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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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理由がわからないのがいい

 ヴァージニア大学の私の同僚ティム・ウィルソン教授の研究では,研究協力者が,図書館などで生徒に近寄って1ドルコインを与えたが,実験群ではなぜ研究協力者が1ドルコインを配っているのか明らかではない。ところが対照群では,1ドルコインの横にランダムに親切にするというクラブの名前が明記されていた。つまり,実験群ではこの親切な行為の意図が不明であったのに対し,対照群ではこの親切な行為の意図が比較的明らかであった。約5分後別の研究協力者がコインを受け取った学生に歩み寄り,今の気分を尋ねた。そうすると,親切な行為の意図が不明の実験群で意図が明確な対照群より幸福感が高いという,これまた驚くべき結果が出た。つまり,何かいい出来事が起こった時,なぜそれが起こったのかがわかると喜びもそれで終わってしまうが,なぜいい出来事が起こったのかがわからない場合,その出来事が「過去の出来事」として整理されず,心に残るというのである。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.143-144
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脳だけが強み

 こう言ったからといって,脳を貶めているわけではなく,まったくその逆である。人間の脳は素晴らしい。人類が成し遂げてきたあらゆること----生存と繁殖から,人間を月に送ったことや宇宙だけでなく脳そのものさえもその秘密を解き明かしていることまで----に対して脳に賞賛を送らなくてはならない。なぜなら,本当のことを言えば,私たち人間は,自然界の中では,校庭にいる,やせこけた眼鏡をかけたおたくに過ぎないからだ。私たちの視覚と嗅覚,聴覚が,捕らえて食べたいと思っている動物のものほど優れていたことは一度もなかった。私たちの腕や足,歯は,えさを求めて私たちと争い,昼ごはんだと思ってときどき私たちを見つめる捕食者の筋肉や牙に比べればいつも貧弱だった。
 脳が私たちの唯一の強みだった。脳だけが私たちを自然界の失敗作になることから守ってくれた。脳に非常に大きく依存したため,頭の鈍いものは生存競争に敗れ,頭の切れる者に取って代わられた。脳は新たな能力を開発した。そしてますます大きくなった。ヒト科の初期の先祖の時代と現代人が初めて登場した時代のあいだに,脳の容量は4倍になった。
 巨大な脳は深刻な問題をもたらすにもかかわらず,この極端な変化は生じた。巨大な脳は収納するのに非常に大きな頭蓋骨を必要としたため,出産時に女性の骨盤腔を通るとき,母親と赤ん坊の命を危険に曝した。巨大な脳のせいで頭が非常に重くなり,チンパンジーやその他の霊長類に比べて,人は首の骨を折るリスクがずっと大きくなった。巨大な脳は,体全体に供給されるエネルギーの5分の1をも吸い上げた。しかし,これらの難点は深刻なものであったが,内蔵のスーパーコンピューターを持っていることによって人間が得る利益の方が勝っていた。そのため,巨大な脳が選択され,人類は生き残った。


ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.36-37.
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

満喫すること

 感謝の気持ちを忘れないことと似た態度としては,好ましい経験を「満喫する」という態度も重要であるという報告がされている。ブライアントとヴェロフによると,日常生活での平凡な経験でも,満喫する態度を持つことで非凡なものになるという。たとえば,通勤で東京駅の丸の内出口を利用する人であれば,普段は仕事のことに気持ちが集中していて東京駅舎の建築の美しさを立ち止まって鑑賞する時間などないだろう。しかし,信号を待っている時に東京駅の駅舎を鑑賞したり,オフィスビルの入り口に飾ってある花を眺めたりする瞬間を大切にすることで,日常生活への満足度が高まるという。なぜ東京駅舎の美しさは,最初に見た時には印象に残るのに,その後は完全に無視されがちなのであろうか?これは,初めての経験は人の注意を引くが,慣れるにしたがって新しい刺激や変化だけに注意が向くからであるという。ここには,前述のさまざまな出来事への適応と同じような心理的機能が働いていると思われる。つまり,意識して注意を払わない限り,美しい山々も川も田園も,すべて背景として潜み隠れてしまうのである。同様に,意識して注意を払わない限り,暖かい親友や家族の存在も当然のこととして受け取られ,感謝の気持ちを忘れてしまうのであろう。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.140-141

