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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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オフレコの意味

 先日あるアメリカ人の記者と話し合った。私は,キッシンジャーが,日本の記者はオフレコの約束を破るからと会見を半ば拒否した事件を話し,これは,言論の自由に反することではないか,ときいた。これに対して彼は次のようなまことに面白い見解をのべた。
 人間とは自由自在に考える動物である。いや際限なく妄想を浮べつづけると言ってもよい。自分の妻の死を願わなかった男性はいない,などともいわれるし,時には「あの課長ブチ殺してやりたい」とか「社長のやつ死んじまえ」とか,考えることもあるであろう。
 しかし,絶えずこう考えつづけることは,それ自体に何の社会的責任も生じない。事実,もし人間が頭の中で勝手に描いているさまざまなことがそのまま活字になって自動的に公表されていったら,社会は崩壊してしまうだろう。
 また,ある瞬間の発想,たとえば「あの課長ブチ殺してやりたい」という発想を,何かの方法で頭脳の中から写しとられたら,それはその人にとって非常に迷惑なことであろう。というのは,それは一瞬の妄想であって,次の瞬間,彼自身がそれを否定しているからである。もしこれをとめたらどうなるか,それはもう人間とはいえない存在になってしまう。
 「フリー」という言葉は無償も無責任も意味する。いわば全くの負い目をおわない「自由」なのだから,以上のような「頭の中の勝手な思考と妄想」は自由思考(フリー・シンキング)と言ってもよいかもしれぬ。いまもし,数人が集まって,自分のこの自由思考をそれぞれ全く「無責任」に出しあって,それをそのままの状態で会話にしてみようではないか,という場合,簡単にいえば,各自の頭脳を1つにして,そこで総合的自由思考をやってみようとしたらどういう形になるか,言うまでもなくそれが自由な談話(フリー・トーキング)であり,これが,それを行[な]う際の基本的な考え方なのである。
 従って,その過程のある一部,たとえば「課長をブチ殺してやりたい」という言葉が出てきたその瞬間に,それを記録し,それを証拠に,それを証拠に,「あの男は課長をブチ殺そうとしている」と公表されたら,自由な談話というもの自体が成り立たなくなってしまう。
 とすると,人間の発想は,限られた個人の自由思考に限定されてしまう。それでは,どんなに自由に思考を進められる人がいても,その人は思考的に孤立してしまい社会自体に何ら益することがなくなってしまうであろう。
 だからフリー・トーキングをレコードして公表するような行為は絶対にやってはならず,そういうことをやる人間こそ,思考の自由に基づく言論の自由とは何かを,全く理解できない愚者なのだ,と。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.309-311
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実際に不合理

 すべての組織で,その細部とその中での日常生活を規制しているものは,結局,その組織を生み出したその社会の常識である。常識で判断を下していれば,たいていのことは大過ない。常識とは共通の感覚(コモン・センス)であり,感覚であるから,非合理的な面を当然に含む。しかしそれはその社会がもつ非合理性を組織が共有しているがゆえに,合理的でありうる。
 しかし輸入された組織は,そうはいかない。その社会の伝統がつちかった共通の感覚は,そこでは逆に通用しなくなる。従って日本軍は,当時の普通の日本人がもっていた常識を一掃することが,入営以後の,最初の重要なカリキュラムになっていた。
 だがこの組織は,強打されて崩れ,各人が常識で動き出した瞬間に崩壊してしまうのである。米英軍は,組織が崩れても,その組織の基盤となっている伝統的な常識でこの崩壊をくいとめうる。この点で最も強靭なのはイギリス軍だといわれるが,考えてみれば当然であろう。だが,日本軍は,全くの逆現象を呈して,一挙にこれが崩壊し,各人は逆に解放感を抱き,合理的であったはずの組織のすべてが,すべて不合理に見えてしまう,----そして確かに,常識を基盤にすれば,実際に不合理だったのである。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.284-285

