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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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DNA=料理全書

 私たちの細胞に収まっているDNAは,ふだん本棚に収まっている“料理全書”のようなものだ。私たちはややこしい料理を作るときに本棚から料理全書を引っ張り出して,必要な箇所に目を通す。しかし皆が寝静まった真夜中に料理全書にひょっこり手足が生えてこっそりと本棚を抜け出し独力で料理を作るなどということは,おとぎばなしならともかく,現実世界では絶対起こらない。それに,料理の種類や作るかどうかを決めるのは私たちなのであって,料理全書がそうした“決定”をするわけではない。料理全書に載っている“調理指示書(レシピ)”を使うかどうか,使うとすればどう使うか,その料理を他とどのような順番でどう組み合わせるか,たとえば食事の最後をスープにするかケーキにするか,料理の味付けをどうするか等々,料理全書を参照するにしても決めなければならない段取りはいろいろあるわけだが,それらはすべて,料理をする人が,手元にある食材という物質的制限のなかであれこれと考えて判断することだ。DNAなり遺伝子の生態----つまり“生体内での利用のされ方”----を,料理全書と調理作業の関係に見立てるのは,我ながら気のきいた比喩だと思う。なぜならこうした類似点のほかに,DNAなり遺伝子が関与した遺伝と発生のプロセスも,調理作業も,ともに“状況にうまく適応し融通がきく”ことが決定的に重要な要素になっているからだ。腕のいい調理師はレシピを基本にすえながらも,それにとらわれず自由自在に料理を作ることができる。レシピが指定している食材や調理器具が手元になくても,職人の判断力と腕のよさでそうした不足を補ってレシピどおりの立派な料理を作ることができるわけだ。


ルース・ハッバード,イライジャ・ウォールド 佐藤雅彦(訳) (2000). 遺伝子万能神話をぶっとばせ 東京書籍 Pp.57-58
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複雑さを認識せよ

 なるほど世間のさまざまな出来事を“遺伝学”で講釈しつくすことができれば,それは確かに魅力的であろう。なぜなら,これまでは子供に何か問題があれば,すべて“親のせい”にするのが世の常だったのだから。親たちは,子供のしつけ方が少しでも寛容だと「放任しすぎである」,逆にちょっとでも厳しいと「キビシすぎる」,子供との距離のとり方が少しでも疎遠だと「冷淡すぎる」,緊密だと「密着しすぎる」と,どう振る舞っても世間から悪く言われてきた。だから,子供の問題で自分が責められるくらいなら子供自身の“遺伝子”に原因があるのだと考えたくなっても無理はなかろう。だが人間社会のトラブルの元凶を“遺伝子”のせいにする理由づけは,じつは親たちをこれまでの非難から解き放った途端に,あらたな非難の標的へと追い込んでしまうのだ。
 遺伝子が私たちヒトの生物学的な機能のすべてに関与していることは間違いのない事実であろう。だが----単なる動物としてのヒトではなく----“人間”という社会的存在としての私たちの“在りよう”を決めているのは遺伝子ではない。遺伝子が人間の精神的・身体的・社会的成長に影響を及ぼしているのは間違いないだろう。だが人間は,一人ひとりに独自の,他の人々とのかかわりのなかで経験していく,膨大な社会的環境要因の影響を受けながら,全人的な成長をとげていく生き物なのである。
 であればいったい,私たちが社会生活を送るうえで,遺伝子は実際のところどのような役割を担っているのだろうか?
 その答えは出ていないし,今後,すっきりとした“御名答”が出ることも到底望めない。ヒトどころか,熟した果物に湧く豆粒より小さなハエでさえ,“生命機械(オーガニズム)”として見れば途方もなく複雑な構造をしており,それゆえ生命活動の全貌はこれまた途方もなく複雑なのである。
 かくしてヒトは,生物学的に途方もなく複雑な個体を,途方もなく複雑に働かせながら,個体間の相互作用----つまり「社会生活」----を行なっている。この相互作用は,単純な化学反応のように予測することは不可能である。私たちが日常経験しているのは,かくも複雑な有機体同士の相互作用なのだ。このように複雑きわまる世間一般の人間模様については,遺伝学も分子生物学も,ごく限られた範囲のことしか解明しえない。こうした専門科学が私たちに語って聞かせられるのは,ヒトの遺伝子についての知識にすぎないのであるから。