確証バイアス

 このようなことを心理学者は確証バイアスと呼んでいる。誰もがそれを行なっている。いったん信念が出来上がると,私たちは見聞きすることを偏った方法でふるいにかけ,自分の信念が正しいことが「証明済み」であると思えるようにする。心理学者は,人が集団極性化と呼ばれているものに影響を受けやすいことも発見している。これは,信念を共有する人々が集まってグループを形成すると,自分たちの信念が正しいことにいっそう自信を深め,物の見方がさらに極端になるというものである。確証バイアスと集団極性化,文化を合わせると,私たちは,どのリスクが恐ろしいものなのか,そして,どのリスクが再考に値しないのかに関して,なぜ人によって完全に異なった見解に行き着くのかを理解し始める。
 しかし,リスク理解における心理学の役割がこれで終わったわけではない。終わりには程遠い。なぜ心配するのか,そして,なぜ心配しないのかを理解する本当の出発点は,個々人の脳にある。
 人はどのようにしてリスクを認識するのか,どのリスクを恐れてどのリスクを無視するのかをどのようにして判断するのか,リスクに関してどう行動するのかをどのようにして決めるのかについて40年前の科学者はほとんど何も知らなかった。しかし,1960年代に,現在オレゴン大学の教授を務めるポール・スロヴィックのような先駆者たちが研究に着手した。彼らは驚くような発見を行ない,その後の何十年かのあいだに新しい科学が育った。この潜在的な影響はあらゆる分野に対して桁外れに大きかった。2002年にこの研究の主要人物の1人であるダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞しているが,カーネマンは経済学の授業をただの1度も受けたことのない心理学者である。

ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.27-28.
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

(注:group polarizationは,「集団分極化」とも訳される)

感謝する人は健康になる

 エモンズとマカラフは,被験者をランダムに3つの実験群に分け,「感謝」群では,過去1週間を振り返って,自分が感謝することを5つ書かせた。これに対し,「雑用」群では,過去1週間で面倒くさかったことを5つ書かせた。最後に「出来事」群では,過去1週間に起こった出来事を5つ書かせた。これを9週間にわたって実行した結果,人生の満足度は「感謝」群で最も高かった。さらには,「感謝」群の被験者には,筋肉痛やのどの痛みなどの症状の数も「雑用」や「出来事」群より有意に少ないという結果が出た。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 p.139

人類は進歩し続けている

 イングランドでは,1900年に生まれた赤ん坊は平均寿命が46歳だった。1980年に生まれたその曾孫は74歳の寿命が期待できた。そして,2003年に生まれた玄孫は80年近くこの世にいることが見込める。
 これはほかのすべての西洋諸国でも同じことが言える。米国では,1930年に平均寿命が59歳だったが,70年後にはほぼ78歳になった。カナダでは最近,平均寿命が約80歳をわずかに上回った。
 人類の歴史の大部分を通して,出産は,女性にとってもっとも危険なことの一つだった。開発途上国の多くでは,今なお危険を伴う冒険であり,10万人の子供の出生に対して440人の女性が亡くなっている。しかし,先進国ではその比率は一気に20まで下がっており,もはや,誕生に死がつきまとっているとは思わない。
 母親に言えることが子供にも言える。幼児サイズの棺を墓穴に降ろすという痛ましい経験がありふれていたのはそれほど昔ではないが,今日赤ん坊が誕生ケーキの上の5本のろうそくを吹き消すまで生きる確率は目覚しく向上している。1900年に英国では乳幼児の14パーセントが死亡した。1997年までにその数は0.58パーセントまで下がった。1970年からだけでも,米国の5歳未満の子供の死亡率は3分の1以下になり,ドイツでは4分の1になった。
 そして,ただ長生きしているだけではない。より健康に暮らしている。ヨーロッパと米国にまたがる研究において,心臓病や肺病,関節炎などの慢性病にかかる人が少なくなっており,かかる人もかつてに比べて10年から25年遅く発症し,かかった場合も以前に比べて症状が軽くなっていると結論づけられた。おれまでより身体障害者が少なくなっている。また,体も大きくなっている。平均的な米国人は1世紀前の先祖より7センチ以上高く,20キログラム重くなっており,真正の装備だけを用いて南北戦争を再現しようとすると,軍隊用テントに体を収めるのが難しくなっている。私たちは賢くもなっており,知能指数は何十年ものあいだ着実に向上している。

ダン・ガードナー 田淵健太(訳) (2009). リスクにあなたは騙される:「恐怖」を操る論理 早川書房 pp.16-17
(Gardner, D. (2008). Risk: The Science and Politics of Fear. Toronto: McClelland & Stewart Inc.)

