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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ステレオタイプによる男女差

 「女は……であるべきだ」という考え方をステレオタイプと呼ぶが,女性が自分自身に対して持つステレオタイプが空間能力の差を生んでいることを示唆する研究は少なくない。
 たとえば,心理学者のブロスナンは,こんな巧妙な実験をしている。その実験では,複雑な図形の中に埋め込まれた図形を探すという課題を行った。この課題は本来は空間能力を試すものだが,ある群にはその通りに教え,別の群には「これは共感性を試すものだ」と偽って実験をした。
 もし女性が自分に対するステレオタイプのために,空間的課題で能力を無意識のうちに発揮できないとしたら,「空間能力のテストだ」と言われた群の成績はやはり男女で差があるだろう。しかし,一般に共感性は女性の特性だと思われているから,「共感性のテストである」と偽って告げられた群では,男女の差はそれほど生じないと予想される。そして,結果はまさにその通りだったのである。

村越 真 (2003). 方向オンチの謎がわかる本 集英社 pp.78-79
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知識のゆがみ

 このような知識のゆがみは,認知地図だけのことではない。どんな分野でも,人は経験したことをすべてそのまま覚えていることはできない。記憶は欠落し,その欠落を様々な推測で補う。そこに図式化のプロセスが働き,認知地図がゆがむのだ。
 もっと大規模な空間でもこうしたゆがみが発生している例を紹介しよう。次の質問の答を考えてほしい。
 (1)東京と秋田ではどちらが西にあるか
 (2)東京と鳥取では,どちらが北にあるか
 答えはいずれも東京である。(1)は秋田を,(2)は鳥取を答えた読者が多いのではないだろうか。このような地理関係の判断間違いの例は数多くある。
 たとえば,シアトル(アメリカ)とモントリオール(カナダ)はどちらが北か,パナマ運河の太平洋側の入り口と大西洋側の入り口とどちらが西にあるか。これらの質問はいずれも多くの人の予想とは異なっているのである。

村越 真 (2003). 方向オンチの謎がわかる本 集英社 p.42

ものわかりがいいことはいいことか

 最近いかにも「ものわかりのいい」子供たちや若者たちが増えているが,わたしは彼らを見て,本当に「わかっている」とは思えない。ちっとも「わかっていない」のに,「わかった風」をしていると思う。それは大人の考えが本当にわかっていたり,大人のいうことにしたがおうとしているのではなく,「どうせわかり合えないのだ」と割り切って,無用な摩擦を避け,適当に「良い子」になって,生活と気分の安定をはかっているのだと思う。
 親は安心するであろうが,結局は本当に「わかり合う」ための努力を,両方とも放棄しているのである。これはいまの子供や若者が,ずるいとか老成しているということではない。彼ら自身が少し後の世代について同じことを感じているはずで,いまの大人が(年齢が上になるほど),自分と同じ分類体系が通用していると思い込んでいるのに対し,若い人ほど実状が見えているのだと思う。
 以上は,日本のなかでの世代間の話であるが,同様の関係が,日本と外国,アメリカとソビエト,欧米諸国とイスラム圏,イスラエルとアラブ諸国,先進国と開発途上国などのあいだにあると思う。これらの当事者が,自分の分類体系だけが唯一の真理であると信じ,それ以外のものを排撃しているかぎり,相互理解は不可欠で,「わかり合える」ことはできず,結局は武力にものをいわせて相手をしたがわせるしかないという結果になる。世界全体がそういう方向に進みつつあって,本当にわかり合う努力が放棄されていっているのが,現在の危機的状況ではないかと思われる。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 pp.217-218

(引用者注:本書の原本は,1982年に刊行されたものである)

違った分類の仕方があることを意識する

 人為的な分類を,存在そのものの分類と見なしてしまうことは,ある既成の分類の固定化を招く。分類はかならず何かの目的でつくられるものであるから,それを固定化することは,つねに好適であるとは限らないだけでなく,当初の目的にかなったものだけに視野を限ることになる。分類の網目にかからないものは,見えなくなるのである。だからつねに,「違った分類の仕方がある」ということを意識しながら,当面の目的にふさわしい分類を選び,かつ,つくっていかなければいけない。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 p.209

