読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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思春期とは,少年にとってはホルモンの落雷のようなものである。睾丸が下がり,声は変わる。草のようにすくすく背が伸び,体は毛深くなり,引き締まる。こうしたことはすべて,睾丸から分泌されるテストステロンの洪水が原因である。いまや,血液中のテストステロンの濃度は同年齢の少女の20倍にも達する。このため,子宮内での投与によって頭のなかに焼きつけられ,置いておかれた精神という写真が現像され,少年の心がおとなの男の心に変わるのだ。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.411-412
「ふつうの」ローマ貴族は数百人の奴隷を有していた。そこで,女奴隷は家のなかに仕事らしい仕事を割り当てられてはいなかったのに,若いときに売られると,高値がついた。男奴隷は独身を義務づけられていた。ではローマ貴族はなぜこんなに大勢の女奴隷を買ったのだろうか?奴隷を産むためだと,ほとんどの歴史家は述べている。しかしそれだけならば,妊娠中の奴隷にこそ高値がついたはずだが,実際にはそうではない。奴隷が処女でないことがわかると,買い手は売り手を訴えた。それに,子どもを産むことが女奴隷の役目だとしたら,男奴隷に禁欲を強いたのはなぜか?女奴隷は愛妾と同じであるとしたローマの著述家たちは,真実を語っていたにちがいない。ホメロス以来,ギリシア・ローマ文学は,無制限な性的対象としての奴隷の供給があったことを当たり前としている。現代の作家たちだけが,故意にそれを無視するようになったのだ。
それだけではない。ローマ貴族は多くの奴隷を怪しいほど若いうちに解放し,しかも怪しいほど多額の持参金をもたせた。これは経済的に分別のあるはからいであろうはずはない。解放奴隷は裕福で,数多くいた。ナルキサスはその当時最も裕福であった。ほとんどの解放奴隷は,主人の館で生まれていたが,鉱山や農場で生まれた奴隷が開放されることはほとんどなかった。ローマ貴族は,女奴隷の産んだ庶出の息子たちを解放したと考えてまちがいないだろう。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.326-327
配偶システム理論の4つの法則を打ち立ててみよう。第1の法則。メスが一夫一妻の忠実なオスを選ぶことで繁殖成功度が上がれば,一夫一妻が生じる。それは,オスがメスに無理強いはできないときに限る。これが第2の法則。メスが既婚のオスを選んでも繁殖成功度が下がらなければ,一夫多妻が生じる。これが第3の法則。しかし,すでに配偶したメスがオスの再婚を阻止できれば,一夫一妻が生じる。これが第4の法則である。ゲーム理論は意外な結果をもたらした。誘惑で積極的な役割を果たすオスが,結婚という自分の運命では受動的な傍観者になるのだ。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.304
先のような誤った考えのために,人間の研究は数年前までまったく旧態依然としたままであった。現在ですら人類学者や社会学者の多くは,進化から学ぶべきものはないと明言している。人間の肉体は自然淘汰の所産であるが,人間の心や行動様式は「文化」の所産である。人間の文化は,人間の本性を反映してはおらず,本性が文化を反映しているのだ,と。それゆえ社会学者たちは文化間の相違や,個人間の相違のみに研究を限定し,そうした相違を過大視しているのである。しかし私が人間について最も興味を感じるのは,人間が共有している事柄であって,文化によって異なる事柄ではない。例えば文法規則のある言語,階級制,ロマンチックな恋,性的嫉妬,異性間の長期にわたる絆(「結婚」とも呼ばれる)などである。こうしたものは我々の種に特有な,学習で変更可能な本能で,目や親指がそうであるように,まぎれもなく進化の所産なのである。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.286-287
オックスフォード大学のローレンス・ハーストはこれらの議論から,性が2つあるのは,融合によるセックスの結果であると予測している。つまり,コナミドリムシや多くの動植物のように,2つの細胞を融合させることによってセックスが成立する場合,性は2つになる,というのである。セックスが接合であり,2つの細胞が管で結ばれて,管を通じて核の遺伝子が移動するだけであり,細胞の融合が起こらない場合は,葛藤も起こりえず,したがって,殺人者と犠牲者という性の必要もない。確かに,繊毛虫類やキノコのように接合によるセックスを営む種は,非常に多くの性をもっている。これに対し,融合によるセックスを営む種では,ほとんど例外なく,性は2つである。特におもしろい例は,「ヒポトリック」という繊毛虫類で,いずれの方法でもセックスが可能なのである。これらが融合によるセックスを行う場合は,あたかも性が2つであるかのようにふるまう。そして接合によるセックスを行う場合は数多くの性をもつのである。
