特別な領域である——を好む。これはしばしば,宗教が世界を「より美しく」,「より意味のある」ものにするのだという,あるいは宗教は「究極の」疑問を厚あつかっているのだという,決定的に曖昧な通俗神学の基礎になっている。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.416
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

個性への理解欲求

 私たちは,「なぜあの人はほかの人にとってはどうでもいいような宗教的信念をもっているのか?」という問いについて明確で意味のある答えを欲しがる。なぜかと言えば,私たちは(心理学者や人類学者のみならず,一般の人々も),個人差に多大の関心を寄せているからである。さらに,私たちは生まれながらに個人差に注意が向くようにできている。他者との相互作用はきわめて重要であり,相互作用は相手の性格にある程度依存している。(だから,大学の心理学の新入生のほとんどが,科学的な心理学の話題——たとえば,なにがヒトを冷蔵庫や牡蛎やゴキブリやキリンやチンパンジーと違ったものにするのか——よりも,なにがあなたと私の違いを生じさせるのかといった,性格の理論や知見に大きな関心を寄せるのだ。)なにがそれぞれの人を個性的にするのかを理解したいというこの強い欲求は,世界中のいたるところの世間話のなかで,多くの熟慮と憶測と私的な仮説検証の原動力になっている。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.413
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

私たちの見方の誤り

 言い換えると,認知機能についてわかっていることから示唆されるのは,宗教的信念についての私たちの一般的な見方にはまったく誤っている面がある,ということである。私たちは,ある明示的決定(「先祖がそのへんにいる」や「全知の神がいる」)が最初に来て,その決定が人々が特定の状況を理解するのを助けると仮定する。しかし,日常的な場面と同じく,宗教的な場面でも,いくつかの心的システムがこれらの一般的家庭に照らすと意味をなす直観をすでに与えている。それゆえ,特殊な状況の解釈を生み出したり,これからどうするかを考えたりするために(すでにそのなかに神や先祖が含まれている),先祖や神の存在を考える必要はない。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.408-409
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

特殊な例を調べても分からないかもしれない

 だが,研究として,これは見込みある方向だろうか?そうした研究は,なぜ宗教があるのか,そしてなぜそれがいまあるような宗教なのかについて理解を深めてくれるだろうか?私は,脳を調べてそのはたらきがよく理解できるようになれば,多くのことがわかるようになるとは思う。しかしそれは,自分たちが理解しようと思っているものがなにかを知っているという前提に立てばのことであって,この場合にはそれがはっきりしているとは言いがたい。アナロジーで考えてみよう。どのようにして脳のなかのプロセスが私たちにすぐれた投擲能力を与えてくれるのかを理解したいとしよう。ほかの大部分の動物種と比べて,ヒトは,目標めがけてものを投げるのがとりわけよくでき,しかも命中率にすぐれ,訓練しだいでその能力を高めることもできる。確かに,アーチェリーやダーツ投げのチャンピオンの技は驚異的だ。ここで,この能力について,ヒトとチンパンジーの投擲能力の差を説明しようとする場合,チャンピオンだけを調べるだろうか?チャンピオンがどのようにしてそれをやってのけるかはもちろん興味深いが,ここでの問題はそういうことではない。(親になったことのある人ならよく知っているように)子どもはみな,幼い頃からある程度ものを投げることができることから,チャンピオンの驚異的能力もこの共通の能力に由来するのは間違いない。明らかに,幼児の目と手の動きの精妙な連動を生み出すのは,チャンピオンの技ではない。
 ウィリアム・ジェイムズや彼に続く多くの人たちは,宗教はこれとは逆にはたらくと考えた。すなわち,何人かの非凡な人々が宗教的概念を作り上げ,一般大衆がそうした概念を俗化させるのだという。この見解によれば,見えざる超自然的行為者,死後も存在し続ける魂,妖術師に遠くから操られる意識をもたないゾンビ,バナナの葉に乗って飛び回る特別な臓器といった概念はまず,強烈な体験をした何人かの有能な個人によって生み出され,それからそれが説得力をもち,心をとらえるものであったがゆえに,ほかの人々もそれらの概念(より穏やかになり,体験的色彩も薄まっているが)をもつようになったのだ,という。
 しかし,この説明は誤りをいくつか含んでいる。第一に,ほとんどの宗教的概念では,こうしたことが起こったという証拠はない。私たちの知るかぎりでは,胃にエヴールがついている人もいるというのは,霊感豊かなファンの予言者が言い出したのではなく,人々どうしが不思議な話を何千回となく話すうちにしだいに洗練されていったのだろう(ちょうど都市伝説や,流布する噂がしだいに一定の形をとるように)。しかし,なんらかの新しい種類の宗教的概念を考え出すような場合でさえ,人々がすでにそうした概念の形成を助けるすべての認知的装備をもっていないかぎり,それらの特殊な概念が意味をもつことはないし,影響を与えることもないはずである。たとえ予言者が新しい宗教的情報の主要な発信源だとしても,予言者でないふつうの人々の心がその情報を特定の宗教に変える必要がある。私たちは,たとえば,アフリカの混淆宗教で霊感に打たれた新たな予言者が説くように,伝統的な先祖とキリスト教の天使とが同じ人物だと主張することもできる。しかし,これが意味をもつためには,人々が見えざる超自然的行為者をイメージするという傾向をあらかじめもっていなければならない。例外的な人々を研究することでは,宗教がなぜ広まるのかがわかるようにならない理由は,これである。だが,宗教が通常の認知能力からどのように生じるのかを考えることによって,宗教全般についても,また予言者やほかの宗教的天才能力者についてもよくわかるようになる。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.402-403
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