ルース・ハッバード,イライジャ・ウォールド 佐藤雅彦(訳) (2000). 遺伝子万能神話をぶっとばせ 東京書籍 Pp.54-55

DNAにつきまとう社会通念

 DNA分子は,実在する物体である。だから当然,物体にふさわしい構造を有している。Dナの物理的構造がどのようなものかは,生物学の教科書を見れば明らかである。ところが,この「DNA」なり「遺伝子」といったものを,どのように理解するかという段になると,「健康」と「不健康」,「正常」と「異常」,「可能性」と「宿命」といった事柄についての社会通念が----つまり支配的なイデオロギーが----拭いがたくつきまとうことになる。学術的概念がこうしたイデオロギー的偏向を伴いがちだということを,科学者たちが了解しているならば,それはそれで対処のしようがあろう。ところが残念ながら,学者を育てる教育課程では,科学と社会の密接なつながりを無視して済ませる傾向が強い。「科学は,ふだん当たり前だと思っていることに“どうしてそうなるのか?”と疑問をいだき,その答えを探すことから始まる。とりあえずの答えが出たら,それをさらに問いつめ,その答えをさらに探しつづける。これが科学の発展なのだ」----学生たちは,“科学”がそういうものだと教わり,これを真に受ける。大部分の科学者は,これを信じて疑わない。だから,科学と社会が互いに影響を及ぼし合っていることなど,彼らの眼中にはないし,たとえそれに気がついても,科学----つまり自分たちの営み----こそが一般社会に感化を与えているのだ,と考えたがる。科学者といえども社会的先入観に導かれ,社会通念に即した発想をする,ということを,自分ではなかなか認めたがらないのだ。


ルース・ハッバード,イライジャ・ウォールド 佐藤雅彦(訳) (2000). 遺伝子万能神話をぶっとばせ 東京書籍 p.49

うつ病が遺伝する証拠?

 『グローヴ』紙に載った第4の記事は,遺伝学の研究がときおり迷いこむ危険で,なおかつイカガワしい“結論”の,極端な例といえよう。「うつ病が災いをもたらす?」と題したこの記事は,行動遺伝学者リンカーン・イーヴズが行なった研究の“成果”を報じたものである。もっとも,これは双子の女性1200組を対象にさまざまな研究者が行なった調査の,ほんの一部にすぎない。被験者の双子1200組は,全員,この研究者たちから「うつ病の傾向がある」と判定された人たちだった。イーヴズ博士は世間に向かって,自分は“うつ病が遺伝によって起こるという証拠”を発見した,と吹聴していた。ところが,その肝心の“証拠”は彼の論文には一言も出てこない。
 イーヴズ博士は被験者集団にアンケート調査を実施した。「強姦,暴行,職場解雇などの,心に傷が残るような辛い目にあったことがあるかどうか」を尋ねたという。その結果わかったのは,抑うつ状態が慢性的に続いている人はそうでない人よりも辛い経験をしていた,ということだった。この女性たちの抑うつ状態は,むやみに「遺伝性」のものだなどと信じこまぬかぎり,辛い体験に打ちのめされて起きたものだと容易に見当がつく。ところが,この学者は「遺伝」のことしか眼中になかった。それゆえ彼は,かくも奇妙な結論へと突き進んでしまった。「(これら女性たちの)抑うつ的な思考と態度が,本来偶然にしか起きないはずの諸々の不幸を招き寄せた可能性があることが,示唆される。」
 あきれてものが言えない!この女性たちは強姦,暴行,職場解雇などの,心に傷が残るような辛い目にあった。そしてどん底に落ち込んだ。経験が辛いものであるほど,精神的な落ち込みは長く続いた。----こうした“データ”からいったいどうしたら「うつ病が災いをもたらす」という解釈が出てくるのか?この“行動遺伝学者”は,フットボール選手が人並み以上によく骨折するのを見て,「人並み以上によく折れる骨が,そうした骨の持ち主をフットボールに駆り立てるのである」という結論を出すのであろうか?