無敵信仰

 戦後三十年,日本の経済的発展を支えていたものは,面白いことに,軍の発想ときわめて似たものであった。日本軍も,明治のはじめに,その技術と組織を,いわばあらゆる面での「青写真」を輸入して急速に発展していった。その軍事成長の速さは,絶対に,戦後の経済成長の速さに劣らない。否,それより速かったかも知れぬ。
 その謎はどこにあったのか。輸入された「青写真」という制約の中で,あらゆる方法で“芸”を磨いたからである。そしてその“芸”が“名人芸”に達すれば,青写真の制約を乗り越えうると信じた。そしてそう信じたがゆえに「無敵皇軍」と称し,これが誇大表現であるにせよ,「無敵」に到達しうると信じたことは事実である。あらゆる“前提”は一切考慮せずに。
 戦後も同じではなかったか。外国の青写真で再編成された組織と技術のもとで,日本の経済力は無敵であると本気で人びとは信じていたではないか。今でもそう信じている人があるらしく,公害で日本が滅びるという発想はあり得ても,公害すら発生し得なくなる経済的破綻で日本が廃滅しうると考えている人はいないようである。無敵日本経済の信仰は,まだまだつづくことであろう----石油問題がその前提の1つをゆるがしているのに。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.198-199

注)上記引用は,1975〜1976年に連載された文章である。

制約の中で“芸”をみがくという行き方

 日本刀対日本刀なら,もちろん武芸だけで優劣がきまる。同じことは小銃についてもいえ,双方三八式歩兵銃なら,“銃芸”のまさっている方が勝つ。また両者同一芸なら数の多い方が勝つ。芸が同じでまた数が同数なら,数の“運用”が巧みな方が勝つ。これはきまりきった原則であり,要は,この要素の組み合わせ方とこれを習熟する訓練だけで勝敗がきまることになる。
 従ってもしこの“芸”がTさんのチャンドラにおける“印刷芸”のように極致にまで達すれば,三八式歩兵銃一丁は優に軽機に対抗できるであろう。そしてそういった“芸の極致”の数の運用もまた“芸の極致”に達していれば,家康の小牧・長久手の勝利と同じような形となり,三八式歩兵銃しかもたぬ一個大隊が重・軽機をもつ一個連隊を敗走させうることもあるであろう。そして,歩兵も砲兵もみなその極致に達すれば,その軍隊は無敵であろう。これがいわば陸軍の公式的発想の基本である。
 そしてそこにあるものはやはり,徳川鎖国時代から一貫して流れている伝統であった。そして,これを伝統と考えて客体化して再把握するに至っていないことが,この行き方への盲従となり,絶対化となった。
 今でも,日本軍は強かったと主張する人の基本的な考え方は,この伝統的発想に基づいており,しかもそれが伝統的な発想のパターンに属する一発想にすぎないと思わずに絶対化している。そして,後述するように,日本の敗戦を批判する者も,実は,同じ発想に基づいて批判しているのである。
 この伝統的行き方は,一面,陸軍の宿命だったともいえる。というのは,上記の伝統を最も継承しやすいのが,徳川的伝統的思考とその戦闘技術を不知不識のうちに摂取せざるを得なかった陸軍であったこと,そして同時に,日本の国力と石油資源の皆無はその大規模な機械化を不可能にしたため,否応なく外的制約が固定せざるを得なかったことにある。
 陸軍の散兵線は,昭和12年ごろまで,日露戦争当時と全く同じの,人間距離六歩の一線の散兵線方式をとっていた。簡単にいえば,チャンドラを変え得ないから,それを活用する方式を変え得ず,その制約の中で“芸”をみがくという行き方しかできなかったわけである。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.184-185

