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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ほめる教育は価値付け

 この「ほめる教育」の視点は,じつは,「ほめられるところがあれば価値があり,そうでなければ価値がない」という価値観にもとづいています。多分,「ほめる教育」推奨派の人たちはこのことを明確には認識していないのではないかと思います。しかし,はっきり認識しておくべき点です。
 一見,どこにもほめるべきところがないような子どもがいたとします。「ほめる教育」では,それでもどこかにほめてやるところがないかを探します。そして,なんとかほめてやる----。
 それによってはじめて,その子には価値が生じたのです。ほめられるようなところがひとつもなければ,その子には価値がないわけですから,とにかくすこしでもいいと思われるところを探してほめる。それで価値を付与する。

伊藤 進 (2005). ほめるな 講談社 p.47-48
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世界中で同じようなことが

 さらにこういったデータを細かく見ていくと,その比率が偏っていることに気づく。いわゆるフリーターや派遣社員など,立場の弱い労働者への分配が最小限に抑えられているのだ。だから国全体の経済は成長しているにもかかわらず,個人レベルではそれを実感できない。下流社会が形成され始めたのも,この時期であった。
 このような格差が拡大する状況を見て,「日本の政治家や官僚が意図的にそう仕向けているのではないか」と考えた人も多いのではないか。格差による成長を官僚は計画したのではないか。
 実はかつては僕もそう疑っていた一人だった。だがそれはどうやら間違いのようだ。
 なぜなら,この時期,日本だけでなく欧米先進国の多くで同じような現象が同時に起きていたからである。弱者が増加したのは決して日本だけの現象ではなかった。むしろ経済がグローバル化した結果,日本経済が巻き込まれた現象だったのだ。
 この現象の一番わかりやすい原因を求めると,資本主義が内包する以下のような根源矛盾に突き当たる。
 それは,「経済成長のためには,資本主義という制度が一番向いている。ただ,その資本主義競争を突き詰めていくと,労働者への分配を低く抑えることに成功した経営者のほうが,より多くの利益を生み出すことができるようになる」という矛盾だ。

鈴木貴博 (2009). 会社のデスノート:トヨタ,JAL,ヨーカ堂が,なぜ? 朝日新聞出版 pp.211-212

よいところを無理に見つける教育の弊害

 すこしでもよいところを見つけてほめる----この「ほめる教育」の接し方は,子どもや若者をつねに「よいー悪い」の評価の対象として見るということを意味します。子ども・若者の行動を「よいー悪い」という点において価値づける評価のものさし(尺度)を,頭のなかにつねに用意しておく。子どもや若者がなにかをしたら,即座にそのものさしをあてはめる。そして,すこしでもプラスの値がふくまれていたら,よくできたとか,がんばったねどとほめる----。
 そういうことをやっているのです。これは,ひとりの人に接する接し方としては,かなりかたよった接し方だということを認識しておくべきです。このような評価のものさしをあてはめることなどしないで,その人のありのままの姿をそのまま受けとめて接するということだって十分に可能なわけですが,それとは遠くかけ離れた接し方なのです。


伊藤 進 (2005). ほめるな 講談社 p.46-47

事件の後でさえ合理化する

 もし私がほかの誰かを傷つければ,その人に対してやさしくする気持ちになるだろうと,あなたは考えるかもしれない。しかし研究,とりわけ子供についての研究は,まるっきり逆のことを示している。ほかの人間を傷つけた子供は,たとえ事故であった場合でさえ,犠牲者の悪いところを考え,要するに,その子がそういう報いを受けるのは当然なのだという理由を考え出す。そして大人は一般にもっと手の込んだ感情をもつが,同じことがいえる。それはまるで,人々が事件の後で,自分自身のおこないを合理化する必要があるかのようである。そして,私たちがいかにしてほかの誰かに危害を及ぼしたかを説明する唯一の方法は,何らかの方法で,彼らはそうなって当然だったのだと自らを説得することである。
 私たちはそれを,盗みに入った家の持ち主を軽蔑する泥棒に見る。私たちはそれを,ヴェトナムにおいて,戦慄をもって見た。そこでは,アメリカ軍兵士がますます多くの農民を殺し,障害者をつくりだすにつれて,彼らに対するますます大きな嫌悪を募らせていったのだ。そしてそれは,国家全体の行動にもまったく同じようにあてはまる。ナチスは,ユダヤ人をその手で苦しめたがゆえにユダヤ人を毛嫌いし,イスラエル人は,パレスチナ人が弱くて貧しいがゆえに憎んでいる。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.376-377

