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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ケータイはコンピュータ

 携帯電話,とくに1999年にNTTドコモが始めた「iモード」の登場以来,若者の多くが親指入力派だ。パソコンのキーボードには慣れていないが,携帯では高速な親指入力ができる,というユーザーである。そんなユーザーを取り込もうと,パソコンで親指入力の行えるソフトキーボードを搭載したパソコンさえある。
 これらの若者にとっては,携帯電話もインターネットも境界のないものなのだ。新しい「格差社会」などといった報道も見られるが,それはある一面でしかない。携帯電話は,いまやパソコンと比肩する立派なコンピュータなのである。

武井一巳 (2009). 雲のなかの未来:進化するクラウド・サービス NTT出版 pp.234-235
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iPhoneが衝撃だった理由

 いや,クラウドを利用するためには,パソコンもまた不要になりつつある。代わりに利用するのが携帯電話だ。アップルのアイフォーンが衝撃だったのは,それが単なるスマートフォンだったからではない。デザインが秀逸で,インターフェースが優れていたからだけでもない。
 アイフォーンが衝撃だったのは,それがクラウド端末だったからだ。使う側が意識するとしないとにかかわらず,アイフォーンはクラウドを利用するのに便利な端末であり,携帯電話(と呼べるなら)をクラウド端末に進化させるモバイル端末だったからではないだろうか。

武井一巳 (2009). 雲のなかの未来:進化するクラウド・サービス NTT出版 p.227

クラウド・コンピューティングでのPCの使い方

 では,これまでのコンピュータの使い方と,クラウド・コンピューティングでのコンピュータの使い方は,どこが異なっているのか?それは2つの側面で考えていく必要がある。
 まず,ユーザー側のコンピュータの使い方だ。前述したようにコンピュータは80年代末から2000年代前半にかけて,クライアント・サーバシステムによって利用されてきた。サーバと,これに接続するクライアントという形だ。サーバは企業内に設置され,あるいは家庭内でも設置され,各クライアントは,このサーバにアクセスしてデータを共有したり,あるいはサービスを利用したりしていた。
 ところがクラウド・コンピューティングでは,サーバはインターネットの先にあり,企業や家庭のどのコンピュータといった明確な指摘はできない。もちろん,インターネットの先にあるコンピュータに接続するのであって,利用法そのものでいえばクライアント・サーバシステムに近い。だが,ユーザはどのサーバに接続するのかを意識する必要はない。雲のなかにあるサーバで提供されている“サービス”を選択しているのである。
 このコンピュータの使い方は,ウェブ2.0のときのウェブサービスと同じ,あるいはこれを発展させたものだと思えばいい。クラウド・コンピューティングの本質は,サービスそのものなのである。
 もうひとつの側面は,これらのウェブサービスを提供する側のコンピュータの使い方だ。サービスを提供するためには,サーバを設置し,アプリケーションやプログラムを組み込み,これを公開することで,アクセスしてきたユーザーにサービスを提供することができた。このとき利用するサーバは,自社で調達したり,あるいはデータセンターのサーバを利用したりしてきた。
 クラウド・コンピューティングでは,この部分もまた“雲”のなかにある。サーバやストレージを提供する企業の膨大な数のコンピュータや,これらを利用して作成された仮想コンピュータのなかにサーバを作成し,このサーバでサービスを提供するのである。
 狭義のクラウド・コンピューティングでは,このサービスを提供する側のコンピュータの利用法を指しているが,実際にはサービスを提供する側も,またサービスを利用する側も,インターネットを通じてクラウドにアクセスし,サービスを提供または享受するようになってきており,これらを総称した新しいコンピュータの使い方が,広義のクラウド・コンピューティングなのである。