普遍性とは何か

 一体「普遍性」とは何であろうか。文化とは元来個別的なものであり,従ってもし日本文化が普遍性をもちうるなら,それは日本人の1人1人が意識的に自らの文化を再把握して,日本の文化とはこういうものだと,違った文化圏に住む人びとに提示できる状態であらねばならない。それができてはじめて,日本文化は普遍性をもちうるであろう。
 そしてそれができてはじめて,相手の文化を,そしてその文化に基づく相手の生き方・考え方が理解でき,そうなってはじめて,相互に理解できるはずである。そしてそれができない限り,自分の理解できないものは,存在しないことになってしまう。従って,日本軍には,「フィリピン人」は存在しなかった。そしてそこにいるのは,「日本人へと矯正しなければならぬ,不満足なる日本人」一言でいえば「劣れる亜日本人」だったのである。
 ではどう矯正しようというのか。本気で矯正するなら,自己の文化を客体化し,それに支配されるのを正常な状態と規定した上で,相手にこれを説明し納得させねばならない。一言でいえば,まず相手を理解した上での「言葉による日本文化の伝道」しかない。しかしそれは,スペイン語・英語・タガログ語のどれ一つ出来ず,第一,そういう問題意識すらない者には,はじめから不可能である。
 それならば相手は別の文化圏に住む者と割り切って,何とかそれと対等の立場で「話し合う」という方向に向くべきだが,自己の文化を再把握していないから,それもできない。
 そこで自分と同じ生き方・考え方をしないといって,ただ怒り,軽蔑し,裏切られたといった感情だけをもつ。フィリピンにおける多くの悲劇の基本にあったものは,これである。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.124-125

戦犯容疑者・戦犯者の収容所

 とはいえ,ここは実に奇妙な「社会学的実験」の場であり,われわれは一種のモルモットだったわけである。
 一体,われわれが,最低とはいえ衣食住を保障され,労働から解放され,一切の組織からも義務からも解放され,だれからも命令されず,一つの集団を構成し,自ら秩序をつくって自治をやれ,といわれたら,どんな秩序をつくりあげるかの「実験」の場になっていたわけである----別にだれも,それを意図したわけではないが。
 一体それは,どんな秩序だったろう。結論を簡単にいえば,小松氏が記しているのと同じ秩序であり,要約すれば,一握りの暴力団に完全に支配され,全員がリンチを恐怖して,黙々とその指示に従うことによって成り立っている秩序であった。そして,そういう状態になったのは,教育程度の差ではなかったし,また重労働のためでも,飢えのためでもなかった。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.112-113

最も深い「精神の創(きず)」

 人間にとって,「苦しかったこと」の思い出は,必ずしも苦痛ではない。否,むしろ楽しい場合さえある。老人が昔の苦労を語りたがり,軍人が戦場の苦労を楽しげに語るのは,ともにこの例証である。従って,人にとって「思い出すのもいやなこと」は,必ずしも直接的な苦しみではない。
 結果的には,自分にとって何ら具体的な痛みではなかったことでも,それがその人間にとって最も深い「精神の創(きず)」,永遠に癒えず,ちょっと触れられただけで,時には精神の平衡を失うほどの痛みを感じさせられる創になっている場合も少なくない。
 以上のことは,人が,そのことを全く語らないということではない。語っても,その本当の創には,本能的に触れずに語る。収容所のリンチについては時としては語られることはあっても,それを語る人は,なぜそれがあり,自分がなぜ黙ってそれを見ていたのかは,語らない。そして,だれかがその点にふれると,次の瞬間に出てくるのはヒステリカルな弁明であっても,なぜその事態が生じたかの,冷静な言葉ではない。
 時には一見冷静な分析のように見えるものもある。だがそれを仔細に検討すれば,結局は一種の責任転嫁----戦争が悪い,収容所が悪い,米軍が悪い,ソヴェト軍が悪い,等々である。しかし,同じ状態に陥った他民族が,同じ状態を現出したわけではない,また同じ日本人の収容所生活でも,常に同一の状態だったわけではない,という事実を無視して----。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.107-108

