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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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目的と歴史的偶然

ものによっては,本来の機能を失い,新しい機能を持つ場合もある。旧式の火のしが,服にアイロンがけをするためではなく,ブックエンドやドアストッパーにするために買われたり,素敵なジャムの瓶がペン立てになったり,ロブスター捕獲器がプランターに再利用されたりするように。この事実は,今日の競争において,火のしはアイロンがけよりもブックエンドにふさわしいことを示している。そして,メインフレームコンピュータのDEC-10は,今日では,大型船舶係留用の便利で丈夫なアンカーになる。すべて人工品はそうした転用を免れない。<本来の>目的が現在の形状からどんなにはっきり読みとれても,新しい目的が本来の目的と結びつくのは,ただの歴史的偶然によってでしかない。旧式のメインフレームの所有者がアンカーをひどく欲しがっていたところ,それがたまたま都合よく利用に供されたといった具合に,である。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.312
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ダーウィン流進化論の根本原理

 自分がこうして生を受けているのはなんて幸運なんだろうかと,考えたことはあるだろうか。かつて現れたすべての生物の99%以上は子孫を残すことなく死んでいる。あなたの祖先にあたる人は誰一人この負け組には入っていないのだ。何たる勝者の家系の出か。(もちろん同じことが,フジツボや草やハエにもいえるのだが。)しかし実態はもっと不可解なのである。進化というのは不適格者を除外することで働いていると私たちは習ってこなかっただろうか。そのデザイン上の欠点のために,こうした敗者は「自分と同じものを複製する前に死んでしまうという,哀れだが称賛に値する傾向にある」(Quine, 1969, p.126)。これがダーウィン流進化論の根本原理である。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.288

ジョークの進化の様子

 ミトコンドリア・イヴの王冠もイヴ自身が生きているうちには姿が見えないという,この奇妙な不可視性は,あらゆる種が持っているはずの始まりが,ほとんど目に見えないということに比べたら,まだ分かりやすく,まだ受け入れ易い。種が永遠でなければ,時間全体は,何らかの仕方で種xが存在する前の時代と,それに続くすべての時代に分割することができる。だがその接点では間違いなく何かが生じたのだろうか。多くの人々を困惑させてきた似たような謎を考えれば,助けになるだろう。新しいジョークを聞いた時など,いったいそれはどこから来たのだろうと,おもったことはないだろうか。もしあなたが,かつて私が知っていたり聞いたことがあったりした他のほとんどの人たちと同じであれば,あなたはジョークを決して作ったりしないで,誰かある人から聞いたことをおそらくは「改作」してひとに伝えているはずだ。しかしその誰かも,それをまた誰かから聞いて,そのまた誰かも,それをまた誰かから……。ところで私たちは,そのプロセスが永遠には続きえないことを知っている。たとえば,クリントン大統領についてのジョークも,もってせいえい1年というところだからだ。ではいったい誰がジョークを作るのだろう。ジョークの作者は(ジョークの版元とは対照的に)姿が見えない。ジョークの作者を現場で押さえる人がいるとは思われない。だからこんな民間伝承--「都市伝説」--さえあるほどだ。つまり,こうしたジョークはみんな監獄で囚人たちによってつくられたのだ。彼らは私たちとは似ても似つかない危険で異常な人たちで,秘密の地下ジョーク工房でジョークをこしらえるよりほかには時間のうまい使い方のないひとたちなのだ。ナンセンスな話だが,なかなか信じられなくてもきっと本当だと思われるのは,私たちが人から聞いて人に伝えるジョークは,伝えられる途上で訂正や更新を受けながら,初期の物語から進化してきたものだからだ。ジョークにはたいてい原作者がいない。ジョーク作りは何十,何百,何千という話し手に分散して行われ,そこからジョークが育ってきた先祖たち同様,それが休眠状態に入るに先だってしばらくは,何かその場その場に固有なそのときどきのおもしろさを備えたヴァージョンとして結晶化する。種分化もまた同じように目撃するのが難しいが,それはジョークの原作者を目撃するのが難しいのと同じ理由によっている。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.138