科学を学ぶことで

 科学を学ぶことで,私たちは,なぜ私たちがあれやこれやを信じるべきなのかを学ぶのである。科学は甘言でつることはせず,命じることもなく,何かがなぜそうであるかの事実的,理論的論拠を並べるのである----そして私たちに,それに賛成し,自分自身で理解するように誘うのである。したがって,誰かが科学的説明を理解したときには,彼らはある重要な意味で,それを自分のものとして選んでしまっているのである。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.364

親の個人的目標に子を使ってはならない

 ここで,両親の行為を,ほかとは違う道徳的規則の管轄下にあるものとして扱わなければならない理由は何一つ存在しないと,私は言いたい。
 もちろん,子供に対する親の関係は,あらゆる面で特別なものである。しかし,子供の個人としての個性を否定するほどに特別なものではない。それは外延を共有する関係でも,所有の関係でもない。子供は親の一部ではないし,比喩的な意味以外に親に「属する」わけでもない。子供は,いかなる意味でも両親の私有財産ではない。実際,この同じ問題について別の文脈で述べられた合衆国連邦最高裁判所の言葉を引くと,「個人は彼自身に属するものであり,他者にも,全体としての社会にも属するものではないというのは,道徳的事実」なのである。
 したがって,もし両親の個人的な目標の達成のために子供が利用されれば,ほかの誰かによって利用されたのと同じように,子供の権利への侵害なのである。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.355

米国って・・・

 たとえば米国では,ほとんどすべての人間が宗教的原理主義者かニューエージ神秘主義者,あるいはその両方ではないかとさえ時には思えてくる。そうでない人々でさえ,まず,あえてそのことを認めようとはしないだろう。たとえば,世論調査は,米国の全人口の98%が神を信じ,70%が死後の生命を信じ,50%が人間の念力を信じ,30%が自分の人生が星座によって直接に影響を受けていると信じ(そして70%が,万一に備えて星占いに従い),20%がエイリアンに誘拐される危険があると信じていることを裏づけている。
 問題は----子供の教育にとっての問題という意味で----,単に,それほど多くの人間が現代的な世界観と真っ向から矛盾するような事柄を積極的に信じているというだけでなく,それほど多くの人間が科学的な世界観の絶対的な核心であるような事柄を信じていないことにある。昨年[1996年]発表されたある調査は,アメリカ人の半分が,たとえば,地球が1年をかけて太陽のまわりを回っていることを知らないことを示していた。分子が何であるかを知っているのは10分の1以下であった。半数以上の人間が,人類が動物の祖先から進化したことを受け入れず,進化が----かりにそれがあったとして----何らかの外部的な介入なしに起こりえたと信じる人間は10分の1以下である。人々は科学の成果を実際に知らないだけでなく,科学がどういうものであるかさえ知らないのだ。どういうものを科学的方法として認めるかと質問されたとき,わずか2%だけが,それには理論を検証にかけることが含まれることを認めた。34%はそれが実験と測定にかかわるものであることを漠然と知っていたが,66%は見当さえもっていなかった。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.337-338

預言が当たることは当然ありえる

 一部の懐疑論者は,この出来事に関する聖書の記述の正確さに対して,『旧約聖書』の預言者が,何世紀も先に何が起こるかを「あらかじめ語る」ことなどできたはずがありえないという理由に基づいて,異議申し立てをするべきだと思っている。しかし,そうした懐疑主義は,的はずれだと思う。なぜなら,注目すべき要点は,将来を預言することそれ自体には,預言者がその預言がいつどこで実現されるかを決定しないままにしているかぎり,なんら奇跡的な事柄を必要としないということである。たとえば,数十万人の人間からなる1つの部族には,たとえば,300年のあいだに100万人以上の赤ん坊が生まれることを考えれば,そうした誕生のうちの1人が,多少とも預言されたとおりに「起こる」かもしれない可能性は比較的高いだろう。それは,どこかで誰かに起こらなければならないだろうというものではなく,それは単に,もし,どこかで誰かに実際に起きたときに,それほど感心するほどの理由はないということにすぎないのだ。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.278