武井一巳 (2009). 雲のなかの未来:進化するクラウド・サービス NTT出版 pp.23-24

クラウド・コンピューティングの本質

 ウェブ2.0サービスが広告型ビジネスを確立できないからといって,いまさら有料化するわけにはいかない。そこで企業が始めたのが,それまでは企業内のシステムで処理していた業務を,クラウド・コンピューティングを利用して行う方法だ。アマゾンやグーグルなどの巨大データセンターを利用すれば,サーバやデータセンター,さらにこれを管理する人件費や電気代などを大幅に削減できる。
 ユーザーから見れば,ツイッターというクラウド・コンピューティング・サービスを利用しているが,そのツイッターはアマゾンS3というクラウド・コンピューティングを利用しているのである。
 ユーザーにとって,利用するサービスや処理システム,ストレージといったものは,まさにネットの向こうの“雲”のなかにあり,それらが複雑にからみあい,しかもユーザーからは雲に隠れて見えづらくなっている。だが,これがクラウド・コンピューティングの本質なのである。

武井一巳 (2009). 雲のなかの未来:進化するクラウド・サービス NTT出版 pp.21-22

体育教師によくあるケース

 もう1つの根本的な問題は管理職の発達障害児に対する姿勢である。特に中学校で非行児童の生徒指導に辣腕をふるった実績によって管理職に昇る教師がおり,この教師たちはなぜか体育の教師が多く,アスペルガー症候群やADHDに対しては「わがまま」という把握以外の理解が非常に困難である場合を散見する。筆者は体育の教師に偏見があるわけではなく,もちろん体育を専攻された先生方の中にも非常に細やかな方も多いのであるが。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 p.211

適正就学ができていない証拠

 現在の日本の状況を見ると,特別支援学校の小学部が少人数で,中学部は一挙に増え,高等部は収まりきれないほど人数が増えるという状況が普遍的に見られる。これは本来は逆であろう。個別の必要に応じた対応をし社会的な行動が身につけば,より大きな集団へと移り変わってゆくことが可能になるからである。
 日本のこの状況は,適正就学ができていない何よりもの証拠である。適正就学が不十分である理由は,残念ながら,これまでの学校教育における特別支援教育の軽視と専門性の不足にあるとしか思えない。目の前の子どもにどのような学校生活を送らせればそれが将来の幸福につながるのかということを想像できる専門性を備えた人によって就学の判断がなされていないところにこそ,大きな問題があるのだ。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 pp.204-205

子どもも向上したい

 筆者は,「通常学級がダメだったら特殊学級へ」という指導にはこれまでも反対してきた。なぜなら通常学級でダメで特殊学級に移行するという状況は,子どもにとって挫折体験となり,子どもの自尊感情をいたく傷付けるからである。人生の早期にあまり挫折体験などさせるものではない。強引に40人態勢でがんばるよりも,子どもが参加できる形態,そしてカリキュラムを探し,そのような個々の必要に応じた教育を先に行って,その上で大きな集団での授業参加が十分に可能になった段階で,通常クラスへと送り出せばそのほうがよほど問題が少ない。これまでこのような対応は学校教育のシステムの不備によって実現できなかった。しかし現在進行している特殊教育から特別支援教育への移行は,まさにこの個別の必要に応じた対応を可能にするものである。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 pp.199-200

「何が何でも通常学級」はダメ

 「参加してもしなくても,何が何でも通常学級」と言われる保護者の方々は,自分がまったく参加できない会議,たとえば外国語のみによって話し合いが進行している会議に,45分間じっと着席して,時に発言を求められて困惑するといった状況をご想像いただきたい。これが1日数時間,毎日続くのである。このような状況に晒された子どもたちは,着席していながら外からの刺激を遮断し,ファンタジーへの没頭によって,さらには解離によって,自由に意識を体外へ飛ばす技術を磨くだけであろう。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 p.198

日本の体制は失格

 何よりも,子どもが安心できる安全な環境に置かれるのでなくては治療が始まらないが,実はこのもっとも基本的な対応でわが国はすでに失格であることをご存じだろうか。現在,保護をされた被虐待児の約8割が家庭に復帰している。家庭に帰すことが好ましいからなされているのではなく,虐待によって保護される子どもの数が予想以上の伸びを見せるなかで,社会的養育の場はすでに満杯状態にあり,保護をする場所がないから否応なしに家庭に帰しているのである。
 わが国は先進国で唯一,被虐待児のケアの場は主として,大人数の児童が一緒に暮らす大舎制の児童養護施設によて担われている。心の傷を抱えた者同士が集まったときには,攻撃的な行動噴出をはじめとするさまざまな問題行動が繰り返され,さらに子ども—子ども間においても,子ども—スッタフ間においても,虐待的な対人関係が繰り返し生じ,子どもの安全の確保自体に大きな困難を抱えている。社会的養育を巡るこのような厳しい状況は,被虐待児へのケアの基本的な問題であると思われる。里親養育の増加が強く望まれるゆえんである。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 pp.165-166