宗教は特別な体験ではない

 この推理——(a)宗教は特別だ,(b)宗教を特別なものにしているのは体験である,(c)並外れた人々は一般の人々よりも純粋な宗教的体験をもっている,(d)一般的な宗教は,そうした体験の強烈さが失われた,希釈されたものにすぎない——は,ジェイムズの心理学だけのものではない。実際それは,宗教についてのきわめて一般的な考え方である。この考え方は,多くの人々に,宗教的な考えについてのすべての議論が誤っており,概念に対する誇張された関心は西洋特有のバイアスだという印象を与える。仏教やそのほかの東洋思想に特別な関心を抱いている多くの西洋人は一般に,それらの価値が議論よりも体験に焦点を当てている点にある,と思っている(ちなみに,ここには皮肉な思い違いがある。結局のところ,大部分の東洋的な教えはおもに,個人的な体験そのものについてというよりも,さまざまな儀礼や専門的な正しい修行のしかたについてのものである。これらの教えの一部には確かに主観的体験を強調しているものもあるが,それらは,西洋の哲学(とりわけ現象学)の影響を強く受けているようだ。したがって,西洋哲学に幻滅した西洋人がそれらに魅力を感じるのは,自分たちの西洋哲学の残響に聴き入っているだけなのかもしれない。)こうした仮定は広く見られ,これこそ,神秘体験者や熱狂的信者に,彼ら特有の体験,その体験の特徴,ほかの思想との関係などについて尋ねれば,宗教について多くのことがわかるように思える理由である。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.400
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

確実な信念から遠ざけるバイアス

 実際のところ,状況はこれよりももっと悪いかもしれない。何世紀もの間,哲学者たちは,心の管理のこうした失敗が人々をおかしな信念に導くと述べてきた。しかし,心がどのようにはたらくかを解明するために,哲学者たちがもっていた道具は,内省と推理だけだった。心理学者たちがこれらの道具を実験でおきかえてはじめて,明快で確実な信念から私たちを遠ざけるようにさせる,一連の心的プロセスが発見された。たとえば,次に挙げるものだ。

・多数意見(コンセンサス)効果 人は,ある光景を見た時に,その印象を他の人が述べることに合わせる傾向がある。たとえば,ある顔を見た時に,怒りの表情として感じても,まわりの人々がその顔を軽蔑の表情として見ているのなら,それが軽蔑の表情に見えると言ってしまう。
・誤った多数意見効果 多数意見効果とは逆に,ほかの人々も自分と同じ印象をもっていると誤って思ってしまう傾向のことを指す。たとえば,ある光景を見た時に,その光景を見たほかの人々も自分と同じような感情を抱いていると思ってしまう。
・生成効果 自分が生成した情報は,見たり聞いたりしただけの情報よりもよく記憶されている。特定の光景を思い浮かべて自分から報告した細部は,実験者から指示された細部よりも,あとでよく思い出せる。
・記憶の錯誤 実験心理学者にとって,偽の記憶を作り出すことは簡単にできる。この場合に,人は,実際には想像した項目であるにもかかわらず,見たり聞いたりしたと直観的に思ってしまう。同様に,自分が特定の行為をしているところを何度も想像するうちに,その行為を実際にしたという錯覚が生じる。
・情報源のとり違え 特定の状況におかれると,情報源について混同することがある(自分の推論だったのか,それともほかのだれかの判断だったのか?聞いたのか,見たのか,それともなにかで読んだのか?)これが,その情報の確かさの評価を難しくする。
・確証バイアス いったん仮説をもってしまうと,それを確証するように見える肯定的な事例に気づきやすくなり,そうした事例を想起しやすくなる。逆に,否定的な事例には気づきにくくなる。肯定的な事例はその仮説を思い出させ,証拠とみなされる。否定的な事例はその仮説を想起させず,したがって証拠とはみなされない。
・認知的不協和の低減 人は,以前の信念や印象の記憶を,新しい経験に照らして再調整する傾向がある。もし新しい情報がある人物の印象を形成するなら,たとえ以前の判断が実際にはそれと逆であっても,自分が最初からその印象をもっていたと思う傾向がある。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.390-391
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