1991年,この整然とした物語に最後の仕上げをしていたそのときに,ハーストはこれと矛盾するように思われる事例に遭遇した。粘菌の一種に,13の性をもち,融合セックスをするものがあるのだ。しかし彼は徹底的にこれを調べ上げ,この13の性は階級をなしていることを発見した。13番めの性は,どの相手と結合しても,必ずオルガネラを提供する。12番めの性は,11番め以下の性と結合するときだけ,オルガネラを提供する。そして11番めの性は10番め以下の性と結合したときだけ……という具合に順々に下がっていくのである。このシステムは2つの性をもつのと同様に機能しているが,もっとずっと複雑な仕組みである。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.171-172
人間の体を形成,維持している7万5000組の遺伝子は,小さな町に住む7万5000人の人間と同じような状況に置かれている。人間社会というものが,自由な経済活動と,社会的な協力行為との不安定な共存関係で成り立っているように,体内における遺伝子の活動も,ちょうどそれと同じように機能している。人々が協力しあわなければ,町は共同体となりえない。だれもが他人を犠牲にして,嘘をつき,人を騙し,盗みをはたらき,みずからの富を追求したとしたら,商業,行政,教育,スポーツといったすべての社会活動は,相互不信のうちに機能が麻痺することだろう。同様に,遺伝子どうしが協力しあわなければ体ができないので,遺伝子はその住みかである体を,次世代に遺伝子を伝える道具として使うことはできない。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.153-154
抗生物質は,バクテリアがそのライバルであるバクテリアを殺すために自然に生産する化学物質である。しかし,人間が抗生物質を使用し始めると,バクテリアは抗生物質への抵抗力を,人間をがっかりさせるような速度で発達させていくことがわかった。病原菌の抗生物質に対する抵抗力には,注目すべきことが2つあった。1つは,抵抗力の遺伝子が1つの種から別の種へ,害のない腸内細菌から病原菌へと飛び移るらしいということであった。それは性と似たような遺伝子転移の一形態によっていた。2つめは,バクテリアの多くはその染色体上にすでに抵抗遺伝子をもっているらしいということだった。要は,それを活性化する秘訣を再発明するだけのことだった。バクテリアと菌類のあいだの軍拡競争により,多くのバクテリアは抗生物質と戦う能力を獲得することになった。それは人間の腸内にいるかぎり,もはや「必要になるだろうとは思いもしなかった」能力である。
寄生者の寿命は宿主に比べて非常に短いので,寄生者は宿主よりも速く進化し,適応していくことができる。HIVウィルスの遺伝子は,この先10年ぐらいのあいだに,人間の遺伝子が1000万年に行うほどの変化を遂げるだろう。バクテリアにとっては,30分は一生にも匹敵する。30年という人間の世代時間は永遠にも等しいものであり,ヒトは進化のカメなのだ。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.121-122
赤の女王仮説は,世界をあくまで競争的とみている。世界は絶えず変化し続けている。しかしたった今,種は何世代も静止状態にあり,変化しないと言ったばかりではなかったか?そのとおり。赤の女王が言っているのは,いくら走ろうと,同じ地点にとどまっているということだ。世界は始まったところにつねに戻ってくるので,変化はあるが,それは進歩ではない。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.111
すべての進歩は相対的である,というこの概念は,生物学の分野では「赤の女王仮説」として知られるようになった。『鏡の国のアリス』のなかで,アリスが出会うあの女王のことである。赤の女王は走り続けるが,永遠に同じ場所にとどまっている。風景が彼女についてくるからだ。この考え方は,進化の理論にますます大きな影響を与えるようになってきており,本書でも再三繰り返されることになるだろう。速く走れば走るほど,世界もまた速度を増し,それだけ進歩は少なくなる。人生はチェスのトーナメントだ。ゲームに勝ったところでまた次のゲームに進まなければならない。しかも「駒落ち」というハンディを負って。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.39
