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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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リベラル or 保守

あなたはリベラルですか,保守ですか?

<経済政策>
リベラル:政府は,福祉政策を拡大して貧富の格差を少なくするべきだ。
保守  :福祉政策は,勤労の意欲を失わせてしまうので,政府は福祉政策を削減すべきだ。

リベラル:政府は,企業による労働者の搾取をやめさせ,独占企業の市場支配をなくすために,企業活動を規制すべきだ。
保守  :自由競争市場が最も公平で効率的であり,企業にも消費者にも利益になるので,政府は市場に介入すべきではない。

リベラル:政府が福祉などの公共サービスを充実させるためには,十分な政府予算が必要だ。
保守  :重税は企業活動の妨げになるから,税金は少ないほどいい。

<犯罪>
リベラル:犯罪は,貧困や失業問題などを背景に起きてくるから,政府は社会問題の改善に重点を置くべきだ。
保守  :政府は,犯罪を減らすためには警察を強化すべきだ。裁判所は犯罪者を甘やかすべきではない。

<社会問題>
リベラル:人種的少数派の地位を向上させるために,政府は雇用や入学で積極的な優遇策を行うべきだ。
保守  :人種的少数派への積極的優遇策は,逆差別につながるから,政府は採用すべきではない。

リベラル:女性には出産するかどうかを選択する権利があり,人工妊娠中絶は合法的であるべきだ。
保守  :無制限に人工妊娠中絶が許容されれば,性道徳の荒廃にもつながるので,政府は制限するべきだ。

リベラル:公立学校で祈りを指導したり,公共の場で宗教的な行事をしたりすべきではない。
保守  :政府は,学校や公共の場で宗教的な祈りや儀式を許容すべきだ。

リベラル:同性愛者の権利を拡大し,雇用などでの差別をなくすべきだ。
保守  :同性愛者の権利拡大には反対すべきだ。


飯山雅史(2008). アメリカの宗教右派 中央公論新社 p.22より
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アメリカの政教分離

 アメリカの政教分離とは,教会の“自由市場競争主義”と考えればわかりやすい。建国時の植民地には,たくさんの教派があった。彼らは,必ずしも仲良く暮らしていたわけではないので,教派の1つが連邦政府の恩寵を受けて強大になり,他教派を抑圧することを恐れていた。一方で,政府の保護を受けた宗教は堕落して活力を失ってしまうという考えもあった。政府に保護を受けた宗教は堕落して活力を失ってしまうという考えもあった。政府に保護された産業が,結局競争力を失って衰退してしまうことと同じである。だから,さまざまな教派が,平等な立場で信者獲得のために自由競争を展開することが,宗教全体のためには望ましい。政教分離とは,宗教活動を活発にし,強力にする狙いも含まれているのであって,宗教を社会の隅に追いやり,衰退させていこうという意識はない。


飯山雅史(2008). アメリカの宗教右派 中央公論新社 p.19-20

学習の基本は模倣

 読んでおもしろかったもの,自分の好みにあうなと思ったものを,手本にして文章を書くというのは有効なトレーニングである。それは自分らしさの微塵もない物真似にすぎない,と言う人がいるかもしれないが,学習の基本は模倣することにあるのだ。真似ているうちに,だんだん自分の文章というものができあがってくるのだ。


清水義範 (2004). 大人のための文章教室 講談社 p.191

利口そうに書く

 人は文章を書く時,ついつい利口そうに書きたくなる。それは当然のことで,それがうまくできたら名文になるのだが,失敗すると目もあてられない悪文になるというおそろしい一面がある。学者などが知識をひけらかし,奇をてらい,しばしば言葉足らずに自分にしかわからない難解な文章を書くのがその例である。


