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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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「日本人は特殊」という自己陶酔

 事実,「日本人の心」「大和魂」「大和心」「日本古来のしきたり」「日本的ツキアイ」……などは日本にのみ特有なもので,日本人だけが理解できる,という言説は,鎖国時代からめんめんとして強調されてきた。戦前には,それが「皇国史観」や「国体の護持」などのはっきりした政治思想の形をとって,国家の支持を受けた。戦後の日本人論,とくに1970年代にベスト・セラーとして登場した日本人論は,議論の具体的な内容は異なっていても,純粋に「日本的」なものがあり,その構成因子は他の社会に不在だ,とする点で容器は同じ形をしている。しかも,日本社会の中の不合理な側面を美化し,自己陶酔を奨励する,という点で,この型の日本人論は一種のナルシシズム的な傾向を帯びる。


杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.79
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優越感と劣等感の揺れ動き

 日本人とは何か,という問題は,日本の知識人のお気に入りの主題として,長く日本の言論界の中心テーマとなってきた。古くは徳川時代の本居宣長以来の国学の伝統があり,明治にはいっては,福沢諭吉の『西洋事情』以来の啓蒙主義の流れもある。日本人論の流行の背景には,日本社会が1世紀以上にわたって欧米産業国とわたりあってきた事実があり,日本の知識人の西洋社会に対する劣等感や優越感が横たわっている。戦後の30年あまりも,その例外ではなかった。
 第1章で述べたように,野村総研の調べによると,戦後700点にのぼる日本人論が出版されている。そのすべてを分析することは時間が許さないが,日本人論が描く日本の自画像は,劣等感に影響されている時代と優越感に影響されている時代とがあり,この2つの間を時計のフリコのように揺れ動いてきたとはいえるだろう。このフリコの位置は,日本が国際情勢の中で占めてきた位置と関係している。


杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.65

「パラドックス」という言葉を使う時

 英語で書かれた日本に関する文献を概観したネイサン・グレイザーも,アメリカの社会科学者はおしなべて,一様な議論を繰り返してきたという。その内容は,日本が逆説的な矛盾に満ちており,何が起こるか予測のつかない,奇妙な社会である,という点にある。
 もっとも,よく考えてみると,日本社会の逆説性とか非予測性とかの言葉は,しゃれた概念のように見えるが,実はよくわからないということの言い換えだともいえる。お互いに矛盾しているかに見える2つ以上の現象の説明がつかなくなると,これをパラドックスと呼んだり,仮説から導かれる当然の結論と反対の現象が発生すると,「日本社会は意外性に富んでいる」などというのは,日本社会を説明する理論の不在を告白しているだけのことかもしれない。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.53

戦前アメリカ人類学の特徴

 戦前のアメリカ人類学には2つの傾向が強かった。ひとつは,全体社会のレベルで「文化の型」を抽出することである。当時の人類学は,人口が数千,数万の未分化,単純社会を対象としていたから,こういう作業が可能であるように思われた。もうひとつは,人間の可能性を発見するという関心が強かったことである。その結果,「西洋」が産業化の過程で失ったとされる過去の美しい伝統が,未開社会の中にいまも生きている,というロマンチックな憧れが研究の中に持ちこまれた。そのため,研究対象の社会の理想像と現実像が混乱するという事態が発生する。これらの傾向は,戦後のアメリカの日本研究を考える背景として重要である。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.48

日本人論の共通点

 日本人・日本社会・日本文化が特殊独特だという信念は一体どこから来たのだろうか。私たちにとって,この疑問は軽いものではない。いろいろな試行錯誤のあと,私たちがたどりついたひとつの結論は,いわゆる「日本人論」と呼ばれる文献群である。よくよく検討してみると,つぎつぎに世に出される「日本人論」のほとんどは,日本人がどんなに特殊独特であるかを強調する,という点で,驚くほど似かよっている。この視点から見ると,「日本人」は断然「日本人」であり,そんな前提に疑問をさしはさむこと自体,おかしいにちがいない。事実,『タテ社会の人間関係』『「甘え」の構造』『ジャパン・アズ・ナンバーワン』『ザ・ジャパニーズ』など,ここ十数年の日本人論のベストセラーは,すべて「日本人特殊独特説」そのものである。力点の置き方に違いはあっても,これらの日本人論はいくつかの点で根本的には同じ内容の主張を繰り返してきた。