間違った分類を重ね合わせないこと

 大切なことは,違った分類を重ね合わせないことで,目的に応じてかえる方が好都合なことが多い。それどころか,重ね合わせると問題が起こる。教養のある人とない人,金もちと貧乏人,善人と悪人などの区分を,民族や国籍や性別や出身地や身分や階級の分類に重ね合わせると,事実に合わないレッテル貼りや差別行為を生み出すことになる。
 恋人・友人などの区別と,国籍の分類,身体障害者・健常者の分類などとは関係がない。われわれは,次元の違う分類は別々にあつかうのが通例であるが,「女というものは……」とか,「老人はとかく……」とか,「だいたい黒人は……」「離婚した女は……」などというとき,あてはめるべきではない分類と重ね合わせていないか,よく考えてみるべきである。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 pp.208-209

工学部が置かれたのは日本が最初

 工学部という学部が大学におかれたのは,日本が世界で最初である。基礎科学の教育をがっちりやってそのうえで,技術に応用するという悠長な道は,明治初年の日本ではその余裕がなかった。すでに19世紀も後半に入って,ヨーロッパで「工学」が成立していたということもあり,日本では科学教育は,工学教室から出発したのである。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 p.201

分類方法は分類学者の数だけある

 極端にいえば,分類方法は分類学者の数だけあるといってもよいほどである。一応,主と属との関係だけは,,共通の認識があるといってもよいが,それも細かいところになると,種々の意見があってなかなか面倒である。どんどん品種改良をしていって非常に違うものができたとき,さしあたっては祖型がわかれば亜種にするが,わかっていないものは係争の種になる。つぎの世代で同種のものをつくることができれば種と認めるのが普通だが,同じイヌでも品種によって交配不可能なものもあり,逆にトラとライオンは別の種だが交配可能である。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 p.151

分析し,再構成する

 考察すること一般を,俗に「分析する」といったり(政治分析,経済分析,現状分析など),理解すること一般を「分かる」といったりするのであるが,ただ,やみくもに分析したり分解したりすることで,つまりバラバラにすることで「わかった」ということにはならない。分析といっても,分析することで原理に到達し,そこから再構成してみてはじめて,「わかった」ということになるのである。そしてこの基本線は,アリストテレスからデカルトまで,古典哲学から現代科学まで貫かれているといってよいであろう。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 p.73

イデア

 だから,原理はできるだけ単純で自明のものが望ましいのである。誰でも納得できるものが還元すべき既知のものとしては最適である。しかし,それは「わかる」ものとは限らない。というよりむしろ,分けることのできないもの,わからないものである。しかし,それを追い求めた究極にあるものは,いま手許にはないかもしれないが,かつては持っていたもの,ないし,かつては身近に自分もそのもとにあったものと考えることができる。
 いまはないにしても,追求する限りにおいて彼方にあるもの,ないしは,あったものを,われわれはいま持っている。これは「理念」と呼ばれる。プラトンがイデアと呼んだものである。芸術家が自分の理想とする作品を作ろうと努力して到達しえないとき,めざしている理想的なものはイデアである。技術者が完全なものをつくろうと努力して,到達しえないであろうけれども,彼が制作の過程で抱いている完全なものがイデアである。幾何学者は,感性的な世界には存在しえない直線や図形や比をあつかっている。彼のあつかう対象はイデアである。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 pp.61-62

対立する概念

 天と地,光と闇,昼と夜,太陽と月,というように対立するものが二分割の代表である。対立しているから,これらの2つ組のものを「対」という。ピュタゴラス派は,このような対の表をつくって十種類をあげている。有限と無限,奇数と偶数,一と多,右と左,男と女,静と動,直と曲,光と闇,善と悪,正方形と直方形である。
 これらは,誰にでも思いつく対の例であろう。しかし,じつはあらゆるものについて,対になるものが考えられるのである。とくに抽象概念のばあいはそうである。どうも人間はなんでも,対にして物事を考えてきたようなのだ。その起源はよくわからない。あるいは天と地が原型であるかもしれないし,男と女かもしれない。地方や時代によっては,敵と味方であったり,内と外であったりしたかもしれない。いつでもどこでもそうなのである。