ルース・ハッバード,イライジャ・ウォールド 佐藤雅彦(訳) (2000). 遺伝子万能神話をぶっとばせ 東京書籍 Pp.45-46

出生率低下について

 私は現在進行している日本の出生率低下は,人口転換の最終局面を実現するプロセスではないかと考えている。出生率の低下によって間もなく始まる人口減少や著しい少子高齢化はわれわれにとって初めての経験である。しかしだからといって悲観することも,あわてて出生率の反転上昇を期待して資金や時間を投じることもない。
 人口停滞を高度経済成長期以後の経済停滞や,豊かになった社会でいつまでも成熟しない若者の身勝手によるものと考えられることが多い。このような説明は反面はあたっていると言えそうである。なぜならば,歴史的に見て人口の停滞は成熟社会のもつ一面であることが明らかだからである。縄文時代後半,平安時代,江戸時代後半がそうであったように,人口停滞はそれぞれの文明システムが完成の域に達して,新しい制度や技術発展がないかぎり生産や人口の飛躍的な量的発展が困難になった時代に起きたのである。人口停滞は文明システムの成熟化にともなう現象であった。

鬼頭 宏 (2000). 人口から読む日本の歴史 講談社 pp.268-269

二足す二が四になると言える自由

 党は耳で得た証拠を拒否するように命じた。それは党の究極的な,最も基本的な命令であった。こぞって自分に反対する力の巨大なこと,党の知識人が討論で自分を簡単に論破できること,反論することはおろか理解さえできそうもない緻密な論理のことを思うだけでも気が滅入ってしまう。にもかかわらず,自分の方が正しいのだ!党こそ間違っていて自分の方が正しいのである。この明白なこと,馬鹿げたことを,真実と共に守り通さなければならないのだ。自明の理は真理である。死守するのだ!実体のある世界は厳として存在し,その法則は不変のなものである。石は固く,水は濡れ,支えのない物体は地球の中心に向かって落下する・オブライエンに語りかけるようなつもりで,またもう1つの重要な原理を述べるような思いで,彼は書きとめたのであった。

 自由とは,二足す二が四になると言える自由だ。これが容認されるならば,その他のことはすべて容認される。

ジョージ・オーウェル 新庄哲夫(訳) (1972). 1984年 早川書房 p.104

人口制限の評価

 江戸時代の人々は,なぜ危険がいっぱいで悲惨な方法を用いてまで人口制限を行なおうとしたのだろうか。間引や堕胎は時代,地域を越え,さらに階級を越えて実行されていたという。下層武士(旗本)のあいだでさえそれは常識であった。これらの行為は農村の貧窮,都市の道徳的退廃の結果であると主張され,その非人道的な面が非難される。確かにその通りに違いない。
 しかし立場を変えて経済学的な目で見ると,別の評価を下すことも可能となる。通説に反して,人口制限は真の困窮の結果ではないと見る立場が増えている,むしろ人口と資源の不均衡がもたらす破局を事前に避けて,一定の生活水準を維持しようとする行動であったというのである。その見方を受け入れるならば,堕胎も間引も幼い命の犠牲の上に,すでに生きている人々の生活を守ろうとする予防的制限であった。生産の基盤も,技術・知識の体系も現代とは異なる社会であったことを理解しなければならないだろう。結果的に出生制限の幅広い実践は前近代経済成長を助け,1人あたり所得を引き上げることに成功したと考えられる。それが19世紀後半に工業化の過程へ離陸するさいに,日本と中国の歴史的運命を決定する重要な原因だったとする仮説がたてられていることは,すでに指摘しておいた。