清水義範 (2004). 大人のための文章教室 講談社 p.93


ニューエイジ運動

 超宗教運動---。教皇が話しているのは「ニューエイジ運動」(New Age movement)とその周辺の動きのことである。ニューエイジとは米国で70年代以降に広まった,スピリチュアリティを重んじる信念や実践の総称だ。運動といっても中心となる組織があるわけではなく,小さなグループがゆるやかなネットワークでつながっているだけだ。個人主義的な傾向がきわだち,グループは基本的に出入り自由だ。ある程度まとまった思想傾向としては,なにか神的なものや霊的なものが宇宙や自然,人間のなかにあるという汎神論的な特徴がある。そうした「聖なるもの」とつながるために,たとえば瞑想やヨガ,さまざまな心理的な技法などを使って,こころの成長や意識の変容を目指す。
 ニューエイジは英国をはじめとする欧米諸国,オーストラリアなど先進諸国を中心に,比較的ゆたかな層をまきこんでいった。日本には70年代後半に上陸し,「精神世界」と呼ばれた。80年代からは書店にコーナーが常設されるほどになった。
 しかし,精神世界というひびきが古くさく感じられるようになり,2000年以降になると,「スピリチュアル」ということばが使われだした。オウム真理教を思い出させる暗いひびきをリセットしたいという情報提供側の事情と重なった。最近のブームである「スピリチュアル」のなかにはニューエイジの流れをそのまま引き継いでいるものも少なくない。

磯村健太郎 (2007). <スピリチュアル>はなぜ流行るのか PHP研究所 p.55-56

心を扱うこと

 心理学の学問内容が不十分で不確実に見えるのは,歴史が浅いからではない(いま述べたように浅くなどない)。それは,だれもがもつ,けれどほかの人間は直接見ることのできない「心」というものをあつかうからだ。物質のようなハードなものをあつかうのではないからなのだ。これは,心理学の本質であり,宿命である。心理学がこれから途方もない年月研究を積み重ねて行っても,この点は変わりようがない。
 では,そうした「心」を心理学ではどのようにあつかうのか。オーソドックスには,言語的反応や行動や生理的な反応を通してである。行動や反応のデータから,心のなかで,脳のなかで,体のなかでどんなことが起こっているかを推測する。つまり,心理学とは間接科学である。このことを言うのに,かつては,心や脳や体を,ものが出入りするが,なかを覗くことはできない「ブラックボックス」にたとえていたことがある。つまり,入っていったものと出てきたものとの関係(入出力関係)から「ブラックボックス」のなかでなにが行われているかを推測するわけだ。いまなら脳のなかで起こっているプロセスを探るということになる。
 ここで問題なのは,この推測が十分な正確さをもって行うこともあるし(当然そうせねばならない),いいかげんに行うこともできるということだ(心理学者を自称するとんでもない連中の心理ゲームがこれにあたる)。心理学が客観性を備えた自然科学のようにも見え,どこかしらウサン臭さも残しているのは,間接科学のもつ宿命にほかならない。

鈴木光太郎 (2008). オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 p.211


クレヴァー・ハンス効果

 クレヴァー・ハンスのできごとは,さまざまなことを教えてくれる。ひとつは,動物が一見人間のようなことができるからと言って,人間と同じようなやり方でやっているとは限らないということだ。これ以降,心理学では,動物の知的能力については,まず疑ってかかるという態度をとるようになった。
 もうひとつ重要なことは,実験する側の人間が知らないうちに被験者に答えや反応の手がかりを与えてしまう場合があるということである。実験条件による結果の違いが,なんのことはない,実験者の結果の予想が被験者の反応に影響していただけというのでは,冗談にもならない。こうした実験者の影響は「実験者効果」と呼ばれる(動物の心理学実験の場合には,ハンスに因んで「クレヴァー・ハンス効果」と呼ばれることもある)。心理学の実験では,こうした効果が入り込まないようにする方法をとらなければならない。これは鉄則である。
 心理学の実験がほかの科学の実験と大きく異なるのは,まさにこの点だ。それは,相手が心をもった生身の人間で,実験するのも心をもった人間だということである。そこには互いに影響し合う関係が必然的に存在している。


鈴木光太郎 (2008). オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 p.147

閾下と無意識

 ここで注意しておくべきことがある。それは,認知心理学で言う「意識下(閾下)」とフロイトの「無意識」には大きな違いがあるということである。この2つを混同しているために,話しがわけのわからないところに行ってしまうのだ。
 フロイトの無意識は,抑圧されて意識にのぼってこないものである。抑圧されているものは,たんに意識されないだけでなく,先ほど述べたようにネガティブな内容を含んでいる。一方,認知心理学で言う意識かあるいは閾下は,処理容量や意識や注意の限界の問題である。この場合に意識されないものがあるのは,十分な処理を受けていなかったり,重要でなかったり,注意が向けられなかったりしたからであって,ネガティブな内容をもつからではない。
 違いは,もうひとつある。閾下知覚では,いまここにある刺激が意識にのぼらない。これに対して,フロイトの「無意識」では,意識にのぼらないのは,過去の体験やできごとである。心理学者の多くも,実はこの2つを明確に区別してこなかったし,いまも漠然としか区別していない。