坂本賢三 (2006). 「分ける」こと「わかる」こと 講談社 pp.39-40

操作的定義

 操作的定義の極端な例としてよく登場するのが,「知能とは知能テストで測定されるものである」という知能の定義である。心理学を初めて学ぶとき,この定義は非常に驚くべきものに感じられる。論理が逆転してみえるからである。つまり,知能を定義してからでないと,知能テストは作れないのではないだろうか。全くそのとおりであるが,「知能」という概念が整理され,知能研究者によってある程度の合意が得られれば,最終的な定義は測定方法によるのがもっとも望ましいのである。それによって,同じ概念が異なった意味で用いられることが回避できるからである。たとえば,数学的能力にすぐれた子供には,特殊な早期教育のチャンスを与えて,才能を開花させたほうがいいという意見があるとする。このときもっとも問題となるのは,「数学的能力にすぐれた子供」の定義である。これをきちんと定義するもっともよい方法は,たくさんの子供に対して全く同一の数学のテストを実施して,たとえば成績上位5%の範囲を「数学的能力に優れた子供」と定義することである。これが操作的定義である。このように,測定方法によって測定対象を定義するということは,極めて有用である。操作的定義は概念の公共性を保証するため,科学の多くの分野で用いられる。たとえば「1メートル」の定義は「メートル原器」という物差しによって定義されている。新行動主義者たちは,もともと物理学分野で提唱されていたこの「操作主義」を積極的に心理学に導入し,心理学で使用される諸概念を洗練させようとしたのである。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.136-137

心理学における統計学の誤解

 蛇足であるが,心理学で統計学がどのように生かされているかについて,大きな誤解をしている人がいるようである。これも心理学の間違ったイメージの原因の1つと考えられる。ある受験生の面接での発言がこの大発見(?)のもとになった。面接担当の教員(筆者)が「心理学では数学みたいなこともやるけれど,大丈夫ですか?」というような質問をした。それに対し受験生は「はい,心理学はデータと統計の学問ですから」と答えた。一見立派なやりとりであるが,筆者はこの受験生の答えに恐るべき誤解を嗅ぎとってしまった。それはプロ野球の野村監督のいわゆるID野球(「野球はデータや」)のような発想である。人の行動に関する膨大なデータを集め,それによって行動の意味や予測ができるようなデータベースを構築しているのが心理学だ,とこの受験生は思っていたのではないだろうか。つまり「2ストライク3ボールでは,打者は打っていこうという気持ちが強くなっているので,外角の落ちる球を投げればぼてぼてのピッチャーゴロで仕留めることができる」というたぐいの「データと統計」である。これを「心理学」に当てはめると,「一度彼女に振られた男は臆病になり,次の恋愛をするときには必要以上に相手に合わせようとし,その結果優柔不断と思われ,結局また振られることがある。その確率は統計によると約30%」ということになるだろうか。これはテレパシーの代わりの「統計」である。こういう法則は心理学には1つもありませんのでご注意を。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 p.117

一歩間違えれば差別へ

 優生学思想は母子の健康の増進や清潔な環境の整備,産児制限(家族計画)の思想の普及,健康な男女の組織的な「お見合い結婚」の推進など,プラスの側面も多く持っていた。しかし結局は「民族の血液の浄化」などという激烈なスローガンと結びついて,ナチスドイツによるユダヤ人の絶滅政策まで行きついてしまうのである。ガルトンの個人差研究は,心理学における知能検査や性格検査の開発へと発展していった。個人差研究は適切に用いられればすばらしいものであるが,常に負の側面を抱えざるを得ない。それは歴史がすでに十分以上に証明している。個人差研究が「個性の尊重」であるうちは美しいが,一つ間違えばそれはすぐに差別へと落ち込んでいくのである。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.115-116