杉本良夫&ロス・マオア (1995). 日本人論の方程式 筑摩書房 p.25

満足度の測定

 満足度を測る理想的な方法は,快と不快の(喜びと苦しみの)体験を差し引きすることですが,満足度を自分で判断せよと言われたとき,人はあきらかに,単純な引き算とは別のことをします。回答者たちにネガティブな(不愉快な)体験あるいはポジティブな(快い)体験を3つずつ思い出させるという,ひとつの実験がありました。一方の条件では,その体験は最近の出来事でなければならず,もう一方の条件では,5年前のことを思い出すよう指示される。そしてその後,全般的な生活への満足度を問われるというものです。
 その結果,最近のネガティブな出来事を考えさせられた人たちは,最近のポジティブな出来事を考えた人々にくらべて,満足度が低いことがわかりました。ところが,昔のネガティブな出来事を考えた人は,昔のポジティブな出来事を考えた人にくらべて,自分は幸せだと申告した比率が高かったというのです。
 この結果を読み解く鍵は「判断の枠組み」にあります。最近の出来事を考えた人たちは,それらを現在の生活状態の総括に含めているため,ポジティブな出来事は喜びをもたらし,ネガティブな出来事は憂鬱をもたらす。一方,遠い過去の出来事を思い出した人々は,それらを現在の生活との比較に使います。そのため,過去のポジティブな出来事だけを考えた人は,現在の状態を少々不本意に感じ,逆に過去のいやな出来事を思い出した人にとっては,今の生活が急に良いものに思えてくるのです。


ダニエル・ネトル 山岡万里子(訳) (2007). 目からウロコの幸福学 オープンナレッジ pp.48-49


欲しいもの=幸せをもたらすもの?

 わたしたちは盲目的に,「自分が欲しいと願うもの」イコール「幸せをもたらすもの」であると信じていますが,実は,競争を第一義に考える脳によって,残酷にもだまされているのかもしれないのです。人が生活の中で欲しいと願うものは,進化を経た脳によって欲しがるように命じられているものであって,そこには幸福などという概念が入りこむ余地などないのです。昇進など気にせずボート作りに打ち込む,あるいはボランティア活動をするほうが,よっぽど幸せになれることは,多くの例が示しています。しかも経済的成功を重要視すればするほど,仕事にも家庭生活にも満足できなくなるのです。
 つまり,おどろくべきことですが,人はものごとを欲することに専心するあまり,自分が楽しむのを忘れてしまうこともあるのです。そうなると必然的に不満がたまりますが,そういう人は,いわゆる世間一般の(そして進化の)基準からすれば,成功者である場合が多いものです。人の行動は,欲望と,なにが幸せをもたらすかについての思いこみによって動かされます。この思いこみは実情とは食い違っていることがあるのです。人間は夢の実現がもたらす幸せを過大評価し,欲していない状況を乗り切る能力については過小評価することを思いだしてください。そのような誤りを訂正するべく経験から学べるかどうかは,残念ながら保証されていません。なぜならこの思いこみは,心に充足感を与えるためではなく,自己のDNAを複製するために設計されているからです。