自己認識のあり方

 戦闘状態の人間は,大体において無我夢中であり,一見冷静に見える者も,常軌を逸していることは否定できない。特に銃弾が,しだいに身に迫ってきて,空を切る音がピュッ,ピュッからパシッ,パシッと変わったり,平ぐものように這いつくばっている凹所のすぐ横のボサ(小灌木)の小枝が,一定の高さで,鎌で刈られるようにきれいに機銃弾ではじきとばされていくのを,わずかに顔を横にむけて横目で見上げているような状態では,戦闘の全般をパノラマのように頭に浮かべ,その中における自己の位置を正確に位置づけるなどということは,はじめから不可能である。
 それは,自己の戦死の情況を自ら叙述することが不可能だ,という状態に似ている。ピュッピュッかパシッパシッとなる。それから先を知っている人間は,大体この世にいない。だが奇蹟的に,それを知りかつ生きている人間がいないわけではない。
 先日小野田寛郎氏に会ったとき,氏は,奇蹟的に助かったある一瞬,銃弾が「見えた」と語った。そのとき私は,氏と全く同じことを海軍陸戦隊の一兵曹が語ったことを思い出した。ピュッもパシッも,その音が聞こえたことは自分が生きている証拠,そして銃弾はすでに過ぎさった証拠である。どのように身近を通ろうと,耳許をかすめようと,横を通過する銃弾は,音だけで,目には見えない。しかし自分の正面へまっすぐ進んでくる弾丸は,白刃が目にもとまらぬ速さでまっすぐ自分に向ってくるように,一瞬白く見えるが,音は聞こえない,と。
 この兵曹の場合は,その無音の白刃が,胸元に右手でかまえていた拳銃に命中した。銃弾は破片となってとび散り,彼の右目は,半ば失明していた。私には,こういう体験はない。だがこれに近い状態にある人間には,戦闘全般の情況など全然脳裏にないことはわかる。彼が生きているのは,そこの全般的情況とは別の世界である。
 戦記などに時々,激烈な戦闘状態にある自分を客観的に描いているものがあるが,私などには,一体どうやったらそういうことが可能なのか,さっぱりわからない。本当に戦闘を見たなら,その人が見た位置が明らかでなければおかしい。もっともフィクションなら別だが----。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.86-88

機械的な拡大再生産的繰り返し

 そしてこのことを非常に大がかりにやったのが,「バシー海峡」であった。ガソリンがないといえば反射的に技術者を送る。相手がそこへ来るといえば,これまた反射的にそこへ兵力をもっていく。そして沈められれば沈められるだけ,さらに次々と大量に船と兵員を投入して「死へのベルトコンベア」に乗せてしまう。
 それはまさに機械的な拡大再生産的繰り返しであり,この際,ひるがえって自らの意図を再確認し,新しい方法論を探究し,それに基づく組織を新たに作りなおそうとはしない。むしろ逆になり,そういう弱気は許されず,そういうことを言う者は敗北主義者という形になる。従って相手には,日本の出方は手にとるようにわかるから,ただ「バシー海峡」で待っていればよい,ということになってしまう。
 この傾向は,日露戦争における旅順の無駄な突撃の繰り返しから,ルバング島の小野田少尉の捜索,また別の方向では毎年毎年繰り返される「春闘」まで一貫し,戦後の典型的同一例をあげれば「60年安保」で,これは,同一方法・同一方向へとただデモの数をますという繰り返し的拡大にのみ終始し,その極限で一挙に崩壊している。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.66-67