鈴木光太郎 (2008). オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 p.51

野生児

 人間的な環境で育たなかった子どもは,「野生児」と総称される。これには,3つのカテゴリーがある。まず,野生の動物に育てられた場合。森などに遺棄されたあと自力で生き延びた場合。そして,人為的に社会から隔離して育てられた場合である。最後のカテゴリーは(家の中に閉じ込められていることから),前者2つと区別するために,「クローゼット・チャイルド」と呼ばれることもある。
 第1のカテゴリーの代表が,アマラとカマラである。第2のカテゴリーの事例は,1799年に南西フランスのアヴェロン県のコーヌの森で見つかったヴィクトールである(「アヴェロンの野生児」と呼ばれる)。第3のカテゴリーの代表として,1828年にドイツのニュルンベルクに現れたカスパー・ハウザーの事例や,1970年にロサンゼルスで保護されたジニーの事例がある。

鈴木光太郎 (2008). オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 p.29


脳と教育

 教育を「中枢神経回路を構築する過程」とみる態度は,民主主義的教育には不可欠な次のことを見すごしてしまう可能性がある。
 たとえば,教員の教え方やテキストの問題。教育プログラムを生徒個々人に合わせて柔軟に変えたり見直したりすべきこと。何を学ばせるかはその生徒の文化的背景や社会環境によって変わってくること。学びやすい環境や人間関係を構築すること。学習が実社会とのつながりによって動機づけされるべきこと。学ぶ目的と内容の決定に生徒自身を参画させるべきこと。一般教育が個人の自律性を養成するものである限り,知識の獲得や価値の習得と同時にそれに対する批判的態度を身につけさせるべきこと。知を個人の専有物とは考えずに,共同で制作し共有するものと考えること。学ぶ意欲は問題解決にこそあり知識を注入されることにはないこと。教育自身が現実の問題解決に貢献しなければならないこと---。
 民主主義的な教育哲学がこれまで培ってきたこれらの理念に対する考慮は,先の脳科学的な教育観に見出せるだろうか。
 脳テクノロジーの教育への応用そのものは,批判すべきことではない。しかし管理主義的な発想から生み出された脳テクノロジーが心理主義に陥ることは必然である。とくに,欧米ではなく,日本の教育システムの中に脳テクノロジーが導入されたときには,社会のために個人を教育するといった復古的な教育観を助長する可能性が高いように思われてならない。新しいテクノロジーは,古くさい考えを実現する手段を与えてしまうだろう。


河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.206-207.

心理主義化

 近年は,現代社会における心理主義化が問題視されている。心理主義とは,自分の行動に関わる問題が生じたときに,つねに自分の内面へと注意が向き,自分の意識や心的内容こそを改変しようとする傾向をいう。
 心理主義の問題は,自分の目の前にある困難を生じさせたのが自分の心理(態度,性格,考え方など)であると考え,その心理を生じさせている環境因,とくに人間関係的・社会的・政治的な状況に目が向かないことである。


河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.199-200

意図は認識に関わる

 このことから分かることは,意図とはむしろ認識に関わるということである。自分の行動がどのような文脈のなかで行われ,それが周囲の世界にどのような影響を及ぼすか知っていながら行うということが,「意図的」ということなのである。
 たとえば,ある大統領が殺され,大統領が目論んでいた某国との停戦協定が頓挫したとしよう。もし,その犯人が大統領の財産を奪うことだけに関心があり,停戦協定のことなど知らなかったとすれば,その犯人は戦争の泥沼化を意図していたわけではないことになる。結果,そうなっただけである。
 しかし,犯人が戦争の長期化を目論む某国のスパイだったならば,そのスパイは,大統領の死が国際情勢にもたらす因果関係を認識していたはずである。意図的な行為は,その行為が引き起こすだろう因果関係を認識しながら行うものである。
 したがって,意志するとは,行為を発する決意のことではなくて,ある目的を達成するように(あるいは,理由に沿うように)自分の行動を調整することなのである。
 強い意志とは,いくつかの失敗にもめげずに,さまざまな仕方で目的を達成する試みをしようとする粘り強い態度を指す。強い意志は強い決意や強い心のエネルギーを意味する,と考えるのはやや素朴な発想である。