自閉症の基本特徴

 自閉症児の精神病理の基本は,対話の際に雑多な情報の中から目の前の人間が出す情報に自動的に注意が絞りこまれる機能がきちんと働かないこと,一度に処理できる情報が非常に限られていることの2点である。
 これを認知の特徴という点で説明すると次の3つとなる。1つは情報の中の雑音の除去ができないことである。第2には,一般化や概念化という作業ができないことである。3番目は,認知対象との間に,事物,表彰を問わず,認知における心理的距離が持てないことである。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 pp.79-80. 

逆転バイバイ

 普通の赤ちゃんは1歳前ぐらいになると,何か新しいものを見つけたときに,お母さんの目をまず見る。お母さんがそれを見ていなければ,手で示し,声を上げてお母さんの注目を引きつけ,お母さんが一緒に見つめていることを確認して,笑ったり喜んだりする。つまりこの行動は,注意と感情とを赤ちゃんとお母さんが共有している姿に他ならない。
 自閉症児の場合は,この一緒に見る,一緒に喜ぶといった行動が著しく遅れる。それだけではない。健常な子どもは,すでに乳児期の後半からバイバイの真似をして手を振る。自閉症児も,真似ができるようになると「バイバイ」をするが,手のひらを自分の方に向けて「バイバイ」と手を振るのである。これは「逆転バイバイ」と呼ばれる現象である。
 ところがよく考えてみると,大人が赤ちゃんに向って「バイバイ」とするときには,手のひらは赤ちゃんの方に向いている。機械的にそれを真似れば,実は自閉症児の「逆転バイバイ」が正解なのだ!むしろ問題は,なぜ普通の零歳児が,手のひらは自分のほうを向いているのに,相手に手のひらを向けてバイバイができるのかということである。普通の赤ちゃんでは,すでに乳児のうちに,自分の体験と人の体験が重なり合うという前提があるからに他ならない。自閉症児の場合には,この段階ですでに問題があるのである。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 p.73

「奇跡の治療」の考え方

 いまだにきちんとした科学的な裏づけのない発達障害の「奇跡的治療」が喧伝されることがあるのは,この点の誤解にあるのではないかと思う。「○○療法」によって劇的に改善した,といったレポートがテレビで放映されると,筆者の外来にも,その是非を巡って質問をされるご家族が必ずいる。筆者は次のように答えるのが常である。
 「お子さん自身を振り返ってください。この何年かで,ずいぶん成長をしなかったですか?もしカメラを,初診のとき,半年後,1年後と回して記録を取っていれば,テレビレポートもびっくりの大きな発達をしているでしょう」
 すると「そういわれてみればそうですね」と応じられて,この話はそれで終了となる。
 このような子どもならではの特殊性があるために,ほとんどの発達障害について,精神医学では慎重な定義が作られてきた。大部分では,診断基準に「その発達の問題によって社会的な適応が損なわれているもののみを障害とする」という除外項目が付加されているのである。生来の素因を持って生じた発達障害に対して,さまざまなサポートや教育を行い,健全なそだちを支えることによって,社会的な適応障害を防ぎ,障害ではなくなるところに,発達障害の治療や教育の目的がある。
 子どもを正常か異常かという二群分けを行い,発達障害を持つ児童は異常と考えるのは今や完全な誤りである。発達障害とは,個別の配慮を必要とするか否かという判断において,個別の配慮をしたほうがより良い発達が期待できることを意味しているのである。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 pp.44-45

単純な因果で考えない

 読者の方々はこういったテーマに関して,くれぐれも原因—結果という直線的な因果律で考えないでほしい。おなかの子どもに影響を与えるものは,残存農薬の影響や環境ホルモンといったレベルの問題から,日常的なものとして,タバコ,酒,薬,シンナー(!)等々たくさんあるのであるから。それにしても10代,シンナーの影響+ドメスティックバイオレンスといっためちゃくちゃな胎児環境の中で,玉のような子どもが生まれることもあればその逆もある。心の臨床の最前線にいると,赤ちゃんや子どもというのは少なくとも生命的にはけっこう丈夫にできているのだなあというのが,筆者の実感であるのだが。

杉山登志郎 (2007). 発達障害の子どもたち 講談社 pp.27-28.