制海権のないバシー海峡を,兵員を満載した船が進んだ

 アウシュヴィッツの写真を見ると,確かに悲惨であり,あれもカイコ棚である。しかしあのカイコ棚には,寝るだけのスペースはあった。船にはガス室はあるまい,と言われれば確かにその通りだが,しかし,この船に魚雷があたったときの大量殺戮の能率----三千人を十五秒----は,アウシュヴィッツの1人1分20秒とは比較にならぬ高能率である。でも,魚雷はガス室ほど確実に来るわけではない,という人もあるかもしれない。しかし,もう一度いう。では何隻の船が終戦時に残っていたのかと。結局すべての船が,早かれ遅かれ,最終的には,世界史上最大能率の大量溺殺機械として,活用されただけである。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 p.62

組織に制御されて自己規定している

 全体の中の自分を見なおす----と言ってしまえば簡単だが,これは実際には不可能に等しい。たとえばあるサラリーマンが,地球上の一切を正しく把握し,その正しく把握した地球上における日本国の位置を正しく措定し,その中で自分が所属する企業を正しく位置づけし,ついでその企業における自己の位置と役割を正しく認識して,それに基づいて自己規定をする,などということは実際にはできない。
 現在は言論も自由,報道も自由,自由なる新聞は毎日のように正しい情報をみなに提供しているはずである。しかし,それだからといって,人びとに前記の自己規定ができるかといえば,もちろん否である。人は大体,自分の属している組織の中で,有形無形の組織内の組織に制御されて自己を規定している。現実の行動の規範はそれ以外にない。

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 p.39

日本が戦争に負けた理由

 故小松真一氏が掲げた敗因二十一ヵ条は,次の通りである。

 日本の敗因,それは初めから無理な戦いをしたからだといえばそれにつきるが,それでもその内に含まれる諸要素を分析してみようと思う。
1.精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事。然るに作戦その他で兵に要求される事は,総て精兵でなければできない仕事ばかりだった。武器も与えずに。米国は物量に物言わせ,未訓練兵でもできる作戦をやってきた。
2.物量,物資,資源,総て米国に比べ問題にならなかった。
3.日本の不合理性,米国の合理性
4.将兵の素質低下(精兵は満州,支那事変と緒戦で大部分は死んでしまった)
5.精神的に弱かった(一枚看板の大和魂も戦い不利となるとさっぱり威力なし)
6.日本の学問は実用化せず,米国の学問は実用化する
7.基礎科学の研究をしなかった事
8.電波兵器の劣等(物理学貧弱)
9.克己心の欠如
10.反省力なき事
11.個人としての修養をしていない事
12.陸海軍の不協力
13.一人よがりで同情心が無い事
14.兵器の劣悪を自覚し,負け癖がついた事
15.バアーシー海峡の損害と,戦意喪失
16.思想的に徹底したものがなかった事
17.国民が戦いに厭きていた
18.日本文化の確立なき為
19.日本は命を粗末にし,米国は大切にした
20.日本文化に普遍性なき為
21.指導者に生物学的常識がなかった事

山本七平 (2004). 日本はなぜ敗れるのか----敗因21ヵ条 角川書店 Pp.35-36

プラシーボ・ノシーボは非意識過程

 しかし,ノシーボ効果やプラシーボ効果が意識的なレベルで働いている,あるいはプラシーボやノシーボが効果を発揮するためにはそうなると信じなければならない,という結論にとびつくべきではない。たとえば,動物実験では,動物もプラシーボ効果とノシーボ効果の両方を体験することが示されている。ある研究で,ラットに定期的に免疫抑制剤を注射し,同時にサッカリンで味をつけた水を与えた。しばらくたってから,同じようにラットに味つきの水を与えるが,今度は薬はなしにした。その後,ラット(およびサッカリンを与えていない第二のグループ)の免疫系を調べるために細菌を注射した。サッカリン味のする水と免疫抑制剤の組み合わせで条件づけをおこなわれたラットは,もはや免疫抑制剤を投与されていないにもかかわらず,他のグループと比較して,細菌に対する抗体のレベルが有意に低かった。この場合,サッカリン液と有害な薬剤とのあいだにラットが形成した連想は,薬の使用が中断されて何日もあとにさえ,免疫系への薬の影響を体験するよう彼らに「教えこんだ」ように思われる。この例では,味つきの水はノシーボであると考えることが十分にできるだろう。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.317-318