話は改善される

 明らかな答えは,それが不当な尊敬を獲得するための方法だということである。社会生活の基本的原理の1つは,何か言うべきことをもっている人間に社会が特別な地位を与えるということである。ニュース価値のある出来事の現場にいた,あるいは密接にそれにかかわりあいさえあったということは,その人間を,社会にとって貴重な情報源にする。その人物は,「そこにいて」,衝撃を与える情報をもつ人間となる。それは「目撃の力」とでも呼ぶべきものを人に授ける。したがって,たとえいなくとも,現場にいたと断言したい誘惑に駆られたとしても不思議はないのである。
 しかし,この答えは,少なくとも私が関与を認めるものを超えた幅広い罪を覆い隠してしまうことになるだろう。真相は,話を発明することはかりにあったとしてもごくまれで,私は単にそれを改善するだけということである。そして心理学的には----おそらくは,道徳的にも----いかなる根拠もない話をでっちあげることと,既存の事実にわずかな破格を認めることのあいだには大変な違いがある。無からはなにも生じない。もし私がまったく見てもいなければ,セスナ機の着陸を見たとは,絶対に言ったりはしなかっただろう。ワーテルローで戦った先祖というのでさえ,少なくとも私の側に半分の事実がなければ,そんな話はしなかっただろう。
 私が何もないところから話をつくりあげることはけっしてないと言っているのではない。しかし,通例は,現実世界になんらかの準=合法的な口実を提供してくれないかぎり,してくれるまでは,そういう誘惑に乗ることはない。いわば,私は,自分で「ニアミス」----ひょっとしたらそこにいたかもしれないとか,隣にいる人間に何かが起こるとか,針にかかった魚が逃げるとか,宝くじの当選番号が1番違いだったとか----体験をしていなければならないのである。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.262-263

1つの成功がすべて

 しなし,不合理(ナンセンス)な信仰を棄てるよう,人々を説得するうえでの本当の問題は,まさしく,私が最初の電話のときに出くわしたものである。いわゆる占いが時に的中することがあるのは疑いの余地がない。そして人間という存在は,たった1つの驚くべき成功を1000のありふれた失敗の足下にもおよばないほど重大なものとみなしてしまうことが多いのである。これに加えて,事実を解釈し直すことであからさまな失敗を成功に変えてしまう,あるいは,自分の行動を予想していたものに合うように変え,迷信の存続を保証するという人間の性向がある。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.258-259

12月の検索フレーズトップ10

第1位 基本的帰属錯誤
第2位 逆説志向
第3位 キツネ 家畜化
第4位 日本人論 流行 背景
第5位 疾風怒濤の時代 青年期
第6位 迷惑な進化
第7位 穏やか 意味
第8位 日本人論
第9位 オオカミ 社会構造
第10位 ソシオメーター

時計の進化

 現代の時計はもちろん日時計から進化したものである。そして時計が発祥した北半球では,日時計の柱(vane)の影は文字盤上を「太陽回り」で動いていき,これを私たちは現在「時計回り」と呼んでいる。しかし,ひとたび日時計が手動の時計仕掛けに取って代わられると,時間を太陽回りで表す理由はただちに消滅した。にもかかわらず,この段階では,人々の時間表現の習慣はすっかりしみこんでしまっていたため,結果として,地球上のほとんどすべての時計がいまだに太陽回りの動きを使ってるのである。
 しかし,ここで,議論のために,私たちが現代の時計を直視することになり,そして根っからのダーウィン主義者として,なぜその針が今のような動き方をするのか理由を知りたがっていると仮定してみてほしい。感覚の場合と同じように,問いを提起すべき2つのレベルがあるだろう。
 もし,そもそもなぜ時計は針をもっているのかについて問うのであれば,答えは比較的単純である。何らかの形で時間の経過を示すために,時計はある種の針をもつ必要がある----ちょうど私たちが,体表に与えられた刺激を何らかの形で表象するためにある種の感覚をもつ必要があるように----のは,明白である。
 しかし,時計の針がなぜ今のように時計回りで動かなければならないのかについて問うならば,答えはもっと深いものになるだろう。なぜなら,現在では,時間を表すと言う職務は,逆向きに回転する動きでも同じようにうまく果たすことができる----ちょうど,感覚刺激を表象するという職務が今日では質(クオリティ)を逆転させた感覚によっても十分に果たせるのと同じように----からである。実際,すでに見たように,時計に関するこの第2の問いは,それに先立つ歴史を参照することによってのみ答えることができる----ちょうど,私が感覚についてこれから論じようとするように。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.115-116