ちょっと計算してみればすぐにわかる。人間には必ず両親,四人の祖父母,八人の曾祖父母,そのまた上に十六人の曾曾祖父母がいる。ほんの三十世代さかのぼった,おおよそ1066年ごろには,同じ世代の直系尊属が10億人以上いる計算になる(二の三十乗)。当時の世界の人口は10億人に満たないので,多くが二重にも三重にもつながる先祖がいたということだ。私と同じく,あなたがイギリス人だとすると,1066年当時生きていた数百万人のイングランド人,すなわちハロルド王,征服王ウィリアム,はたまたそのへんにいるはしため,最も卑しい奴隷を含む,ほぼ全員(行いの正しい修道僧や尼僧は除くが)が,あなたの直系の先祖ということになる。つまり新たに移民として入ってきた人々の子孫は別として,今いるイギリス人全員が,幾重にもつながる遠いいとこにあたる。たかだか三十世代前には同じ一群に属していた人たちの子孫が現代イギリス人である。人間の(およびその他のあらゆる有性の)種に一定の統一性が見られることにはなんの不思議もない。性が執拗に絶え間なく遺伝子の共有を要求するからである。
さらに時代をさかのぼれば,民族の相違は消滅し,人類は,単一の人種にいきつくことになる。三〇〇〇世代を少しさかのぼれば,我々の祖先はみなアフリカに住む数百万人の狩猟採集民族だったのだ。彼らは,生理学的,心理学的には現代人とまったく変わらない。だから,各民族の平均的個人のあいだの遺伝子に大差はないという結果が生じるのである。
マット・リドレー 長谷川眞理子(訳) (2014). 赤の女王:性とヒトの進化 早川書房 pp.29-30
10万年以上前,地球史上初めての現象がアフリカのある場所で起きた。ある「種」が世代を重ねるごとに,(さほど)遺伝子を変化させずに習慣を蓄積し始めたのだ。これを可能にしたのは交換,すなわちモノやサービスの個体間でのやりとりだった。このことによってこの「種」は,その大きいとされる脳にも収め切れない集団的な外部知性を持つようになった。二つの個体はそれぞれに一つの道具を作ったり,アイデアを思いついたりする術しか知らずとも,どちらも二つの道具やアイデアを持つことができた。単一の個体は一つのことしか理解できずとも,10個の個体が集まれば10を数える物事を理解できた。こうして交換によって専門化が促され,この「種」の習慣はさらにその数を増していった。一方で,各個体がつくり方を知る物の数は減っていった。消費はより多様化し,生産はより専門化した。当初,「種」の文化の累進的発展は緩慢だった。緊密なつながりを保てる個体群の大きさに制限されていたからだ。島の孤立状態や干ばつの被害によって個体数は減り,集団的知性も縮小する。しかし,この「種」はわずかずつその個体数と繁栄度を拡大していった。より多くの習慣を取得すればするほど,より多くの生態的地位(ニッチ)を占有し,より多くの個体を維持できるようになった。より多くの個体を維持すればするほど,より多くの習慣を取得した。より多くの習慣を取得すればするほど,より多くのニッチを生み出せた。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.532-533
核兵器からインターネットまで,あるいはレーダーから衛星航法まで,政府は大きな発明を多数生み出している。ところが政府は技術革新の方向性を見誤ることでも悪名高い。私がジャーナリストだった1980年代,ヨーロッパ諸国の政府はコンピューター産業を支援する各国の最新の取り組みについて自慢気に紹介してくれたものだった。プログラムはアルヴィー,エスプリ,「第五世代」計算機など人目を引く呼称を与えられ,ヨーロッパの産業を世界の頂点へと導くと考えられていた。彼らが手本としていたのは,やはり期待薄のアイデアであることが多かった。これらのアイデアを生み出したのは,当時流行の最先端にいたが,気のきかない日本の旧通商産業省(MITI)だった。これらのプログラムはかならず敗者を選び,企業を袋小路に追い込んだ。彼らが思い描く未来に携帯電話や検索エンジンは存在していなかった。
そのころアメリカでは,狂気の沙汰としか思えないセマテックという政府主導の計画が進行中だった。大企業がメモリーチップ(生産拠点は雪崩を打ってアジアに移りつつあった)製造に乗り出せば国の将来は安泰だという前提の下,アメリカ政府はチップ製造業に1億ドルを投入した。ただし各社が相互競争を慎み,当時急速にコモディティー産業になりつつあったこの業界にとどまる努力を払うという条件で。このために1980年に成立した独占禁止法を改正しなければならなかった。1988年になっても統制経済を推進する人びとは,シリコンバレーの中小企業を「いつまでも起業の夢に取り憑かれている」ため,長期投資の対象にならないと批判した。まさにこのとき,マイクロソフト,アップル,インテル,のちにデル,シスコ,ヤフー,グーグル,フェイスブック――すべて,いつまでも起業の夢に取り憑かれている企業であり,これらの企業にとってガレージやベッドルームが起業の場だった――は,投影経済派お気に入りの大企業をいくつもなぎ倒しながら,世界制覇の基礎固めをしていたのだ。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.410-411