「バスカーヴィル家の犬効果」とは

 とりわけ興味深い自然のノシーボ実験はシャーロック・ホームズの小説にちなんで「バスカーヴィル家の犬効果」と呼ばれているもので,この小説では,チャールズ・バスカーヴィルはストレスによって誘発された心臓発作で死ぬ。この研究は,特定の言語的な偶然の一致に注目したものである。広東語,北京語,日本語では,「四」と「死」はほとんど同じ発音である。その結果,多くの中国人,日本人は4という数字をきわめて不吉だと信じている。デイヴィッド・フィリップスとその共同研究者たちは,1973年から1998年のあいだの日別の死亡率を,20万人以上の中国人,日本人,アメリカ人について調べた。各月の日ごとの慢性心臓病による死亡数を比較すると,4日は他の日に比べて死亡率が13%も高いことを見いだした----これは統計的に有為な数値である。
 カリフォルニアでは,膨大な数のアジア人口が集中したことで迷信的なおそれが広まりやすくなったのか,影響はさらに大きかった。4日の慢性心臓病による死亡率は他の日の平均よりも27%も高いのだ。コーカサス人種系のアメリカ人では,このような心筋梗塞による死亡率のピークが4日に見られることはない。フィリップスらは,4日のピークの原因となるさまざまなもの,すなわち食事,運動,アルコール摂取量,あるいは瞑想の養生法の変動に関連するものを排除してもピークが残ることから,心筋梗塞による死亡率の増大は心理的ストレスによるものだと結論した。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.312-313

ノシーボ効果

 ノシーボ(すなわち反プラシーボ)効果は,プラシーボ効果ほど広くは知られていないが,「邪悪な双子」と呼ぶことができる。プラシーボ効果は,患者は何らかの処置の結果として症状が改善することを予想し,のちに実際に改善される。ノシーボ効果については,患者はよくない結果になることを予想し,のちに実際に悪くなるのだ(「病いは気から」)。ノシーボは通常,医師がサディスティックでない限り,意図的に施されることはないが,配慮の態度を欠いた医師や,あるいは心配しているふりさえできない一部の医師が与えるメッセージのなかにノシーボ効果が内在していることがある。プラシーボ効果に関するデータの多くは,プラシーボを対照群として用いる臨床試験で蓄積されている。ノシーボにはそのような使い道がないので,それに関するデータは非常にわずかであろうと予想される。実際に,「ノシーボ」というキーワードで,メドライン・データベース[医療関連文献のデータベース]を検索するとたった33件しかヒットしない。これに対して「プラシーボ」をキーワードにした場合には7万件以上ヒットするのである(ただし,この比較はあまり額面通りに受け取るべきではない。なぜなら,負のプラシーボ効果について書いている研究者のなかに,「ノシーボ」という言葉を使わない人がいるかもしれないからだ)。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.311-312