変種と種の違い

 ダーウィンによれば,「変種と種の違いは何だろう」という類いの問いは,「半島と島の違いは何だろう」という種類の問いに当たる。満潮時に半マイル沖合に島が見えたとしよう。干潮時に足を濡らさずにそこまで歩くことができても,それはまだ島なのだろうか。そこまで橋を架ければ,島であることを止めるのだろうか。道を作ったらどうだろう。半島を横断する運河(コッド岬運河のような)を掘れば島に変えられるのだろうか。ハリケーンが来て掘削の仕事をしてくれるのだとしたらどうだろう。この種の探求は哲学者のお手の物である。それは定義に憂き身をやつしたり本質の探究をするソクラテス的活動,つまりXであるための「必要十分条件」の探求なのだ。ときには,ほとんどすべての人々が,そうした探求自体が無意味なのだと得心できるケースもある---島は明らかに実在的な本質を持ってはおらず,せいぜい唯名的な本質を持っているに過ぎないからだ。だが,またときには,答えることを必要とする深刻な科学的問題がやはり存在するように思われるケースもあるのだ。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.133

人はすべて穏やかな意味での還元主義者

だが乱用される言葉の定石どおり,「還元主義」には何も定まった意味はない。その中心的なイメージは,1つの学問は別の学問に「還元される」,たとえば化学は物理学に,生物学は化学に,社会科学は生物学に還元される,と主張する者のイメージである。問題は,そうした主張にはどんな主張にも,穏やかな解釈と馬鹿げた解釈の2つが存在することだ。穏やかな解釈によれば,化学と物理学,生物学と化学,そしてそう,社会科学と生物学でさえも<統合>することができる(し,統合するのが望ましい)のである。けっきょく,社会は人間によって構成されており,人間は哺乳動物としてすべての哺乳往物をカヴァーする生物学の原理に服さなければならない。また哺乳動物は,分子から構成されており,分子は化学の法則に従わなければならず,化学はまたそれの基礎となっている物理学の規則性に合致しなければならない。正気の科学者でこうした穏やかな解釈に異論を差し挟む人はいない。最高裁の居並ぶ判事も,どんな誰とも同様,重力の法則に縛られている。なぜなら,かれらもまた最終的には物理的物体の集合だからである。馬鹿げた方の解釈によれば,還元主義者は,下位の項のために,上位の科学の原理,理論,語彙,法則を,捨てるのだという。還元主義者の夢は,そういう馬鹿げた解釈に基づいて,「キーツとシェリーの分子的観点からの比較」とか,「供給サイド経済理論における酸素原子の役割」とか,「エントロピーの揺らぎから見たレンクイスト法廷の判決の説明」といった論文を書くことにあるのかもしれない。おそらく,馬鹿げた意味での還元主義者などどこにもいないのだろうし,人はすべて穏やかな意味での還元主義者であるはずなのだから,還元主義者と「非難」されても,あまりに漠然としていて答えるにも値しない。「しかしそれは実に還元主義的ですね」と誰かに言われたら,「それはまた風変わりで昔ふうの言葉ですね。いったい何を考えていたのですか」とでも答えておけば十分だ。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.114

メンデルの単純化

ダーウィンは,遺伝子という必須不可欠な考え方にはまったく思い至らなかったが,メンデルの概念が登場して,遺伝を数学的に了解(して,遺伝的性質を混合するというダーウィンのうんざりするような問題を解決)するためにピッタリな構造を提供してくれた。そうして,DNAが遺伝子の実際の物理的基体であることが分かったとき,はじめは,メンデルの遺伝子がDNAの特定の塊と単純に<同一視>できるかに見えた(いまなお多くの関係者にはそう見えている)のだが,その後,複雑な事態が出現し始めた。科学者がDNAの現実の分子生物学や,複製におけるDNAの役割を学べば学ぶほど,メンデルのストーリーは,どんなに良く見ても,とてつもない単純化のし過ぎだということがますますはっきりするからだ。最近になって分かったことだが,メンデル流の遺伝子など実際にはどこにも<存在しない>のだ,とまで言い出す人も出てくるだろう。メンデルの梯子を登ってしまったら,もうそんなものは,お払い箱にしたらよい。とは言え,今なお何百もの科学的,医学的コンテクストのなかで日々底力を発揮しているのだから,こんなに価値ある道具を投げ捨てたいとおもう人などいるはずはない。解決法は,メンデルを一段上にあげて,メンデルもまたダーウィン同様遺伝的形質についての<抽象的な>真理を捉えたのだと宣言することである。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.80

