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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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シェイクスピアの綴り方

 今の私たちには,彼の名前をどう綴るのが一番いいのかもわからない。が,彼自身もよくわかっていなかったようだ。なぜなら,現存するサインは2つとして同じ綴りのものがないのだから(今残っているサインは,Willm Shaksp, William Shakespe, Wm Shakspe, William Shakspere, Willm Shakspere, William Shakspeareの6つだ。おもしろいことに,彼が用いなかった綴り Shakespeare こそ,今現在広く使われているものである)。さらに,彼の名前の発音の仕方にも自信がもてない。『シェイクスピアの発音』という発音に関する決定版を書いたヘルゲ・ケーケリッツは,シェイクスピア本人は「シャクスピア」と発音していた可能性もあると考えた。ストラットフォードとロンドンとで違う発音の仕方をしていた可能性もあるし,綴り方と同じくらいいろいろな発音をしていた可能性もある。

ビル・ブライソン 小田島則子・小田島恒志(訳) (2008). シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと 日本放送出版協会 p.19
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インターネットによる真の脅威

 長期的に見れば,インターネットによる真の脅威は,実証に基づく検証法が確立されていない社会にデマをばらまくことだ。南アフリカ共和国のエイズに関する疑似科学「治療」を例にあげてみよう。ターボ・ムベキ大統領は,国内にいる550万のエイズ患者に抗レトロウイルス薬を行き渡らせないよう長年にわたって全力を尽くしてきた。抗レトロウイルス薬は「有害」で「有毒」だと主張し,エイズにCIAが関与しているとほのめかしてきたのだ。それによって,HIVがエイズの原因だという決定的な証拠を認めようとしない西欧の「エイズ否認論者」から全面的に支持されている。
 世界的に有名な否認論者,ピーター・デューズバーグは分子生物学者だが,エイズの予防・治療として,正しい食生活を守り,有害な薬を飲まないことを提唱している。2007年3月の『ニューヨーカー』誌によると,アメリカ政府のエイズ対策第一人者であるアンソニー・フォーシ博士が,デューズバーグの発言を聞いて,ふだんの穏健さからは想像もつかないほど怒りを爆発させたという。「これは殺人だ。どう考えても,そうとしか表現できない」。ムベキ大統領は1990年代末にインターネットでデューズバーグの説を見つけて,即座に大統領顧問団に任命している。

ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.186

ワクチン・パニック

 その最悪の例は,子どもの自閉症とMMRワクチン(麻疹,風疹,耳下腺炎の3種混合ワクチン)の関連をめぐるパニックだろう。1998年,アンドリュー・ウェイクフィールドと同僚の医師たちがまとめた論文が『ランセット』誌に掲載された。自閉症と炎症性腸疾患(クローン病)を併発した12人の子どもの症例を紹介したものだ。その論文によると,自閉症は腸疾患によって引き起こされた可能性があり,さらに腸疾患はMMRワクチンの接種後に急に発症しているので,ワクチンが自閉症の原因と考えられるということだった。
 ウェイクフィールドはロンドンのロイヤル・フリー・メディカル・スクールの講師で,カナダで外科医の訓練を受けた人物である。論文が議論を巻き起こしたあと,彼は記者会見を開き,3種のワクチンを一度に接種したため子どもの免疫系に過度の負担がかかってクローン病を引き起こし,それが自閉症につながった可能性があると説明した。そしてMMR接種の安全性には「十分な不安」があるので,3つの病気に対応するひとつのワクチンを開発すべきだと主張した。それに対してロイヤル医学協会の倫理委員会の会長だったレイモンド・タリス教授は,次のように語っている。「これを無責任と呼ぶのは--彼の論文に示された証拠は,この結論を導き出せるだけのものではないから--控え目な表現以外のなにものでもない」
 ウェイクフィールドの説は,その後,数件のより大規模で厳密な調査によって否定されt。一例をあげると,医学研究協議会は5000人以上の子どものワクチン接種記録を調べ,MMRと自閉症の間に関連性がないことを確認した。それでも,心配した親,代替療法の専門家,タブロイド紙のコラムニスト,著名人,日和見主義の政治家が,口々に「ひょっとしたら(関連が)あるのではないか」と騒ぎ立て,関連性がないという明白な事実に目を向けてもらえるようになるまでに何年もかかった。
 この騒動のせいで,子どもに3種混合ワクチン接種を受けさせなかった親は数え切れない。パキスタンで,ポリオワクチンはイスラム教徒の断種をたくらむアメリカの陰謀だというデマが広まったせいで,子どもにワクチンを接種させなかった親が無数に出たのと同じだ。2002年には,ロンドン市長のケン・リビングストーンが,MMR接種を見合わせるように呼びかけた。「14ヵ月の子どもはきわめて脆弱だ。私はこの予防接種を別々に受けた覚えがある。別々に受けても深刻な反応が出るものだ。いっぺんに全部すませる必要があるだろうか?」。イギリス医学協会のイアン・ボーグル会長は,リビングストーン市長によるこの無責任な発言で「取り返しのつかない被害がもたらされた」と非難した。偶然かどうか,ロンドンでワクチン接種率が低下すると同時に,麻疹の発病率が上がった。タリスが指摘したように,麻疹はごくまれに命にかかわる場合や,脳損傷を引き起こす場合がある。数百人の子どもの命を奪いかねない伝染病なのだ。いずれにしても,回避できたはずの全国的パニックを収拾するためにNHSが費やした費用は,数百万ポンドにのぼった。

ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.132-134

ホメオパシーの説明

 ホメオパシーは,健康な人に投与したら同等もしくは類似した症状を引き起こすとされる「レメディ(療剤)」と呼ばれる物質を患者にごく少量投与する。そうすることで,身体の防御機構を刺激して病気の予防や治療をめざすというものだ。ちなみに,これは補完代替医療アメリカ国立センターによるホメオパシーの定義である。アメリカ市民の税金で運営されているこのセンターは,ホメオパシーにきわめて好意的ではあるが,それでも19世紀のいんちき療法のような定義をしている。実際,そのとおりだからだ。
 ホメオパシーの法則を考案したのは,ドイツの医師,ザームエル・ハーネマン(1755-1843)で,彼は慢性病の原因は体内を流れるエネルギーの滞りだと信じていた。彼の唱えた「超微量の法則」とは,レメディは微量であればあるほど効果が大きいというものだ。レメディは元の物質(薬草や鉱物)が消えてしまうぐらい徹底して薄める。たとえば,私の家の近くにある薬局ではホメオパシーの硫黄の錠剤に「30C」と表示している。100倍に希釈し,震盪(よく振ること)を30回繰り返したという意味で,硫黄成分と錠剤の比は,1対100の30乗となる。容器に硫黄成分の表示がないのも不思議ではない。硫黄など入っていないのだから。

ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.116-117

創造論がもたらす被害

 創造論はどんな形であれ,計り知れない被害を及ぼす。これほど多くの科学的な発見をむしばむ疑似科学はほかにないだろう。進化論を無視するかぎり,天文学,人類学,生物学,地質学,古生物学,物理学,動物学を正しく理解することはできない。そして,こうした無知がもたらす社会的,政治的,文化的な損失もまた計り知れないほど大きい。こうした分野の専門家を育成しない社会が,競争力のある経済国に発展できるわけがない。「ダーウィニズム」を拒絶することで,開発途上の世界は西欧の堕落した価値観に対してモラル的な優位を示しているつもりなのだろうが,そういう問題ではないのだ。科学的な方法そのものを拒絶してしまっているわけであり,そうすることで未来の世代に物質的な貧困だけでなく知的な貧困をも運命づけてしまっているのである。

ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.70

宗教とカウンターナレッジの違い

 その答えはこうだ。宗教(その定義がむずかしいのはよく知られている)は,カウンターナレッジに走りがちな一面はあるものの,単なるデマではない。あなたが聖霊の存在を信じているとしても,それが間違いだとはだれにも証明できない。つまり,デマではない。あなたが聖霊にがんを治してもらったと主張したとしたら,それも実証できないことだ。神が自然の,あるいは医療的な方法によってあなたを治癒したことはないと立証することはできないからだ。しかし,あなたが聖霊から授けられた力で医療に頼らず他人のがんを治せると主張すれば,それは検証して間違いだと証明できる。だからといって,あなたを嘘つきと称するのは当たらない。危険な形でデマを広めただけだ。
 宗教がある種のカウンターナレッジになるのは,私たちの知性による判断を狂わせようとする場合か,その判断と矛盾する場合に限られる。宗教にまつわる歴史的な奇跡が実際に起こったと信じるに足る理由はない。だが,教会に通っている普通のクリスチャンのように,キリストの復活といった超自然的なできごとを信じることと,信仰療法のように,周りの世界へ間違った情報を流すことが明らかに違うのは,常識で考えればわかるはずだ。

ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.36-37

医療に対する不信が病気をもたらす

 例をあげてみよう。代替医療の圧力団体のおかげで,近年,イギリスでは何千人もの親が,安全性に何の問題もない3種混合ワクチン(麻疹,耳下腺炎,風疹)を子どもに摂取させることを拒否してきた。ワクチン接種と自閉症との間に何らかの関連があるという偽データを信じたせいだ。そしてこの場合,医療に対する不信が麻疹の大流行を招く結果となった。
 それでも,開発途上国の例にくらべると,これはまだましだと言わざるを得ないだろう。ナイジェリア北部では,イスラム教指導者がポリオワクチンはイスラム教徒の断種を狙ったアメリカ合衆国の陰謀だという裁断を下した結果,ポリオが再び大流行するようになった。さらに,聖都メッカやイエメンへの巡礼者によって,この陰謀説があっというまに広がった。2007年1月には,パキスタンの2万4000人の親が,過激なイスラム法学者から同じ話を聞かされて,子どもにポリオワクチンを接種させるのを拒否した。

ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.33-34.

オウムを見てカルトの恐ろしさを知る

 私がカルトの恐ろしさを思い知らされたのは,1996年にオウム真理教の取材のために日本に行ったときだった。東京の地下鉄にサリンガスをまいてハルマゲドンを引き起こそうとしたこのカルト集団は,霊魂の復活,「地震兵器」,UFO,フリーメーソン流の陰謀説を信じていたが,さらに意外なことに,聖マラキの予言も教義に取り入れていた。聖マラキはアイルランドのアーマーの大司教で,1139年にこの世の終わりまでの歴代の教皇112人を予知したとされている。それぞれの教皇は象徴的なニックネームで記されていて,110番目にあたるヨハネ・パウロ2世は,「太陽の労働」,111番目の現教皇,ベネディクト16世は「オリーブの栄光」,そして,112番目となる最後の教皇は「ローマ人ペテロ」。「したがって,あと20年ぐらいで,最後の教皇を迎えることになるだろう」と,オウム真理教の教祖,麻原彰晃は説明している。
 無論,この予言はいんちきだ。予言リストが公表される以前の教皇につけられたニックネームは1590年ごろに「発見された」(つまり,でっちあげられた)ことばかりだ。それよりも私にとってショックだったのは,この聖マラキの予言を教えてくれたのが,大好きな私の祖母だったことだ。つまり,この偽情報はイギリスのブラックプールにあるテラスハウスと,日本の富士山麓にあったカルト集団の総本部とに,ほぼ同時に伝わっていたのである。カルトのあなどりがたい力をこれほど端的に示す例はないだろう。

ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.20-21.

疑似科学・非科学信念は寄り集まる

 昔から,社会に受け入れられない信念,つまり知的正統派に認められない信念は,類が友を呼ぶように寄り添ってきた。この傾向は,真偽を検証する科学的な方法が確立される前から見られる。ニューエイジ運動の起源に関する論文の中で,アメリカの社会学者,ロバート・エルウッドは,非正統的な信念の「地下水脈」は古代ギリシャにさかのぼり,ルネサンスの神秘主義,フリーメーソン,スピリチュアリズム,神知学といった形をとってきたと記している。こうした運動の多くで,社会から排斥された教義に対する信仰は,本来とは別の形になることが多かった。一例をあげるなら,中世後期のキリスト教宗派には,聖書の非正統的解釈を神秘的な癒しの儀式へと発展させたり,禁断の性行為と結びつけたりしたものもあった。


ダミアン・トンプソン 矢沢聖子(訳) (2008). すすんでダマされる人たち:ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠 日経BP社 pp.18

「選択と集中」の対立語は「ばらまき」か?

 「選択と集中」の対立語として,しばしば言われるのは「ばらまき」である。われわれは,「ばらまき」と言われると,何か悪いことをしているような気分にさせられる。しかし,「選択と集中」の対立語は必ずしも「ばらまき」ではない。対立する概念は,「多様性」であり,「寛容性」であり,「持続性」ではなかろうか。「多様性」は単に種類が多いことではなく,その1つ1つに価値を認めることである。そのためには,広い視野と見識,そして「寛容性」が必要である。そのような基盤の上に,社会と学問の「持続性」が生まれるのだと思う。「選択と集中」だけを考えていると,心の豊かさを失ってしまうであろう。

