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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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本来とは別の場面で機能する能力

 おそらく間違いは,人間の心に特有の能力や傾向が,手順の規定された儀式があらゆる人間集団に存在することを説明すると仮定したことである。これまで何度も述べたように,多くの文化的創造物——視覚芸術から音楽,皮なめし職人の低い地位,遺体への強い関心にいたるまで——がうまくいっているのは,それらがさまざまな心的能力を作動させたからである。そうした心的能力のほとんどは,本来それとは異なるきわめて明確な機能をもっている。言い換えると,多くの文化は,注意を引きつける大きな力と人間の心にとって大きな重要性をもつ適切な認知的小道具からなるが,それは人間の心の現在の編成のしかたの副産物である。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.307
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)
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人間の心は物語的心

 人間の心は,物語的心あるいは文学的心だと言える。すなわち,心は,まわりの出来事を,いかに些細なことであれ,因果的な物語——つまり,個々の出来事が別の出来事の結果であり,あとに続く出来事への道を開くような連鎖——によって表象しようとする。しかし,物語への衝動はさらに核心にまでおよぶ。それは,私たちのまわりで起こるすべての出来事についての心的表象のなかに埋め込まれている。さらに,人間は生まれついての計画者である。私たちの心のなかは,何が起こりうるか,ああしないでこうしたらどんな結果になるか,ということで満ちている。このような切り離された思考をもつことは,ほかの動物種よりもはるかにうまく長期的なリスクの計算を可能にするので適応的な特徴と言えるだろう。しかしそれらはまた,私たちが実際の経験よりもはるかに多くの致命的状況を表象しており,死の予期が私たちの心的生活においてきわめて頻繁に登場する特徴である,ということも意味している。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.267
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

エイリアンと宗教性

 だが,セイラーとジーグラーが指摘しているように,これは,私たちが通常知っているような宗教にはあまり似ていない。エイリアンが実在し,政府がその事実を驚くほど巧みに隠蔽していると,多くの人々が受け入れているように見えるけれども,エイリアンに向けられた特別な儀式はないし,その信念がほとんどの人では深い情動反応や行き方の変化を引き起こすこともなく,自分たちだけがエイリアンを信じているからよりよく生きられるのだといった偏狭な考えを生じさせることもない。さらに,ここで私がつけ加えたいのは,,一般的なエイリアンのイメージからすると,彼らは(私の定義した)戦略的知識をもつ者としては記述されていないということである。すなわち,エイリアンは高度な物理学や科学技術の知識をもつ知的存在とされてはいるが,それは,「彼らは妹が私に嘘をついたことを知っている」や「彼らは私が正直に確定申告をしたことを知っている」といった推論を引き出すようには見えない。信者がエイリアンの訪問の「証拠」を得て表象するやり方は,個々の人間の行動とはなんの関係もないように見える。
 これとは対照的に,少数ながら,エイリアンを神や霊と同じように表象している人たちがいる。あるカルトでは,エイリアンがなにを知っていて,なにを欲しているかは,その人の生活に大きな影響をおよぼしている。人になにができるか,どのようにそれをするか,その人の生き方や考え方はみな,エイリアンについての考え方によって特徴づけられる。これが起こるのはふつう,ある印象的な人物が信者たちを,彼(女性であることはまれだ)が宇宙からのこれらの訪問者と直接会ったと信じさせ,それらの訪問者が戦略的情報を知りうるという推論を生み出せるからである。したがって,信者の推論システムにとって重要なこと——どう行動すればよいか,どれを選べばよいかなど——は,これらの行動や選択についてのエイリアンの見方に影響される。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.216-217
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

全知の神の概念について

 興味深い極端なケースは,全知の神の概念である。神学のなかで述べられているこの概念は,神が世界についてあらゆる角度からあらゆる情報を得ることができると仮定している。しかし,バレットとカイルが示したように,人々が実際にもっている概念は神学的理解から逸脱していることが多い。したがって実際に,文字通り全知の存在として神を表象しているかどうかが問題になる。もしそのように表象しているなら,人々は,世界のあらゆる側面についてのあらゆる情報が,神によって等しく表象されている,と仮定していることになる。だとすると,次のように言うのはごく自然だろう。