2種類の「自己」

 2つの極端な考え方が可能で,これまで,それが受け入れられてきた。ふつうの庶民に自己とは何かを尋ねてみれば,ろくに考えずに返ってくるのはおそらく,個人の自己というものが実際に,ある種の実在物だという答えだろう。すなわち,彼の頭のなかに生きている幽霊のような監督者,彼の思考を担っている者,彼の記憶の収納庫,彼の価値観の持ち主,意識をもつ内なる「私」といったところだ。今なら,きっと「魂(ソウル)」などといいう単語を使ったりはしないだろうが,心のなかにもっているとされる魂という古くからの考え方に非常によく似ているだろう。自己(あるいは魂)は,肉体に実行させる力と,永続的な独自の特性をもつ実在の実体なのだ。自己についてのこの現実主義的イメージを,「本来の自己(proper-self)」の観念と呼ぶことにしよう。
 けれども,一部の精神分析家や心の哲学者たちのあいだで人気が高まっている修正主義的な自己のイメージは,これとは対極にある。この見方によれば,自己はそもそもモノなどではなく,説明のためのフィクションだというのである。誰もその内部に魂に類似した主体など実際にはもっていない。私たちは,彼らの行動(そして,自分自身の場合には,自らの個人的な意識の流れ)を説明しようと試みるときに,この意識をもつ内なる「私」の存在を想像するのが実用的であることを知っているだけなのだ。実際には,自己はどちらかといえば,一連の伝記的出来事や傾向の「物語的な重心」に似たものと言っていいかもしれない。ただし,物理学的な重心と同じように,実際にそういうモノ(質量や形や色をもった)は存在しない。自己についてのこの非現実主義的イメージを,「仮想の自己(fictive-self)」の観念と呼ぶことにしよう。

ニコラス・ハンフリー 垂水雄二(訳) (2004). 喪失と獲得 進化心理学から見た心と体 紀伊国屋書店 p.42-43

間違いがあって,それはそれでよい

 誤解を恐れずに言えば,科学的なプロセスを経た結果だとしても「間違いはあって,それはそれでよい」という考え方があります。そこで重要となるのが,手続きであり「制度」なのです。その結果が正しいかどうかを複数の判定者を立てて検証する。その時点で正しいと思えれば公開されますが,それは完成形ではありません。間違いは含まれますし,何が正しいか,明確にわからないことも少なくない。あえて言えば,信用できるのは結果としての知ではなく,いずれはより確からしい知を生むプロセス,すなわちフローなのです。

坂村 健 (2007). 変われる国・日本へ イノベート・ニッポン アスキー p.141-142

「巧緻より拙速」の世界で

 さまざまな情報が瞬時に行き交うネット時代では,あまりに事象が複雑化していて,一般の人が考えるようなデジタル的「1か,0か」といった考え方や,「白か,黒か」という判断ができない問題が非常に多いのです。
 旧来型のマスコミの論理で「良いか悪いか」に集約しようとするようでは,メチャクチャな議論につながるだけです。単純化できない問題はそれこそたくさんありますが,あえて単純化しなくても,最後に「なんとなくわかった」というやり方がケース・スタディそのものと言えます。
 もはや,それができないと世界に遅れてしまいます。複雑化した事象をベスト・エフォート的な解決法を見つけて「巧緻より拙速」とばかりに突き進もうとしている世界において,「1か0かはっきりしないと,先へ進めない」などと引っ込み思案でいるようでは,目もあてられないということになるのです。

坂村 健 (2007). 変われる国・日本へ イノベート・ニッポン アスキー p.138

政治の本質は敵を作り出すこと

 ワイマール後期からナチス時代の法哲学者で,憲法学者でもあるカール・シュミット(1888-1985)というドイツ人が,面白いことを言っています。敵と味方がはっきりしない混沌とした状況下では,敵と味方がはっきり分かれるようなことをすぱっと言って,味方を固めるのが,政治の本質だと言うのです。
 それは逆に言えば,「敵」をつくることです。日本的な政治のイメージとは違いますね。ドイツ人だって,無闇に「敵」をつくりたいわけではありません。でも,全部味方にしようと思って,緩いことばかり言うと,味方の結束が弱くなる。敵をうまくつくって,それに対抗する形で,味方の結束力を高める方が有効だと,シュミットは見たわけです。ほんとうの政治家というのは,国家の危機状態にあって,「これが敵なんだ」とうまく味方に示して,それとの対比で「味方」のイメージをはっきりさせ,味方の同質性を基盤にした「国の形」を示せる人のことだというのです。