黒木登志夫 (2009). 落下傘学長奮闘記 大学法人化の現場から 中央公論新社 p.296

大学の役割

 イノベーションを進めるためには大学が積極的に参加することも必要であるが,大学の役割はそれだけではない。遠い将来に役に立つかもしれない研究,あるいはとうてい役に立つとは思えないような研究をするのも,大学の重要な役割であるはずだ。経済成長力だけに価値を置いているような人から見れば,無駄としか思えないような研究をしている人が大学にはたくさんいる。ローマ法王の成立,アラビア語の文法,古今和歌集の解釈,銀河系の成立,発光物質,森林の再生など,産業界の人から見れば,「選択と集中」の対象外としか考えられないのではなかろうか。しかし,このような研究がなくなれば,日本は底の浅い,文化力のない国になってしまうに違いない。

黒木登志夫 (2009). 落下傘学長奮闘記 大学法人化の現場から 中央公論新社 p.287

知能と人種問題

 知能テストをめぐって吹き荒れる論争の嵐の源は,人種問題である。何らかの知能測定を基にして,あるグループ全体を「劣性」と名づけることは許されるだろうか。彼らの自信,プライド,ある人種の一員であるという同族意識などにこのような打撃を与える正当な理由はいったいあるのだろうか。答はもちろん否である。そして単純に否というのでなく,ジェンセンも私(注:アイゼンク)も,その他の信頼できる心理学者のうちの誰もが,いま記した差別的表現をかつて使ったことはなかった,と付け加えておこう。私たちが指摘してきたのは,グループ差は,それが存在する場合には,重複の多くを包み隠した差であるということ,また重複が存在するゆえに,あるひとつの人種や社会階層を,知能,学力,能力などの指標として用いるのはまったく不可能だ,ということである。誰もがそれぞれ,一個人として扱われるべきであり,評価の基準は客観的なものでなければいけない。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.316
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

論文の多くに誤りがあるという事実

 科学を広範囲にわたって知らない読者は,公表された論文の多くに計画の誤り,統計分析の欠陥,解釈の間違いなどが含まれていると聞いて,びっくり仰天するかもしれない。しかし自分たちの技術の扱い方について賢明な科学者たちは,それほどは驚かないであろう。実験と分析の方法はつねに改良され,評価の数値もだんだん正確になってくる。しかし,そのことは,以前の研究が,それが発表された時期に科学的でも重要でもなかった,ということにはならない。たとえば,近代宇宙論の分野における道標とも言うべきハッブル定数は,マグニチュードの順序に従って長時間のあいだに数値が変わってきている。だが,これは以前の値が非科学的だったという意味ではない。科学とはつねに変化し,前進するものである。科学が絶対的真理に到達するのは世間一般の人びとの空想のなかにおいてだけである。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.296
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

不毛な議論

 第一次世界大戦時のデータによると,北部のいくつかの州の黒人の平均IQは南部のいくつかの州の白人の平均IQよりも高く,その調査結果は北部の教育水準や経済水準の高さと一致しているように見受けられた。遺伝論者たちは,遺伝的にすぐれた黒人たちが南部から北部の州に選択的に移住した結果である,と証拠もなしに反論した。遺伝論者たちはまた肌の黒さの濃い黒人のほうが肌の黒さの薄い黒人よりも平均IQの値が低いことを立証した。彼らの言い分は,肌の黒さの薄い黒人は白人種の遺伝子をおそらくより多く持っているためだというのである。環境論者側はこれに対して,肌の黒さが薄い黒人は差別を受けることがそれだけ黒さの濃い黒人より少なかったという自明の事柄を指摘して反論を加えた。遺伝論者たちは次いで,血液グループによって測定される白人種の遺伝子の割合とIQとの関係を調査すべきだと提案した。個々の黒人たちが受け継いでいる白人種の遺伝子の割合とIQとのあいだに何の関連も見出せないことが判明すると,この調査を提案した当の遺伝論者たちが,血液グループからは白人種の血統の割合のはっきりした測定値は得られないと結論づけたのである。白人の母親と黒人の父親とのあいだに庶子として生まれた子どもたちが,黒人の母親と白人の父親とのあいだに生まれた同様の子どもたちよりも高いIQを示すという観察結果が得られるや,それはおそらく異人種間結婚に関わった黒人の父親たちのほうが黒人の母親たちよりも知的であったためであろうとされた。また高いSES値の白人家庭に養子となった黒人の子どもたちが際立ったIQ値を発達させることが立証されると,今度は,これは,通常観察される黒人と白人の差異のしかるべき部分が遺伝的なものである事実と必ずしも矛盾しないと言われた。
 この線にしたがって議論をすすめても何ら得るところがないのは明らかである。黒人と白人とが等しく,恵まれた差別のない環境に身を置く社会が実現し得るまで,そして実現できなければ,黒人と白人の差異の問題に対して明確な解答を得ることはできない。皮肉なことに,もしそのような社会が実現したとき,もはやこの問題に対する答に興味を持つ者は誰ひとりいないだろう。人種差別主義にとりつかれた社会のみが,人種間の平均IQの相違の理由を重大視したがるようである。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.263-264
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