確率と進化アルゴリズム

 現実のどんな競技においても技術とツキは当然,不可避的に混じり合っているが,その比率には大きな幅があるだろう。非常にでこぼこのコートのテニスのトーナメントでは,ツキの比率が高くなるだろう。それはちょうど,第1セットの終了後,試合を継続する前に弾丸が充填されたリボルヴァーでロシアン・ルーレットをするよう選手に要求する,新ルールのようなものだろう。だがそうしたツキに支配された競争においても,統計的に秀れた選手の多くは,やはり後半のラウンドまで進むことが<多い>だろう。結局は技術の違いを「判別する」トーナメントの力も,偶然の大異変によって減少してしまうかもしれないが,一概に言えばゼロにまでなることはない。この事は,スポーツの選抜トーナメントについても,自然における進化のアルゴリズムについても,同じように当てはまるが,ときに進化の注釈家はこれを見逃してしまう。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.75

存在と不在

 「輪郭あざやかな」種は確かに存在するが,--その起源を説明することがダーウィンの書の目的である--ダーウィンは種という概念の「原理的な」定義を見出そうとする私たちの努力に水をさす。ダーウィンの一貫した主張によれば,変種というのはまさに「発端の種」のことであり,普通2つの変種を2つの種に変えるものは,何かの<存在>ではなく(たとえば,それぞれのグループにとっての何か新しい本質),何かの<不在>である。つまり,かつてはそこに存在していたもろもろの事例の不在である。要するに,かつては必要な踏み石と言ってもよかったものが最終的には絶滅してしまって,<実際には>それぞれ形質も違えば生殖的にも隔離されている2つのグループが,あとに残ったのである。

ダニエル・C・デネット 山口泰司(監訳) (2001). ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化 p.62

欠乏に対する心配

けっしてものに不自由することはないという安心感,この安心感がある時に誰か必要以上に貪る者があろう。今さら言うまでもないが,あらゆる種類の動物が餓鬼のように貪欲になるのは,実に欠乏に対する心配であり,特に人間においては虚栄心である。人間はなくもがなの,玩具のような物を見せびらかして他人をしのげば,それがすばらしい光栄であるかのように思うものなのである。そういう悪徳を知らない国民,それがすなわちユートピア人なのだ。

トマス・モア 平井正穂(訳) (1957). ユートピア 岩波書店 p.92.

ユートピア人と快楽

したがって夥しい数のすべてのかような快楽を,たとえ一般の人々は依然として快楽と考えているとはいえ,ユートピア人だけは真正な快楽とはなんら関係ないものとしてこれを断乎として排撃する。そこにはなんrの自然な快さというものが見出しえないからである。勿論これらのいわゆる快楽がわれわれの感覚にある快感(これが快楽の本当の作用だと考えられるわけであるが)を与えるのは事実である。しかし,だからといってユートピア人の考えが少しでも変ると思ったら大間違いである。本来苦いもの,酸っぱいものを甘いものと感ずる場合,その原因はどこにあるかといえば,それは決してその物の性質にあるのではなく,むしろ異常で途方もないこちらの味わい方にある。ちょうど妊娠中の婦人が,味覚をすっかり害したあげく,瀝青(ピッチ)や獣脂を蜂蜜以上に甘いと考えるのと同じである。それはともかく,病気のせいにしろ,習慣のせいにしろ,こちらの判断力が鈍り変質したからといって,直ちに当の快楽の本質そのものまで変えてしまうということはできないのである。これは他の種々な事物の本質についてもいえることだ。