鬼頭 宏 (2000). 人口から読む日本の歴史 講談社 pp.214

二重思考

 ウィンストンは両腕をだらりと下げてゆっくりと肺臓に空気を満たした。心は“二重思考”の迷路に滑り込んでいった。知ること,そして知ってはいけないこと,完全な真実を意識していながら注意深く組み立てられた虚構を口にすること,相殺し合う2つの意見を同時に持ち,それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること,論理に反する論理を用いること,モラルを否定しながらモラルを主張すること,民主主義は存立し得ないと信じながら党こそ民主主義の擁護者だと信ずること,忘れ去る必要のあることはすべて忘れ,しかし必要とあれば再び記憶の中に蘇らせて再び即座に忘れ去ること,そしてなかでも,その同じ方法それ自体にも,この方法を適用するということ。それが窮極のなかなか微妙な点であった。まず意識的に無意識の状態を作り出し,しかる後にもう一度,いま行なったばかりの催眠的行為を無意識化するということであった。“二重思考”という言葉を理解するに当たっても二重思考を用いなければならなかった。


ジョージ・オーウェル 新庄哲夫(訳) (1972). 1984年 早川書房 p.48

地域差が大きい

 江戸時代の男女はかなり早婚だったと言われる。たしかに初婚年齢が女性で27歳に,男性が28歳に近づきつつある現在からみればそのとおりである。しかしそれは女子にはあてはまるけれど,男子の初婚年齢は一般に現代の水準に近かった。中央日本の農村では,18・19世紀における長期的な平均初婚年齢は,男25〜28歳,女18〜24歳の間にあった。夫婦の年齢開差はふつう5〜7歳,男が年上で現在よりもかなり大きかった。しかし江戸時代の初婚年齢は地域や階層などによて,非常に大きな差があったことがわかっている。女性の初婚年齢について18・19世紀の各地の農村を比較してみると,陸奥国の村々で著しい早婚であった。3つの村の平均で16.2歳,最も早婚の下守屋村ではなんと14.3歳であった。最も晩婚の地方はいまのところ長門国紫福村の22.7歳である。尾張国神戸新田の21.8歳がこれに次ぐ。

鬼頭 宏 (2000). 人口から読む日本の歴史 講談社 pp.121-122

ボクサーの金銭問題

 だが,残念ながら状況は変化した。アリの経済状態がその理由だった。責任はあちこちにあった。だが,多くのボクサーたちにとっての問題とは,引退した瞬間にそれまでの現金収入が突然途絶えてしまう事実に対処できないということだ。彼らは,引退後の生活を予め考えたりしない。彼らが勘定できるのは,今日の出費などはビッグマッチ1つもこなせば十分に賄えるということだけだった。そして請求書や税金,コンサルタントや弁護士への支払いなどが突然滞る。(さらに大抵のボクサーの場合,悪徳のマネージャーやプロモーター,“友人”と自称して彼を利用する輩が寄ってたかっては搾取する)。そしてある日,たった一晩の仕事で何万ドルもの金を捻出できるはずだった人間が,自分が破産したことを発見するのだ。

スティーブン・ブラント 三室毅彦(訳) (2004). 対角線上のモハメド・アリ MCプレス Pp.348-349

狩猟採集民族の寿命は短い

 年齢別死亡数から導かれる平均余命は,縄文人が短命であったことをいっそう明瞭に示している。小林が作成した生命表によれば,15歳時余命は男16.1年,女16.3年でしかない。15歳まで生存した男女も,平均すると31歳ころには死んでしまうと言いうことである。15歳時余命が男63年,女69年(1998年簡易生命表)の現代からはもちろん,40年前後の江戸時代後期と比べても,驚くべき短命な社会だった。
 資料上の問題から除外された15歳未満の死亡を考慮すると,この驚きはもっと大きくなるであろう。年少人口の人骨は土壌中で溶解して残存しにくく,比較的条件のよい出土例でも全人骨の50%程度を占めるにすぎないが,後世の例を勘案すると,縄文時代の15歳までの生存率はそれよりはるかに低かったと考えられる。菱沼従尹は右の生命表に基づいて,出生時余命を男女ともに14.6年と推計している(『寿命の限界をさぐる』)。
 もっとも,縄文人の平均余命が狩猟採集民として特別短かったというわけではなさそうである。世界各地の狩猟採集民はほぼ似たようなものであった。自然条件に強く依存する不安定な生活基盤が短命の原因であったと考えられる。


