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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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結婚の意味の変化

 かつて結婚は,「死が二人を分かつまで」続くのが当たり前だった。昔は死別は早く,頻繁に訪れた。生き延びた子どもが1家庭に10人もいた移行期には,結婚生活が50年に及ぶことも珍しくなかったが,それ以前は死が結婚生活に早く終止符を打ち,残った方は再婚しなければ経済的に立ちゆかなくなった。ヨーロッパには男やもめ(女性が産褥で亡くなることが多かったため,たいてい男性が残った)が生涯に何度も再婚を繰り返す,連続的複婚の慣習があった。19世紀末から20世紀初めになっても,まだ結婚は習慣から非常に長い間持続していた。20世紀後半になると新しいパターンが生じ,連続的複婚の風潮が盛り返した。だがこの風潮を増長したのは,死ではなく,離婚だった。
 これに別のパターンを重ね合わせてみよう。昔は配偶者の少なくとも一方が10代前半で結婚することが多かったが,今の人たちは20代後半から30代前半に結婚することが多い。また昔は14歳頃に結婚するまで性体験がないのが当たり前だったが,今では30歳で結婚する人に,結婚するまで処女童貞を通すことを期待するのは,非現実的というものだ。思春期を迎えてから17年間も性的活動をせずに過ごすなどあり得ない。

ジョージ・フリードマン 櫻井祐子(訳) (2009). 100年予測:世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図 早川書房 pp.92-93.
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子どもをもつことの意味の変化

 10人の子どもは,18世紀のフランスでは天の恵みだったかもしれない。だが19世紀末のフランスでは重荷だった。そして20世紀末のフランスでは破滅を意味した。現実が十分理解されるまでには時間がかかったが,子どもがほとんど死ななくなったこと,そして子どもを育てるにはとても金がかかるということが,やがて明らかになった。そのようなことから少子化が進み,経済的利益よりも,子どもを持つ喜びのために,子育てがなされるようになった。避妊などの医学の進歩も寄与したが,出生率の低下を促したのは,子どもを産み育てるのにかかる莫大な費用だった。かつて子どもは冨の生産者だった。だが今や養育費は顕示的消費(財力を誇示するための消費)の最たるものになった。かくして親たちは子どもを育てる必要を,10人ではなく,1人の子どもで満たすようになったのである。

ジョージ・フリードマン 櫻井祐子(訳) (2009). 100年予測:世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図 早川書房 p.89

全世界的な出生率の低下

 これは変容が本質的に良いとか悪いとかという話ではない。世界の人口構造が大きく変化している現状では,この流れを止めることはできないというだけのことだ。現在の世界における人口動態上のもっとも重要な変化は,世界的に出生率が大幅に落ち込んでいることだ。もう一度言おう。世界で最も重大な意味を持つ統計的事実は,出生率の全般的な低下である。女性が生む子の数は年々減少の一途をたどっている。これが意味するのは,単に2世紀に及んだ人口の爆発的増加が頭打ちになってきたということだけではない。女性の平均余命が急激に延びているにもかかわらず,女性が出産と育児にかける時間が大きく減少しているということなのだ。

ジョージ・フリードマン 櫻井祐子(訳) (2009). 100年予測:世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図 早川書房 p.82

アメリカの歴史の10パーセントは戦争

 基本戦略は,戦争だけでなく,国力を構成するすべてのプロセスに関わるものだ。しかしアメリカの基本戦略は,実際に戦争や,戦争と経済生活との相互作用に,他国より大きな比重を置いている。歴史的に見てもアメリカは好戦的な国なのだ。
 たとえばアメリカは,その歴史全体のおよそ10パーセントの期間を,戦争に費やしている。この場合の戦争とは,1812年戦争(米英戦争),アメリカ・メキシコ戦争(米墨戦争),南北戦争,第一次および第二次世界大戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争の大規模な戦争を指し,米西戦争や砂漠の嵐といった小規模な紛争は含まない。20世紀だけをとってみても,アメリカが戦争を戦っていた期間は15%にあたる。20世紀後半に限れば,その割合は22%にも上る。そして21世紀が始まった2001年以来,アメリカは戦い続けている。戦争はアメリカの歴史の中核をなしており,アメリカが戦争を戦う頻度は高まる一方だ。戦争はアメリカ文化に組み込まれており,アメリカの地政学的状況に深く根ざしている。したがって,アメリカが戦争を行う理由をはっきりと理解しておく必要がある。

ジョージ・フリードマン 櫻井祐子(訳) (2009). 100年予測:世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図 早川書房 pp.64-65.