ダニエル・ネトル 山岡万里子(訳) (2007). 目からウロコの幸福学 オープンナレッジ pp.174-175

「幸せ」に弱い人々

 しかも,「ここに幸せあり」という噂を聞くと,わたしたちはいとも簡単にだまされてしまうのです。かつて,人類学者のマーガレット・ミードが『サモアの思春期』という本を出版しましたが,その中で彼女が描いたこの太平洋(パシフィック)に浮かぶ島の生活は,文字通り平和(パシフィック)そのものでした。羨望も嫉妬も対立も暴力もない,いわば地上の楽園です。しかし実は,ミードはふつうの旅行者以上にサモアに滞在したわけでもなく,そもそも島に到着する前に,自分の出したい結論がとっくにわかっていたのです。
 驚嘆すべきはむしろ,堂々とフィクションを書こうという(ある意味立派な)動機にしたがったミード本人ではなく,この著作への世間の反応です。『サモアの思春期』は人類学分野では空前のベストセラーとなり,何百万という人の考え方に影響を与えることになりました。読者はどうやら,不幸とは無縁な社会が存在するという話には,あまり深く考えずに飛びつく傾向があるようです(しかもサモアには対立も暴力もほかの国並みに存在することを示す著作が,すでにいくつも存在していたにもかかわらず,この幻想を素直に受け入れたのです)。
 けれども,そもそもそのような結論がみちびけるはずがありません。わたしたちの社会よりはるかに貧しく,出産にともなう病気や困難も多い,非常に不安定な国において,世界中の人間とひとしく,恋愛,競争,老化など生きるための葛藤にさらされている人々なのです。なのに,彼らのことを最高に幸せな人々なのだと納得してしまうこの現象は,サモア人よりも,むしろミードの読者の心理について,語ることが多いのではないでしょうか。

ダニエル・ネトル 山岡万里子(訳) (2007). 目からウロコの幸福学 オープンナレッジ pp.73-74

「ノートルダムの鐘」のタイトル変更

 数年前,ディズニーのアニメーション映画『ノートルダムの鐘』が公開された。原作の邦題は「ノートルダムのせむし男」。文豪ビクトル・ユーゴーの原作だ。そのタイトルの「せむし男」が,映画では「鐘」に変わっていた。僕は当初,例によっての言い換えかと思っていた。しかし原題も「The Bells of Notre Dame」(ノートルダムの鐘)と表記されていることに気づき,アメリカでもやはりこの言葉は禁止用語になっているのかと驚いた。しかしそうではなかった。調べてみたらアメリカでのタイトルは,原題「The Hunchback of Notre Dame」のままだった。日本の配給会社は,邦題ばかりかビデオパッケージに表記する原題まで,ご丁寧に変更したわけだ。それもあの著作権管理に世界一うるさいと評判のディズニーを相手に。それだけの情熱とエネルギーがあるのなら,表現と規制について,もっと突き詰めて考える時間だって作れたはずだと思う。あるいは小人たちのテレビ出演への抗議に,「善意のつもりかもしれないが筋違いだ。彼らにもテレビに出て生活費を稼ぐ権利はあるのだ」と言い返すこともできたと思う。欧米の文化や習慣を全面的に追従する気は僕にはない。しかし差異はある。確かにある。非常に微妙な亀裂だけど,でもその断層は絶望的なまでに深い。

森 達也 (2003). 放送禁止歌 光文社 p.155

「リアルな映像」は存在しない

 9・11の映像を評して,ハリウッド映画には真似のできないリアルな映像と言った識者がいた。そりゃそうだ。あんな映像はB級ハリウッド映画でもNGだ。もしあの映像をそのまま本篇に嵌めこんだなら,なんとチープで貧困な発想だと笑われるだろう。
 ならばなぜ,CNNからの生中継に僕らは息を呑んだのか?世界貿易センタービルが崩落するその瞬間に画面に釘付けになったのか?
 これは本物だと思いながら見たからだ。その前提がないのなら,実際の映像そのものは,学生たちが作る自主制作映画の戦場シーンよりも安っぽい。
 リアルな映像など実は存在しない。リアルそうに見える映像なら存在する。重要なのは,伝える側のテーマと,受け手側のイマジネーションだ。