プラシーボ効果はイボによく効く

 プラシーボはイボの治療にきわめて有効であることが示されている。しかし,イボは明らかに主観的な疾患ではなく,ウイルスによって引き起こされるものである。オーストラリアの医師F・E・アンダーソンによれば,あらゆる病気のなかでイボの民間療法がもっとも多いが,それがプラシーボによく反応するものだとすれば,驚くにはあたらない。イボの民間療法のなかでも奇妙なものには,ほかの誰かにイボを「売って」もっていってもらう,ブタの脂肪でこする(なんとフランシス・ベーコン(!)によって示された),あるいはひそかに私生児の父親にこすりつける,といったものがある。イボは大人よりも子どもにはるかに頻繁に見られ,12〜16歳にその出現のピークがある。それは全身のどこにでもできるが,もっとも多いのは手である。
 イボの3分の2は2年ほどで自然に消失するが,その理由はわかっていない。治療は皮膚に適用されるさまざまな局所薬剤が用いられ,外科的手術もおこなわれる。ある程度の成功を収めてきたイボを消すテクニックの1つに,催眠暗示があるが,これをプラシーボ処理の一種とみなす人がいるかもしれない。催眠術を用いる方法を批判する人のなかには,催眠のあとでの自然治癒の可能性を排除できないと示唆する人もいるが,しかし同じことは,他のいかなる治療法についても言える。いくつかの研究で報告されているところでは,催眠療法によるイボの治癒率は手術によるものに匹敵する。ある古典的な研究には,体の両側にイボをもつ患者たちが参加している。英国の医師A・H・C・シンクレア=ギーベンは,体の片側にあるイボ----より重症な側のイボ----を処置するのに催眠暗示を用いた。催眠治療してから5〜15週後に,処置された側のイボは消えたが,反対側のイボは10人の患者中,9人で残っていた。この結果を,自然治癒の可能性ありというのは非常にむずかしい。色をつけたただの水を患部に塗ると言う,興味深く,しかも有効なイボのプラシーボ処置の例もある。もちろん,患者にはその処置がプラシーボだとは教えられておらず,処置は信頼を与える形でなされなければならない。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.290-291

プラシーボ効果を有効にする要因

 プラシーボの有効性は,プラシーボの性質や患者の性質,およびその他多くの要因にも依存している。たとえば,次にあげるような状況の下で,プラシーボがもっとも有効であることがわかっている。

・思いやりがあり,熱心で,親切で,その治療法を信じている医師
・楽天的で,医師と治療法を信じ,1つの治療法に固執することができる患者
・信頼性があり,患者とその症状に適したプラシーボ
・うつ病,不安,およびとりわけ慢性疼痛のように,軽微で,主観的で,時間とともに変化するような症状

 慢性疼痛の痛みには心理学的な次元が重要であることは,医学の領域では広く知られている。医師が慢性疼痛の患者に「どんなことをしでかして,そんな罰を受けているんですか」と質問したという古いジョークがある。プラシーボ効果の大きさは患者のある種の特性に依存しており,それ以外のものには関係ないようだ。研究によれば,たとえば知能や患者の性格型には依存しないことが示されている。むしろ,プラシーボの有効性は,それが使われる設定と,その人物の個人的,文化的な環境がはるかに大きく依存するように思われる。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.281-282

プラシーボの意味

 プラシーボ(placebo)という用語は,「私は喜ばせるでしょう」(この一句の含みは,「騙すことによって,私は喜ばせるでしょう」である)という意味の,死者を讃えるラテン語の晩禱の詩の翻訳をもとにして,19世紀に英語にとり込まれた。プラシーボ,および患者を幸福に保つために薬を処方するという医師たちの考え方には,医学の長い歴史がある。実際に,プラシーボを広範に研究したアーサー・シャピロとエイレン・シャピロという2人の医師は,「医療の歴史は最近まではおおむねプラシーボ効果の歴史であった」と述べている。この異論の多い仮説は,長年にわたって集められてきた民間薬のなかに有効な治療薬がたくさん見つかるのではないかという一部の人々の意見に公然と反対するものだ。しかしながら,シャピロたちによれば,太古の世界から伝えられてきた治療法には5000近くの薬が含まれるが,「ほとんどすべてがプラシーボで,ごく少数の例外も,可能性はあるが見込みの少ない憶測上のものにすぎない」と言う。
 実際に,科学的医学の時代以前には治療法の多くはプラシーボよりも悪く,瀉血,消毒していない針を用いた針治療,毒物,および不必要な外科手術など,明白に体に有害なものであった。医学はここ150年間に長足の進歩をとげ,病原菌が多くの病気を引き起こすという発見と,その後の生化学や遺伝学の発達をもたらしたが,20世紀に入ってもしばらくのあいだ,ほとんどの治療法はプラシーボでありつづけた。実際に,1950年という最近でさえ,『英国医学雑誌』の編者の言葉によれば,その当時に施された医療のおよそ40%はプラシーボとして用いられていたのである。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.277-278