宗教的信念に努力は不要

 宗教的信念をもつには,それほどの努力は必要でない。驚くほど強力な超自然的行為者が自分たちを見ていると思うキリスト教徒も,妖術師がバナナの葉に乗って空を飛んでいると言い張るファンの人々も,ふつうは,そのことを確信するために,懸命に努力する必要はない。これが,なぜ懐疑論者が信念を一種の心的怠慢として見ることがあるのかという理由である。なぜ人々が超自然的存在を信じるかと言えば,それは,彼らが迷信深く,感情に迷わされやすく,心がバランスを欠いていて,純朴で,確率というものがわからず,科学的な素養がなく,文化に洗脳されていて,受けとった知識を疑うだけの能力をもっていないからである。この見方では,人々が信じるのは,彼らが不適格な,あるいは正当性に欠ける考えを却下できない(あるいはそうするのを失念している,そうする時間がない,したくない,あるいはたんにできない)からである。もし人々が次に挙げるような心の管理の常識的原則を一貫して用いるなら,信仰は消え去るはずである。

・明確で正確な思考だけを相手にせよ。
・首尾一貫した思考だけをせよ。
・主張を受け入れる前に,それを支持する証拠を検討せよ。
・反証可能な主張だけを相手にせよ。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.388-389
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

原理主義とは集団の維持

 要約すれば,原理主義とは,過度の宗教でもなければ,偽装された政治でもない。それは,離脱の代価が安く,それゆえ離脱が起こりやすく,特定の種類のヒエラルキーが脅かされているように感じられた時に,連帯にもとづいてそれを維持しようとする企てなのだ。脱走兵に対し軍法会議がより寛大になったら,そしてそれが戦線の兵士たちの知るところとなったら,潜在的な脱走兵に対する不法な迫害と処罰が自然発生的に起こり,それは,より過激で,見せしめの色彩が強いものになるだろう。同じ心理メカニズムが,なぜ一部の人々が宗教的連帯において極端な暴力にいたるのかを説明するかもしれない。そこに関与している心的システムはあらゆる正常な心に存在するが,歴史的条件は個別である。これこお,このプロセスが必然ではない理由である。すべての宗教的概念が民族集団の徴を生み出すのに用いられるわけではないし,民族集団のすべての徴が連帯の信号として用いられるわけでもない。すべての連帯が代価の安い離脱を抱えているわけではないし,内部にそうした脅威をもった連帯のメンバー全員が離脱の代価を引き上げることによって反応するわけでもない。実際,その代価がひじょうに高いものになるという事実から明らかなのは,これらの集団が,民衆の感情が自分たちのほうを向いているわけではないということを自覚しているということだ。残念ながら,このことは,結束が十分に強い連帯の場合には,政治的支配の障害にはならない。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.383-384
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

ステレオタイプは結果

 しかし,サイダニアスとプラットーは圧倒的な量の証拠を集め,支配にはステレオタイプ以上のものがあること,ステレオタイプは原因ではなく結果だということを示している。実際彼らは,多くの行動が,自分の集団とともにいたいとか,自分の出自集団をひいきにしたいという欲求に由来するだけでなく,ほかの集団を低い地位にしたまま自分自身の集団をひいきにしたいという欲求にも由来することを示している。人種的なステレオタイプは,ほかの集団のメンバーが真に危険であり,自分たちの集団の連帯の利益を脅かすという直観を解釈するために生み出された表象のひとつである。明らかに,連帯の構造を理解できない理由のひとつは,それらが時に私たちの道徳的基準と矛盾するということである。このことは,なぜ多くの人々が人種差別主義をきわめて効率的な経済的戦略の結果としてよりも,不幸にも方向を誤った概念の結果として考えたがるのかをおそらく説明するだろう。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.375-376
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

集団メンバーの自覚

 社会心理学でもっとも確かで有名な発見のひとつは,人々を集団に任意に割り振っただけで,集団のメンバーであるという自覚や強い連帯感がきわめて容易に作り出せる,ということである。必要なのは,参加者を組に分け,彼らを,たとえば,「青組」と「赤組」と指定することだけである。集団を指定したら,メンバーになんらかの些細な仕事(どんな仕事でもよい)を自分の組の仲間たちとさせる。短時間のうちに,ほかの人たちよりも自分の集団のメンバーに対して,より好感をもつようになる。魅力,公正性や知性についても,自分たちの集団がすぐれていると感じるようになる。ほかの集団のメンバーをだましたり,暴力をふるうことさえも,いとわなくなる。たとえ参加者全員が組の分け方が恣意的だと完全にわかっている時ですら,そしてそれが明示されている時ですら,そうした感情をもたないようにすることも,集団のメンバーになんらかの隠れた本質的な特徴があると考えないようにすることも,困難なようである。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.372
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