トマス・モア 平井正穂(訳) (1957). ユートピア 岩波書店 p.118-119


当事者にはなれないことを自覚せよ

 今僕たちが意識化せねばならないことは,無理やりに当事者側に身を置こうとすることではなく(絶対に置けないのだ),自分が非当事者であることを,もっと徹底して自覚することだ。今の僕は当事者じゃない。だから冷静でいられる。当たり前だ。誰もが当事者になる必要などないし,なれるはずもない。今のこの社会が共有しているのは,被害者の哀しみではなく,加害者への表層的な憎悪だけだ。被害者や遺族の底知れない哀しみなど,実は第三者である僕らに共有などできるはずがない。第三者だからこそ,気軽に憎悪を発動する。要するに主語がない。だから述語は,新たな標的を求めながら暴走する。それが今の日本社会だ。

森 達也 (2008). それでもドキュメンタリーは嘘をつく 角川書店 p.291-292


オウム以降の方向性

 オウム以降,不安が蔓延することによって思考を停止した社会は,正義と邪悪,善と悪,真実と虚偽などの二元論に無自覚に邁進しながら憎悪を萌芽させた。民意を市場原理とするメディアはこの流れに追随する。こうしてテレビの画面を挟み,二元論が相乗効果として加速される。もちろん新聞や雑誌も,この競争原理からは無縁でいられない。
 マスメディアはここぞとばかりに新たな生贄探しに狂奔し,それによって刺激された世論はさらにサディスティックとなって次の標的を求め,メディアはこれに応えるために血眼になる。魔女狩りの時代の復活だ。この局面に陥れば,メディアだけでなく政治や司法でさえも,主体的なコントロールを取り戻すことは難しい。つまり社会は全方位的なポピュリズムに支配される。


森 達也 (2008). それでもドキュメンタリーは嘘をつく 角川書店 p.128

演技と真実

 Aさんの前にいるあなたとBさんの前にいるあなたとは,たぶん微妙に口調や振る舞いが違うはずだ。ならばどちらかが演技(嘘)で,どちらかが真実なのだとあなたは思うだろうか。人生は短い。そんなことで悩む時間があるなら,他にやるべきことはいくらでもあるはずだ。結論はひとつ。どちらも虚であり実でもある。


森 達也 (2008). それでもドキュメンタリーは嘘をつく 角川書店 p.114-115

登場人物の関係性を操作する

 映像の作為を象徴する手法にインサートという技術がある。AとBとが対面して話し込んでいるシーンで,Aの話に相槌を打つBの表情が,パン(横移動)ではなく画面にカットインの形でインサート(挿入)されたなら,そのカットは実は,実際とは違う時間軸の映像なのだと思ってまず間違いはない。ドキュメンタリーの現場で,複数のキャメラが互いに同調しながら回っていることなどめったにない。キャメラが互いに映りこむことはとりあえずタブーだし,何よりも(テレビも含めて)日本のドキュメンタリー現場に,そんな潤沢な予算は許されていない。
 つまり,Aの発言にBが賛同しているか不満をもっているかなど,編集で簡単に操作できる。インサートの映像に何を選択するかで,2人の関係性も猫の目のように変わる。恣意的に作品を変更させることなど容易い。その気になれば関係の捏造や誇張など,編集機の前でチーズバーガー1個を食べ終えるあいだにやることができる。