おおかたの経済学者は現在,人口の爆発よりもその崩壊の影響を心配している。出生率が非常に低い国では,労働力が急速に高齢化している。つまり,現役世代がどんどん減っていて,その貯蓄と税金を食う高齢者がどんどん増えているということだ。経済学者が懸念するのも無理はない。ただし,この世の終わりのように考えるのはまちがいだろう。何しろ,今日の70代は工作機械操作の仕事を続けろと言われたらあまりうれしくないだろうが,今日の40代が70代になったときには喜んでコンピューター操作の仕事を続けるに違いない。そしてここでも,合理的な楽観主義がある程度の安心をもたらす。最新の研究により,世界屈指の裕福な国々では繁栄が一定レベルに達すると出生率がわずかに上がるという,第二の人口転換が明らかになっている。たとえば,アメリカ合衆国の出生率は1976年ころに女性一人につき1.74人で底をうち,そのあと2.05人まで上がった。人間開発指数[訳注 国民の生活の質や発展の度合いを示す指標]が0.94を超える24カ国のうち18カ国で,出生率は上昇している。説明のつかない例外は日本や韓国などで,まだ下がり続けている。この新しい研究の共著者であるペンシルヴェニア大学のハンス・ピーター・コーラーは,このような国々は豊かになる過程で,女性がワークライフ・バランスを実現できる状況を整えられていないのだと考えている。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.326-327
しかしこの三カ国だけではない。出生率は世界中で低下している。1960年より出生率が上がっている国は皆無で,発展途上国全体で出生率はおよそ半分になっている。国連は2002年まで,将来の世界の人口密度を推定するにあたって,ほとんどの国の出生率は女性一人につき子ども2.1人を下回ることはないと仮定していた。これは「人口置換水準」,つまり1人の女性が自分と夫の代わりになる赤ん坊を産むとしたうえで,小児期の死亡やわずかに男性が多い性比を補うために0.1人を加えた数値だ。しかし産まれる赤ん坊がひたすら減り,2.1人よりもさらに減り続ける国がどんどん増えていることが明らかになったため,2002年,国連はこの前提を変更した。どちらかと言えば,核家族化の影響が相まって,出生率減少は加速している。今や世界の半分は出生率が2.1人より低い。スリランカの出生率は1.9人で,すでに置換水準を十分下回っている。ロシアの人口も急激に減少していて,2050年にはピークだった1990年代前半の3分の1以下になるだろう。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.317
どうやら,1700年から1800年のあいだに,日本人は集団で犂を捨てて鍬を選んだようだ。その理由は,役畜より人間のほうが安く使えたことにある。当時は人口急増の時代であり,それを実現したのは生産性の高い水田だった。水田は窒素を固定できる水中の藍藻のおかげで自然に肥沃になるので,肥料がほとんど必要ない(ただし,人間の糞尿はこつこつ集められ,慎重に保存され,念入りに土に施されていた)。豊富な食糧と衛生に対する入念な取り組みのおかげで日本の人口は急増し,土地は不足したが労働力は安かったので,犂を引く牛馬に食べさせる牧草を育てるために貴重な農地を使うより,人間の労働力を使って土地を耕すほうが,文字どおり経済的である状態に達した。そうして日本人は自給自足を強め,見事なまでに技術と交易から手を引き,商人を必要としなくなって,あらゆる技術の市場が衰退した。さらには資本集約的な銃を使うのを止めて,労働集約的な刀を選んだ。優れた日本刀の刀身は強い軟鋼で作られているが,そのもろく硬い刃は,延々と鎚で鍛えられることで恐ろしく鋭利になっている。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.308-309
帝国は,というより政府一般は,初めこそ民衆のためになることをするが,長く続くほど理不尽になる傾向がある。当初,中核となる公益事業を行ない,交易と専門化の障害を取り除くことによって,社会が繁栄する力を高める。チンギス・ハンの大モンゴル帝国でさえも,シルクロードの山賊を撲滅して,ヨーロッパの応接間に置かれる東洋の品々の値段を下げることによって,アジアの陸路貿易を活性化した。しかしその後,中世の地理学者イブン・ハルドゥーンの先例にならってピーター・トゥルチンが論じているように,政府は次第にもっと野心的なエリートを雇うようになる。彼らは民衆の生活に対する干渉を強めることによって,社会が上げる利益からの自分の取り分を増やし,一方で強要する規則を増やし,最終的には金の卵を産むガチョウを殺してしまう。ここには今日に通じる教訓がある。経済学者はすぐに「市場の失敗」を口にする。それはそれで正しいが,もっと大きな脅威を生むのは「政府の失敗」だ。政府が経営するのは独占事業なので,ほとんどが非効率と停滞に陥る。政府機関は顧客サービスよりも予算を膨らませることを考え,圧力団体は仲間のために納税者からたくさん金を搾り取ろうとして政府機関と癒着する。しかしそれでもなお,たいていの知識層は政府にもっといろいろ経営するよう求め,そうすれば,次はどうにかしてもっと理想的な無私無欲の政府になるだろうと決めてかかる。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.283