フィードバック機構があれば制御できる

 そうだね,心拍数を調節したり,あるいは胃酸を出したり,汗をかいたり,そういう内蔵を支配する神経系のことを自律神経系と言うね。血圧もそのひとつだね。
 「自律」というのは「意思とは無関係に独立して作動している」って意味。つまり「意識的にはコントロールできない」という意味だよね。でも,本当はそうではなくて,自律神経系には意識的なフィードバック機構が備わっていない,だからコントロールできないだけのことだ。
 では,計測器をつかった人工フィードバック装置さえあれば,血圧は制御可能。この意味では,もはや自律神経系は「自律」ではない。きっと血圧だけでなくて,胃酸の分泌も,発汗の量も,気管支の太さも,コントロールできるようになるだろうね。

池谷裕二 (2009). 単純な脳,複雑な脳:または,自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義 朝日出版社 p.374

時間も柔軟に

 目を閉じて両腕を交差して,誰かに右手と左手に時間差をつけてポンと叩いてもらう。で,どっちが先だった?と訊くと,差が大きければ間違えることはないけど,この時間差を短く,具体的には10分の1秒以下まで縮めると,わからなくなる。時間の感覚によっては左右のタイミングが逆転してしまう。
 こうした実験が証明しているように,時間の感覚なんて案外と簡単に崩れてしまうものなんだ。僕らは時間を物理的な絶対基準として置きがちだけど,実は,脳は時間に柔軟性を持たせている。時間はガチガチに固定したものではなく,伸縮自在に流れている。場合によっては,先後が入れ替わるくらいフレキシブルに脳内時計は時を刻んでいる。

池谷裕二 (2009). 単純な脳,複雑な脳:または,自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義 朝日出版社 p.296

絶対的な基準は

 つまり,僕らはいつも,妙な癖を持ったこの目で世界を眺めて,そして,その歪められた世界に長く住んできたから,もはや今となってはこれが当たり前の世界で,だから,これが自分では「正しい」と思っている。そういう経験の「記憶」が正しさを決めている。
 この意味で言えば,「正しい」か「間違っている」かという基準は,「どれだけそれに慣れているか」という基準に置き換えてもよい。つまり,僕らの「記憶」を形成するのに要した時間に依存する。だから,そもそも「正しい」「間違い」なんていう絶対的な基準はないんだ。
 たとえば,シマウマという動物がいるよね。あれはどんな模様している?白地に黒シマの模様,それとも黒地に白シマ模様?こう訊くと,多くの人は「白地に黒シマ」と答える。でもね,現地のアフリカの人に訊くと,「黒地に白シマ」って答えるんだな。意外でしょ。でも,理由はわかるよね。肌の色だ。彼らにとっては,地肌というものは黒色なわけで,「白」こそが飾り模様の色なんだ。黄色人種や白色人種とは発想が逆になるよね。
 もし自分の個人的な価値基準を,正誤の基準だと勘違いしちゃうと,それはいわゆる「差別」を生んでしまう。残念ながら,人間って自分の感じる世界を無条件に「正しい」と思いがちだよね。この癖には慎重に対処しないといけない。そう,謙虚にならないと。

池谷裕二 (2009). 単純な脳,複雑な脳:または,自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義 朝日出版社 p112.

