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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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打率よりも出塁率

 当然のことですが,毎試合の勝敗というのは得失点差で決まります。打線が何点奪っても,投手陣が弱くてそれ以上に打たれては,敗戦の憂き目にあうわけです。得点数,失点数を見ることも大事ですが,野球の場合,得失点差をしっかり見なければ,勝敗を論じることはできません。
 それなのに,最近の新聞記者やアナウンサーは,チーム打率,防御率だけで,そのチームを評価しようとする傾向が強いように感じられます。
 たとえば,「チーム打率は2位ですが,最下位なのはどうしてでしょうか」「まあ打っているわけですから,そのうち順位も上がりますよ」などといった中継でのやり取りは,チーム打率が順位ともっとも相関が深いという前提で行われています。しかし実際には,それほど深くないというのが現実なのです。
 チーム順位と深い相関があるのは,率でいえば出塁率のほうであり,そろそろ日本のマスコミは打率を好んで使う習慣を改める時期にきているのかもしれません。

小野俊哉 (2009). 全1192試合 V9巨人のデータ分析 光文社 pp.56-57
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翻訳のイメージ

 そこでもう一度,翻訳の話にもどろう。これまでわれわれは何度か,同じドイツ語の文章が,異なる訳者によってさまざまに訳されてきた実例を見てきた。ある一つの文章を訳すときに,翻訳の正解は一種類ではない。5人の訳者がいれば,5通りの正しい翻訳ができあがる可能性がある。つまり正しい翻訳とは,非常に多くの可能性の束として存在しているということだ。
 易者が使う筮竹(ぜいちく)という竹の棒がある。易者はその束を胸の前で混ぜ合わせながら,そこから一本ずつ抜き出し,占いを行う。翻訳もまたあの筮竹のようなものだ。誤訳や不適訳を除外して正しい翻訳だけを集めたとしても,それはけっして1つの文章に収斂することはない。正しい翻訳もまた多数の潜在的訳文の束として存在している。それぞれの訳者はその束の中からみずからの言語感覚に沿って1本の筮竹を選び出し,それを紙の上に固定していく。
 ところがしばしば忘れられるのは,たとえばカント自身がドイツ語の一文を書いたときにも,同じように多様な表現の束の中から,最終的に1本の筮竹を抜き出して紙の上に記したという事実だ。1つのドイツ語文が多様な日本語に翻訳されうるように,カントの原文もまた,それとまったく意味の変わらない幾多の表現の束の中から選択されたものだ。たしかに最終的に実現したのは,たった1つの文章だ。しかしカントが,可能的な表現の束の中からもっとも優れた一文を選び出したという保証はない。それはきわめて偶然的なできごとにすぎない。じっさい,もう少し別の表現方法をとっていたならば,カントが伝えたかった文意がはるかに的確に伝わったであろうに,と思われる文章はいくらでもある。

鈴木 直 (2007). 輸入学問の功罪----この翻訳わかりますか? 筑摩書房 p.213-214

川上哲治のつくった言葉

 ちなみに,この「球際」と「チームプレー」という言葉は,川上監督の造語です。今なら流行語大賞になったかもしれません。
 また,「(チームのために)仕事をする」という言葉が選手の間で流行ったのも,V9巨人が最初です。これは,チームプレーの精神が浸透していたことをうかがわせるエピソードだといえるでしょう。

小野俊哉 (2009). 全1192試合 V9巨人のデータ分析 光文社 pp.38-39

それぞれのタブーがある

 もちろん異国の風景の中では,ちょっとした差異が必要以上に大きくわれわれの五感に訴えかけてくる。日本人がドイツの商店街を歩いていると,駅前のきれいな商店街の一角に普通の衣料品や食料品の店と軒を並べて,全国展開する大きなポルノショップが店を開いているのに驚くことがある。そのことをドイツの友人に言うと「でも,きちんとした身なりのサラリーマンが通勤電車の中で白昼堂々とポルノ漫画やヌード写真が載ったスポーツ新聞を読んでいる光景の方が,自分たちにはよほどショックだ」と逆に言われた。それぞれの文化にはそれぞれのタブーがあり,ある面だけとりあげて「ドイツ人はセックスにおおらかだ」,「日本人はセックスのことしか頭にない」などという評価をすることはできない。そのことがわかってくれば,わずかな経験から,すぐさまステレオタイプ化された予見的判断をくだすことはなくなるだろう。必ずしも厳密な検証を経なくとも,われわれはみずからの多様性の感覚,偶然性の受容能力を高めることによって帰納的推理の効率化バイアスを緩和し,より正確な認識に近づくことができる。ただしそのさいの重要な前提は,すでに述べたように主体が不安から解放されていることだ。