 神は,世界中のどの冷蔵庫の中身も知っている。
 神は,動いているどの機械の状態も知っている。
 神は,世界中の昆虫の1匹1匹がなにをしようとしているかを知っている。

 とはいえ,これらは,以下の3つと比べると,多少奇異に感じられる。

 神は,あなたが昨日だれと会ったかを知っている。
 神は,あなたが嘘をついているのを知っている。
 神は,私が悪いことをしたのを知っている。

 これがまったく文脈の問題だということに注意してほしい。もしあなたが,最初の3つが実際になんらかの戦略的情報を示す文脈のなかにいるのなら,これらをとくに奇異とは感じないだろう。神が実際に,あなたの冷蔵庫の中身(あなたが隣人から盗んだものが入っているなら),ある機械の状態(あなたがそれを使って人を傷つけようとしているなら),昆虫の行動(大量発生して敵を襲うようにと,あなたが望んでいるなら)を表象していると考えることができるからだ。これらの場合には,情報は戦略的である。こういった状況を表象する人々は直観的に,神が彼らにとって戦略的であるような情報を表象していると直接仮定している。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.205-206
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

種の本質

 これらの平凡な推論には,実際のところ,より深くより微妙な側面がある。子どもも,おとなも,生き物の種(生物学者にとっては,イヌ,ネコ,キリンなどの属)をふつうは本質の点から表象している。すなわち,ウシは,とり去ることのできない,種全体の特徴である内的属性(もしくは属性の集合)をもっていると仮定されている。心理学者のフランク・カイル,ヘンリー・ウェルマンとスーザン・ゲルマンは,幼い子どものこういったさまざまな表象を挙げているが,これはおとなにも当てはまる。かりに,あなたが一頭のウシを連れてきて,余分な肉をそぎ落とし,ウマに見えるように変形し,たてがみと洒落た尻尾をつけ,ウマの好物を食べ,ウマのように動きふるまうように作り変えたとしよう。これはウマだろうか?大部分の人は(大部分の子どもも),ウマではないと言うだろう。それは,変装したウシであり,ウマのようなウシ,いわば異文化を採り入れたようなウシであるが,依然として本質的にウシであることには変わりない。ウシであり続ける内的で不変ななにかがあるのだ。あなたは,その「本質」がなにかという表象をもたなくても,この仮定をもつことができる。すなわち,大部分の人は,ウシをなんらかの本質的「ウシ性」をもっている(たとえウシ性がどのようなものかを言えなくても)ものとして表象している。彼らが知っているのは,ウシ性は,ウシがどう変わっても,とり去ることができないものであり,ウシの外的特徴を生み出す,ということだ。これが,なぜ雄ウシには角が生え,ひづめがあるのかという理由だ。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.143
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