鬼頭 宏 (2000). 人口から読む日本の歴史 講談社 pp.42-43

物語は最初から始めるべき

 物語は最初から始めなければいけない。彼は,長く屈折した話の中で何度もそう繰り返した。話の途中から始めることはできないと。だが人々は,アリの話から始めたがる。もしくはオリンピックの話,あるいはマニラでの試合の話だ。世間とは,せっかちなものである。人々は,話を最初から聞きたがらない。物事の理解を深めるために時間をかけようとは,あまり思わない。「人は,自分たちがどこからやってきたかを理解しない」。そう,フレージャーは言う。「これは,つねに俺がマービスに向かって言うことだ。俺の映画を作るなら,物語はまず大昔にさかのぼらなきゃいけない。物語は,田舎の森の中から始まるんだ。学校を退学し,路上でケンカを繰り返し,田舎の森の賭博場に潜んだ時代にさかのぼる。それらは,ヒーローや世界の偉大な人物を語るには必要なもんなんだ。みんな,最初から一足飛びに飛躍したがる。それは,子供たちを立派な男や女に導くためには正しくない。まずは,どこから来たのかをはっきりさせなきゃならないんだ。物事の途中から始めるべきじゃない。いつだって最初にあるんだ。物事を見極めようとするなら,そいつはいつだって最初にあるんだ」。

スティーブン・ブラント 三室毅彦(訳) (2004). 対角線上のモハメド・アリ MCプレス Pp.132-133 (by ジョー・フレージャー)

複数の証拠で意味合いが変わる

 うわべは矛盾した2つの性格をもう少し挙げてみよう。聡明で愚か。攻撃的で依存心が強い。陽気で陰気。厳しくてやさしい。寛大で執念深い。こうした2つの特性が,1人の人間に共存する状態を想像してみよう。たぶんあなたは,上手に2つをつなげる物語をつくれるだろう。この作業では,人についての情報を組み合わせる才覚が発揮される。これは,スヌーパーも居住スペースの手がかりから結論を導き出すときに,やらなくちゃいけないことだ。かつて調査したある寝室に,つじつまが合わないアイテムが含まれていた。聖母マリアの小さな漆喰の像が愁いを帯びた顔で窓の上の出っ張りから見下ろしているのに,ベッド脇のテーブルには大きくて色鮮やかなプラスチックのパイナップルが置いてあった。まじめで信心深いのか,ふまじめなのか。これは部屋にある他のアイテムが解決してくれた。マリア像とパイナップルとともに,エルヴィス・プレスリーもどきがついたベッドカバーと,サンタの帽子をかぶった牛の形のクリスマスの照明を組み合わせると,もっとはっきりした印象があらわれてくる。この人はキッチュな物の収集家であり,誠実性があって,遊び心のある気のきいた美的センスを持っているのだ。寝室や音楽のコレクションなどで見つかった情報を組み合わせることに関心を持つぼくたちにとって,重要な結論は,人が形成する印象は部分を足し算した結果以上のものだということだ。文脈を考慮せずに情報を吟味するやり方は,重要かもしれない社会的情報を無視することだ。さっきの収集家の部屋にあったマリア像が,聖書やローマ教皇の伝記や壁にかけた十字架と一緒にあれば,マリア像の意味合いはまったく違ってくるだろう。この場合は敬虔なカトリック教徒になる。

サム・ゴズリング 篠森ゆりこ(訳) (2008). スヌープ!:あの人の心ののぞき方 講談社 p.244
(Gosling, S. D. (2008). Snoop: What Your Stuff Says About You. New York: Basic Books.)