最大効果の追求派vs.適度でオーケー派

 バリー・シュワルツ教授によると,これに似た個人差も存在し,何か購入するたびにありとあらゆる情報を手に入れ,吟味したうえでなければ何の決断もできない「最大効果の追求派」もいれば,ある程度の情報が入ればそれをもとに決断する「適度でオーケー派」もいる。これは,車や家の購入時に最も顕著であるが,最大効果の追求派対適度でオーケー派という面での個人差と幸福感との関連も面白い。
 まず,最大効果の追求派は,適度でオーケー派より幸福度が低く,うつ傾向が強い。またこの関係は,最大効果の追求派が自分と他の人を比較する傾向が強いところからきているという結果が出ている。また,ありとあらゆる情報を手に入れてよりよい選択をしようと試みる最大効果の追求派は,ある程度の情報をもとに決断を下す適度でオーケー派に比べて,皮肉にも,その決断に後悔することが多いという。つまり,考えれば考えるほど,選ばなかった選択肢のことが気になり,もし別のものを選んでいたらどうだっただろうという発想が出てしまうらしい。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.132-133

布教の仕方が問題

 筆者は数年来,キャンパス内で正体を隠して学生質を勧誘する統一教会,摂理,親鸞会といった宗教団体や,学園祭において心理鑑定と生じて無料カウンセリングを行ない布教のきっかけにする幸福の科学,熱烈にキャンパス・クルセードを行う韓国系福音派の団体,及び自己啓発セミナー等の問題を指摘してきた。宗教の布教が悪いというのではない。布教の仕方が問題なのだ。要点をまとめれば次のようになる。

(1)宗教的価値であれ,スピリチュアリティであれ,集団心理療法的な自己発見・自己分析であれ,信じる・感じる・実践するに足るものであれば,堂々とパンフレットに団体名・活動内容・必要経費等を書き込んで学生達に配布すればよい。これらの団体に十分な情報とじっくり考える余裕を与えることなく,食事やプレゼント,手紙・メール等で相手に断ると悪いなという気持ちにさせて偽装サークルに誘い,信頼関係を構築した後におもむろに宗教の教えや儀礼,活動内容を教え込む。卑怯ではないか。
(2)大学では学問を学び,諸説を比較検討する知的柔軟性をもつことや批判精神をもつことを教育目標に掲げる。ところが,勧誘され,入信した学生達は信じること,指導者に従うこと,疑問を持たないことを信仰的であると教え込まれ,他の学生を勧誘して入信させることこそ信仰活動だと思うようになる。布教のマシーンに組み込まれ,従属的な人間になるために彼らは大学に入学したのではない。
(3)ところが,大学人のなかにはこのような諸団体の活動には苦々しく思いながらも,一般学生に注意を喚起するオリエンテーションの実施や,団体の活動に制限を加えたり,信者である学生に脱会を勧めたりすることをためらう人の方が多い。憲法に保障された思想・信条の自由を侵害することになる,特定団体に対する差別行為ということになりはしないかと心配するのだ。その結果,対策が後手に回り,この種の団体に人材を供給し続けることになる。

 信教の自由という理念の中身は,鰯の頭も信心だからどんな宗教でも尊重されねばならないということではない。他者の信教の自由を尊重することなく,手前勝手な宗教的理屈から卑劣で執拗な勧誘行為を行う団体に対しては決然たる態度を取るべきだろう。大学は学生に対する教育責任を負う。学生の健全な学びの機会を阻害する団体は批判されて然るべきだ。


