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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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ASPを認めよ

 反社会的行動を「現代文化」や「世の中」のせいにし,その共通した行動パターンを全体的にとらえることなく,ひとつひとつの行為にばかり目を向けていると,この障害の存在が見えにくくなってしまう。人々を不安に陥れるショッキングな犯罪や社会問題の多くは,はっきりと明確に認識できる特徴を持つ者たちにたどることができるのである。その多くは男で,彼らは恨み,怒り,不正直,暴力,モラルの欠如,などに満ちており,人々の生活や生命を危機に陥れるような,考えられうるあらゆる行動をする。
 ほとんどの人は,自分の周囲を見渡せば問題のある人物がいるのを発見するだろうし,新聞を開けば,ASPとおぼしき者による凶悪犯罪の記事は引きも切らない。どんな国へ行こうが,どんな社会や民族であろうが,どんなに遠く離れた土地であろうが,執拗にルールに逆らい,権威を拒絶し,盲目的な利己主義によってのみ行動する,明らかにASPとわかる者たちがいる。すなわち,ASPはどのような国にも,民族にも,文化にも存在するのである。
 最近では,「うつ病」とか「精神分裂病」とか,「ADD」など,精神病であるなしを問わず一般にも名がよく知られるようになった精神障害がいくつかあるが,ASPについて語られることはまだあまりないようだ。その領域の広さと潜在的危険性の高さを考えれば,ASPという障害は驚くほど知られていないと言っていい。クレックリーが,「ASPが人間にとって重大な健康障害であることを世の中が完全に認めるまでは,この障害の及ぼす問題と苦闘している人たちを助けるためにできることはほとんどないだろう」と述べてから四半世紀がたったいま,私たちは依然として,この障害のはびこりと,それが招いている結果を見過ごしているのである。

ドナルド・W・ブラック 玉置 悟(訳) (2002). 社会悪のルーツ ASP(反社会的人格障害)の謎を解く 毎日新聞社 p.259-260.
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遺伝も環境も影響するのが当然

 性格や体格と同じで,「心の障害」に関するほとんどの議論の多くは,とかく先天的か後天的か,つまり遺伝か環境かというふたつの考えの間を堂々めぐりしているように見える。原因が先天的であるということは,この問題は遺伝学や生物学の領域だということであり,後天的ということは,過程や社会など周囲を取り巻く環境と,幼児期の体験が重要な要素だということである。ASP(反社会的人格障害)は遺伝によって伝えられると主張する人たちは,同じ家系に世代から世代へとくり返される「悪い行い」のパターンを指摘し,その現象を生物学的に説明しようとする。一方,原因は環境にあると主張する人たちは,そういう家では子供に対する親の虐待(愛情を与えず残酷な言葉で心を傷つける「精神的虐待」や,親としての務めを果たさない「ネグレクト」も含まれる)が世代から世代へと伝わっているためだと主張する。
 だが,ASPにせよその他の心の障害にせよ,遺伝か環境かという議論は実際にはあまり意味を成さない。なぜなら,まず第1に,仮に遺伝的にASPを伝える因子があるとすれば,それを持っている子供は,親の虐待(環境要因)に対して,ASP的な傾向(遺伝要因)をもって反応することが考えられる。そして,問題行動が代々伝わっている家系では,「遺伝子」も「環境による影響」も,ともに伝わっている可能性があり,そのふたつをはっきり区別することは困難だ。そこで,人間に伝わる性向の原因探しは結局このふたつの中間をとり,要素はその両方から来ているのだろうというあたりで落ち着くことになる。

ドナルド・W・ブラック 玉置 悟(訳) (2002). 社会悪のルーツ ASP(反社会的人格障害)の謎を解く 毎日新聞社 p.144-145.

行為障害

 小さな子供を童話の世界に生きているかのように理想化したがる人がいるが,子供にも苦しみやつらいことはたくさんある。そのうえ要求されることもたくさんあり,ほとんどの子供はそれを素早く感じ取って従っているのだ。そして,どんな子供でも時どき“悪いこと”をする。2歳くらいになれば,早くも自我が芽生え始めて反抗期が訪れるが,それも正常な心も発達の過程なのである。
 ところが,いつまでたっても“悪いこと”ばかり執拗にくり返し,ひとつのことばかりでなくさまざまな種類の“悪いこと”をするとなると,それはノーマルとは言えなくなってくる。その状態には「行為障害」と呼ばれるものがあてはまる可能性がでてくるのだ。

ドナルド・W・ブラック 玉置 悟(訳) (2002). 社会悪のルーツ ASP(反社会的人格障害)の謎を解く 毎日新聞社 p.71

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いまの日本も同じでは?