他人の都合で大事な時間を無駄にしている暇はない

 しかし,だからといって,そのままの日々を過ごしていたのでは,何も変わらない。もし,本当に職場環境が悪くて,目標が達成できないと思うのなら,周囲の人と腹を割って話し合ってみてはどうだろうか。
 もしかしたら,彼らもその話を聞いて奮い立ち,あなたと同じ目標に向かって歩み出してくれるかもしれない。もしかしたら,どこかであなたについて誤解して,遠慮していたところがあるのかも知れない。
 逆に,話をしたことで関係が悪くなり,会社での仕事がやりにくくなるようなこともあるかもしれないが,それはそれでいい発見だ。その上司や同僚とは,それ以上,うまくやっていけない,ということがハッキリする。上司のさらに上の人に相談して,問題を解決できないようであれば,転職など他の方法を考えるときだろう。
 あなた自身が本当に大きな目標を持っているのであれば,他人の都合で人生の大事な時間を無駄にしている暇などないはずだ。

林 信行 (2008). アップルの法則 青春出版社 Pp.206-207

ホーダー(蒐集家)についての研究

 人は実にさまざまな種類のアイテムをしまっておく。レシート,請求書,雑誌,新聞,手紙,カード,着なくなった服,いらなくなった薬品,食べられない食品,ペン,紙袋,せっけん,箱,厚紙,櫛など,ほぼなんでも家に詰めこむ。極端なホーダーになると,使用済みのトイレットペーパーまで捨てられないことが知られている。ホーディングは家の外にまで及ぶ。赤ちゃん用の壊れたブランコや旧式のオイル・バーナーが裏庭に散らばっているのをよく見かける。
 極端なホーディングは,まだ少ししか研究が進んでいない症状であり,強迫神経症と関連づけられることもある。南アフリカのステレンボッシュ大学精神医学部のソラヤ・シーダット博士とダン・スタイン博士は,極度な15例に焦点をあては最近の研究論文で,“ホーディング”のことを「価値がほとんどなくてあまり役にも立たない物を,くりかえし過剰なほど収集し,時間がたっても捨てられないこと」だと表現している。シーダットとスタインによれば,ホーダーが動機としてもっともよく挙げたのは,実用的価値がある物を捨てるのがこわいということだった。彼らは,行動をほとんどコントロールできない,としばしば報告した。「いつか必要になったらどうするんです。先のことはわかりませんよ。役に立つかもしれないんだし,もしそうなったときは捨てたことを心から後悔するでしょう」ということらしい。

サム・ゴズリング 篠森ゆりこ(訳) (2008). スヌープ!:あの人の心ののぞき方 講談社 pp.222-223
(Gosling, S. D. (2008). Snoop: What Your Stuff Says About You. New York: Basic Books.)

各自で考えて行動する

 アップル社に入社した知人の話を聞くと,入社してすぐはとまどうことが多いという。何をやったらいいのかがまったくわからないからだ。
 日本の会社のように,入社したての社員に仕事のやり方を1つ1つ丁寧に教えてくれる親切な同僚はなかなかいない。
 自分のどのような能力が買われて雇われたのかは,雇用時の契約で決まっているので,あとはそこから何をすべきなのかを自分で判断して,自分で行動する。アップルでは,何よりもこうした自立心が求められる。
 ちょっとした事務手続きにしても,わからないことはあるだろう。そうしたら,周りの人に聞けばいい。ゼロから教えてくれる社員はいないが,質問をしたら進んで答えてくれる社員ばかりだ。
 ノルマの仕事をこなしている限り,1人1人の社員に,それなりの裁量権は与えられている。
 アップルの組織は,非常にオープンで,スティーブ・ジョブズの時代になってからは,仰々しい重役室もなくなり,ジョブズや重役人と平社員でも活発に議論ができる社風がある(もっとも,緊張する社員も多いようだが)。
 ちなみに,これは米国本社だけの話ではない。
 アップル日本法人には開発部隊はおらず,基本的に,マーケティングや販売,サポートなどの人材しかいないが,直営店のスタッフの1人1人まで,どう行動するのがアップルにとってためになるか,各自で判断して行動している。