櫻井義秀 (2009). 霊と金:スピリチュアル・ビジネスの構造 新潮社 Pp.212-214

褒め言葉が多い夫婦はうまくいく

 夫婦のコミュニケーション研究という点では,ワシントン大学のジョン・ゴットマン教授が第一人者であるが,彼の一連の研究では,ビデオテープで夫婦のコミュニケーションを記録し,その言語と非言語(ジェスチャー,表情など)によるコミュニケーションのパターンを丁寧に分析し,夫婦の結婚生活への満足度やその後の離婚率などとの相関を検証している。夫婦のコミュニケーションを観察してみると,夫婦関係の良好なカップルでは,褒め言葉が批判的な言葉のなんと5倍ほど交わされたそうである。この割合よりも批判的な言行(ジェスチャーも含めて)が多いと,全般的な関係には不満が強かったらしい。また,15分間ほどのインタビューでの肯定的なコミュニケーションと否定的コミュニケーションの比率から,将来の離婚率が90パーセント以上の確率でわかるというからすごい。この結果も,マレイ教授の対人関係における「肯定的幻想」同様,パートナーに対する肯定的な態度とやさしさが夫婦関係に大きく貢献することを物語っている。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.106-107

なぜヒーリングが流行るのか

 このようにヒーリングの心理的・社会的機能を考察してみると,では,なぜ医学や科学が高度に発達した現代社会にヒーリングが流行っているか,という疑問が再度わいてくる。
 それに対する1つの解答は,現代人が不可抗力である事態にたじろいだ際に,それを受けとめる度量も世界観も失っているからではないか,と筆者は考える。遺伝子治療や再生医学により,多くの難病が解決できそうになってきた。臓器移植や脳死問題の隘路も打破できそうだ。しかし,その一方でアトピーや腰痛等の慢性疾患は依然として残っている。だからこそ,治らないことへのいらだち,耐え難さをよけいにつのらせる患者が少なくない。
 教育でも同じことが言える。成長期の子供は著しい学力や身体能力の発達を示すために,親は子供の可能性にかけたくなる。ところが,親の期待はしばしば過剰になり,子供には重荷となる。なるようになるさ,と我が子に対して腹をくくれる親がどれだけいるか。
 恋愛や結婚にしても,映画や小説に出てくるような純愛や熱愛を望む反面,傷つくことを恐れる人が少なくない。冒険するよりは,いつそうした出会いが自分に訪れるのかと将来を占いながら,待ちの姿勢に入っている人も多いだろう。
 治ってあたりまえ,出来てあたりまえ,幸せになってあたりまえ,といった欲求水準が極めて高い時代だからこそ,ヒーリングは傷ついた人達に一種のクールダウンを提供しているのだと言える。ただし,それが気晴らしであるうちはよいが,それに囚われるようになると癒しが癒しでなくなることも少なくない。


櫻井義秀 (2009). 霊と金:スピリチュアル・ビジネスの構造 新潮社 Pp.166-167

夫婦の性格は似ているわけではない

 まず,性格は夫婦でどれくらい似ているのだろうか。オーストラリア人夫婦3,618組のデータによると,夫婦間の神経症傾向の類似性は,相関係数で0.07に過ぎなかった。またアメリカ人の夫婦4,815組でも,相関係数は0.09に過ぎなかった。他の性格特性でもほぼ同様の結果が報告されているが,唯一うつ病に関しては,0.39から0.49という高い相関が報告されている。つまり,夫婦の性格特性は,うつ病については類似性が見られるが,それ以外の特性においてはあまり見られなかった。性格の類似性が望ましい条件として挙げられるが,実際の結婚相手は必ずしも自分と性格的に似かよった人ではないようだ(ただし,価値観や態度での類似性は高い)。
 しかし,性格の似たカップルのほうが性格の異なるカップルより結婚生活への満足度は高いのであろうか?先行研究によると,一貫性のある答えは得られていない。たとえば,アイゼンクとウェークフィールドは556組の夫婦からデータを取り,この点を検証してみたが,神経症傾向と非協調性のスコアを統計的にコントロールすると,この相関は消えてしまった。また,外向性における類似性は結婚生活への満足度となんら関係が見られなかった。これに対し,ラッセルとウェルズは,夫婦の外向性における類似性と結婚生活への満足度との相関を見たが,神経症傾向では見られなかった。ただし,性格ではなく,価値観や態度という面では,夫婦の類似性が高ければ高いほど,結婚生活への満足度は高いという結果が出ている。つまり,税金やリサイクルについての考え方は,夫婦で似ていればいるほど夫婦関係はうまくいくが,2人がどれくらいおしゃべりか心配性かという面で似ているかどうかは,夫婦の満足感と無関係なようだ。
 面白いのは,実際の類似性が結婚生活への満足度とはっきりした関係を示さないのに対し,推定類似性(どれくらい夫婦がパートナーと自分が似ていると認識しているか)は,一貫して結婚生活への満足度と相関を示していることである。幸せなカップルは,実際は似ていなくても,自分たちが性格的に似ていると認識しているようだ。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.100-102