このような青銅時代の帝国では,商業は繁栄の源であって,繁栄の現れではなかった。にもかかわらず,自由貿易区は帝国に支配されやすい。交易の生んだ富はほどなく,税と規制と独占によって,少数の人びとの贅沢と多数の人びとの弾圧に流用されるようになる。紀元前1500年までに,商業活動が次第に国有化されるにつれ,世界で最も豊かな地域が宮廷社会主義による停滞に沈んでいったと言える。エジプト,ミノス,バビロニア,そして殷の独裁者が支配した社会は,統制が厳しく,官僚支配が行きすぎ,しかも個人の権利が弱く,支配者は技術革新を抑圧し,社会刷新を締め出し,創造性を罰した。青銅時代の帝国が停滞した理由は,国有企業が停滞する理由とまったく同じだ。独占企業では慎重な態度が報われ,実験的な試みは阻まれ,収入は次第に生産者の利益に取られて消費者の利益が犠牲にされるようになる。専制君主によって実現したイノベーションは,イギリスの国有鉄道やアメリカの郵政公社によって実現したイノベーションと同じくらい数が少ない。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.260-261
世界中の作物をすべて合計すると,2005年の単位面積あたりの生産量は1968年の2倍になっている。この集約化でかなりの規模の土地が節約されている。経済学者のインドゥル・ゴクラニが計算した驚異的な統計を検討してみよう。1961年の平均収穫高が1998年にもまだそのままだったら,60億の人口に食糧を供給するためには,32億ヘクタールを耕作する必要があるが,実際に1998年に耕作されていたのは15億ヘクタールだった。その差は南アメリカからチリを除いた面積に等しい。しかも32億ヘクタールというのは,雨林や湿地や半砂漠を新たに開墾した土地でも,同じレベルの収穫高が上がるという,楽観的な前提に立っての話だ。したがって収穫高が増えていなければ,実際よりもはるかに大規模に,雨林を焼き払い,砂漠に灌漑を施し,沼地を干拓し,干潟を埋め立て,牧草地を耕すことになっていたわけだ。別の言い方をすれば,今日の人びとが耕作している(耕すか,植え付けるか,牧草地にする)土地は,地球の陸地の38パーセントにすぎないが,1961年の収穫高のままであれば,今日の人口に食糧を供給するためには,82パーセントを耕作しなくてはならない。集約化によって地球の44パーセントが未開のまま守られているのだ。環境保護の観点から考えると,集約化はこれまでで最高の出来事である。現在,農民が都市へ向かったあとに再び生長した「二次」熱帯雨林が8億ヘクタール以上あり,すでに一次林とほぼ同じくらい生物多様性が豊かになっている。その発端は集約農業と都市化だ。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.227-228
過去二世紀にから得られる教訓は,自由や幸福は,繁栄や交易と手に手を組んで進むものだということだ。今日,軍事クーデターによって自由を失い,独裁者の支配下に入る国はたいてい,その時点で,平均すると年率1.4パーセントの割合で一人あたりの所得の下落を経験している。二つの世界大戦のあいだにソビエト連邦とドイツと日本が独裁国家になったときにも,一人あたりの所得の下落がその一因だったのによく似ている。歴史の大きな謎の一つは,なぜ1930年代のアメリカではそうならなかったかだ。アメリカでは1930年代の深刻な経済的ショックのあいだも,全体とすれば社会的な多元性や寛容さが失われなかったばかりか勢いを得たほどだ。いや,アメリカも危ないところまで行ったのかもしれない。カフリン神父はそちらの方向にアメリカを導こうとしたし,もしルーズヴェルトがもっと野心的だったり,憲法がもっと脆弱だったりしたら,ニューディール政策がどこに行き着いたか知れたものではない。民主主義がしっかり根づいている国もあり,そういう国では民主的な価値観が生き延びられたのかもしれない。今日,民主主義が成長に必要かどうかが盛んに議論されている。中国は,それが不要であることを実証しているようにみえる。だが,成長率がゼロになれば,中国でさらなる革命あるいは弾圧が起きるだろうことに疑問の余地はない。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.179-180