 多くのアメリカ人は,世の中のルールが機能しなくなってきているのではないかという心配を口にしている。社会は拠り所とすべきモラルの中心を失っており,現代のアメリカ文化は根本的な価値を取り戻す必要があるというのだ。もちろん,何をもって“根本的な価値”とするかについては人によって異なるわけだが,ともかく美徳や規律についての本がつぎつぎと出版され,ベストセラーになっている。政治家が演説で使うレトリックには「伝統的な価値に戻れ」とか「個人の責任」などの言葉が混じり,それらが失われたのは人々を甘やかす世の風潮のせいだと主張する人々もいる。彼らによれば,そういう風潮が悪い行いを正当化する連中を増長させているのであり,そのために最近では犯罪行為を働いても「虐待されて育ったせいだ」などのさまざまな泣き言をならべ,自分の責任を逃れようとする人間が増えているという。そして,夫の暴力から生理前のヒステリーに至るまで,あらゆることを自分がした悪い行いの言い逃れに使おうとする態度がまかり通っているというのである。


ドナルド・W・ブラック 玉置 悟(訳) (2002). 社会悪のルーツ ASP(反社会的人格障害)の謎を解く 毎日新聞社 p.31

不幸になる権利

 「V・P・Sって?」
 「激情代用薬(Violent Passion Surrogate)のことさ。規則的に毎月1回だ。身体の全組織にアドレナリンを充満させるのだ。恐怖と怒りの完全な生理的代用物だ。デズデモーナを殺したり,またオセロの手で殺されたりする,あの強壮剤的効果には一切欠けるところがなく,しかも何らの不都合はともなわぬのだ」
 「しかし,わたしはその不都合が好きなんです」
 「われわれはそうじゃないね」と総統は言った。「われわれは物事を愉快にやるのが好きなんだよ」
 「ところが,わたしは愉快なのがきらいなんです,わたしは神を欲します,詩を,真の危険を,自由を,善良さを欲します。わたしは罪を欲するのです」
 「それじゃ全く,君は不幸になる権利を要求しているわけだ」とムスタファ・モンドは言った。
 「それならそれで結構ですよ」と野蛮人(サヴェジ)は昂然として言った。「わたしは不幸になる権利を求めているんです」
 「それじゃ,いうまでもなく,年をとって醜くよぼよぼになる権利,梅毒や癌になる権利,食べ物が足りなくなる権利,しみだらけになる権利,明日は何が起こるかもしれぬ絶えざる不安に生きる権利,チブスにかかる権利,あらゆる種類の言いようもない苦悩に責めさいなまれる権利もだな」
 永い沈黙が続いた。
 「わたしはそれらのすべてを要求します」と野蛮人はついに答えた。
 ムスタファ・モンドは肩をそびやかした。「じゃ,勝手にするさ」と彼は言った。

ハックスリー 村松達雄(訳) (1974). すばらしい新世界 講談社 p.278-279

再入壜の実験

 「というのはどういうことですか」と野蛮人(サヴェジ)はたずねた。
 ムスタファ・モンドは笑った。「いや,これは再入壜の実験と呼んでいいかもしれない。それはフォード紀元473年から始まったことなのだ。総統たちはキプロスの島からその原住民をみな追い出してしまって,特に2万2千のアルファの集団を選んでこれに住まわせることにした。彼らには農工業のあらゆる設備や道具を手渡して,好き勝手にやらせることにした。ところがその結果は,まさに理論上での予想を完全に裏書きすることになった。土地は正しく耕作されず,あらゆる工場ではストライキが起こった。法律は無視され,命令は守られなかった。しばらく低級な仕事に振り当てられた連中はみな高級な仕事にありつこうとして,絶えず陰謀を企て,高級な仕事を持つ連中は何が何でも現状にしがみつこうとしてこれに対抗して陰謀をたくらむ。6年とたたぬうちに彼らは申し分のない内乱を引き起こしているという結末だ。2万2千のうち,1万9千まで殺されてしまったとき,残存者たちが世界総統たちにこの島の統治をも一度やって欲しいと嘆願してきた。そこでその通りにしてやることにした。かつてこの世に存在したアルファたちだけの唯一の社会は,こんなふうにして終わりを告げたのだ」
 野蛮人はため息を深くついた。
 「最適の人口は」とムスタファ・モンドが言った,「氷山になぞらえて構成される--つまり,9分の8が水面下,9分の1が水面上,というわけだ」
 「それで水面下の連中は幸福なんですか」
 「水面上の連中より幸福だよ。たとえば,ここにいる君の友人たちなんかよりはね」と総統は指さした。