未来の予測は難しい

 ある意味では,未来について唯一確信をもって言えるのは,そこでは常識が通用しなくなるということだけだ。魔法のような20年周期など存在しない。歴史のパターンは,単純な力に支配されてなどいない。歴史上のどの瞬間にこの上なく永続的で支配的と思われたことも,信じられないほどの速さで変わり得る。時代は移りゆくものだ。国際関係においては,いま目に映る世界は20年後,あるいはもっと近い将来に目に映る世界とはまったく別である。ソ連崩壊は予想外の出来事だった。それがまさしく肝心なところなのだ。従来の政治分析には,想像力が著しく欠落している。流れる雲がいつまでもそこにあると考え,誰の目にも明らかな,強力な長期的変化に目を向けようとしないのだ。

ジョージ・フリードマン 櫻井祐子(訳) (2009). 100年予測:世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図 早川書房 p.12.

分類は生存に有利に働いた

 民俗分類がヒトにとって根源的な認知分類行為の反映であることを考えれば,生物分類学のルーツをどこに求めるかはおのずと明らかになる。多様な対象物を適切に分類し続けることは,ヒトにとって最節約的に記憶を整理すると同時に,より効率的な帰納的推論を可能にしただろう。そのような認知能力をもつことは,ヒトが自然界の中で生き残る上で有利に作用したにちがいない。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.284-285

染み付いた見方は受け入れよ

 心理的本質主義はヒトの心に巣食う原初的想念である。進化的思考は,存在論的本質主義はもちろんのこと,心理的本質主義とも根本的に対立する考え方である。この世界が離散的な自然種から構成されているという本質主義的世界観は,対象物間に由来によるつながりがあり相互に移行すると見なす進化的世界観とは両立しない。本質を共有する自然類は互いに切り離された離散的な類であり,それらの間を移行するということ自体が原理的にありえないことだからである。進化的思考がこの本質主義を蛇蝎のごとく忌み嫌うのも当然のことであろう。
 しかし,現代のサイエンスがどのような新しい世界観を私たちに示そうが,私たちにもともと深く染みついているものの見方までかき消すことはできない。進化的思考者を自認している私でさえ,自分が心理的本質主義者であることを否定しているわけではない。私たちの心が産み出す産物は,たとえそれが心の中に矛盾や葛藤を生み出すものであったとしても,そのまま受け入れるしかないだろう。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.269-270

ネーミングの弊害

 南方熊楠がロンドンに遊学しながら,『ネイチャー』誌に「極東の星座」という短報を初めて投稿したのは1893年のことだった。熊楠の記事が載ったころもなお,『ネイチャー』は一般読者を対象とした図入り科学雑誌であるという創刊当時の性格をそのまま遺していただろう。いまの科学者ならば「『ネイチャー』に載った」という点で条件反射的に「すごい」とつい感じてしまう。しかし,当時と今とでは同じ『ネイチャー』であっても,雑誌としての性格はずいぶんちがっていたと考えるべきではないか。
 上述の雑誌の系譜の例が示すように,時空とともに変化し続ける系譜の正体は,それに名前を付けたからといって解明されるわけではけっしてない。歴史過程を担う系譜のある「断面」や「断片」に名前を与えるという分類行為は,その系譜の過去のありさまがどうであったかを物語るわけでもなければ,将来にわたってどのように変わっていくのかを予言するわけでもない。とすると,「部分」へのネーミングは,心理的本質主義に基づく“まとまり”(時空的に変化しない本質)を私たちの心の中にもたらすという点でむしろ弊害があるにちがいない。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.249-250