読み書きの影響

 人類学者のジャック・グディによれば,読み書き能力は異なる認知スタイルを生じさせる。読み書きをするということは,文字化されたテクストが外部記憶として用いられるという点で,認知的操作を変化させる。たとえば,読み書きによって,計算の途中結果を覚えておく必要のある複雑な数学的演算も可能になる。特定の要点を証明する要素をたくさん書き記すこともできるので,緻密な議論が可能となる。さまざまな概念構造を目に見える形で考えることもできる。このようなにどの点から見ても,読み書きの「メモ帳」の側面は,その長期的「保持」の機能と同じぐらいに重要である。
 文字化された宗教の特徴のいくつかから,この解釈は支持される。たとえば,ユダヤ教の613の戒律(ミツヴァー)や,シュメールやエジプトのテクストに記録された何千もの前兆を列挙するには,明らかに読み書き能力が必要である。複雑な神学,何千もの異なる状況についての儀礼的規定,さまざまな賢人の言行録,神託や道徳的規則の編纂物など,これらはみな,データを貯蔵し引き出すために文字を用いたことの副産物である。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.363
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

儀礼は社会的効果を生み出すという錯覚を作りだす

 儀礼は社会的効果を生み出すのではなく,生み出すという錯覚を作り出すにすぎない。人は,儀礼を行なう時,なんらかの儀礼的小道具(感染予防システムを作動させるので容易に獲得される)と特定の社会的効果(人はそれについて直感はもつが,有効な概念をもたない)とを結びつけ,一組にする。社会的効果についての思考と儀礼についての思考とは,それらが同一の出来事についてのものなので結びつく。こうして人は自然に,儀礼が社会的効果を生み出すと錯覚する。
 この錯覚は,次のような事実によって強められる。それは,ほかの人たちが特定の儀式を行うのに,自分は行わないのは,多くの場合社会的協力からの離脱になる,ということである。たとえば,いったんある儀礼(加入儀礼)を男性同士の完全な協力に結びつけ,別の儀礼(結婚式)を配偶者選択に結びつけると,その儀礼を行なわないことは,ほかの人々と同一の社会的協定に加わることを拒否したことになる。みなが自分が隠し隔てのない信頼できる人間であることを家の窓を開け放すことで示しているところでは,カーテンを閉めているのは非協力の明白な信号になる。それゆえ,儀礼はその効果にとって不可欠であるという錯覚は,人間社会一般を考えれば真実ではないにしても,当事者にとってはきわめて現実味を帯びている。というのは,彼らは,規定された行為を行なう(それを行うこと自体がその儀礼が必要だということを確証するように見える)か,ほかのメンバーとの協力から離脱する(これはほとんどの人間集団では現実には選択肢にならない)かのどちらかを選択しなければならないからである。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.332-333
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

私たちが優れたゲーム理論家ではない理由

 なぜ私たちはみなすぐれたゲーム理論家ではないだろう?なぜ,意識せずに正確な計算を行っているということがわからずに,曖昧な概念(この人は「好ましい」,この集団は「友好的」だ)をもつのだろう?推論システムで行われていることが意識できないのには,いくつかのもっともな理由がある。第1に,私たちの心的システムは強い動機づけを生み出すように設計されており,感情という価値の報酬を私たちにもたらすことでそれを成し遂げる。もしそれが強い感情的な経験でなければ,私たちは,理想的な配偶者を選ぶのに多大な努力と資源を投資したりはしないだろう。感情は,選択を誤ったらどうなるかという抽象的な記述よりもずっと容易に,私たちを正しい方向に駆り立てる。第2に,私たちの推論システムはきわめて複雑である。理想の配偶者を選んだり,大きな会社のなかで信頼できる協力者を選ぶのがかなり難しいのは,抽象的な「適切な人」などというものがないからである。それは,もっぱら文脈——自分がなにを必要とし,なにを提供しなければならないか,ほかの人たちがなにを必要とし,なにを提供してくれるか——に依存し,これらの変数の変化にともなって,すべてが変化する。膨大な数の関連する手がかりに注意し,たえずその重要性を評価することは,反応が鈍く慎重な私たちの思考にとってあまりに複雑すぎる。そして,社会的相互作用のための私たちのシステムは,国家,企業,団体や社会階級のような巨大な集団や抽象的な制度を背景に進化したのではない。私たちは,狩猟採集の小さな集団として進化した。そしてそのような生活が,私たちの社会的心という特別な特徴を発達させたのである。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.325-326
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

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