森 達也 (2006). 世界が完全に思考停止する前に 角川書店 p.32

世界はそんなに単純ではない

 わかりやすい結論など要らない。なぜなら世界はそんなに単純ではないし,何よりも簡単な結論は思考を止める。情報のパッケージ化を急ぐあまり,黒か白,正義か邪悪などの二元論に,テレビは自らを埋没させ続けてきた。優柔不断を怖れるあまり,麻痺の自家中毒を進めてきた。わからないことはわからないと自覚し,愚痴や煩悶を恐れずに露出するだけで,今のメディア状況は大きく変わるはずと僕は思っている。


森 達也 (2003). 放送禁止歌 光文社 p.133

事実を材料に紡がれたフィクション

 カメラが介在する段階で現実は変容する。要するに誰だってカメラの前では演技する。その変容した現実を,今度はフレームという恣意的な視点で切りとる。この段階で既に,本来の事実は大きく加工されている。その加工品に編集という取捨選択を重ね,インサート(カットの挿入)という手法で時系列を偽装し,場合によっては音楽やナレーションでニュアンスを強調する。つまり(僕の定義だけど),現実の断片的な素材を材料に,あくまでも主観的に再構成された世界観の呈示がドキュメンタリーなのだ。事実を材料に紡がれたフィクションと言い換えてもよい。

森 達也 (2006). 世界が完全に思考停止する前に 角川書店 p.210

曖昧さの排除

 テレビはずっと,曖昧さを排除しなければならないという強迫観念に捉われてきた。あらゆる現象を被害者と加害者,白と黒,正義と悪などの単純な構図に収斂させ,パッケージ化された商品として消費者に提供することばかりに情熱を注いできた。


森 達也 (2006). 世界が完全に思考停止する前に 角川書店 p.178

そう簡単に成仏するか?

 でもさ,霊が本当にいるのなら,あんな説得や呪文で納得できるのかな。今日見た番組では,袈裟懸けに殺された武士の霊が,自分を殺した男の子孫にとりついていたらしいが,霊能者の説得であっさりと成仏した。まあ編集で大幅に縮めた可能性はあるだろうけれど,でもそれにしたって骨髄の怨みが,こんな儀式で霧散するとはとても思えない。少なくとも僕が背中から斬られた武士だったら,あんな説得で成仏なんてしない。絶対するもんか。きっと一層ムキになる。

森 達也 (2006). 世界が完全に思考停止する前に 角川書店 p.158

わからないことを認めない

 念を押すまでもないけれど,メディアの考察や煩悶そのものを否定する気はない。ネット社会の弊害は確かにあるし,犠牲やトラブルを最小限に抑えられるのならそうすべきだ。ただし今回の犯人探しは質が悪すぎる。両親の厳しい躾が原因であるかのような報道が,例によって昨日あたりから現れている。同じ長崎の少年事件の際にも,母親と少年とが手を繋いで歩いていたことが,事件の要因であるかのように報道されていたことを思いだした。
 わからないことをわからないとメディアは認めたがらない。だから無理に理屈をこじつける。スタジオに呼ばれた評論家やジャーナリストも,晴れ舞台とばかりに気負って発言する。こうして少しずつボタンのかけ違いが拡大し,挙句の果てに文部科学省が「命の重みを教える教育」などと戯言をほざき始める。頼むから引っ込んでいてくれ。そんなもの教室で教わることじゃない。

森 達也 (2006). 世界が完全に思考停止する前に 角川書店 p.119

人=自分

 誰だって知っているはずだ。世界があるから自分がいるのではなく,自分がいるから世界があるのだということを。
 人は皆が思っているほどに賢くはない。でも皆が思っているほどに残虐でもない。だからこそ過ちを繰り返す。心が弱くて,優しくて,善意溢れる生きものだからこそ,人は互いに殺し合う。
 これを本気で認めることは辛い。主語を一人称にしなくてはならないからだ。

 でも飢えて死んだ幼児の落ち窪んだ眼窩にハエがたかっていたり,両親や兄弟が爆発で吹き飛ばされて腕や足や臓物がばらばらに散乱していたり,愛する人が炎で焦がされながら炭になったり,男たちが憎しみ合い殺し合うことを考えれば,その程度の辛さなど何でもないはずだ。