宇宙人に会えない理由

 大多数の天文学者は,宇宙人の来訪と政府による隠蔽という考えをまったくばかげたものとみなしているが,宇宙のどこかに他の文明が存在する可能性は,はるかに抵抗なく受け入れている。故カール・セーガンと同じように,われわれの銀河系だけでも100万ないしはそれを上回る数の知的文明が存在するかもしれないと楽観的に考える科学者もいる。その一方,故エンリコ・フェルミと同様に,もっと慎重な科学者もいる。フェルミはずばり問う。「存在すると言うのなら,どこにいるのか?」フェルミは,進歩した文明のなかには,いつかは恒星間飛行をマスターするものがあるのは確実だろうから,宇宙人にお目にかかったことがないということは,次のいずれかを意味すると推論した。

1. 知性をもつ宇宙人はいない。
2. 恒星間飛行は不可能である。
3. どの地球外文明も,宇宙飛行は骨折り損だとの判断を下した。
4. 知的文明は,恒星間飛行が可能になる時代を迎えられるほど長くは存続できない。

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 p.236

フリン効果の原因:フィードバック効果

 ジェームズ・フリン自身は,自らの名が冠せられたこの効果の意味について考えを変えたように思われる。フリンはかつて,IQの長期的な上昇は実社会の知的能力の向上とは関係がなく,それがどう説明できるかは不確かなままだという意見だった(フリンが懐疑的だった理由の1つは,もし環境条件の変化で,ある世代から次の世代へ平均10ポイントのIQ値の上昇を説明しなければならないとすると,そうした変化は信じられないほど大きなものでなければならないということであった)。
 もっと最近になってフリンは,ブルッキングズ研究所のウィリアム・ディケンズとチームを組み,IQ得点の上昇を説明するための特別な数学モデルを提案した。このモデルで,フリンとディケンズは,IQ得点の上昇は,実は時代につれての認知能力の向上を意味しているのではないかと示唆した。フリンとディケンズは,フィードバック機構により,前向きな内的・外的変化が個人の知的能力を高めるようなさらなる前向きな変化を生み出し,各個人の信用と機会が増大するにつれて,成功がさらなる成功を生むのではないかと示唆する。こうした変化の原動力となり,IQ値の上昇の原因となるこの社会的な変化がどのようなものかは,時代と場所によって異なる。さらに,社会の平均的な認知能力の全般的な向上は,個々人にフィードバックして,自らの能力をさらに増大させるような新しい挑戦をつくりださせることになると言う。
 こうした正のフィードバック効果は,スポーツのような他の領域でも明らかで,時代につれてプレイの全般的なレベルが向上するにつれて,個々の選手は新しい挑戦に立ち向かっていく。能力の漸進的な増大は,競泳,トラック競技,フィールド競技などの個人スポーツにおいてもっとも顕著で,新記録がつくられつづけている。しかしチーム・スポーツでは,そのような技量レベルの向上がときに,矛盾した結果をもたらすこともある。たとえば,現在,三割バッターは,かつてよりもはるかに数が少ない。なぜなら,バッターの打撃は以前よりもどんどん向上しているのだが,ピッチングと守備の改善はそれを帳消しにしてあまりあるからである。同じような効果は,より高い認知的能力が要求される領域でも起こっており,成功が競争に依存することから,その技量レベルの向上を観察するのはむずかしい。 

ロバート・アーリック 垂水雄二・阪本芳久(訳) (2007). 怪しい科学の見抜きかた:嘘か本当か気になって仕方ない8つの仮説 草思社 Pp.129-130

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