方法論的本質主義

 方法論的本質主義に則るならば,現実世界の事物を通して共有される「不変な本質(essence)」 を発見し,それに基づいて定義を下すことになる。たとえば「“子犬”とは何か?」に答えるためには,“子犬”であることの本質(たとえば,“生後間もない犬”)を明らかにした上で,「“子犬”とは“生後間もない犬”である」という定義を与えることになるだろう。この場合“生後間もない犬”という条件は“子犬”であるための必要十分条件としての本質とみなされる。
 物事には本質があると無意識に感じとってしまう「心理的本質主義」についてはすでに論じたが,ここで登場した「方法論的本質主義」と混同してはならない。前者はあくまでも認知心理学的な現象だが,後者は形而上学的な世界観の表明だからである。心理的本質主義はヒトであるかぎり避けられない生得的性質だが,方法論的本質主義はひとつの思想の系譜である。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.195-196

科学史や科学哲学の重要性

 白紙から博士が生み出されるわけではない。研究者たちは,一人前の科学者となるべくトレーニングを積むとき,それぞれの専攻分野がたどってきた歴史の少なくとも一部分を短期間で反芻しながら,同時にあたりに漂う有形無形の雰囲気を取り込みつつ,勉強と研究を積み重ねて成長していくのだろう。しかし,そのような日々の研究生活の中で,自らが置かれている学的伝統がどれほど自覚されているだろうか。私の知るかぎり,現在の日本の大学や大学院のカリキュラムでは,自然科学系の学生が科学史や科学哲学をきちんと学ぶ機会は残念ながらほとんどないと思う。しかしながら,個々の専門分野には現在に至るまでの長い研究の歴史があり,それを支えてきた理念や方法論が備わっているはずだ。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 p.177

学説は存在し続ける

 ひとつだけ確かなことがあるとすれば,いったん提唱された学説や仮説は,たとえ“真実”であろうが妄言であろうが,消しゴムで消すように歴史から消滅することはないということだ。それらは注目されるか否かにかかわりなく,科学史の年表の中にじっとそのまま存在し続ける。いちどは忘れ去られたとしても,何かの偶然で再発見されることもあるだろう。忘却された“良き学説”が幸運にも掘り出されればまだしも,“悪しき学説”に予期せず遭遇してしまったらわが身の不運をかこつしかない。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 p.165

分けたい

 「分類」とか「分類学」と言われれば,生物の分類をすぐさま連想することが多いのがふつうだ。人間の目から見てさまざまな姿形をもつ生きものたちは,われわれが本来もっている「分けたい」という衝動を激しくかきたてる。しかし,分類はもともとその対象物を選びはしない。図書館でおなじみの本の分類(たとえば十進分類システム)やメンデレーエフによる化学元素の分類(周期律表)はいうまでもなく,分類学や分離の理論について何一つ学んだことのないはずの一般人や幼児でさえ,日常のさまざまな状況で「分類」を実行しながら生活している。折り詰め弁当に入っている「醤油鯛」であれ,街角の工事現場に立っている「おじぎびと」であれ,あるいは,いまや世界的キャラクターとなった「ポケモン」であれ,分類の対象はその裾野を無限に広げる。対象を生物に限定しない(その意味で「普遍的」な)分類は実際にある。とすると,そのような普遍的分類を論じる「普遍的分類学」もまた可能であろう。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.149-150

心理的本質主義のため

 生物学的には何の根拠もない「血液型人間学」が今なお世にはびこっているその理由は,ヒトの行動や心情を背後で支配しているのは不可視の「血液型」なる本質である,というわれわれの心理的本質主義に「血液型人間学」が訴えかけているからだろう。どんなに教育程度が高くても,心理的本質主義は容易に解毒されない。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.99-100

タクソン

 分類に関わるこの手の議論でとくに重要なのは,分類体系を構成する単位すなわち個々の種や属や科などの分類群---「タクソン(taxon)」と呼ぶ(複数形は「タクサ(taxa)」)---,ならびにそれらのタクソンから成る「カテゴリー」のもつ意味である。ここでいうカテゴリーとは階層分類のなかでの「ランク」に対応する。一般に,リンネ式の階層分類では,種をもっとも低次のランクをもつカテゴリーとし,属,科,目,綱,門,界という,より高次のランクをもつカテゴリーを構成する。分類体系におけるカテゴリーとタクソンとの関係は,集合とその要素の関係にある。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.55-56

To classify is human.