河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.166-167

社会的構築物としての心的機能

 心的機能が社会的に構成されたものだということは,それらが無力な虚構だということでは決してない。知能や記憶などの心理的カテゴリーはいったん社会に受け入れられると,今度は,人々の心の理解の仕方や人間観に影響を与えるようになる。
 知能とはこういうものだ,記憶とはこういうものだと規定されると,私たちはそれに合わせて自分の知的能力を作り上げ,早期の仕方を訓練していく。
 「心とはコンピュータだ」という考えが社会に広まれば,コンピュータをモデルとして人間の心を理解するだけではなく,それに近づけようと自分の心を改造し,それに合わせようとして子どもを教育するのである。正確で誤りのない,感情を交えない計算機であるように,自分たちをシェイプアップしてしまうのだ。
 心は他人には決してわからない秘密の小部屋のようなものだという心の概念が社会的に共有されれば,心とはそうしたものであり,コミュニケーションは最終的に無力だという態度が生まれてくるであろう。
 このように,社会的ラベリングがその対象を実際に形成していってしまう現象を,哲学者のイアン・ハッキングは「ループ効果」と呼んだ。ブーメランが戻ってくるように,自分たちで規定した意味が,自分たちのあり方を規定するようになるのである。
 この意味において,心は現実的に社会的に構成されるのである。

河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.134-135.

脳機能計測の成果

 反応時間や正答率,選択率などの行動的測度によって明らかになった現象は,そのままでは何も説明していない。心理学では,これらの行動として表れた現象を,仮説的構成概念を用いた心理的モデルによって解釈する。しかし,ある現象を説明するのに複数のモデルが並列して成り立ってしまい,どれが正しい解釈か確定できない場合が生じうる。
 たとえば,記憶における自己参照効果という現象(自分自身に当てはまる課題は,記憶しやすいという現象)が認められる。
 この現象がどうして生じるかについては,2つの有力な解釈が存在し,長い間,論争になっていた。ひとつの仮説では,自己認知という特殊な認知機能が存在し,その部分が刺激されるからこそ,自己参照課題は記憶しやすいのだと解釈された。もうひとつの仮説では,自己参照課題は記憶しやすいといっても,それは,特別に自己という特殊な認知に関わったからではなく,ただ単に,課題の意味がさらに精緻化されたから記憶しやすいのだと主張されてきた。
 そこで,fMRIで測定したところ,意味の精緻化に関わる左側の下前頭回ではなく,自己内省や自己意識に関わると考えられる内側前頭前野が活性化したのである。この結果,記憶の自己参照効果は,自己認知に関わっていたことがわかったのである。
 これは,神経科学的測度が,心理学的な仮説の確定に貢献したケースといえるだろう。


河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.90-91


脳が出す指令

 人間の脳は,身体を原子レベルから再構成するようなプログラムを実行しているのではないし,筋肉の繊維一本一本の構成を分子レベルから組立てるような指令はしていない。骨格をどのように構成するか,筋肉をどの方向に収縮し弛緩するかについてさえ指令していない。身体の特性とその振る舞いの効果については,脳は何の制御も行うことはできない。それらはすべて身体の中に書き込まれている。むしろ,脳が行う制御は,身体の特性や振る舞いが環境に対して一定の効果をもちうることを最初からの前提としている。
 したがって,脳が出す指令があるとすれば,そのヴォキャブラリーも文法も,身体という言語で書かれているはずである。単純に言えば,脳の方が,身体の能力,身体がもつ外界への効力に完全に依存しているのである。

河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.73-74.