仏教は文明そのものだった

 日本に中国からもたらされた仏教は宗教というよりも文明そのものであり,教典はもとより学問,祭式もハイカルチャーな文化的生活様式であった。そのために誰もが信ずる・行ずる宗教というよりも特殊な能力を用いる職能者として業務独占が認められてきたのである。当時のような身分制社会では,農民は田畑を,漁師は漁場を,貴族や武士は家格と役職を世襲したように,僧侶も僧職と寺院を世襲することが十分考えられる。
 奈良・平安時代の僧侶の仕事は国家鎮護の祈願や学事に携わることであり,今でいうところの文部科学省と文化庁の役人のようなものである。荘園を有し治外法権さえ享受していた中世の寺社において,僧侶とはさしずめ自治都市の職員であろう。浄土真宗では中興の祖蓮如が生涯に5人の妻を娶り,20数人の子をなして教勢を拡大したということであるから,封建領主と変わるところがない。近世の檀家制度が僧侶に与えた役職は,宗門改帳により事実上の戸籍管理を行い(近世の寺檀制度においてキリシタン取り締まりのために,家ごと仏教寺院の檀家に入ることを命ぜられたこと),その報酬として檀徒の葬儀から布施を得る業務独占の権限を得たことであった。このようにして寺院の経済的基盤が安定したため,末寺でも僧職の世襲が進んだといわれる。


櫻井義秀 (2009). 霊と金:スピリチュアル・ビジネスの構造 新潮社 Pp.108-109.

1回批判されたら2回褒められることが必要

 最近起こった出来事でも,悲惨な出来事と幸福な出来事の人生全体の満足度に及ぼす影響力は等しいわけではない。嫌な出来事のほうが,良かった出来事より影響力が強いというのは,さまざまな調査で明らかにされている。たとえば,われわれが行った研究でも,アメリカの大学生は誰かに1回批判された場合,他の人から2回くらい褒められなければ,批判される前の気分には戻れないという結果が出ている。つまり,ネガティブな出来事はポジティブな出来事の2倍くらいの力があるようである。しかし悲惨な出来事でも,普通の人間は予想以上にうまく適応しているケースも多い。有名な社会心理学者のダン・ギルバートとティム・ウィルソンはこれを心理的免疫と呼び,われわれがこの心理的免疫を過小評価する傾向があることをさまざまな実験を通して実証している。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.90-91

前向きに生きれば人生は向上するか

 「前向きに生きれば人生は向上する」という考え方は一見,正しい。しかし,少しでも人生経験があるならば,ことはそう単純ではないことも知っているはずだ。そもそも,それでは現在恵まれない生活をしている人は,「考えが後ろ向きだから」そうなっているとまで言えるのだろうか。


櫻井義秀 (2009). 霊と金:スピリチュアル・ビジネスの構造 新潮社 p.51

Don't worry, be happy!

 また,少なくとも幸福感についての信条は,一部文化的起源があることはいなめないであろう。たとえば,アメリカでは「元気?」という挨拶に「疲れているの」とか,「忙しすぎて死にそう」だとか弱音を吐いたり,同情を求めるような態度を一部のケース(家族と真の友人)以外では見せてはいけない。弱音を吐いていると,友達になったら「お荷物」になりそうな,面倒な人間と見られる可能性が高く,アメリカ人からは避けられる可能性が高い。アメリカでは,弱音を吐かず,いつも元気で幸せでいる人がうまく生きている人であり,友達になり甲斐のある人物なのである。そうであるから,できるだけ明るく,幸せに振る舞わなければ,というプレッシャーも自然と生まれる。また,このため,自分の人生を振り返る際も,良かった出来事に焦点を当て,自分の人生は全般的に肯定的であるという信条を持ち,その信条と一貫性のある自己報告をすることになることが多いのであろう。まさに,“Don’t Worry, Be Happy!”なのである。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 p.43.