鈴木 直 (2007). 輸入学問の功罪----この翻訳わかりますか? 筑摩書房 p.212

電力消費が大きいからといって

 脳機能イメージングで示される「局在」は,こうした広汎なネットワークの中で,同時に活動するニューロンの数が多く,血流変化としてそれが検知できる部分のみであるといってよい。ややとっぴなたとえになるが,脳活動を新聞社の活動に置き換えてみよう。脳機能イメージングでは,脳の部位ごとの血流の相対的な変化を,その部位の活動とみなす。では新聞社の各部門の活動はどのように評価すればよいのだろうか。新聞社の最大の出力は,活字による情報だろう。その部門で作られる活字情報の量が,新聞社の各部門の活動の最も的確な指標かもしれない。しかし,執筆や編集作業の流れを正確につかむことは極めて困難な作業になる。同様に脳の各部位に生起している神経活動の質的な意味合いを正確につかむことは不可能だ。脳機能イメージングは,そうした質的な活動の代わりに,脳の各部位のエネルギー消費量が反映した血流を代用した。新聞社の評価を,出力される活字情報量ではなく,各部署で消費される電力で代用するようなものである。
 新聞社の各部署ごとの消費電力で,社内の活動を測定するとどんな結果が出るだろうか。実際に測定したわけではないが,たぶん巨大な輪転機の回る印刷部門が最も電力消費の多い部署になるのではないだろうか。では,新聞社の活動の中心は,輪転機のある印刷部門であろうか。もちろん印刷部門がなければ新聞の発行はできないから,重要な部門であることは確かだ。しかし,新聞社の活動の中心はなんと言っても,取材や取材からえられた情報に基づく記事の執筆であろう。記事の執筆には多大なエネルギーは要さない。電力を指標とした新聞社の活動の評価では,記事の執筆という低エネルギー作業は決して明らかにはならないのである。運動をすれば,一時運動野や補足運動野の活動が最も目立つが,運動を可能にするエネルギー消費の少ない脳部位の活動は,脳機能イメージングによる検出感度以下である可能性があるのだ。もちろん,そうした制約があることは,脳機能イメージング法で研究を行っている研究者本人は熟知している。実験方法を工夫して,想定されるネットワークの全容を捉えることを目標に日夜努力を続けているのである。しかし,一般社会に流布される情報は,大きく脚色されている。

榊原洋一 (2009). 「脳科学」の壁:脳機能イメージングで何が分かったのか 講談社 pp.138-139

少ない事例から一般法則を見出す

 個別の具体例から,一般法則を導き出す推理法は,アリストテレスによって帰納的推理と呼ばれた。逆に一般から特殊を推理する方法は,演繹的推理という。帰納的推理は人間の認識装置にアプリオリに備わった能力によるもので,悟性による概念処理を経ることなく直感としてわれわれに与えられる。
 では人間の帰納的推理能力は,一般法則を予測するのに,通常どれくらいの数の個別事例を必要とするのだろうか。これはなかなか難しい問題だが,一般的には意外なほど少ない個別事例からも法則を推理しようとする傾向がある。
 たとえば人に,1・3・5という数列をみせて,第四項を予測させると,小学生でもほとんどが7と答えるだろう。しかし,実際には2・4・6と続いて,さいころの目を表しているかもしれない。しかしわずか3つの数字からも,人間はそこに一定の法則を予感する。

