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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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相互相関が存在の理由となり得る

 もし私たちがある概念を,それを測定するテストによって定義するなら,そのテストは内的妥当性--テストの結果が互いに一致するということ--を持ったものでなければならない。これは決定的に重要なことなのである。テストが内的妥当性を持っていると私たちが言うときには,実は,そのテストが1つの因子を,測定可能な誤差をも含んで客観的に測定する。そしてさらに,同じ因子を測定するその他のテストとのあいだに正の相関関係を持っている,と言っているのである。gこそがその因子にほかならない。もっともこの段階ではまだ,gが実は世間一般で理解されている知能と同一のものなのだ,と言明することはできない。


H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.40
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)
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操作的定義では

 知能とは何かと問われると,心理学者たちは,嘲るような顔つきで,知能テストが測定するものこそが知能だよ,と答えることがある。このやりとりは同義反復(トートロジー)にしか見えないであろう。科学の専門家でない人びとが聞いたら,おそらく面白がるであろう。しかしながら,科学の分野ではこの種の定義--いわゆる操作的定義(オペレイショナル・ディフィニション)--は,まったくありふれたものである。実際,多くの科学者たちが,これこそが受容できる唯一の科学的定義だ,と信じてもいる。1つの概念を,それを測定する方法と測定した結果とによって定義することがあるが,その時,この定義は同義反復ではない。なぜなら,測定という作業は1つの理論から導き出されたもので,その理論を証明したり無効にしたりするために,使われるものだから。知能テストが測定するものが知能なのだ,という言い方は,知能測定の結果そのものによって反証をあげられることがあるわけだから,循環論法ではない。それゆえ,もし私たちの知能テストが,すべて正の相関関係を持っているテストではないと判明すれば,これらの知能テストは知能を測定していない,と結論せざるを得ない。だが,その時には,むしろテストが内的妥当性を欠いていた,と言うほうがよいかもしれない。


H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.39-40
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

一般因子「g」

 これらの多岐多様な見解を,適切な心理学理論へと融合したのは,チャールズ・スピアマンである。永年ロンドン大学のユニヴァーシティ・コレッジの心理学教授であったスピアマンは,ゆたかな成果を挙げることになる単純素朴な考えから出発した。彼は,もしすべてを包括しすべてを統合する認知能力,つまりそれによって,ひとがよく理性を働かせ,問題をよく解決し,ものを知るという認知の場において秀でることを可能にさせる能力が存在するならば(スピアマンはこれを一般因子gと名づけたが),この能力をテストするために,難易度の異なる問題を多数案出することができるはずである,と主張した。
 ちょうど同じころに,フランスではアルフレッド・ビネーが,またドイツではヘルマン・エッビングハウスが,同様のテストを工夫していた。それらに対するスピアマンの新しい寄与は,やや単純な統計的な考えだった。簡単に言うならば,この考えとは,ある人びとはどのような認識能力のテストを解答しても,ほかの人びとよりもよくできる--知能という概念そのものが,そういう可能性を暗示していると思われるが--と証明することが,簡単に次の方法により可能である,つまり,無作為に選んだ人びとに,多数のテスト項目を与え,「相関」と呼ばれる過程により,テストの解答やテスト項目を比較検討する,という作業をとるというのである。もしスピアマンの仮説が正しいなら,これらの相関関係はすべて,正の値を持つことになるはずである。すなわち,あるタイプのテストでよい成績を挙げれば,他の種類のテストにおいても同様によい成績を得る可能性がある,ということになる。

H・J・アイゼンク,L・ケイミン 齊藤和明(訳) (1985). 知能は測れるのか--IQ討論 筑摩書房 pp.16-17
(Eysenck, H. J. versus Kamin, L. (1981). Intelligence: The Battle for the Mind. London, Pan Mcmillan.)

ネットのやりとりは分かりやすい

 自閉症スペクトラムの者には,インターネットでほかの人々と言葉のやりとりをするのは刺激的なことであり,それによって自信が持てる。第一,チャット・ルームでの会話や電子メールのやりとりでは,直接会って話す場合に必要な集中力がいらない。会話をはずませる方法や,笑みを浮かべるタイミング,ボディランゲージの意味を読みとる必要がない。アイ・コンタクトもいらないし,すべては文字になっているのでどんな言葉でも意味が汲みとれる。チャット・ルームでは,(^_^)や(`_´)などの絵文字を使えば,相手がどんな気持ちでいるかよくわかる。