自分の記憶の衰えを知ったとき

 すべて良好というわけではないという最初の兆候は,未来に向かう記憶形式,すなわち展望記憶の衰えであることが多い。展望記憶とは,自分が何をしようとしていたかを思い出す能力である。これは健常者ですら問題の多い想起形式である。心のなかで「……を忘れないこと」とつぶやくことは,かならず忘れることを保証する暗号みたいなものである。もっと深刻な状態になると,計画の実行を遅滞なく思い出すことができなくなるばかりか,何をしようとしていたかを思い出すことすらできなくなる。それらは日常生活に悪影響を与えるだけでなく,衰退や低下のわかりやすい指標でもある。患者自身にとって,とくにはじめのうちは,記憶の喪失は耐えがたい。初期のアルツハイマー病の患者は,自分はもはや健康で正常な人が完全によく知っていることを知らないのだ,ということにひとたび気づくと,かすかな不安から完全なパニックに至るまでのあらゆる段階を経験する。「最終的には自分が忘れてしまったということもすべて忘れてしまうから,惜しいと思うこともないだろう」などという慰めは何の気休めにもならない。なぜなら,それは自分が人として存在するのをやめてしまうことを意味するからだ。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 p.312

「楽しんでね」と「頑張ってね」

 また,幸せが運によって決まるという意識があれば,それがアクティブに追求できる類のものではないという認識に繋がるであろう。実際,実験的に設定した課題で,アメリカ人の学生は「幸せ」や「楽しみ」を増すような選択をするという結果が出ている。たとえば大石とディーナーは,被験者に実験室に来てもらい,バスケットボールのフリースロー課題を与えて,10回のフリースローをどれくらい楽しむかを測定した。1週間後に実験室に戻ってきてもらった際には,もう1度フリースローにするか,あるいはダーツゲームをするかという選択肢を与えた。すると,欧州系アメリカ人では,最初のフリースローを楽しんだ人は再度フリースローを選び,あまり楽しまなかった人はダーツゲームに変更した。その結果,全体として2回目のほうが1回目より課題を楽しんだという結果が見られた。ところがアジア系アメリカ人では,そのような傾向は見られなかった。つまり,楽しみを最大限にするという選び方をしているのではなく,1つの課題をマスターするという選び方をしている人がかなりいたということが推測される。アメリカ人の間では,挨拶代わりに「ハブ・ファン(楽しんでね)」という常套句が使われるが,これも楽しみ,幸せ感を最大限にすることが日常生活でのモチベーションとして作用している証であるように思われる。日本だと,同様の状況で「がんばってね」といったところであろうか。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.39-40

レミニセンスは頑健な現象

 ほかの何十もの研究でも,小さな差異はあるが,ほぼ同じパターンが見られた。ルービンとシュルキンとは,数多くの実験結果を集計し,「回想隆起」は40歳の被験者ではまだ見られず,50歳からゆっくりはじまって60歳ではっきりとわかるようになることを確証した。
 レミニセンス効果は頑強な現象であり,病的な状態にあっても完全にはなくならない。フロムホルトとラーセンによる実験では,30人の健常な老人と30人のアルツハイマー症の患者たち(全員が71歳から89歳)に,自分にとって最重要の出来事を15分で回想してもらった。アルツハイマー患者は健常者グループよりも列挙する思い出の数が少なかった(8対18)が,年齢時軸上におけるそれらの思い出の分布状況は,健常な被験者と変わらなかった。アルツハイマー患者も青年期の思い出が一番多いのである。
 レミニセンス効果は,まったく違った種類の調査においても思いがけず現れた。社会学者カール・マンハイムは,世代観についての1928年の論文で,17歳から25歳くらいのあいだに得た経験は政治的世代の形成にとってきわめて重大であると述べている。その理論にもとづいて,社会学者のシューマンとスコットは世代間の違いの量的な研究を行った。18歳以上のアメリカ人1400人以上を対象に無作為の調査を行い,「国家的に,あるいは国際的に重要な出来事」を1つか2つ挙げてもらった。回答者はそれらの出来事に直接かかわっていなくてもよく,自分が生まれる前に起きた出来事を挙げてもよかった。答えはじつに多様で幅広かったが,シューマンとスコットは,挙げられる頻度の高い順に5つの事件を取り出した。年代順にいうと,大恐慌,第二次世界大戦,ケネディ大統領の暗殺,ベトナム戦争,70年代のハイジャックと人質事件である。これらの事件を挙げた人びとの年齢を図表に表してみると,はっきりしたパターンがあることがわかった。人びとが「国家的に,あるいは国際的に重要な出来事」だと考えている事柄は,彼らが20代のころに経験したことが突出して多かった。65歳(1985年当時)の人びとにとっては第二次世界大戦であり,45歳の人にとってはケネディ大統領の死だった。冗談めかしていえば----世界を揺るがす出来事は20歳のときに起きる。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.256-257