 生物がいるところ必ず分類がある。いや,生物だけではなく,どんなものであってもそれらを分類することは,私たち人間にとって根源的な行為のひとつである。「分類するは人の常(To classify is human)」とは格言そのものだ。フォーマルな「学」である以前に,分類とはもっと身近なもの,つまりふつうに生活していればごく自然に身についている素朴な分類思考に根ざしているとみなしても問題はないだろう。たくさんの対象物をひとつひとつ覚えられるほど,私たちの大脳は性能がよくない。ばらばらの対象物を少数のグループ(群)に分類して整理することによって,はじめて記憶と思考の節約ができる。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 p.33.

山とは何か

 実際,そもそも「山」をどう定義するかは大変な難問で。まだ答えはない。直感的に「山」に見える地形のふくらみを「山」と呼べばすむ話ではないかと考える人がいても不思議ではない。しかし,周囲の土地から突き出て標高が高ければ「山」とみなすと機械的に定義してしまうと,公園の砂場で幼児がつくった「砂山」まで「山」とみなさなければならなくなるだろう。日本中,「山」だらけになってしまう。これでは話にならない。結局,その土地の住民が古来「山」と呼ぶ土地の突起に対して,国土地理院が「三角点」を与え,初めて合法的に「山」とみなすしかないわけだ。
 私たちは「山」といえばついつい高い山を思い描くので,「山とは何か」という定義など自明だろうと軽く考えてしまいがちだ。しかし,高い山ではなく低い山にいったん目を向けると,「山」といえるかどうかの境界がぼやけてしまう。高い「山」の明瞭さは低い「山」のあいまいさの免罪符にはならない。だからこそ,国家や法律の助けを借りて「山である」と宣言するのである。

三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.23-24

ヒトは分類するもの

 ヒトは無意識のうちにオブジェクトを分類してしまう生きものである。系統を推定することにより,オブジェクトがたどってきた歴史が解明される。一方,分類したとしても,オブジェクトに関して何かが解明されるというわけでは必ずしもない。そのとき,私たちヒトは,オブジェクトが存在する現象世界を認識するためにのみ分類していると言わざるを得ない。分類することの根源的意味を問い直すには覚悟が必要だろう。分類思考を支えてきた概念装置は,私たちヒトのもつ認知的特性に深く根ざしていると私は考えている。


三中信宏 (2009). 分類思考の世界—なぜヒトは万物を「種」に分けるのか— 講談社 pp.18-19

女性がエッセイを書くと清少納言に

 女性はエッセイを書こうとすると,清少納言になってしまう。そして男は,ついに私にも発言の順番がまわってきたのかと喜び,兼好になってしまい世の中を叱るのである。とどのつまりは,女性にとっても男性にとっても,私こそセンスがいい,私こそ知的であるという自慢をうまく芸で処理して書くのがエッセイなのだ。そう考えてみると古典の影響力の大きさにただ驚くばかりである。

清水義範 (2009). 身もフタもない日本文学史 PHP研究所 p.69

エッセイを書くと吉田兼好になる

 というわけで,兼好は「徒然草」によって日本の知的エッセイの基本を作ったのだ。だから今日においても,人はエッセイを書かなければいけないとなると,兼好のように書こうと思ってしまうのである。
 エッセイ=世の中へのお叱り,という公式がくっきりとできあがっていて,人はエッセイで愚かな世の中を叱るのである。
 エッセイの執筆依頼が来たということは,どうか世の中の間違いを叱ってやってくださいと言われたに等しいのである。みんな,嬉々としてボヤき始めるのだ。そういう意味で,「徒然草」こそが日本のエッセイの原形なのである。

清水義範 (2009). 身もフタもない日本文学史 PHP研究所 p.67

すべて記憶できると思考しなくなる

 彼は苦もなく英語,フランス語,ポルトガル語,ラテン語などをマスターした。しかし,彼には大して思考の能力はなかったように思う。考えるということは,さまざまな相違を忘れること,一般化すること,抽象化することである。フネスのいわばすし詰めの世界には,およそ直截的な細部しか存在しなかった。

ボルヘス, J. L. 鼓 直(訳) (1993). 記憶の人,フネス 伝奇集 岩波書店 p.160

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