ダニエル・タメット 古屋美登里(訳) (2007). ぼくには数字が風景に見える 講談社 p.166

自閉症の症状の特徴のひとつ

 いまでも,人の言葉を聞いて,すべての単語とその細部まで完全に理解できても,それにふさわしい対応ができない。たとえばある人がぼくに「コンピュータで原稿を書いていたら,押すつもりのないキイをたまたま押してしまい,全部消してしまった」と言ったとする。ぼくの頭のなかでは,その人が押すつもりのないキイを押してしまったこと,そのキイを押したとき原稿を書いていたことはわかる。しかし,そのふたつの発言をつなげて全体像(つまり原稿が消えてしまったこと)を思い描けない。子どもの本などに,点と点を順番につなげていくとある形が現れてくるものがあるが,それと同じで,点のひとつひとつは見えるが,それをつなげて形にできない。だから,「行間を読む」ことができないのだと思う。
 また,質問の形式をとっていない曖昧な発言にどう応じればいいかもよくわからない。相手の発言を情報として受け取ってしまう傾向が強い。つまり,ほとんどの人は言語を人づきあいの手段として使っているが,ぼくにはそれができない。ある人が「今日はあまりいい日じゃなかったよ」と言ったとする。その人は,相手から「それはたいへんだったね,なにかよくないことでもあったのかい?」といった言葉が返ってくるのを期待していることが,最近になってようやくわかってきた。

ダニエル・タメット 古屋美登里(訳) (2007). ぼくには数字が風景に見える 講談社 p.94-95

厳罰社会がたどり着く場所

 福祉が救うべき人々が,万引きなどの軽微な罪で立件されて,刑務所に追いやられている。セキュリティの高まりとともに福祉が後退するなかで,社会に居場所がなくなっているからだ。
 かくして,いまや刑務所が福祉施設と化している。セーフティネットから転落した人びとは,ホームレスになるか,それとも犯罪を起こして刑務所に収容されるか,という選択肢に直面しつつある。
 これは,被害者感情をスペクタクル化した厳罰社会の帰結だ。
 犯罪被害者が厳罰を求めるのは自然な感情の発露である。また,「二度と同じ悲劇をくり返してはならない」と,セキュリティを求めるメッセージにも,責められるべき点はひとつもない。だがそうした声は結局のところ,厳罰化やセキュリティの強化にのみ水路づけられている。

芹沢一也 (2009). 暴走するセキュリティ 洋泉社 p.145

厳罰感情のインフレーション

 昨今,メディアにおける犯罪報道では,遺族が語る場面が必ずといっていいほど挿入される。そして,それは「善」と「悪」という,単純な二項対立のフレームのもとでスペクタクル化している。その効果として,人びとのあいだに「道徳的な公憤」を強力に喚起してしまうのだ。つまり,「悪」なる加害者に対する,厳罰感情のインフレーション(膨張)というべき事態が起こる。山口県光市母子殺害事件が好例だろう。

芹沢一也 (2009). 暴走するセキュリティ 洋泉社 p.141

暴力を避けようとすると相互不信に陥る

 社会の側でも警察の相談体制の充実や,告訴・告発の受理・処理体制の強化,あるいは法制度の整備などによって,被害者の声を積極的に受け止めるようになった。
 だが皮肉なことに,これまで潜在化していた日常的な暴力への嫌悪感が高まり,社会全体がそうした暴力を排除しようと取り組みはじめるという,それ自体はまったく肯定すべき動向が,同時に暴力のリスクに対する過剰なまでの忌避感情を育んでしまっているのだ。
 それは日常生活から暴力を遠ざけようとする,ごく真っ当な感覚の高まりが,暴力にあうリスクのコントロールへの要求水準を高め,その結果,相互不信のセキュリティ社会に帰結してしまうというパラドクスだ。

芹沢一也 (2009). 暴走するセキュリティ 洋泉社 p.123

空疎な言葉が踊る

 行政や識者たちを動かしているのは間違いなく,コミュニティの崩壊と規範意識の喪失を嘆く「道徳」的な熱情だ。だからこそ,あらゆる場面で,家庭や地域社会の再活性化がノスタルジックに叫ばれるのであり,「愛」や「こころの教育」などといった空疎な言葉が踊ることになるのだ。
 だが,こうした情熱の難点は,かつてコミュニティなるものが密にあり,規範意識が確固としてあったとされる時代のほうが,先にあげた統計が示すように,凶悪で猟奇的な犯罪が桁違いに多く発生していたという,きわめて単純な事実である。


芹沢一也 (2009). 暴走するセキュリティ 洋泉社 p.57-58

人類の進歩に貢献する

 次女が高校入試の面接のときに,「将来の夢は何ですか」と聞かれて,「人類の進歩に貢献する」と答えたんです。普通は,「資格を取って保母さんになる」というような答えが返ってくるのかもしれませんが,それで次女の面接の担当だった先生はどうしたか。目をそらして「じゃあ,○○さんは?」と隣の子に矛先を移した。うちの娘は完全にスルーされた。
 そのとき次女は「何か燃えた」と言います。何に燃えたのかというと,生徒がそういうことを言ったら普通,反応が来てしかるべきでしょう,と。「あなたの言う,人類の進歩に貢献するとはどういうことなんですか」などと聞いてくれれば,その問いに精一杯答える準備があったのにと悔しがる。
 長女のときはこんなふうじゃなかった。長女が行っていたのは古い歴史がある都立高校で,その高校からは各方面で活躍した人がいっぱい出ている。面接のときに,長女は「わたしも,この偉大な伝統の一部になる」って高らかに宣言したら,卒業式のときに国語の先生が「Mさんの面接の受け答えを今でも覚えている。素晴らしかった」と言ってくれました。