公式の概念と暗黙の概念

 ジャスティン・バレットは,神についての人々の考え方には,彼ら自身が信じていること以上のなにかがあると考えた。そこで彼が用いたのは,ごく単純な伝統的方法だった。被験者は,特別に準備された物語を読み,一定の時間をおいてから,その物語を思い出すように言われた。この実験の鍵は,人は,数行といった短いものでないかぎり,分をそっくりそのままの形で覚えておくことはできないということである。人がするのは,いくつかの重要なエピソードと,それらどうしがどのように結びつくかという記憶を形成することだが,物語を思い出す時には,しばしば細部を歪曲し,実際に覚えている元の物語の断片の間に,自分の考えを挿入する。たとえば,『赤頭巾ちゃん』の物語で,「彼女はおばあちゃんの家に行きました」というのを読んで,数時間あとに言う時には「彼女はおばあちゃんの家に歩いて行きました」となるかもしれない。こういった種類の細部の変化や追加は,物語を表象する際に被験者がどんな概念を用いているかを示している。この例では,物語のなかで主人公がどんな交通手段を使ったのかが述べられていなくても,被験者は,彼女がバスやバイクで行ったのではなく,歩いて行ったと思っているということを示している。
 そこで,バレットは2つのことをした。まず,被験者に「神はどのようなものか?」という簡単な質問をした。被験者は,神のいろんな特徴を挙げたが,それらはみな共通していた。たとえば,彼らの多くは,神の重要な特徴として,(人間が逐次的にひとつひとつのものごとに注意を向けることしかできないのに対して)あらゆるものごとに同時に注意を向けることができる,と言った。このあとバレットは,彼らに,神のこれらの特徴が出てくる物語を読ませた。たとえば,物語は,神がある男の命を救い,同時にある女が失くした財布を見つけるのを助けてやるというものだった。そのあと時間をおいて,被験者はこの物語を思い出して話さなければならなかった。興味深いことに,そして意外なことに,多くの被験者は,神はまず一方の人を助け,そうしてから次にもう一方の人の窮状に注意を向けた,と言った。
 このように,被験者は,聞かれると,神が一時に2つのことをすることができる(これこそ神たるゆえんだが)と答えるにもかかわらず,神がすることを自ら表象する時には,ひとつのことをしたあとにもうひとつのことをする標準的な行為者として説明する。バレットは,この効果が,神を信じる者でも,信じない者でも,そしてニューヨーク州のイサカでも,インドのデリーでも,同じように見られることを示した。これらの実験からわかるのは,神についての人々の考え——神が何をどうするかを表象するために人々が用いる心的表象——が,尋ねられて答える時の答えとはまったく異なる,ということである。実際,この場合には一方は他方と矛盾する。どんな人にも,「公式の」概念(聞かれた時に答えるもの)と「暗黙の」概念(はっきり自覚することなく用いているもの)の両方がある。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.117-119
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

知識は空っぽの容器に入るものではない

 文化的な情報を獲得するには,さまざまなやり方がある。これは,人間の脳のもつ学習能力がどの領域でも同じというわけではないからである。たとえば,適齢期(1歳から6歳ぐらい)にある正常な脳なら,言語の正しい文法と発音を容易に習得できる。社会的相互作用の能力は,これとは違うタイミングで発達する。しかし,これらすべての領域において学習が可能なのは,利用可能な情報を超えてゆけるからである。これは,言語の場合には明らかにそうである。子どもが聞くものにもとづいてしだいに文法を形づくってゆくのは,彼らの脳が,言語がどう機能するかについて一定のバイアスをもっているからである。しかし,言語だけでなく,ほかの多くの概念領域についても,同様のことが言える。たとえば,日頃使う動物の概念について考えてみよう。子どもは,動物の種類によって繁殖のしかたが違うということを学習する。ネコは子ネコを産み,ニワトリは卵を産む。子どもは,動物を実際に観察することによって,あるいは具体的な情報を与えられることによって,これがわかるようになる。しかし,子どもたちがすでに知っているので,教えなくてもよいことがある。たとえば,1羽のニワトリが卵を産むのなら,おそらくすべてのニワトリが卵を産むはずだ,ということを言ってあげる必要はない。同様に,5歳児は,1頭のセイウチが赤ちゃんを産むのなら,ほかのすべてのセイウチもそのように子を産む,と推測するだろう。これは,さらに次のような単純なことを示している。つまり,知識を獲得する心は,あらかじめ消化しやすく加工された情報が経験と教育を通して注ぎ込まれる空っぽの容器などではないということだ。心は,見て学んだことを理解するために,情報を組織化する方法を必要とし,一般にはそうした方法をもっている。これにより,心は,与えられた情報を超えることができる。専門的な言い方をすると,与えられた情報にもとづいて推論することができる。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.56-57
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