鈴木 直 (2007). 輸入学問の功罪----この翻訳わかりますか? 筑摩書房 p.204-205

相対的変化であることに注意

 また,1人で音読すると,前頭前野を含む広範な部位で,脳血流の増加が認められるが,大勢で一斉に音読すると,前頭前野の血流の相対的な増加が見られないことも,明らかになっている。1人で音読をする作業と,大勢で一緒に音読をする作業の大きな違いは,後者では,他人の音読する声を聞きながら,自分も(それと調子を合わせて)音読するということだ。単純に考えれば,他人の声を聞くために,側頭葉などの脳も同時に活性化し,そのために,相対的な血流変化がより広汎に起こったと考えれば説明がつく。
 何度も繰り返すが,fMRIで相対的な血流増加が見られないところにも,ちゃんと血流は流れ,ニューロンの活動はある。他人の声を聞くという聴覚認知により多くの血流が割かれれば,前頭前野の相対的な血流増加が帳消しになるのは説明がつく。
 しかし,前頭前野の血流増加を重視する「学習療法」の提唱者は,音読は1人でしなければ効果がない,とあくまで前頭前野の血流増加をきたす学習に執着するのである。しかし,その理論的根拠は明らかではないし,唯一の実証的な効果についても,再三述べてきたように,実験計画上の問題(対照のとり方)や,病的状態での効果という制約によって,決して一般化できるようなものではないのである。

榊原洋一 (2009). 「脳科学」の壁:脳機能イメージングで何が分かったのか 講談社 pp.132-133

14世紀のロンドン橋の様子

 14世紀の記録によると,橋門の東側に10軒,西側に10軒,橋門とはね橋の間に7軒,礼拝堂とはね橋の間に17軒,その西側に20軒,礼拝堂の北の東側に35軒,同じく西側に32軒の商店が並んでいた。
 300メートル足らずの橋の両側に,実に131軒の店が建っていたのである。この戸数は,当時としてはゆうにひとつの町を構成する数である。橋上の商店街はロンドンの市民にとって,大きな驚きであるばかりでなく,新しい生活圏の誕生を意味した。現代の人間が,海上都市の未来図を描くようであったかもしれない。
 この131軒の戸数に対して,かりに一軒あたり5,6人の家族数を加えると,橋上で生活していた人々は600から700人となる。中世ロンドンにおける小教区教会の人数は約5,600人と推定されるため,やはり,ひとつの教会を維持するのに十分な数である。131軒という戸数は,橋の大きさから割り出されたにちがいないが,教会維持の経済的な面からの考慮もなされていたのではないだろうか。

出口保夫 (1992). ロンドン橋物語 聖なる橋の二千年 東京書籍 p.64

長期増強現象

 現在,学習の脳内過程として唯一確からしいと思われているメカニズムは,長期増強現象と呼ばれるものだ。長期増強現象は,シナプスが一定時間の間に頻回にわたって活動(神経伝達物質の分泌,シナプス後膜の脱分極)することによって,同じ刺激で,より大きな膜電位が生じるという現象である。プリスという研究者によって海馬で見出された長期増強現象は,記憶や学習のメカニズムを説明しうる最有力の現象だ。
 長期増強現象によって,シナプスの数が増加しなくても,学習によって脳はより高い機能を遂行することができる。現在でも早期教育の効果の宣伝などに,乳幼児に刺激を与えて脳のシナプスを増やす,といった科学的に証明されていない情報が語られているのを目にする。学習や記憶のメカニズムは,シナプスの刈り込みやシナプスの整理などの,シナプスのミクロな構造の変化と長期増強現象などが複雑にからみあったプロセスであり,まだ十分に解明されていないのである。
 こうしたミクロの構造上の変化を可能にするためには,もちろんエネルギーやシナプスの微小な構造の変化などが必要だが,決してそれは筋細胞がもりもりと太くなるような,大量消費モデルではなく,より少ないエネルギーで同等の効果を生じさせるような,エコロジカルな変化ではないだろうか。