鈴木光司・竹内 薫 (2009). 知的思考力の本質 ソフトバンク クリエイティブ p.160-161

組織が成長すると雑務が増える

 これは日本のシステムの問題ですね。組織ができると,その成長につれて雑務が多くなっていく。これはどのような組織においても当てはまることです。
 たとえばPTA。学校が新設されたとすると,PTAの仕事は,最初の頃は少なくても,年を追うごとにどんどん増えていく。広報部をつくりましょう,あの人は仕事も何もやっていないから新しい部をつくりましょうなんていうふうに,どんどん増えていく。
 PTAは本来,保護者と教職員の仲介役みたいなものでしょう。にもかかわらず全員参加が当然のように言われる。そして全員に仕事が平等に行き渡るようにするためには,雑務を増やすしかなくなる。これを削ってスリム化しようとすると,とんでもない労力がかかる。

鈴木光司・竹内 薫 (2009). 知的思考力の本質 ソフトバンク クリエイティブ p.155

重大な局面では「やっていいこと」をせよ

 太平洋戦争の記録を読んでいて,僕がとても気になるのは,「やってみなければわからない」という言葉です。当時の日本人は重大局面でしばしばそう口にしましたが,これは単に経験のない人間が口にする言葉です。
 重大な局面において「やってみなければわからない」ことをやってはいけません。「やってみなければわからないこと」は教育の場でこそやるべきです。
 教育の場では失敗が許されます。やってみて,しくじって,反省をフィードバックして学び,またやってみる。このような学習のサイクルを通じて人は,自分のできることを知り,眼前の問題を的確にとらえる能力を高めて,何をやってよいのか,何をやってはダメなのかを経験的に知ります。そして重大な局面においてはできるだけ,「やっていいこと」をする。そのためのトレーニングが教育です。

鈴木光司 (2009). 情緒から論理へ ソフトバンク クリエイティブ p.187-188

問題があるなら知恵を出せ

 文明の進歩が生み出した矛盾,たとえば核兵器や環境破壊や人心荒廃を持ち出して,現代社会を批判的に見る人は少なくありません。しかし,進歩には必ずよい面と悪い面があることを忘れてはいけません。人間は,その時代その時代の理不尽と不合理を解消させ,よりよい方向へと舵取りをしてきました。ですから現代に問題があるのなら,解決するために知恵を結集すべきであって,過去を懐かしんだり将来を悲観しているだけでは,何も始まらないのです。

鈴木光司 (2009). 情緒から論理へ ソフトバンク クリエイティブ p.143-144

過去は楽園ではない

 過去が楽園だったとしたら,人間はそこにとどまり続けたはずです。けれど,そうではなかったがゆえに,人間は辛い暮らしに満足せず,社会システムを変え,ここまで進歩してこられたのです。「昔はよかった」「今の世の中はおかしくなった」などと情緒的に語る人は,この歴史が見えていません。もしくはこの点から意図的に目をそらしているのかもしれません。
 これはとても危険なことです。なぜなら「過去の方が幸せだった」とノスタルジーに浸ったり,「世も末だ」と虚無的な態度をとったりしていると,現在を克服して明るい未来を築こうというアクションにつながりにくくなるからです。未来への希望を語れない大人たちの態度は,何より,未来を担う子どもたちにとって不幸です。

鈴木光司 (2009). 情緒から論理へ ソフトバンク クリエイティブ p.142-143

無視・賞賛・非難

 「人間は無視・賞賛・非難の段階で試される」という。箸にも棒にもかからない状態では徹底的に「無視」。少し希望が見えてきたら「賞賛」。そして,一人前と認められるようになったら「非難」する。そのようにされて人間は成長していくのだと……。まさに私はその原則通りの道を歩んできた。