林 信行 (2008). アップルの法則 青春出版社 Pp.201-202

面接で何がわかるのか

 就職面接は,キャリアでもっとも重要な30分になることがある。ささいな行動の内容から,雇用主はあなたと契約するか,警備員に敷地内から連れ出させるか,決めなくてはならない。間違った選択が大きな悲しみを生むこともある。いい印象を与える行動が,数々のビジネス調査に取り上げられてきたのも,当然といえば当然だ。そうした調査結果によれば,仕事を手に入れたいなら相手の目を見てにこにこし,何度もうなずいたほうがいいという。こういう人はポジティブな性質を持っている有望な候補者だと受けとられる。でもこの結果には重大な要素が欠けている。相手を見たりにこにこしたりうなずいたりすることが,本当にその仕事に望ましい性質を示しているのか。
 入社志願者の審査は,ブルンスウィックのシステムに非常に適している。ギフォードらがおこなったのも,まさにこれだった。研究助手を雇うために34回おこなわれた本物の面接を分析し,それぞれの具体的な行動を記録した。話した時間,面接官の顔をまっすぐ見た時間,笑顔を見せた時間,身振りをまじえた時間,前のめりになった時間,のけぞった時間など。指や髪をいじったかどうか,ペンでコツコツたたいたかどうかも記録した。また年齢,性別,服装のフォーマル度,外見の魅力についても評定した。
 それからギフォードはベテランの面接官に面接のビデオテープを見せて,志願者の社交術とやる気にレートをつけるように頼んだ。そしてこの2つに対する評定が,行動の手がかりとどのくらいつながりがあるかを数値にした。その分析結果によると,話す時間が長く,身振りが多く,服装がフォーマな志願者は,社交術でもやる気でも高い評価を受けていた。これらの結果は,それまでの研究結果と一致していた。
 しかしギフォードらが,ブルンスウィックのモデルの残り半分である,人の本当の姿(どう評定されたかではない)と行動の手がかりのつながりを調べたところ,予想だにしない結果が出てきた。その分析結果では,話し方や身振りや服装は確かに社交術においては正しい手がかりになるけれども,志願者のやる気に関しては服装のフォーマル度しか参考にならなかった。この結果は,フォーマルな服装は被験者の誠実性を示す手がかりになるという,ボルケナウとリーブラーの研究結果を反映している。またギフォードの分析によれば,面接官は社交術を判断することには長けているが,やる気を判断することにかけては惨憺たるものだったという。やる気を判断するには身ぶりの多さを見るのではなく,どれだけ前に身を乗り出しているか注目するべきだそうだ。志願者は前のめりであればあるほど,やる気があったのだ。スヌーパーにとってブルンスウィックのモデルは,いつ正しい方向に進んでいて,いつ勘違いしそうになっているか知る手段になるので重要だ。

サム・ゴズリング 篠森ゆりこ(訳) (2008). スヌープ!:あの人の心ののぞき方 講談社 pp.213-215
(Gosling, S. D. (2008). Snoop: What Your Stuff Says About You. New York: Basic Books.)

品質管理の違い

 ただ,いろいろなメーカーのデザイナーやエンジニアに話を聞くと,アップルの品質管理部門と,日本のメーカーの品質管理部門では,そもそも向いている方向性が違う印象がある。
 日本のメーカーのエンジニアやデザイナーにとって,品質管理部門は恐ろしい部署のようだ。「こんなに薄かったら,顧客から『壊れやすい』という苦情がくる」,「こんなに熱くなったら,顧客から『低温ヤケドになる』と苦情がくる」と製品の悪いところを見つけてはダメ出しをかけてくる。
 その結果,どんなにかっこいい製品をデザインしても,どんなに“エッジのきいた”先進的製品を開発しても,最終的には角の取れた特徴のない製品に仕上がってしまう,と不平を言うエンジニアやデザイナーが多い。
 これに対して,アップルの品質管理部門は,「我々がアップル品質の門番」という姿勢で「このレベルでは,まだまだアップルが目指すクールさを十分に発揮できていない」,「ここの仕上げは,(コストを上げずに)まだまだよくできる」といった具合に,前向きに管理していると聞く。
 もっとも,これは日本企業の品質管理部門が悪いということではなく,品質管理部門と製品企画,開発といったチームの間で,同じゴールが共有できていないのではないかと思わされる。