友人関係と満足度

 このように,個人の意思,技量,嗜好が友人関係の形成に重要な役割を果たす社会では,その個人主義ゆえに,皮肉にも,友人関係への満足度は自己への満足度,ひいては人生全般への満足度とも相関が高くなる可能性がある。この意外な相関関係は,実際ディーナーとディーナーの研究で報告されている。つまり,友人関係への満足度と人生全般の満足度は,個人主義の傾向の強い国であるほど関係が強いという結果である。個人主義の国では友人に満足すれば友人関係を続けるし,満足しなければ友人と見なされないという個人の視点から友人の取捨選択ができる。対人関係の技量のある人は,友人関係にも満足しているし,それが自尊心にも繋がり,人生全般の満足度も高いという結果に繋がっているように思われる。
 日本ではたまたまクラスを一緒にとったからとか,一緒のサークルに在籍していたからというところから友人関係が生まれることが多い。同じサークルに所属していれば,友人に満足しなくても顔をあわせなければならないから,簡単に友人関係から逃げ出せるようなものでもない。つまり,個人主義の国での友人関係と異なり,日本での友人関係では,自分の思いどおりに友人になったり,友人でなくなったりするという自由が利かない。仕方なく付き合っているという関係も多々あるであろう。そこでは,人生全般には満足していても,友人関係にはそれほど満足していないという人も少なからず出てくるはずであり,友人関係への満足度が人生全般への満足度と相関が低くなるのも理解できよう。

大石繁宏 (2009). 幸せを科学する:心理学からわかったこと 新曜社 pp.37-38

デジャヴュの3つの錯覚

 既視感は3つの錯覚を伴う。第1は,思い出のように感じるが,実際はそうではないという錯覚。第2は,真の予言はできないのだが,これから何が起こるのか知っているような気がするという錯覚。第3は,はっきりした理由もないのに,漠然とした不安を掻き立てられるという錯覚。この3つの錯覚は,どんなにわずかで希薄なものであっても,心に混乱を招く。普通の状態なら淀みない連想の流れであるはずのものが,人をしばらく立ち止まらせる。初めてでありながらなじみがあるように感じる経験は,すぐに次の反響を呼ぶ。それは内省的なものだ。すなわち,既視感を覚えた次の瞬間,人は自身の経験を驚きながら観察している。すべての既視感に共通しているのは,このミラー効果である。残りの部分には違いがある。既視感体験は,たいていは一過性だが,慢性的に生じることもある。自然に生じることもあるが,電気刺激によって生じることもある。すぐに消える錯覚と見なされるものもあれば,統合失調症の妄想の一部と見なされるものもある。はっきりした神経障害がなくても現れるが,てんかん発作の前触れである場合もある。これらすべての病状に当てはまるような単一の説明はありそうにない。現在,もっとも既視感について書いているヘルマン・スノーが指摘しているように,研究者たちの研究結果はしばしば互いに矛盾している。ある研究者が神経病との関係を立証したと主張すると,ほかの研究者たちはそうではないとか,相互関係はないと反論する。年齢,知能,社会経済的な身分,外国旅行の有無,精神障害,脳障害,人種的背景など,さまざまな要因が1つひとつ調査されたが,既視感との相互関係は1つも見つからなかった。既視感の頻度は,調査されるカテゴリーによってまちまちだ。「通常の」既視感と慢性的な既視感との違いが程度の問題なのか種類の問題なのかという疑問についても,意見の一致を見ていない。ただし,わずかではあるが,既視感を促進しているように思われる要因が指摘されている。疲労,ストレス,極度の疲労,トラウマ,病気,アルコール,妊娠である。これらは離人症が現れる状況と共通している。離人症は,既視感とのはっきりとした関係がある,唯一の心理現象なのである。

ダウエ・ドラーイスマ 鈴木晶(訳) (2009). なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 講談社 Pp.221-222

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