森 達也 (2006). 世界が完全に思考停止する前に 角川書店 pp.10-11

マスメディアの二律背反

 要するにマスメディアが求めるベクトルを極論すれば,「驚異の的中率!」という全面的な肯定か,さもなければ「トリック発見!」という全否定のどちらかなのだ。この相反する2つのキャッチコピーは,メディアにおいてはまったく矛盾しない。言い換えれば,この両端のあいだのグレイゾーンにメディアは価値を見出せない。半端でさえなければ実はどちらでも良い。逡巡や煩悶は露ほどもない。なぜならこの表層的な二律背反は,読者や視聴者の嗜好というマーケットにしっかりと寄り添うことで,メディアが獲得してきた揺るぎないスタンスなのだから。

森 達也 (2002). 職業欄はエスパー 角川書店 p.184


成果主義と言っても差はこの程度

 ある腕利きの営業マンは,こんなことを言っていた。ある時会社側が,これからは報酬を業績に連動させると宣言した。その人は腕に自信もあり,それなら腕の見せ所とばかりに,さっそく最初の月から,周囲の人も驚くような販売実績を挙げることに成功した。
 「さすが○○さんですね。やっぱり,うちの営業のエースですよ」。
 本人も得意の絶頂である。うれしくて仕方がない。しかし,給料の査定の時期を迎えて,その人の不満は爆発する。
 「何だよ,それ」。
 考えてみれば当たり前の話だが,いかに連動させると言ったって,昇給,ボーナスにも上限があり,彼から言わせればお荷物でしかないダメ営業の人間との差をつけるのにも限界がある。しかし,そもそもそんなことで不平を言っていられるような状況ではなくなっていたことに,すぐに気づかされるのである。

高橋伸夫 (2004). 虚妄の成果主義 日本型年功制復活のススメ 日経BP社 pp.116

「切る」論理

 経済的苦境に陥ると,現場から遠い経営者ほど,ついつい容易に「切る論理」を探し始める。成果主義も年俸制も底を流れるものは「切る論理」であろう。しかし,それでは一時的な業績回復はありえても,企業の永続的な発展は望めない。アイデアのない経営者ほど,マスコミ受けを狙って,安易な人件費削減をニュースにしがちである。確かに,短期的には市場も反応するだろう。しかし,そんなものはしょせんその場しのぎに過ぎないし,いつまでも削減し続けられるわけもない。市場が求めているのは,長期にわたって安定的に利益を出せるきちんとした事業構築なのである,むろん,それには時間がかかる。だから,今すぐにでも打ち出さなくてはならないのは,新しい事業戦略のアイデアの方なのだ。そのためには何が必要なのか。企業を成功に導いてきた偉大な経営者たちがしてきたことを振り返ってみるべきだろう。


高橋伸夫 (2004). 虚妄の成果主義 日本型年功制復活のススメ 日経BP社 pp.42-43

年功序列という成果主義

 つまり,わざわざ成果だ,業績だ,と騒がなくても,実は,昇進に関しては,差なんかとっくについていたのである。
 私が研究者として駆け出しだった頃実施した一番古いデータ(大企業7社366人)ですらも,1986年当時,20歳代前半では年功序列と答えたのが約6割だったのに対し,40歳代前半では約4分の3が能力主義であると回答していた。当時から,確かに40歳代になると部長も課長もいるのだが,その一方で,まだ係長やヒラの人もいた。しかも,これは大卒ばかりのホワイトカラーの職場での話なのである。つまり,年功序列的と言われる多くの日本の会社でさえ,40歳代ともなると明らかに昇進・昇格・昇給で差がついていたのである。そんなに差のつく人事システムなのに,入社早々の時期には,自分の会社は年功序列だと思っているのだ。

高橋伸夫 (2004). 虚妄の成果主義 日本型年功制復活のススメ 日経BP社 pp.24-25

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