シリル・バートの言葉

 イングランドでは,IQテストはさらに重大で中心的な役割を演じた。すなわち,第二次世界大戦後に導入された能力別選択方式の教育制度の基礎となったのである。任意の児童に対して11歳の段階で知能テストを行えば,その子の「先天的知能」を測定することができるとするシリル・バートの熱烈な主張の勢いにおされ,11歳全体を対象としたテストの結果によって児童たちを----平等とはほど遠い----3つの別個の教育課程のどれかひとつの枠組のなかへ,「流しこむ」ことが決定された。
 以下は1947年に述べられたバートの言葉である。「在校中であれ卒業後であれ,知能というものは,その子の話し方,考え方,ものごとをなすなし方,試み方など,あらゆる面を構成する要素になるであろう。……知能とは生まれながらに与えられたものである以上,子どもの知能の発達の範囲には限界があり,その限界の線は動かし得ない。教育にどれほど時と力を注ぎこんだとしても,知能のどの面でも明らかに正真正銘の欠陥の持ち主である生徒を,正常な生徒に変えることはできないであろう。」実に悲観的な意見である。ビネーの考え方とは正反対の立場に立つものである。のちにバートは,知能と「教育可能な範囲内の能力」とを同一視するにいたり,この悲観的な意見は,さらにいっそう単純で平明な言葉で表現されることになる。1961年に,バートはこう書き記している。「能力という器がその内容量を限定することは明白である。容量1パイントのジョッキに,1パイント以上のミルクを入れることは不可能である。同様に,ひとりの生徒が,その子の受容能力を上まわって教育的成果を達成することもあり得ない。」これを言い換えれば,IQ測定検査は,ある児童の教育され得る範囲の限界を知ることができるから,検査の結果が示す受容能力を超えた教育をその児童にむりやりに押しつけることは明らかにばかげたことだということになる。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.167-168
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

優性断種法

 ビネーのテストが出現したころすでに,優生学の考えと結びついた遺伝性の力への無批判な信仰が広くゆきわたっていた。1907年,インディアナ州では優性断種法が州議会を通過した。その後,アメリカの30以上の州がインディアナ州のあとにつづいた。この法律はとりわけ,犯罪者,白痴,痴漢,てんかん,強姦者,狂人,酒飲み,麻薬中毒患者,梅毒患者,非道徳的・性的倒錯者,それに病人,変質者などに対して,強制的に断種手術を行うという法律であった。この法令は,これら犯罪者,不適格者たちのさまざまな欠陥は遺伝因子を通じて子孫に伝えられるのだということを,法的な事実として認めたものである。優生学論者のまったく非科学的な幻想は,社会にとっての不適格者たちを,断種することによって,社会にとって望ましくない特性を人びとから除去できるという単純な考えをいっそう助長するものであった。幸いにもこの断種法は頻繁に実施されることはなかったが,実施されたとき,その対象となったのは貧困者たちだった。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.165
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

罵倒し合いの歴史

 不幸なことに,知能という領域で発見されてきた主要な事柄が持つ社会や政治にとっての意味合いについては,いままで公に議論されたことがほとんどない。提起された問題は深刻な,重要なものだが,これまで私たちがしてきたことと言えば,極端論者どうしが互いに「ファシスト」とか「コミュニスト」とか,あるいは「人種差別主義者」とか「黒人びいき」とか,というようにののしりあう汚れた言葉のあらそいを目撃してきたというにすぎない。事実,感情の波は激しい。IQへの遺伝の役割その他の差異に注意してきた人びとは,ヒトラーの足跡をたどる者だ,集団大虐殺を行おうとするものだと非難されてきた。そのように,偏見により人を有罪に決定しようとする試みは,もちろん愚かしいことである。同様の汚れ物をなすりつけるような誹謗戦術が,社会主義は下劣で邪悪な信条だということを「証明する」ために使われることもあるだろう。ヒトラーの政党も国家社会党ではなかったかとか,彼の政党綱領はイギリス労働党と同様の社会主義行動を要求したのではなかったか,とか。こういう「証明」は実に危険なのである。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.156
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