林 信行 (2008). アップルの法則 青春出版社 Pp.192-193

ステレオタイプは慎重に扱うべし

 そういうわけでスヌープをするときは,ステレオタイプを慎重に扱うことを忘れちゃいけない。そのためには,次の4点を頭に入れておくことだ。

1 ステレオタイプは,物から人格を割り出す2つの方法のうちの1つにすぎない。たとえば,住人を信頼できる人だと推測するとき,中国語の本がベッドのそばにあるということはアジア人だからきっときちんとしている,というようにステレオタイプを使って推測するか,卓上カレンダーにきちょうめんに予定が書きこまれているから,というように,信頼性を示す証拠をそのまま使って推測するかのどちらかだ。
2 寝室研究のとき,女性は神経症傾向が強いというステレオタイプは正しかったが,調和性が高いというステレオタイプは間違っていた。判断の助けになるステレオタイプはたくさんあるけれど,間違ったステレオタイプは判断を狂わせてしまうことがある。
3 女性は神経症傾向が男性よりも強い,といったような特徴の方向性は正しくても,程度を勘違いすることがある。たとえば,男女の差をじっさいよりずっと大きいように思ってしまう。
4 ワシントンの住民を,(地域のステレオタイプをもとに)まだやってもいない凶悪犯罪で逮捕しろと要求する前に,ステレオタイプによる一般化はグループ内の多様性を無視していることを思い出そう。確かにワシントンの住民の調和性は全米で50位だが,全員が悪者というわけではない。

サム・ゴズリング 篠森ゆりこ(訳) (2008). スヌープ!:あの人の心ののぞき方 講談社 pp.208-209
(Gosling, S. D. (2008). Snoop: What Your Stuff Says About You. New York: Basic Books.)

武士道から学ぶべきこと

 武士らしい武士とは何かを追求するのが,武士道である。この追求は,頭の中で納得されて終わるものではなく,ここの武士がその一生の上に実現することで答えが出されるものである。だから,武士道とは,結局のところ,一人一人の武士の,「俺は武士である」という自覚の形であるということができる。
 武士は,あくまでも武士たらんとしたのであって,決して人間とか市民とかになろうとしたわけではない。しかも,武士とは,殺し,殺されることを当然のこととして承認するきわめて特殊な稼業である。その意味では,武士道の思想は,武士社会内でのみ通用する,普遍性を持たない思想であるということもできる。
 刀を抜いて切りかかってくる武士は,今日の私たちにとっては,理解不能な他者である。しかし,そもそも「他者」とは,そういう理解不能な何者かのことである。殺し合いを前提として生きている武士たちは,まさに,他者というものをその本質的な極限において認め,それと関わり合っていた者であったわけである。他者とは,ついに届かぬ何者かであり,自己とは,切られて血を流し,痛みを覚えるこの己れである。こういう自他のとらえ方を,身をもって示す武士の思想は,今日の常識的な自・他のとらえ方を,根本から問いただすための手がかりを与えてくれるかもしれない。
 今日の社会では,一応の建前として,自他の対立は,話し合いによって解くべきであるという考えが主流を占めている。理性的な対話こそが無垢・絶対であるとする立場に固執するならば,たとえば問答無用で切りかかってくる武士に対して,どのような言葉を投げかけうるのかを考えてみる必要があるように思われる。自分と他人は異なっているということの深さは,何によっても埋めがたい。どうしても対立を解消したいのなら,刀を抜いて相手を倒す以外にない。こういう考え方を,野蛮であるといって片付けるのは簡単である。しかし,そういったからといって,自他の隔たりの深さという問題自体がなくなるわけではない。むしろ,武士を野蛮と笑うそのときに,私たちは,他者の他者性という問題自体を見失っているかもしれないのだ。

菅野覚明 (2004). 武士道の逆襲 講談社 Pp.225-226

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