榊原洋一 (2009). 「脳科学」の壁:脳機能イメージングで何が分かったのか 講談社 pp.128-129

確率は変わらない

 さて。これを見ると,地震は20日以内に起きることがもっとも多く,間隔が短いことが非常に多いことがわかります。たしかに地震は集中して起きる傾向があります。
 地震が連続すると,次もまた大きな地震が起きると思って,地震対策グッズを確認したりしますが,連続していても,長い間起きていなくても,実は,次に地震が起きる確率自体は変わらないのです。
 地球物理学者の寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる」と言いました。これは,ポアソン分布の観点からは,「しばらく天災が起きないからといって,天災に遭う確率には変化がないぞ,いつも注意しておかなければいけないよ」と解釈することができるでしょう。

神永正博 (2009). 不透明な時代を見抜く「統計的思考力」 ディスカヴァー・トゥエンティワン 

誤った三段論法

 学習療法の提唱者は,誤った三段論法に陥っている。それは次のようなものだ。
 一段:音読や単純計算で,前頭葉を含む広範な大脳皮質で相対的な血流増加が見られる。
 二段:前頭葉機能の低下している,アルツハイマー病の患者さんに,音読や単純計算を課したら前頭葉機能の向上が見られた。
 三段:音読や単純計算を繰り返して行えば,前頭葉機能が向上するだろう。
 この三段論法の帰結は,前頭葉の血流が増加するような課題を行うことによって,前頭葉機能を向上させることができる,ということになる。
 二段目の論法には,音読と単純計算が本当に効果を及ぼしたのか疑義があることはすでに述べた。
 三段目の論法の問題点は,喪失した機能を向上させることと,正常に機能している能力をさらに高めることは,同じではない,ということだ。
 さらに自明のこととして扱った一段目の論法についても,後でまた触れるが,小学校中学年までの子どもでは,音読をしても前頭葉の血流が増加しないことが分かっているのである。

榊原洋一 (2009). 「脳科学」の壁:脳機能イメージングで何が分かったのか 講談社 pp.118-119

自由意思の本質

 こうした自由意志の見方から,個人の責任についてなにが言えるだろう?私たちの遺伝子や過去経験といったものは,人間行動におけるその役割について私たちが理解しているかぎりでは,きわめて決定論的である。もしそれだけだとすれば,自由意志などないか,あってもほんのわずかだろう。私たちは,自分のどんな行為についても,どちらか一方の確定性の無力な犠牲者だと申し立てることができるだろう。犯罪行為のこうした説明は,現在,法廷でも一般的なものになりつつある。しかし,遺伝子と過去経験の両方から私たちを自由にするカオスの不確定性はまた,私たちに,自らの行為に対する責任を認めるように強いる。カオスは確かに遺伝子と経験のどちらにおいても筋書きとして書かれていないものを経験するように強いるが,私たちには驚異的な学習能力がある。私たちは,自分の行為がどのように自分の生に,そして周囲の人々の生に影響を与えるかを見て十分に理解できる。おそらくそこにあるものこそ,倫理的選択の定義,そして自由意志の本質であり,遺伝子や経験に規定されない個人的・社会的可能性のなかからどれかを選択する能力なのだ。


ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.347
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

問題は対照群にあり

 しかし,本当に音読と単純計算が,認知症の進行を食い止めたり,あるいは前頭葉機能検査の成績の向上に効果があったのだろうか,という疑問を抱かざるをえない理由があるのである。
 音読と単純計算の認知症への効果については,老人学の国際専門雑誌に掲載された。内容は以下のようなものだ。
 32人にアルツハイマー病の患者を2群に分けて,片方の16人に週2〜6回音読と単純計算を行ってもらい,6ヵ月後に前頭葉機能検査をして,何もしなかった群とその成績を比較したところ,音読単純計算群で前頭葉機能が統計的に有意に改善した。
 専門科学雑誌に掲載されているから,まず間違いはないと多くの人は思いたくなるだろう。雑誌に報告された内容自体に偽りはない,と私も思う。
 音読と単純計算は,参加したアルツハイマー病の患者さんが自主的に行うのではない。毎日,決まった時間になると学習室に行き,そこのスタッフの指導の下に,計算のドリルや,音読練習を行ったのだ。必ず最後までやるように,スタッフはアドバイスを与える。こうして毎日約20分,音読と単純計算ドリルを行ったのである。
 では,6ヵ月後に行った検査で明らかになった前頭葉機能の向上は,果たして音読と単純計算によると結論してよいのだろうか。そこに,方法論上の大きな問題があるのだ。
 方法論上の問題とは何か。それは,対照(コントロール)としたアルツハイマー病の患者に対しては,音読や計算はもちろんのこと,何も特別なことを行わなかったことだ。本来ならば対照にされたアルツハイマー病の患者さん16人に対しても,週に2〜6回,学習室に来てもらい,音読と単純計算を行った16人と同程度のスタッフとの交流を行うべきだったのだ。ではなぜ,そんなことをする必要があるのか。
 対照となった16人と,音読,単純計算を行ったグループの差は,厳密には音読,単純計算をやったかやらなかったかだけではない。音読,単純計算を行うに当たっての,スタッフとの会話やその他の交流,スタッフからのアドバイスや元気づけの有無も大きな差だったのである。