脳機能計測への反応

 他方で,心理学や教育学など人間科学のプロパーの研究者の中にも,心理研究の方法としての脳機能計測を胡散臭く思う人たちがいる。
 そうした懐疑を,新しい者への警戒心や縄張り意識の表れにすぎないと断じることはできない。人間科学の研究者たちは,自分たちの研究対象である人間の心や行動を,自然科学の方法で扱うことがどれくらい困難であるかを,日々実感しているからだ。
 脳機能計測を心理研究の方法論として用いる研究は,医療的な脳科学者からも,心理学の従来の研究者からも一定の疑問を呈されているのだ。

河野哲也 (2008). 暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討 光文社 p.25

人間は正直ではない

 人間は決して正直でないことを僕は指摘したいと思います。科学者だってちっとも正直でありません。まったくしようのないことです。誰一人として正直な者はいないんですから。ところが人は普通,正直でない科学者を正直だと思いこんでいます。だからなおさら困るのです。ここで僕の言っているのは,嘘を言わず本当のことだけを語る,という意味の正直ではありません。事態の全体を明らかにするという意味の正直さです。理性のある人が自ら決断をくだすために必要な情報を,すべて明らかに示すことこそ,真の正直と言えましょう。

R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.146.

止まった時計の話

 僕は13か14歳の頃,ある少女に出会い,心から愛するようになりました。結婚するのにそれからまた13年もかかっていますが,お察しの通りそれは現在の妻ではありません。とにかく彼女は結核にかかって数年のあいだ病身でした。彼女が病気になったとき,僕は文字盤のかわりに大きな数字がくるくる変わっていく時計をプレゼントしたのですが,これを彼女はことのほか気にいっていました。プレゼントしたのは病気になった当初のことで,彼女はそれから4年,5年,いや6年間,だんだん病勢がつのっていくあいだも,離さず病床のそばに置いていたものです。そして結局は帰らぬ人になってしまいました。亡くなったのは夜の9時22分のことでしたが,例の時計はその時間を指したまま,もう永久に動きませんでした。ここで僕が幸いにも気がついた他の状況を,お話しすべきでしょう。第1に5年のうちには,さすがの時計も少しガタがきてバネもゆるみ,ときに僕が修理してやらなくてはならないことがありました。第2に,死亡証明書に死亡時刻を書きこむため,看護婦が時間を確認しようとしたとき,部屋の中が薄暗かったので,もっと数字をよく見ようとして時計をもちあげ,こころもち上向けにしてから元にもどしたのです。それに気づかなかったら,さしもの僕もいささか説明に困る立場になっていたかもしれません。そういうわけでこうした逸話を考えるとき,すべての条件を覚えているよう注意する必要があるのです。気がつかなかった条件すら,あるいは現象の神秘を解明してくれるかもしれません。
 要はただの1回や2回のできごとくらいでは,何の証明にもならないということです。こういうことに関しては,すべてを慎重に調べなくてはなりません。でないとあらゆるたぐいのでたらめを信じ込み,自分の住む世界のことはさっぱり理解できない連中の,仲間入りをすることになってしまいます。もちろんこの世界を理解している者などは誰一人いませんが,他の人より少しは理解が進んでいる人もいるのです。

R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.112-114.

政府の義務

 いかなる政府であろうと,科学の原理の真偽を決める権利はありません。また科学分野での研究課題の性質を,指図する権利もありません。さらに政府は芸術的創造の美的価値を評価すべきでなく,文学や芸術の表現形式を限定するべきでもないのです。政府は決して経済的,歴史的,宗教的,哲学的学説の正当性を宣言してはなりません。それよりも人民が未来の冒険と人類の発展にどしどし貢献できるような自由を保障することこそ,国民にたいする政府の義務なのではないでしょうか。


R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.79.

独断と盲信

 歴史上最悪の時代を振り返ってみるとわかるのですが,それは必ず絶対的な独断と盲信に凝り固まった人々がいたときのようです。しかも熱心さのあまり,世界中の人々が一人残らずそれに賛同すべきだと言い張り,さらに自分の主張の正しさを証明するため,今度はその信念の正反対を実行するしまつでした。
 歴史を通じて人間は何度となく袋小路に封じこめられ,どうにも身動きがとれなくなった時期がありました。人類が二度とそのような窮地に陥ることなく,常に動き,常に自由な方向に進む望みは,一に無知と不確かさを認めることにあると,僕は第一回目の講演でお話ししましたが,重ねてそれを強調したいと思います。僕たちは生命の意味を知らず,正しい道徳的価値が何であるかも知りませんし,それを選ぶすべさえもっていない。道徳的価値とか生命の意味などは,道徳の大根源であり,意味の解明に長けた宗教の領域に踏みこまなくては,とても語れそうにありません。

R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.46-47.

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