忠実な伝達とゆがんだ伝達

 明らかに,ミームには,忠実に伝達されるものも,大きくゆがめられて伝達されるものもある。リチャード・ドーキンス自身が作り出した2つの文化的なミーム——一方は忠実に複製されたミーム,もう一方は奇妙な突然変異をとげたミーム——のたどった対照的な運命について考えてみよう。「ミーム」の考えそのものが,かなり正確に複製されてきたミームの一例である。ドーキンスがこの考えを導入して数年後には,社会科学や進化生物学・心理学のほとんどの専門家がこの考えについて知っており,もとの意味が基本的にほぼ正確に保たれていた。これを,ドーキンスのもうひとつの概念,「利己的遺伝子」と比べてみよう。利己的遺伝子ということばでドーキンスが言わんとしたことは,DNAの配列である遺伝子がすることはただひとつ,自身の複製だ,ということである。これはすなわち,この機能をもたないもの(遺伝子を次世代に受け渡すことのできない個体を作るような遺伝子)は,遺伝子ピールから消え去る,ということである。ここまではきわめて単純だ。しかし,利己的遺伝子ということばがいったん広まってしまうと,その意味が思わぬ変化をとげ,「私たちを利己的にする遺伝子」という使われ方をすることが多くなった。ある時イギリスの『スペクテイター』紙の社説が,保守党は,ドーキンス教授の言うこの利己的遺伝子とやらを,もっと獲得したほうがよいと論じたことがある。しかし,遺伝子は「獲得」するものではないし,ある人間がほかの人間よりもある遺伝子を「より多く」もつというのも変だし,人々を利己的にする遺伝子というのもおそらくはないだろうし,いずれにしても,ドーキンスはそういうことを言ったことはない。こうした歪曲は,それほど驚くべきことではない。というのは,そうした歪曲は,広く流布している印象——生物学は,生存をめぐる闘い,テニスンの言う「牙と爪を血に染めし自然」,ホッブズの言う「万人の万人に対する闘い」をもっぱらあつかっている(実際こうした印象がおおむね誤りだということは,ここでは重要ではない)——を強めるものだったからだ。このような歪曲が起こったのは,「利己的遺伝子」という表現がぴったりする考えがすでにあったからである。利己的遺伝子の説明はこの考えに合うように変化し,もとの説明(最初のミーム)は,完全に無視された。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 pp.52-53
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

安らぎのある世界観をもたらす宗教

 つねに危険が潜んでいたり不快なことの多い社会では,安心を与えるような宗教は見当たらない。逆に,そのような宗教が見られるのは,危険や不快なことの少ない社会である。たとえば,安らぎのある世界観をもたらそうと明白に企図された数少ない宗教システムに,ニューエイジの神秘主義がある。それは,人間はすべての人に,途方もない力が宿っていて,あらゆる種類の知的・身体的偉業が可能だとする。それによると,私たちはみな,宇宙にある神秘的だが基本的に慈愛に満ちた力に直結している。健康は,内なる精神の強さによって獲得される。人間の本性は,基本的によいもので,私たちのほとんどは,前世ではきわめて興味深い一生を送っていた。注目すべきは,安心感を与え自尊心を煽るこうした考え方が現れ広まったのが,歴史上もっとも安全で豊かな社会のひとつにおいてであった,ということだ。こうした信仰をもつ人々は,中世のヨーロッパや現代の第三世界の農民のようには,戦争にも,飢餓にも,乳幼児の死にも,不治の病にも,専制的な弾圧にも苦しんでいない。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.29
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

単純明快な結論

 以上すべてから引き出される結論は,単純明快だ。もし「宗教とは,宇宙の賢く不滅の創造主に従うことによって,どうすれば私たちの魂が救われるかを説く教えを信じることだ」と言う人がいたら,その人はたぶん,いろんな土地を旅したり,広くいろんなものを読んだりしていないのだ。多くの文化では,死者はこの世に戻ってきて生きている者たちを怖がらせると考えられているが,どの文化でもそうなわけではない。ある特殊な人々が神や死者と交信できると考えられている社会もあるが,この考えもどこにでも見られるわけではない。また,人間の魂は死後も生き続けるとするところもあるが,この仮定もまた,普遍的なわけではない。私たちが宗教について一般的な説明を考え出そうとする場合,その説明はほかの宗教にも通用するものかを考慮すべきだろう。

パスカル・ボイヤー 鈴木光太郎・中村潔(訳) (2008). 神はなぜいるのか? NTT出版 p.16
(Boyer, P. (2002). Religion Explained: The Human Instincts that Fashion Gods, Spirits and Ancestors. London: Vintage.)