野村克也 (2009). あぁ,監督--名将,奇将,珍将 角川書店 p.183

宗教について理解をすべし

 カーター大統領が在任中,自らの信仰について言及した時,ある日本の経済人が「宗教などは青二才の言うこと」と軽蔑した,と新聞に報道されたのを記憶しているが,つくづく日本とアメリカの相互理解の難しさを思わされた。
 日本人,ことに学校制度を成績優秀で駆け上がったエリートの宗教に対する考え方には,神は実在するかどうかを知力で証明しなければならないというところがある。私の大学時代の経験からいっても,級友たちの議論はマルクス主義から見た宗教でなければ哲学的論議という,いつも経験の裏打ちの少ない知的ゲームであった。ある意味では,世界中のアジア,その中の日本,さらにその中のその他大勢にすぎなかった大学生ですら,過去200年のフランス啓蒙主義の影響を受けて,宗教を頭でしかとらえることのできない環境に染まってしまっていたのかもしれない。級友も私も家伝来の宗教はあっても,自らその宗教を日常生活で意識的に実践した者はほとんどいなかった。第二次世界大戦後の日本で,私たちだけが例外だったとは思えない。
 ところがアメリカの場合は,宗教は生まれた時から日常の人生経験である。キリスト教の家に生まれれば,神が存在するや否やという疑問が浮かぶ前に,もの心つく時から「神様」が自分を守ってくれるという理解は,それを教える親への信頼感から出発する。食事の前のお祈り,夜寝る前のお祈りを教えられ,それが習慣になる。大半の親は子供連れで定期的に教会に行く。それほど宗教心篤い家庭でなくとも,幼児のまわりには宗教のシンボルは無数にある。児童向けの本には絵やイラストの豊富な聖書物語がたくさん出ているし,クリスマスの季節になれば,聖書のイエス誕生からとられた芝居,讃美歌の合唱やクリスマス・キャロルで隣近所をまわるなど,子供のためのプログラムが盛りだくさんである。

ハロラン芙美子 (1998). アメリカ精神の源 中央公論社 p.295-296

幼児期から宗教を気にする

 4,5歳のころから,アメリカの子供は自分の宗教,他人の宗教に関心を持ち,あの子はユダヤ教,この子はキリスト教と区別することにより,自分と他人のつながりを理解する。これは差別するのではなく,他人の特徴を目や髪の色,背の高さなどと同じように,宗教から理解しようとする幼児の行動である。

ハロラン芙美子 (1998). アメリカ精神の源 中央公論社 p.194

宗教と正義

 日本語では「独善」だが,英語の場合「自らを正しいと信じる」という意味の「セルフ・ライチャネス」が「正義」の観念と結びついた時に,宗教の問題が始まるといってもいい。つまり,正義の根底には人を裁くという行為があるからである。人間の正義はかならずしも神の正義と一致しているわけではない。むしろ,あさはかな人間の知恵には限りがある。それにもかかわらず「神の」正義をふりかざし,自分の宗教だけが「真実」であると主張する人間が,人間を裁いてきたのが宗教史といえないこともない。

ハロラン芙美子 (1998). アメリカ精神の源 中央公論社 p.151

宗教的・霊的

 宗教的,霊的,と書いたがこの2者は別ものである。
 宗教を職業とする人ですらしばしば混同するが,特定宗教の主張する教義を受け入れ,要求されるお勤めを忠実に実行する宗教的な人がすなわち霊的な人とは限らない。逆に教会やお寺にまったく入ったことがなく,模範的とは言いがたい生き方をしている人でも,霊的世界を内に持っている人はいる。つまり神あるいは宇宙の創造主の存在を信じることと,その信仰を基に宗教という教義体系を作り,信仰を同じくする人間の団体を組織することは,必ずしも同じことではない。ただし,宗教的訓練,たとえば瞑想,祈禱,日常生活の場を離れて一定期間に集中して瞑想あるいは祈禱をする「静修」などの訓練が霊性をたかめることはしばしばあるので,宗教と霊性は共存する。


ハロラン芙美子 (1998). アメリカ精神の源 中央公論社 p.8

ほめるのは本来自然な気持ち

 ほめるという行為は,本来,自然な気持ちのあらわれです。「ほめる教育」におけるほめるという行為は,この点において異なります。自然な気持ちのあらわれなどではなく,ほかのねらいをもったきわめて意図的な行為です。
 相手の活動・行動・行為あるいはその結果に感心して,「じょうずだね」「おもしろいね」「すごい!」「よくがんばったね」などとほめるのは,自然な気持ちのあらわれです。本心からそう思い,そしてそれを言葉にしてあらわしているにすぎません。なにか別の意図やねらいがふくまれているわけではない。なにかのためにほめるのではなく,ほめたいからほめるのです。
 それにたいして,「ほめる教育」の場合には,ほめることそのものは本来の目的ではないのです。本来の目的は,ほめることを通して相手に影響をあたえることです。相手の心と行動に影響を与え,やる気を出させたり,自信をもたせたり,伸びていくようにする----。つまり,こちらが望んでいるような方向へと向かわせることがねらいなのです。そういう意図のもとにほめるわけです。いわば,下心のある行為です。本心からほめることとは,明確に区別される行為なのです。

伊藤 進 (2005). ほめるな 講談社 p.82-83.

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