森 達也 (2008). それでもドキュメンタリーは嘘をつく 角川書店 p.99-100

映像からは事実を確定できない

 たぶんほとんどの人が記憶していると思うが,9・11同時多発テロ直後,歓喜するパレスチナの人々の映像が世界中に配信された。ある意味で,その後のアメリカの報復行為もやむなしと世界を納得させた映像だった。湾岸戦争当時,イラクの無軌道さと暴虐ぶりを伝える映像として,海辺で油塗れになった水鳥が大きく報道された。停戦後,この水鳥の映像は捏造だったことが発覚した。同様にパレスチナで歓喜する人々の映像も,放送後に様々な憶測を呼んだ。ネット上では,数年前の映像と断定する人も現れた。知り合いの民放ニューススタッフが,この映像について調べた経緯を教えてくれた。
 「結論としては,9・11直後のパレスチナの映像であることは間違いなかったよ」
 「じゃあ彼らは実際に喜んでいたということになるのかな」
 「そこが微妙なんだ。実はあの映像にはまだ続きがあってさ,キャメラが引いてゆくと,喜ぶ人たちの周りには多くの野次馬たちが集まっていて,不思議そうに撮影風景を眺めている。さらに引けば,画面の端にはディレクターらしき人も映っていた」
 情報としてこれだけの映像から,何を解析することができるだろうか。撮影スタッフが彼らに歓喜の演技を養成した可能性はもちろん濃い。でも断定はできない。たまたま喜んでいた彼らに,もう一度歓喜の声をあげてくれと頼んだ可能性だって払拭できない。あるいは狂喜乱舞していたパレスチナの人々が,たまたま取りかかった取材クルーに対して撮ってくれと申し出た可能性だって絶対にないとはいえない。要するに何だってありだ。確定できない。


森 達也 (2008). それでもドキュメンタリーは嘘をつく 角川書店 p.95-96

枠組みの効果

 「日本は集団主義で,西洋は個人主義」という枠組みがいったんできあがってしまうと,私たちは日本を見るときは集団主義の実例を,西洋を見るときは個人主義のケースに目が行きがちだ,という傾向があることが問題なのである。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.224


生き,死ぬ場所は選べる

 人は生まれる場所を選ぶことはできない。しかし,生きていく場所や死んでいく場所については,選択することができる。そのような選択肢を狭めるものとして,日本人論がある。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.289

素人談義ばかり

 物理学者がノーベル賞をもらったとたんに,日本人論の重要発言者になったり,数学の専門家が権威ある賞を受けただけというだけで日本社会研究の専門家のような顔をして論陣を張るという場合もある。これらの人たちの発言は,それなりに興味深い面もあるが,その内容は日本社会の分析に関する限り,彼らの学問的業績とは直接関係がない。日本社会についての素人談義が大研究の成果のように飾り立てられてまかり通ることができるのは,日本人論があまりにもその方法論的な裏づけについて無頓着であったことと無関係ではないだろう。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.167

思いつきの上に思いつきを重ねる

 日本人論のほとんどが思いつきの連続で,確固とした学問的蓄積の上に組み立てられたものでないという実情の背景には,いろいろな要素がからまっている。日本の大学では,社会科学の方法論・方法・論理といった分野での訓練がほとんどなされない。外国の日本研究の学生たちの多くは,地域研究プログラムの中で勉強するため,日本語の勉強と日本についてのバラバラな事実を詰め込むだけに終わっている。このため,日本でも外国でも,ある権威者が日本についての一般抽象命題を提出すると,その命題を科学的な方法によってテストしてみようとするよりは,すぐに信用してしまうという傾向があらわれる。思いつきの上に思いつきを重ねて展開される日本人論をチェックする学問的勢力が,日本国内にも海外にも十分に育っていないのである。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.133


日本をどこと比べるか

 日本社会をどの社会と比べるかによって,「日本的」なものの定義が変わるかもしれない。パプア・ニューギニア,ポーランド,アルゼンチン,北朝鮮などの人々と比較すると,日本人の特徴というものは,北米や西欧の人々と比べたときとは違ったものになるだろう。欧米以外の視点から観察すると,日本社会のどういう特徴が際立っていえるか。この問題の解答の中にも従来の日本人論を修正する素材が,山のようにある。
 韓国の李御寧の報告によると,韓国語には「甘え」に該当する語句が日本よりずっと豊富にある。「甘え」よりももっと細分化された「オリグヮン」と「オンソク」という2つの言葉があり,それにいろいろな言葉がくっついて活用自在,日本語よりもずっと複雑多様なニュアンスを持っている,という。
 また,韓国語では「大丈夫」という言葉は男という意味しかなく,何かに対処する条件が十分だという意味では使わない。「裸一貫」という言葉も,日本語にあって韓国語にはない。つまり,韓国語には依存心を強調する語が多く,日本語には独立心を表示する言葉が多い。言語が文化を反映するという,日本人論者の多くが主張している前提を使えば,日本人は自我の発達が不完全だというのは当たっていないのではないか,というのである。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.148-149

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