ハックスリー 村松達雄(訳) (1974). すばらしい新世界 講談社 p.259

死に対する条件反射訓練

 5台のバスに乗った男女の生徒たちが,歌ったり,黙々と抱擁し合ったりしながら,陶化舗装された大通りを通っていった。
 「死体火葬場からいま帰ってきたところですよ」とギャフニー博士は説明してくれたが,その間にバーナードはひそひそ声で女教頭とその晩の会合をとりきめていた。「死に対する条件反射訓練は生後18か月で開始されるのです。どんな幼児もみな危篤者病院で毎週2日午前中をすごすことになっています。最上等の玩具が病院にはそなえてあって,死亡者の出る日にはチョコレート・クリームがもらえるのです。子供たちは死を当然の出来事と考えるようになります」
 「死以外のあらゆる生理作用と全く同様にね」と女教頭は教師めいた口調で言葉をはさんだ。

ハックスリー 村松達雄(訳) (1974). すばらしい新世界 講談社 p.189

全般的知識は必要悪

 「ただ単に諸君に全般的な理解をあたえんがためなのだよ」と所長はいつも見修生たちに説明するのだった。というのは,彼らは,いやしくもその仕事を賢明に遂行してゆこうとすれば,もちろん何らかの全般的理解はもたなければならぬのだから--ただし,もし社会の善良にして幸福な一員であろうとするならば,全般的理解はできるだけ最小限に止めておくことだ。それは,だれしも知っているように,専門的知識は徳と幸福を増進するが,全般的知識は知的見地からいって必要悪なのだから。そもそも社会の背骨をなすのは哲人ではなくして,糸鋸師や郵便切手蒐集家なのである。

ハックスリー 村松達雄(訳) (1974). すばらしい新世界 講談社 p.8

宗教というミーム

 ハイイログマやオオカミが野生状態で生きているのは素晴らしいことである。少し知恵を働かせたら,私たちは平和に共存していくことができるからだ。私たちの政治的寛容や宗教的自由の中にも同じ政策を認めることができる。あなたは,それが社会にとって脅威にならないかぎり,自分の願ういかなる宗教的信条を保存するのも,創るのも,自由である。私たちは全員「宇宙船地球号」に乗り合わせているのだから,いささかの調整は身につける必要がある。ヒュッテル族のミームは,部外者を抹殺するという徳をめぐるいかなるミームをも含んでいないのだから,「利口」である。もしそうしたミームを含んでいるのであれば,私たちはそれらのミームと闘わなければならないだろう。私たちがヒュッテル族に寛容なのは,彼らが自分をしか害しないからだ。もっとも私たちとしては,次のように主張しても少しもおかしくはないのだが。すなわち,あなた方のお子さんたちの学校教育については,私たちにも,何かもっと開かれた態度を課する権利があるのですが,と。他の宗教ミームはこんなにおとなしくはない。そのメッセージは明らかである。みずから調整しようとしない者,自分を押さえようとしない者,自分たちの遺産のうちもっとも純粋でもっとも熱狂的な血を引くものだけを残せばよいと主張する者,これらの者は仕方がないので,私たちとしては,彼らを檻に入れたり武装を解除させたりするしかなくなるだろうし,彼らがそのために闘っている当のミームを,万全をつくして失効させることにもなるだろう。奴隷制,子どもの虐待,差別など,もっての他だが,ある宗教を冒瀆した者に(彼らを引き出した者には報奨金までつけて)死罪を申し渡すなど,やはりもっての他である。そんなことは文明人のすることではない。そんなことが宗教的自由の名において尊敬に値するはずはないのは,血も凍るような殺人をそそのかすことが尊敬に値するはずはないのと同じである。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.698-699