競技場のたとえ

 ドナルド・ヘッブは遺伝性を評価,算定すること自体を疑った。彼は,遺伝と環境の相対的寄与の分量を区別する努力を,競技場の大きさを決定するのに,縦横の長さのどちらがより重要かを区別する無意味な努力にたとえた。このアナロジーは以後数えきれないほど繰り返されたが,あきらかに不適当なアナロジーと言うべきだろう。ある1つの競技場を例とすることでヘッブは,ある一個人への遺伝と環境の及ぼす影響を遺伝学者が区別しようとする,と暗ににおわせている。これは,実際無意味なことであろう。遺伝学者の関心の対象は,個人ではなく集団である。彼の疑問は,集団内での遺伝因子と環境因子の相対的影響についてである。それゆえヘッブの表現は,次のように別の言葉で言い直されるべきだ。「多数の長方形の競技場があるとしたら,大きさの違いを左右する影響力を持つのは,縦の長さと横幅のどちらなのか,そいてこの2つの要素のあいだには相互作用があるのか」と。これは分散分析という統計学の手法を使えば,たやすく答えられる問いであって,質問としては興味も意味もそれほど深くあるものではない。ただ,無意味で答えられない問いでないことは確かである。ヘッブと彼の追従者が発達の議論の基盤全体を完全に誤解することが可能だったという事実は,心理学者の研究課題のうちに,行動遺伝学が含まれるべきであるという必然性をはっきりと示すものであろう。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.104
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

類似性と扱われ方

 ここに述べたことに共通するものは,二卵性双生児は一卵性双生児と同様に,周囲の環境からの影響を分ち持つ,という仮説である。もしこの仮説に妥当性がないなら,一卵性双生児が成長につれて互いに似てくるのは,一卵性双生児の環境の類似性のつよさを反映しただけのこととなる。確かに一卵性双生児が,二卵性よりも似たような扱われ方育てられ方をしていることには証拠がある。似た服を着るとか,いっしょに遊ぶ,同じ先生につく,同じ部屋で寝る,など似た環境に置かれている。両親が意識的にそう扱おうとするからである。しかし大切な点は,扱い方の相違が知能の重要な決定因となるか否かであろう。もし育て方の違いが知能指数に影響を及ぼさないならば,それは知能に無関係なものである。レーリンとニコルズは2000組の双子を対象に大規模な調査をしたが,そこで彼らは,扱い方の差はまったくIQに影響しない,ということを示した。すなわち,同じような扱われ方をした双生児のほうが,知的な能力においても似てくる,ということはなかったのである。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.81-82
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

イギリスにおけるイレヴン・プラス試験

 奇妙なことに,知能と学校の成績とのあいだに完全な相関関係がないということが,しばしば,知能テストそのものへの批判にまで発展してしまうことがある。イギリスでは,異なる種類の中等教育の学校に生徒を選抜するにあたり,「イレヴン・プラス試験(中等学校進学適性検査)」が実施されていたものだが,予測が完全なものとは言えなかったので,この検査方法は厳しい批判を受けて最後には放棄されてしまった。今日,知能テストが非難される理由のいくつかは,このときの経験から生じたものである。しかし,これはまったく見当はずれなことなのである。なぜなら,まず第1にこの適性検査は,3種類の問題から構成されていて,すなわち,英語,数学,そして言語による思考能力の試験であり,それは習得知識に依存した結晶性能力のテストとみなすことができる。したがって,イレヴン・プラスの検査には,流動性能力のテストはまったく含まれていないことになる。もちろん,知能テストが測定するのは,よくても学業の達成度を決定する変数のうちたった1つにしかすぎない。たった1つとは言っても,その1つはあきらかに重要な変数かもしれない。おそらく最も重要な変数かもしれない。しかし,それでもいくつかの変数のうちの1つにすぎない。このような状況のもとで,テストによる完璧な予測を期待することはまったく非現実的である。実際,もし予測が完璧であったら,それの基礎になっている理論そのものをくつがえすことになったはずである。テスト予測は潜在的な特性(知能)と顕在的な特性(達成度)とを一致させたはずであるからである。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.50-51
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

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