偽のピークに登る危険性

 しかし,いいことばかりではありません。最大の問題点は,発見的探索によって得られた解には「正しい」最適解であるという保証がないことです。網羅的探索では解の探索空間の中をくまなく調べ尽くすので,それによって得られた最適解は文句なしに「正しい」最適解です。一方,発見的探索は探索空間の一部分をかいつまんで調べるだけですので,悪くすると「正しい」最適解を見つけそこない,大域的に見れば最高峰ではない丘(局所解といいます)に登ってそこで探索を早々と切り上げてしまう危険性があります。
 誤解しないでいただきたいのは,ここでいう「正しい」という表現は,得られた解が歴史的な真実であるかどうかではなく,探索空間の中の最高峰(大域的最適解)に到達できているかどうかにかかっています。たとえ発見的探索によって首尾よく「正しい」最高峰(すなわち大域的に最適な系統樹)に登ることができたとしても,その最高峰が歴史的に「正しい」系統樹(すなわち真実の系統発生史)であるかどうかは別問題ということです。
 実際には,歴史的に「正しい」かどうかの前に,探索地形の上で「正しい」最適系統樹に到達したかさえわからないという点が,発見的探索の抱える根本的問題と認識されています。
 発見的探索は別名「山登り(hill-climbing)法」とも呼ばれています。最高峰を目指して探索を繰り返す行為を登山にたとえた,実に的確なネーミングです。実際,発見的探索が大域的最適解を導けるかどうかは,与えられたデータのもとで,系統樹の探索空間の“地形”がどのようになっているのかに大きく依存します。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.202-203

げに恐るべきは分類なり

 学問間の「壁」は思いのほか低いどころか,最初からそのような「壁」は幻影に過ぎなかったと言っても誇張ではありません。私たちが無意識のうちに築いている学問分野を隔てる「壁」は,たまたま歴史の中のある時点で採用された分類基準の産物であって,その学問分野が最良であると結論できないのはもちろんのこと,それが永続するという保証もないのです。
 歴史を研究する分野は,現在の学問分類の体系では“文科系”から“理科系”までさまざまな領域に散在しています。それらの学問間のつながりを積極的に築いていこうという機運がつい最近になるまで盛り上がらなかったのは,ひとえに私たち研究者が幻の「壁」の内側に自分を閉じ込めてしまい,向こう側を覗こうとしなかったからではないかと推察します。
 げにおそるべきは分類なり。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.94-95

たまたま仕分けられた学問分類

 「理科系」と「文科系」という学問の分け方には,何かしら本質的に大きな意味があるかのように言われることがあります。ほんとうにそうなのでしょうか?
 私は,そういう論議は歴史的にたまたま仕分けられた学問分類に,後世の人間が振り回されているだけなのではないかという気がしています。いったん別々のクラスに分類されてしまったがために,その後いつまでたってもその学問分類の“縛り”から逃れられない状態に陥ってしまっている。しかも,その“縛り”を息苦しいと思わないばかりか,かえって“建売住宅”としての心地よさに安住してしまっている気配すらあります。
 歴史的偶然の妙と言ってしまえばそれまでなのですが,でも何かおかしい。その理由は,あるひとつの学問分類の体系が有形無形の制約を私たちに課しているのに,当の本人たちがそれにまったく気づいていないという点にあるのでしょう。その学問分類でほんとうにいいのですか?
 分類は絶対的なものではなく,ある採用された分類基準(類似性の尺度)にしたがってグループ分けをしているにすぎません。もちろん,得られた分類体系が私たちにとって認知的に役に立つかどうかという実用性のフィルターを通して,分類の善し悪しは判定されます。しかし,すべての分類には基準があるという点は,生物分類だろうが学問分類だろうがちがいはありません。分類基準を変えれば,分類体系はどのようにでも変わる——この単純な理屈はいつでも有効です。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.86-87