環境が障害を顕在化させる

 ある視覚障害を持った研究者は,本を買うと電動裁断機で製本を壊し,それをスキャナーにかけて,OCRで文字認識させたものをパソコンの音声ソフトで音声にして「読む」という。この方法により,これまで人手に頼っていた読書は全く自力で行うことができ,それによって読みたい本が読みたい時に読めるようになったという。
 この人にとって,目が見えないという身体的状態は,以前は読書上の障害であったが,情報処理機器の発達により,障害でなくなっている。
 つまり障害とは身体状態そのものにあるのではなく,環境がそれを顕在化させたからこそ発生する。バリアフリーとは身体の状態を障害と考えるのではなく,その人の持つ特性とマッチしない環境を変えることで,障害なく暮らせるようにという発想である。

村越 真 (2003). 方向オンチの謎がわかる本 集英社 pp.211-212

方向音痴は記憶の問題

 方向感覚のよし悪しは感覚の問題ではなく,空間に関する記憶の問題である。一度歩いたルートを覚えていれば,道に迷うこともないし,方向音痴と感じることもない。問題は,歩いたルートすべてを覚えていることができない点だ。
 私自身方向感覚はよい方だが,覚えられないルートや目印は少なくない。要は何を覚えるべきかという問題なのだ。方向音痴の人は,目印にならないような特徴,つまり遠くから見えなかったり,あちこちにあって「ここだ」と決められないようなもの,あるいは動くものに注目し,肝心のナビゲーションに必要な目印を覚えていない傾向が強い。
 また,方向音痴の人は,せっかく目印を覚えても,それが「どこ」にあったかに注意を払っていないようだ。目印は,それがほかの場所とどういう位置関係にあるかが把握できて初めてルートをたどる目印として機能する。特徴的な目印を見たら,それがルートのどこかを意識する習慣をつけるといいだろう。
 注目すべき目印は,曲がり角である。曲がり角にどんなものがあったかに注意を向けてそれを覚える。帰路のことを考えると,曲がり角を曲がった後,その角を逆の方向から来るとどのように見えるかを振り返って確認するとよい。同じ場所を通っても,反対から来れば目印の見え方が異なる。往路の視点から見ないと目印を確認できないのでは,その目印も有効には使えない。曲がり角で振り返ることが,道迷いを防ぐ上で有効なことは,心理学の実験でも確かめられている。

村越 真 (2003). 方向オンチの謎がわかる本 集英社 pp.204-205

方向音痴は手段の問題

 このような経験からすると,「方向感覚」の悪さは固定した能力の問題ではなく,方向感覚を発生させるために必要な行為を怠りなく行うかどうかの問題であると思える。
 この意味では,「方向音痴がなおる」とは,喫煙習慣や肥満の解消に似ている。いずれも目標とすべき状態もそのための手段もはっきりしている。喫煙習慣から脱するにはたばこを吸わなければいいのだし,そのためには手元にたばこを置かないといった簡単な方法がある。また肥満の解消なら,使うエネルギーと摂取するエネルギーのバランスを取ればよい。そのためには,運動をしたり,カロリーを控えればいいことははっきりしている。
 いずれの場合も,問題も解決法もはっきりしている。それでもなかなか喫煙習慣を脱することができなかったり,ダイエットが成功しないのは,解決法を継続することができないからである。そしてこれは,方向音痴にも共通している。目的地から迷わず帰ってくるには,1つ1つの曲がり角の特徴を覚え,そこでどちらの方向に曲がったかを覚えておけばいい。おそらく方向音痴の人たちは,こうした行為を継続して行うことができないのだろう。

村越 真 (2003). 方向オンチの謎がわかる本 集英社 pp.197-198.

エピソード記憶の低下

 高齢者は一般に,「何」に関する情報は比較的よく覚えているが,「どこ」「いつ」といった情報を覚えているのが不得意なようである。たとえば,作り話を聞かせて,それを覚えているように要求する実験があった。この実験では話自体を高齢者は比較的よく覚えていた。ところが,その話が男の声で語られたか,女の声で語られたかに関して,彼らの記憶は劣っていた。「どこ」や「いつ」は経験に付随するエピソード記憶の重要な部分であるが,その記憶が劣るのはエピソード記憶の低下と関連があるのかもしれない。
 記憶力がなぜ低下するのかという点に関しては様々な仮説があり,どれも一長一短で,決め手に欠けている。生理的な証拠からは,前頭葉が加齢に対して敏感であると言われているが,前頭葉は,抑制,注意など制御に関連している。空間に対する注意の向け方のまずさが,低い空間記憶につながっているのかもしれない。

村越 真 (2003). 方向オンチの謎がわかる本 集英社 p.127

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