榊原洋一 (2009). 「脳科学」の壁:脳機能イメージングで何が分かったのか 講談社 pp.113-114

自由意思と遺伝要因・環境要因

 現在はっきりしているのは,人間の行動は,生物学的要因と環境要因の組合せによってもっともよく説明される----人間の行動の個人差には,遺伝子とそれまでの経験がほぼ同程度に寄与する----ということである。しかし,行動のこれらの要因のどちらも,自由意思について考える助けにはならない。なぜなら,どちらも,自由意志の存在を強く否定しているからだ。もし私たちのすべての行動が私たちが生まれるまえにゲノムに書き込まれたものから予測可能だというのであれば,このことから,私たちの選択の自由や選択の際の個人の責任について,なにが言えるのだろう?なにも言えない。だが,遺伝子の専制を恐れる人々は,私たちが白紙のような状態で生まれてきて,たくさんの経験を積んで分別のあるおとなになると考えることで,安心することもまたできない。それもまた,私たちが遺伝子のたんなる総和であるとした場合と同様,私たちの行動を予測可能なものに,そして選択し行動する私たちの自由を制約されたものにするからである。
 しかし,生物学的決定論と環境決定論の「現代の統合」によっても(行動を説明するために遺伝子と環境を結びつけても),自由意志の問題は解決されないままに残る。2つの決定論を結びつけたところで,人間行動における選択の起源と意味を考える助けにはならない。自由意志こそ人間行動の特徴であって,行動を生み出すのが神経系だというのなら,自由意志は相互作用し合う神経細胞のぎっしり詰まったこの脳のなかのどこにあるのだろう?自由意志は,生物学的な観点からは意味をもちうるだろうか?自由意志は,伝統的に,人間に特有のものとみなされている。しかし明らかに,動物も選択を行う。線虫でさえ,2つの等しいバクテリア塊に直面すると,一方を食べるという決断を行ない,もう一方を失うという危険を冒す。この選択はランダムなのだろうか?とれる反応や行動が複数ある場合はつねに,動物は選択を余儀なくされる。こうした選択は,自由意志を含んでいるのか?もし含んでいないなら,私たちが人間の意思決定過程だけに特有と思っているものはなんなのだろうか?


ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.341-342
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

fMRIの利点

 PETに比べてfMRIには多くの利点がある。第1に人体にほとんど影響のないものとはいえ,PETでは放射性同位元素でラベルした薬品を注射しなくてはならない。しかしfMRIでは何も注射する必要はない。ガンの転移などの臨床的な検査では,検査の重要性が,わずかとはいえ人体に影響を与える可能性のある放射性同位元素による身体への影響を大きく凌駕するために,倫理的な問題はほとんどない。しかし,健康な人を対象に行う基礎的な脳研究では,わずかな身体への影響でも倫理的な問題になるのである。
 2つ目の利点は,その解像度の高さである。PETでは,描出できる最小の脳部位の大きさは5〜10立方ミリメートルであった。しかしfMRIでは約3立方ミリメートルの大きさまで描出できる。ほぼ1ミリメートルの直径があれば検出可能なのである。最初はPETで研究を行っていた世界中の脳科学者が,次第にfMRIを使ってさまざまな研究を行うようになってきたのである。
 さらに,fMRIの測定は数秒ほどで可能なために,測定に数分かかるPETに比べてより速い血流変化を測定できるようになった。もちろん,ニューロンの電気的な変化にはミリ秒単位のものもある。こうした速い変化の検出はfMRIでも困難であり,脳磁図などのさらに新しい脳機能画像装置の登場によって可能になるのである。