倫理的体系のコンセンサスは

 人間の文化,それもとりわけ宗教は,「黄金律」,「十戒」,ギリシャ人たちの「汝自身を知れ」などから,ありとあらゆる形での特異的な命令,禁止,タブー,儀礼などまでを擁した,倫理的訓戒の貯蔵庫である。プラトン以来,哲学者たちはこうした命令のかずかずを,理性によって擁護することのできる,普遍的で単一の倫理学体系にまでまとめあげようとしてきたが,コンセンサスが得られるような体系は,まだ何も得られていない。数学や物理学は,どこに行こうと,誰にとっても同じなのに,倫理学はまだ,同じような反照的均衡にはおさまっていないのである。なぜだろう。目標自体が間違っているのだろうか。徳性というのは,個人的趣味(や政治的権力)の問題に過ぎないのだろうか。倫理的真理というのは,発見することも確証することもできないようなものなのだろうか。この世には,不可避の一手もなければ,「妙技」というものもないというのだろうか。倫理学理論のさまざまな殿堂が,合理的探求の最良の方法によって,これまで何度建てられ,批判され,擁護され,改造され,拡張されてきたかもしれないのに,しかも人間的推理のこうした所産のうちには,文化の最も堂々たる産物のいくつかが見られるというのに,それらを入念に研究した者たち全員の同意を静かにとりつけているものは,まだ何もないのである。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.664-665

われわれはどう判断すべきか

 個人や(女性たちとかアジア系の人たちとかいった)個人のタイプやグループなどについて知りうる事実が,とっくその人たちを眺めたり扱ったりする仕方に深い影響を及ぼすことがあるというのは,まぎれもない事実である。もしも私が,サムには精神分裂病や,重症の発達遅滞や,めまいと周期的視覚喪失などがあることを知ったら,サムをスクールバスの運転手に雇ったりはしないだろう。私たちが個人についての特殊な事実から個人の集団の概括化ということに向き直ったら,事情はもっと複雑になる。男女の寿命の違いについての保険統計上の事実に対する,保険会社の公正かつ妥当な反応というのは,どんなものなのだろうか。男女それぞれの違いに応じて掛け金を調整するのが正しいのだろうか。それとも,掛け金ということでは男女一律に扱っておいて,給付金の受け取り率の方で差をつけるのが正しいとすべきなのだろうか。(喫煙者対非喫煙者などといった)任意に得られる違いについては,喫煙者にはその習慣に対して掛け金を高く払わせるのが公平だと思われるが,人々がたまたまそれを持ちあわせて生まれついた違いについては,どうなのだろう。アフリカ系アメリカ人は,1つの集団としてみると,高血圧に異常にかかりやすく,スペイン系アメリカ人の間では,糖尿病にかかる率が平均を上まわっており,白人は皮膚ガンや嚢胞性繊維症にかかりやすい(Diamond, 1991)。こうした違いは,彼らの健康保険の計算に反映されるべきなのだろうか。成長期に<両親>がタバコを吸っていた人たちは,自分は何も悪くないのに呼吸器系の疾患にかかりやすい。青年男子は,集団としてみると,青年女子より安全運転を守らない。こうした事実のうち,どれが,どれだけ,またどうして重視されるのか。私たちが統計的動向を扱うのではなく,かえって1人ひとりの個人を扱うときにも,ジレンマはどっさりある。雇用者--やその他の人たち--には,はたしてあなたに,結婚歴や,前科や,安全運転記録や,スキューバ・ダイビング歴などがあるかどうかなど,知る資格があるのだろうか。ある人の学校の成績を公開することと,その人のIQの高さを公開することとの間には,何か原理上の違いがあるのだろうか。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.645-646

同種殺し

だから,私たちに最も近い親類たちでも恐ろしい振る舞いに加わっているわけである。ウィリアムズの指摘によれば,これまで注意深く研究されてきた哺乳類のいかなる種においても,そのメンバーが同種の個体殺しに加わる割合は,アメリカのどんな都市で測られた最高の殺人発生率よりも,数<千>倍も大きいのだという。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.640