アブダクション

 演繹法や帰納法は従来の科学哲学の中では,物理学や化学などのように普遍類(たとえば,化学ならばある原子番号をもつ元素の集合,天文学ならば赤色巨星の集合のような類)を対象とする学問における,反復観察や再現実験を踏まえた論証方法として繰り返し論じられてきました。しかし,歴史学や進化学が対象とする個物(再現性のない一度かぎりの事物や現象)の場合には,そういう論証スタイルはもともとあてはめられません。だからこそ,もっと「弱い関係」を用意することで,歴史を扱う科学の中でも,データに基づく仮説や理論のテスト可能性を確保しようというわけです。
 データが理論に対して「経験的支持」を与えるとき,同じ現象を説明する複数の対立理論の間で,「支持」の大きさに則ったランクづけをすることができます。あるデータのもとで,もっとも大きな「支持」を受けた最良の仮説を頂点とする序列です。そして,経験的支持のランクがより大きい仮説を選ぶという基準を置くことにより,仮説選択の方針を立てることが可能になります。
 この仮説選択基準は,古くはアリストテレスのいう「エンテュメーマ」が指し示す推論の形式,すなわち「“最善の説明に向けての推理”(より古い言い方では,結果から原因へとさかのぼっていく推理)のような不可欠の推論様式」に通じるものがあります。さらに,19世紀の哲学者にして記号論の創始者であるチャールズ・S・パースは,与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」推論方法を「アブダクション(abduction)」ということばによって表わそうとしました。
 理論の「真偽」を問うのではなく,観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する——アブダクション,すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは,幅広い科学の領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 p.64-65

典型科学に固執する必要はない

 典型科学が課していた上述の5基準を,どんな根拠があって他の科学にもあてはめようとするのか,それ以外の基準があり得るのではないか,という問題意識がそこにはあります。歴史学や進化学を無理に既存の科学の枠組みに押し込めるのではなく,むしろこれまでの科学の制約そのものを変えていこうという方針です。
 しかし,このような反対弁論がそもそも可能になるためには,「歴史」すなわち過去に生じた現象に関する編年(年代記)あるいは叙述(物語)が,何らかの意味で「科学」的研究の対象となり得ることが示される必要があります。科学的方法は必ずしも単一ではなくてもよいだろうという主張は,えてして悪しき「相対主義」(“何でもかまわない”という科学論的スローガンがかつてありました)を誘い込む危険性があります。しかし,ここで私が念頭に置いている科学的方法の「複数性」は,そのような相対主義を許容するものではありません。
 科学的な仮説や科学論と呼ばれる資格をもつには,何らかの方法でその仮説や理論が経験的にテストされる必要があります。得られたデータや観察に対して,ある仮説や理論はどれくらいうまくそれを説明できるのか,あるいは説明できないのかを比較検討することで,私たちはある仮説が他の仮説よりもすぐれているかおとっているという判断を下すことができます。裏返せば,そのような経験的テストをすることができない主張は,データに照らした相互比較ができないという意味で,科学的ではないと言わざるを得ないわけです。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.43-44

典型的な科学とは

 いわゆる「自然科学」ということばを耳にしたとき,私たちは“白衣を着て実験室内で試験管を振っている”ステレオタイプな科学者をつい連想します。もちろん,そういう典型的な自然科学は実際にあります。実験系の物理学や化学や生物学のラボ(実験室)ではおそらく大方のイメージ通りの科学者が実在しているはずです。
 そのような典型科学は,次に挙げるいくつかの基準を設けることにより,科学的知識を獲得しようとします。
 第1に,「観察可能」であること——ある現象に関する仮説なり理論をテストするためには,それが直接的に観察できなければならないという基準。
 第2に,「実現可能」であること——ある化学反応(炎色反応のような)や物理現象(重力のような)に代表される自然界の過程に関しては,実験することによってはじめて科学的な知見が得られるという基準。
 第3に,「反復可能」であること——ある自然現象に関する知見が正しいものであれば,同じ実験結果はいつでもどこでも誰がやっても確実に得られるという基準。
 第4に,「予測可能」であること——自然現象に関するある主張から導かれる予測を現実のデータに照らしてみることにより,その主張の正しさがテストできるという基準。
 第5に,「一般化可能」であること——現象に関する普遍的な法則性(万有引力の法則のように)として定式化できるという基準。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.38-39