榊原洋一 (2009). 「脳科学」の壁:脳機能イメージングで何が分かったのか 講談社 pp.69-70

遺伝的複雑さだけでは説明できない

 かつては,人間は単純な生き物に比べればはるかにたくさんの遺伝子をもっているはずだから,いずれ人間行動の遺伝も動物行動の遺伝よりはるかに複雑だということがはっきりするだろう,と考えられたこともあった。しかし,明らかになったのは,そうではないということだった。確かに,人間には数百億の脳細胞があり,302の神経細胞しかない線虫に比べれば,規模の点でも複雑さの点でも桁違いである。人間は推定で約3万5千の遺伝子をもっているが,線虫のゲノムの遺伝子配列を推定してみてわかったのは,この小さな生きものでさえ,約1万7千もの遺伝子をもっているということだった。さらに,人間は,単純な生きものに比べ,そのゲノムのなかに特定の遺伝子のコピーがより多く含まれている。人間には,少なくとも7種類のホスホジエステラーゼの遺伝子があるが,ショウジョウバエはそれが3種類だ。人間には,12を越える種類のセロトニン受容体があるが,線虫ではそれが2つだ。実際のところ,人間の遺伝子の数は線虫の3倍以上だが,遺伝子の種類の数は,そんなに大きく違うわけではない。このように,遺伝的複雑さだけでは,人間の行動の複雑さを説明できそうにない。


ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.335-336
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

脳が活動するという意味

 では脳が活動している,というとき,それは何を意味しているのだろうか。それは,たとえば手を動かすという私たちが注目した神経活動に関わるニューロンのネットワークの中を流れる電気的信号(脱分極)が,手を動かさないとき(手を動かすという活動が休止しているとき)よりも増加しているということを示しているに過ぎないのである。では,手を動かすときに作動する神経細胞は,手を動かさないときには伝記的に活動していないのかといえば,そうではない。手を動かしていないときでも,手を動かすときに電気的な活動が増加する神経細胞も,ブドウ糖や酸素を消費しているのである。自動車でいえば,アイドリング状態にあるといってよいだろう。
 PETで検出しているのは,たとえば手を動かすときと動かさないときの,手の運動中枢の血流の「相対的」な変化ということになる。相対的な変化を見る,ということからすぐに分かることは,1回の測定では何も分からないということだ。手の運動で言えば,手を動かしていないときに1回放射性同位元素を注射して測定し,こんどは手を動かしているときに再び放射性同位元素を注射して測定したガンマ線量の差を計算し,増加した部分に色をつけて可視化したものなのだ。
 脳活動によって変化するのは,脳全体の血流の絶対量ではなく,その相対的分布なのである。PETで,まったく色がつかない部分は,森氏の本にあるように「活動停止状態」ではなく,注目している活動(たとえば手を動かす)によって,血流量に変化が見られない部分なのである。手を動かすという「注目している活動」によって,相対的に血流が増加する部分が,その注目している活動の遂行に関わっている可能性は高い。しかし,相対的血流の増加が見られないところは,その「注目している活動」に関係がないとは言いきれないのである。

榊原洋一 (2009). 「脳科学」の壁:脳機能イメージングで何が分かったのか 講談社 pp.64-66.