心理学のおもしろさは方法論にある

 ちなみに,こうした行動実験のノウハウは心理学だけが持つものである。心理学以外で,人間や他の動物の行動をきちんと精密に測定できる分野はほとんどない。しかもこれまで述べた例からわかるとおり,心理学の測定方法は創意と工夫に満ちている。心理学の魅力の大部分は方法の魅力であると筆者は思う。その方法論によって心理学は生理学や神経科学に貢献している。だから脳科学がいくら進歩しても心理学はなくならない。というかむしろ逆で,脳科学の進歩には心理学の方法が不可欠なのである。たとえば最近では,遺伝子組み換えによって特定の神経伝達物質の生成に影響を与え,記憶の生理学的基盤を明らかにしようとする研究が盛んに行われている。これが成功すれば「頭のよくなる薬」の開発につながるので,膨大な研究費が注ぎ込まれている。しかしそこでどんなに高度な生化学的操作が行われても,実験動物の記憶能力が実際に向上したかどうかを評価するのは,行動実験によってのみ可能なのである。つまり遺伝子を組み換えた実験動物に実際に「迷路学習」などをさせて,その成績が向上していることを示さなければならない。たとえ遺伝子組み換えによって記憶に関わる脳の部位が増大することが認められたとしても,実際の学習成績が向上しなければ意味がない。このように心理学の方法は,脳科学に従属するのではなく,逆に脳機能の理解に不可欠の重要な技術を提供するのである。
 以上のとおり,心理学の目的は,主観的な世界で生じる精神の働きを客観化することである。しかし心理学には何の秘術もないので,精神の働きを直接に知ることはできない。そこで心理学は,精神機能の反映である「精神作業の成績」を研究対象とする。そこにおいて心理学研究の魅力は,方法のおもしろさ,巧妙さによるところが大きい。考え抜かれた納得できる科学的方法によって,主観的世界を研究すること。それが心理学研究の醍醐味だ。それは世間的なイメージよりもはるかに科学的思考に満ちており,また少々窮屈なほど「方法コンシャス」でもある。これが現代心理学の実際のすがたである。このように心理学は極めて科学的であり,何の秘術も持たない。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.63-64

心理学は「心理+学」ではなく「心+理学」

 さて,ほとんどの人は,心理学とは「心理の学」だと思っているだろう。建築学が建築の学であり,経済学が経済の学であるなら,同様に心理学が心理の学であることは全く明らかなことに思える。しかし本当にそうだろうか。では「心理」とは何だろうか。『広辞苑』では「心の働き。意識の状態または現象」と定義されている。日常的な用法では,心理という言葉は,特定の人が特定の時に抱いている心的状態,特に感情的な状態を意味するようである。たとえば「電車の中で大声を出して携帯電話で話している人の心理は不可解だ」というふうに,「心理」という言葉はほとんど「そのとき考えていること」や「気分」と同一の意味で用いられている。つまり心理学が心理の学なら,それは結局「たった今あの人は何を考えているか」を知ることのできる学問というニュアンスを持ってしまう。つまり心理学はテレパシーのような学問だということだ。実際に,心理学科の学生がサークルなどの自己紹介で「専攻は心理学です」というと,必ず「じゃあ,今私が何を考えているのかわかるんですね?!」という途方もなく居心地の悪い質問を受ける。心理学が「心理の学」なら,この質問はごく当然だろう。
 しかしあたりまえのことだが,心理学はテレパシーのようなものではない。つまり心理学は「心理の学」ではない。少なくとも大学で学ぶ心理学は心理の学ではない。大学で学ぶ心理学は「心の理学」である。「の」の字の位置を変えただけで,心理学という言葉のニュアンスが全く変わってしまうことに注目していただきたい。すでに述べたように,心理学という言葉は,Psychologyという言葉を構成するプシケーとロゴスを,ほぼ忠実にそれぞれ「心」と「理」という漢字におきかえている。つまりもともと「心理」というひとまとまりの概念ではなく,「心+理」という構造になっているのである。「理学」とは結局「科学」のことだから,心の理学とは人間の精神を科学的に探究しようとする学問ということになる(もっとも明治の初期には「理学」はPhilosophy(哲学)の訳語の1つだったらしい。だから最初は心理学という語はむしろMental Philosophyの訳語としての意味合いが強かったのかもしれない)。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 pp.5-7

「心理学」の翻訳

 心理学という言葉は,明治期に作られた翻訳語である。英語ではPsychologyというが,これをほぼ忠実に漢字におきかえてある。Psychologyという英語はギリシア語由来で,その成り立ちは,心や魂といった意味のプシケー(Psyche)と,言葉や論理を意味するロゴス(Logos)を組み合わせたものである。したがってほぼ「心」と「理」という漢字の組み合わせに近いと言える。『広辞苑』(新村出編)によれば,心理学という日本語はPsychologyやMental Philosophyという英語から西周が作ったとある。西は幕末から明治初期にかけて非常に多くの外国語を翻訳し,当時の日本が西洋文明を摂取する上で大きな役割を果たした人物である。ちなみに,プシケーとはギリシア神話に登場するキャラクターである。昔美しい三姉妹がいて,蝶の羽を持つ末娘のプシケーはとりわけ美しかった。人々はプシケーを崇拝し,美の女神ビーナスに対する信仰を忘れた。ビーナスは激怒し,恋愛の神であるキューピットに命じてプシケーを弓で打たせ,恋の虜にしようとした,云々という神話である。このプシケーという語は,もともと「息」という意味も持つという。

道又 爾 (2009). 心理学入門一歩手前:「心の科学」のパラドックス 勁草書房 p.5

ジョーク

 「ボクシングは金持ちに務まる職業じゃない。命懸けの危険なビジネスだからね。裕福な人間がグローブを嵌めるなんてのはジョークさ」

(by マーベラス・マービン・ハグラー)

林 壮一 (2006). マイノリティーの拳:世界チャンピオンの光と闇 新潮社 p.208.