学問間の見せかけの壁

 学問分野の仕分け(「〜学」というレッテル)それ自体が,18〜19世紀にかけてたまたま通用していた学問分類の体系を無意識的に継承してきたものに過ぎません。
 今の社会では(学界でも同じですが),たとえば自然科学とか人文科学・社会科学という学問の間には大きな隔たりがあるかのような先入観が幅を利かせています。そういう「見せかけの壁」をつくってしまうのは,研究者の多くにとってはある意味では楽なことです。「見せかけの壁」の向こうのことはとりあえず知らなくても日々の仕事は進められますから。
 しかし,たまには(いつもとは言わない)「見せかけの壁」の向こうに何があるかを垣間見るのも悪くはないでしょう。でも,私はさらに一歩進んで,そういう「壁」はもともとないのだと言ってしまいましょう。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 pp.29-30

無意識のうちに認知分類をしている

 私たちは生物にしろ無生物にしろ,雑多なものをそのまま呑み込んで理解できるだけの能力をもち合わせてはいません。とにもかくにも対象物を分類し,少数のカテゴリーにまとめようとするのは,そうしなければ多様な相手を理解できないからです。
 そのような認知的分類はいまでももちろん有効です。人間は誰でも無意識のうちに認知分類をしてきたし,今でもしています。それと同じくらい系統樹思考は私たちの理解を支援してくれると私は考えています。系譜をたどるのは「知りたい」という欲求があるからです。

三中信宏 (2006). 系統樹思考の世界:すべてはツリーとともに 講談社 p.26

日本のこれまでとこれから

 日本とその歴史について,もう少し詳しく見てみよう。日本は現在世界第2位の経済大国であり,今世紀中もその地位を維持するだろう。殖産興業の時代から第二次世界大戦を経て,1980年代の奇跡的な経済成長の間も持ちこたえた日本の社会構造は,いろいろな意味で産業化が始まる以前の社会構造とまったく変わっていない。
 日本には,経済政策や政治方針を大きく転換しても,国内の安定が損なわれないという特質がある。日本は西洋との邂逅を経て,自分たちのような国が列強の前ではひとたまりもないことを痛感すると,めまぐるしいほどの速さで産業化を推進した。第二次世界大戦が終わると,社会に深く刻まれた軍国主義の伝統を捨て去り,突如として世界で最も平和主義的な国に生まれ変わった。日本はその後めざましい成長を遂げた。1990年には金融危機の影響で経済成長が止まったが,このときも運命の逆転を淡々と受け止めた。
 日本が大きな社会変革を経ても基本的価値観を失わずにいられるのは,文化の連続性と社会規律を併せ持つからである。短期間のうちに,しかも秩序正しいやり方で,頻繁に方向転換できる国はそうない。日本にはそれが可能であり,現に実行してきた。日本は地理的に隔離されているため,国家の分裂を招くような社会的,文化的影響力から守られている。その上日本には,実力本位で登用された有能なエリート支配層があり,その支配層に進んで従おうとする,非常に統制の取れた国民がいる。日本はこの強みを持つがために,予測不能とまでいかなくても,他国であれば混乱に陥るような政策転換を,難なく実行することができる。
 日本が2020年代になっても,まだ遠慮がちな平和主義国のままでいるとは考えがたい。もちろん,日本はできるだけ長くこのスタンスを維持するだろう。第二次世界大戦の恐怖がいまも国民的記憶として長く残る日本は,軍事対決の意志を持たない。その一方で,日本にとって現在の平和主義は,永遠の原理ではなく,順応性のあるツールである。日本の産業,技術基盤をもってすれば,政策転換さえできれば,より積極的な軍事方針に転換することは可能である。そして今後日本が人口や経済面で重圧を経験することを考えれば,この転換はまず避けられないだろう。

ジョージ・フリードマン 櫻井祐子(訳) (2009). 100年予測:世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図 早川書房 p.213-215

予測と現実のギャップ

 1950年に,今から半世紀後には,日本とドイツが世界第2位と第3位の経済大国になっていると予測した人は,世間の失笑を買ったことだろう。1970年に,中国が2007年までに世界第4位の経済大国になると予測した人は,さらに笑い飛ばされたことだろう。だが1800年には,アメリカが1900年までに世界の主要国になるという予測も,同じように荒唐無稽に感じられたはずだ。状況は絶えず変化するため,つねに不測の事態を予測しなければならない。

ジョージ・フリードマン 櫻井祐子(訳) (2009). 100年予測:世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図 早川書房 p.128

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