優生学者と知能

 大部分の優生学者は,とりわけ俗に言うIQテストによって示されるような心的機能の遺伝に,多大の関心を向けるようになった。優生主義の一般の支持者たちは,犯罪やアルコール依存症のような形質の遺伝について議論を繰り広げたが,科学者たちは,一見知能が客観的に測れそうな道具をもっていたので,もっぱらIQテストの成績に注目した。1930年ごろまで用いられていたIQテストはかなり粗雑で,結果から何かが言えるようなしろものではなかった。ある民族集団が全般的にIQテストでは成績が悪いという,政治的意図を含んだ主張は,最初,さまざまな外国人排斥運動を正当化するために使われた。しかし,こういう主張は最終的には,次のような研究結果によって決着した。これらの民族集団の移民者の第1世代か第2世代あとの子孫では,テストの成績が「主流(メインストリーム)」の成績となんら違わなかったのだ。コチコチの優生主義者でさえ,これらの変化が遺伝では説明できないということを認めざるをえなかった。ほかの研究は,栄養不良や言語ができないことがテストの成績に影響をおよぼすことを示した。テストを受ける者にとって馴染みのない問題や概念をとりあげているという点で,大部分のIQテストには明らかに文化的バイアスのあることが,1970年まで盛んに議論された。しかし,ほかの研究が示し続けたのは,次のようなことだった。各民族・人種集団内でのIQテストの成績の標準偏差は,主流の集団の場合と同じであった。また,IQテストの成績のレベルは,アメリカ社会の主流に入ってしまうと,民族・人種集団間の統計的な差がなくなった。これは不思議でもなんでもない。人種を定義するのに使われる形質----それらはもっぱら目に見える身体的特性にもとづくものだ----はごく少数であり,しかも,これら少数の身体的特徴に関係している可能性のあるほかの形質は,さらに少数しかないからだ。



ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.292-293
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

現金があふれているから

 日本の長期金利が低位安定しているのは,単に「国内」に「純粋なるマネー」が溢れかえっているからに過ぎない。集めた預金の運用先に悩む邦銀などが,日本政府の国債に殺到しているからこそ,日本の長期金利は低いままなのである。
 要するに,資金の需要と供給の問題なのだが,この程度の基本的認識さえない評論家たちが,日々テレビに登場し,
 「日本は事実上,財政破綻しているのですよ」
 などと,もっともらしく語る光景は,まるで出来損ないのカリカチュア(戯画)のようだ。事実上,財政破綻をしている政府が,世界最低の金利で国債発行を継続しているわけである。この時点で,もはや日本語として成り立っていない。

三橋貴明 (2009). ジパング再来:大恐慌に一人勝ちする日本 講談社 pp.275-276

炭水化物や脂肪の好みの遺伝

 一卵性双生児と二卵性双生児の研究では,炭水化物(とりわけ甘いもの)への好みに遺伝的な要素が見出されている(0.4〜0.6の相関)。マウスでは,炭水化物に対する好みは,明らかに遺伝する。しかし,動物でも人間でも,体重が多様な集団内では,炭水化物に対する強い好みが見られるのは,肥満した個体ではなく,痩せた個体である。これは,一般の人々の予想とは逆かもしれない。たとえば,マウスを角砂糖が自由に食べられる状態におくと,痩せているマウスは,肥満マウスに比べ,砂糖からより多くのカロリーを摂取する。これはおそらく,痩せている個体のほうがすぐに使えるカロリーをより必要とするからである。一方,炭水化物の形でカロリーを摂りすぎてしまうと,余分な量は脂肪として蓄えられ,肥満のもとになる。
 脂肪に対する遺伝的好みは,炭水化物ほどは強くはないが(人間では0.2〜0.5の相関),この場合,もっとも強い好みは,肥満の人に現れる。動物でも人間でも,「食物が肥満の原因」があるが,これは,食物中に占める脂肪のカロリーが相対的に高いこと(40%以上)に起因する。2人の人が,毎日同じ量のカロリーを摂取し,代謝が同じであっても,摂取形式によってカロリーの使い方に差が出てくる。脂肪を通じて摂取したカロリーは,すぐに体の組織に脂肪として蓄えられるのだ。このように,食物中の脂肪を好む遺伝的傾向は,「獲得性の肥満」----遺伝的BMIを越える肥満----になる大きな要因である。


ウィリアム・R・クラーク&マイケル・グルンスタイン 鈴木光太郎(訳) 遺伝子は私たちをどこまで支配しているか DNAから心の謎を解く 新曜社 pp.229
(Clark, W. R. & Grunstein, M. (2000). Are We Hardwired?: The Role of Genes in Human Behavior. New York: Oxford University Press.)

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