チャンピオンなんて珍しくない

 ボクシングの本場,アメリカ合衆国において「世界チャンピオン誕生」とは,それほど大きなニュースではない。日本のように「我が国,○○人目のチャンピオン誕生!」などと報じられることも無い。
 だからこそ1本のベルトだけでは満足せず,多くの王者はタイトル統一を目指す。最近は,同じ階級の主要タイトル3本(WBA,WBC,IBF)を手にして初めてファンに認知される傾向にある。
 世界チャンピオンが珍しくないという事実は,即ち,それほど潤わないことを示す。悠々自適の身となり綺麗に引退できる男は稀で,地位やプライドを抜きに,糊口を凌ぐ道としてリングにしがみ付ファイターが何人も蠢いている。

林 壮一 (2006). マイノリティーの拳:世界チャンピオンの光と闇 新潮社 p.62.

なぜ日本にはわざわざ相続性を払う人がいるんですか?

 日本の税法においては,1年を超えて日本国内に居所を有しないか,事前にそのことが明らかな場合は「非居住者」と見なされる。たとえば,子どもが1年超の契約でアメリカに赴任するなら,日本を出発したその日から日本の非居住者になる。
 一方,アメリカの税法では相続(贈与)税は財産を贈った側が支払う。受贈者がアメリカ国内に居住していても,贈与者がアメリカの非居住者で,米国債などの金融資産を相続・贈与した場合は,アメリカ側で納税の必要がない。
 おのふたつを組み合わせると,きわめて簡単に贈与税を非課税にできる。プライベートバンクは,受贈者となる資産家の子女にアメリカ国内で勤務する仕事を紹介する(留学は不可)。次いで,贈与すべき財産をドルに換えて米国債を購入し,非居住者(アメリカの居住者)である子女に贈与する。たったこれだけのことで,たとえ何百億円,何千億円の財産であっても贈与税を納める必要はないし,そのうえすべての手続きが合法なので,将来,日本国内に資産を戻しても課税されるおそれはない。スイスのプライベートバンカーが「なぜ日本にはわざわざ相続性を払う人がいるんですか?」と聞いたのは,このことを指している。「日本は相続税率が高い」とずっと批判されてきたが,多くの場合,納税者は支払う必要のない税金を納めてきたのである。

橘 玲 (2006). マネーロンダリング入門:国際金融詐欺からテロ資金まで 幻冬舎 pp.210-211

外国人投資家は日本人

 インターネットで検索すると,オフショア法人設立をうたう多数の香港業者が表示される。なかには日本語ページを持つ業者もあり,法人設立まですべて日本語のEメールですんでしまう。費用は,銀行口座込みで20万〜30万円程度だ。
 香港経由のBVI法人は,その性格上,香港内の金融機関に口座がないと役に立たない。かつては最大手の香港上海銀行に口座開設するのがふつうだったが,マネーロンダリング規制の強化によって営業実態の証明が必要になり,最近ではより敷居の低いスタンダードチャータード銀行などが利用されている。
 こうした香港の金融インフラを,バブル崩壊後も現地に残った日本人証券マンが利用し,オフショアを通じた証券投資スキームをつくりあげた。日本と香港には1時間の時差しかないので,投資家は国内取引と同様に気軽に電話で注文を出せる。売買以来はオフショア法人から香港の証券業者を経由して日本の証券業者に発注され,完璧な匿名性に守られて執行されるのである。
 こうした手法が人気を集めた結果,いまでは日本企業の大株主にわけのわからないカタカナ名のペーパーカンパニーが名前を連ねるようになった。これを経済紙誌は「外国人投資家」と呼ぶが,その多くは日本人である。

橘 玲 (2006). マネーロンダリング入門:国際金融詐欺からテロ資金まで 幻冬舎 pp.196-197

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