カエル,ハエ,ペレット

 科学者たちが,いまにも絶滅しそうな,ハエをとる種類のカエルの小集団を集めて,保護的な管理下にある新しい環境へ入れたとしよう。そこにはハエはまったくいずに,代わりに,飼育員が定期的に,カエルの目の前に餌の小さなペレットを投げ与える,特別なカエル動物園であったのである。うれしいことに,それはうまくいった。カエルは舌を伸ばしてペレットをとらえることで育ち,やがて,一生の間ずっとペレットだけで一度もハエを見たことがない,子孫のカエル一群が得られた。<そのカエルの>眼は脳に何を伝えるのか。もし,意味は変化していないのだと主張すると,面倒な事態になる。というのは,これは,自然淘汰に常に起きていることを人工的に明瞭にした事例だからである。つまり,外適応である。ダーウィンが苦心して思いださせてくれたように,新しい目的に向けてのからくりの再利用は,「母なる自然」が成功したことへの秘訣のひとつなのだ。私たちは,さらに説得を望む人には誰にでも,次のような示唆によって肝心な点を十分に理解させることができる。管理されたカエルは,眼のペレット検知能力の違いによって,ある個体は十分に食べられず,結果として子孫を残せないことから,全員がみな同じように申し分なく生きているわけではない。てっとり早くいえば,ペレット検知に向けた淘汰が紛れもなく働き続けてきたはずなのだ。もっとも,ペレット検知と「みなせる」に十分なものがうまれたのはいつなのかと問うことは,誤りではあろうが。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.541

スキナーのナイス・トライ

 スキナーは,デザイン(もしくはデザイン能力)を1回で(すっかり)説明しつくそうとする,貪欲な還元主義者であった。彼に対する適切な応答は,「よく頑張った(ナイス・トライ)。けれども,あなたが考えたよりずっと複雑なことが分かったのだ」である。誰かが,嫌味を込めることなく,彼にそう言ってやるべきだったのだ。スキナーはほんとうによく<やった>のだから。それは,偉大なる思想であった。多くを学習することができた厳密な実験法とモデル構築とを,半世紀の間,それは鼓舞(あるいは挑発)してきたのだから。だが皮肉なことに,それは,ホージランド(Haugeland)が「古きよきスタイルの人工知能 Good Old-Fashoned AI」つまり「GOFAI」と名づけた<もうひとつの>貪欲な還元主義の失敗の,繰り返しであった。これによって心理学者たちは,心は実に,卓抜な構成的複雑さを備えた現象なのだと,本当に確信させられたのだ。GOFAIを基礎づけている洞察は,すべてのコンピュータは単純な部分から構成されるが<無制限の複雑性を持つ>という,チューリングの認識であった。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.522

文化的革新と遺伝的革新の混同

私たちは,しばしば文化的革新を,遺伝的革新と混同する誤りをおかす。たとえば,ここ2,3世紀の人間の平均身長が急上昇していることを誰もが知っている。(ボストン港にある19世紀初頭の軍船オールドアイアンサイズのような近代史の遺物を訪れると,甲板の下の空間が,私たちの祖先はほんとうは小人の家系であったのではと思うほど,奇妙に窮屈であるのに気づく。)身長の急激な変化のうちのどの程度が,私たちの種の遺伝的な変化だろうか。多少はあったとしても決して大きくない。1797年にオールドアイアンサイズが進水してから今日まで,,ホモ・サピエンスはたったの10世代しか経過していないのだから,たとえ背の高い人に有利な淘汰圧(はたしてこんな証拠はあがっているのか?)が強く働いたといても,これほどの効果をもたらす時間はないのである。劇的な変化があったのは人間の健康と食事と生活状況で,これらは表現型のうえでの劇的な変化であり,学校教育や新型の農場経営法や公衆衛生対策などの文化的伝達を通した文化的刷新に100%依存している。「遺伝的決定性」を気にしている者は,プラトン時代の人間と今日の人間において識別できる実質上すべての違い(肉体的素質,性癖,態度,将来展望)は,その時代から今日までは200世代と経過していないため,文化的変化に依存しているに違いないと気づくべきである。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.448