仲正昌樹 (2006). ネット時代の反論術 文藝春秋 p.80-81

話の通じない相手にどうするか

 そこで「話の通じない相手」をどうするかが問題となります。
 もちろん「大人」になって,脊髄反射しかできない可哀想な人を「許す」のがいちばんいい方法です。「だいたいこういう人たちはまだ幼いんだから,大人になるまで待ってあげましょう。そのうちに分かるようになってくれるだろう」と自分に言い聞かせる大人もいます。そうできればいいけれど,なかなかできないですよね。たぶん,それは,私やあなた自身が「大人」でなくて,脊髄反射する子供な人たちと同じくらいこらえ性がなくなっているせいでしょう。
 では,許せないんだったら,どうするか。次に考えられるのは,「無視する」という行為です。こんなものを相手にしてたら,自分のほうもバカみたいだ。とにかく無視してしまおうという態度を取る。あまり,気持ちのいい態度ではありませんが,自分自身がそれほど“大人”でないのであれば,精神衛生上そういう態度も必要でしょう。
 あるいは,思いきって,単純に「報復する」という手もあります。言葉で返すだけじゃなくて,相手を殴りに行くとか,いやがらせ行為をやるということもあるでしょう。殴りに行くかわりに,ネットに匿名で誹謗中傷を書き込んだり,悪い噂を流すという手もあります。
 そして最後は,この本のテーマ----「反論する」です。


仲正昌樹 (2006). ネット時代の反論術 文藝春秋 p.51-52

目標は広くとれ

 ところが現代でしばしば,これとはまったく逆のことがいわれる。ただ1つのことにとことん執着するのが,最前の道だという考え方が,多く見受けられるのだ。
 たとえば「東大に受かること」をただ1つで最高の正解だと思う親が多かったり,「ただ1人の運命の人との出会い」を信じている人も多いし,「自分に合った天職がどこかにある」と思いこんでいる人も,多いような気がする。
 しかし,あらかじめ決定された「正解」がある,という考え方は間違っている。そのような思い込みは「直感力」を鈍らせるだけだ。世界も自分自身も,日々,変化しつづけている。もちろん変わらないものもあるが,変わるものもある。そういったことを前提に,日々,人生の生活を積み重ね,非言語的メッセージに耳を澄まし,現場で直接感じる(直感する)ことが,正解へたどり着く,着実な方法なのだ。



佐々木正悟 (2007). 脳は直感している 直感力を鍛える7つの方法 祥伝社 p.145


理工系への興味は教えられて高まるものではない

 本物の理工系人間,特に工科系の人間は,出発点からして違っている。彼らにモノづくりをさせるため,ああしろこうしろと教える必要はない。言われなくても作ってしまうからである。教育する前から,モノづくりの衝動があるのだ。才能のある本物の理工系人間は,しばしば教える側よりも優秀である。彼らは,誰に教わるでもなく,自分の思うままに学び,実践し,技術を習得していく。彼らは,社会状況がどうなっても,理工系を選択するに違いない。社会的に有利だろうが,不利だろうが,そんなことはこれらの選択を変える力をもたないだろう。金融のほうが儲かる?それがどうした。彼らは,モノをつくるために生まれてきたのである。金勘定など二の次なのだ。

神永正博 (2008). 学力低下は錯覚である 森北出版株式会社 p.93

学力低下の原因は大学が定員を減らさないから

 こうなると,A大学では,これまでと同様のレベルの学生も入学しているものの「いままでよりもできない学生も入学」することになる。B大学,C大学では,これまで獲得できていた成績上位者が,上のレベルの大学に行ってしまうだけでなく,下位の学生が入学してくることになり,「全体のレベルが低下」することになる。これは,どの大学の先生も「これまでよりできない学生」が増えたと感ずることと矛盾しない。これは,

 これまでと高校生の学力レベルが全く変わらなかったとしても,大学の入学定員を減らさなければ,大学志願者数が減るごとにどの大学においても学生の学力は下がる

 という当然の事実に過ぎない。
 この単純なモデルの意味するところは,学力が低下して見えるのは,少子化に連動して大学の定員が減っていないからだ,ということなのである。
 注意して欲しいのは,これはたとえば,大学の教員すべてにアンケートをとって,「最近の学生の学力はどうですか」と聞いたとき,全員が「できなくなった」といっているにもかかわらず,学生の学力は集団として何も変化していない,ということなのである。このような場合,個々の意見の平均が全体の質を反映しないのである。

神永正博 (2008). 学力低下は錯覚である 森北出版株式会社 p.38-39.

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