火星人は人為淘汰か自然淘汰か読みとれるか

簡単な思考実験を1つしてみよう。「火星人」の生物学者に,産卵用ニワトリとペキニーズと納屋ツバメとチータを送って,どのデザインに人為淘汰の痕跡があったか決めてもらうのだと仮定してみよう。彼らは,何に頼り,どういうふうに議論するだろうか。彼らは,ニワトリが卵を「正しく」世話していないことに注目するかもしれない。つまり,ある種のメンドリは,就巣本能を品種改良されているので,人間が用意した孵化器がなければ絶滅してしまうからだ。あるいは,ペキニーズは,かわいそうに劣悪な条件下にあって,想像できるかぎりの過酷な環境の中で育ったのだという注目の仕方をするかもしれない。一方で,ツバメが軒下のような作られた場所を巣の場所として生まれつき好んでいることは,彼らを誤らせて,ツバメがペットの一種だという考えに導くかもしれないし,チータは野生の生物なのだと確信させてくれるあらゆる特徴が,グレイハウンドにも見出された結果,結局それらは,品種改良家たちによって忍耐づよく促進されてきたと私たちが知っている特徴と同じではないかとされてしまうことも,ないとはかぎらない。結局,人工的な環境も,それ自体,自然の一部であるのだから,ある生体がつくられた実際の歴史についてのインサイダー的な情報がないのに,その生物体が人為淘汰の対象であったことが明らかに読みとれるといった徴しなど,<まず>あろうはずもない。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.423

真相は両方のミックスにあるのだ

思いだしていただきたいが,ニーチェはこう考えていた。もしテープをリプレイしつづけたら,ものごとは何度も何度もそっくり繰り返し起こるという考えほど恐ろしく,世界破滅的なものはない。この永遠回帰(永久反復)こそ,かつてないほど病的な観念だ。ニーチェは,この恐ろしい真実に対して「然り!」と言えるように人々に教えるのが自分の仕事だと考えていた。一方グールドは,人々がこの観念の否定に,つまりはテープをリプレイしつづけても,反復は<けっして>起こらないという事実に直面したら,彼らの恐怖をやわらげてやらねばと考えているのだ。どちらの命題も同じように信じがたいものなのか。より悪いのはどっちだろう。ものごとは何度も何度も繰り返し起こるのか,それともものごとは二度と再び起こらないのか。まあ,ティンカーなら,こう言うところだろう。「どっちにしても,否定はできない。また事実,真相は両方のミックスにあるのだ。つまり,僕のチームメイトのチャンスとエヴァースにひっかけていえば,少しの偶然(チャンス)と少しの繰り返し(エヴァー)のミックスにね。好き嫌いはともかく,これがダーウィンの危険な思想なのさ。」

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.412

本当に偶発か

あなたが,ワイオミング州の岩の上にすわって,地面の穴をみているとしよう。10,20,30分は,何もたいしたことは起こらないが,そのとき突然(流れが激しくひと息に起こって)湯が,空中に30メートル以上噴出したとしよう。数秒のうちに噴出はおわり,そのあとは何も(明らかに前と同じように)おこらない。1時間待つが,やはり何もたいしたことは起こらない。これがあなたの経験だ。つまり,1時間半の退屈の中でほんの数秒続いた1回きりの驚くべき爆発だ。あなたは「たしかに,これは,ユニークで反復不可能な出来事だ!」と考えたくなるかもしれない。
 それでは,この有名な間欠泉はなぜオールドフェイスフル[信頼に足る古老]という名で呼ばれているのだろうか。実際,この間欠泉は,平均して65分に1回ずつの噴出を年々歳々繰り返しているのだ。「カンブリア紀大爆発」の「形態」(その「突然の」開始と「突然の」終了)は,「ラディカルな偶発事件」という主題にとって<まったく>何の証拠にもならない。しかし,グールドは,それが証拠になると考えているようだ。彼は,私たちが生命テープをリプレイしたら,次にもう1つの「カンブリア紀」大爆発を得ることはできないと考えているようだ。しかし,もしそれが本当だとしても,証拠のひとかけでも示したことには未だならない。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.404

おおざっぱに読む

クワイン(Quine)は,かつて,自分の作品についての見当違いの批評に対して「彼はおおざっぱに読んでいる」と言った。私たちは,皆,これをやりがちだ。とりわけ,自分の領域外の仕事によるメッセージを自分の分野に持ち込んで,簡単な用語に解釈しようとするときは,特にそうだ。私たちはおおざっぱな読みで,自分が見つけたいものを読みとってしまいがちだ。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.352

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