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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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科学の価値

 いったい科学には何か価値があるのでしょうか?
 何かができる力は価値あるものと,僕は考えます。結果の善し悪しはその使い方によるのであって,力それ自体は価値のあるものです。
 一度ハワイで仏教のお寺を見に連れていってもらったとき,そこの住職が「これから私のお話しすることを聞かれた方は,それを一生お忘れにならないでしょう」と前置きして次のようなことを言いました。「人はそれぞれが天国に入る門の鍵を与えられています。ただしその鍵は,地獄の門もまた開けることができるのです」と。
 科学もまさにそのとおりです。科学はある意味で天国の門を開く鍵ですが,その同じ鍵で地獄の門も開けられるのです。おまけにその鍵には,どっちの門のためのものなのかの説明は一切ついていません。いっそのこと,この鍵を捨ててしまって,天国の門を開く機会をふいにしたののか?それともこの鍵を使い最善の方法は何か,という問題に取り組むべきか?無論これは大変深刻な問題です。けれども僕らは天国の門を開く鍵の価値を,決して否定するわけにはいきません。

R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.7-8.
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科学とは

 ところでいったいぜんたい科学とは何かということになると,「科学」という言葉は普通,次の3つのことのどれか1つ,あるいはその混ざったものを意味しているようです。ここで僕らはあまり厳密でなくてもいいでしょう。あんまり厳密すぎるのは,必ずしもいいことではありませんから。さて科学の意味ですが,ある場合にはものごとを突きとめるための,特殊な方法のことを指していることもあります。またいままで突きとめたことを積み重ねた知識の集成を意味することもあり,何かを突きとめた結果できるようになる新しいこと,あるいはその新しいことの実行そのものを指していることもあるのです。この最後の分野はふつう科学技術と呼ばれていますが,タイム志の科学欄をみると,半分は新しく発見されたこと,あとの半分はどんな新しいことができるようになり,あるいは現在すでになされつつあるかが書いてあります。だから世間一般の科学の定義は,一部分,工学でもあるわけです。


R.P.ファインマン 大貫昌子(訳) (2007). 科学は不確かだ! 岩波書店 p.5

やらせの背景

 極論すれば,現在テレビ・雑誌媒体において「情報」といえば<商品知識>のことであり,「事件」といえば<芸能スキャンダル>のことである。そういった環境下で生じてきているのが,先に述べた「やらせ」の現象である。つまり,ここにおいては事実を事実として伝えるべきジャーナリズムが,フィクション・虚構となってしまいつつあるという危機なのだ。


新藤健一 (1994). 新版 写真のワナ 情報センター出版局 p.275.

暗黙の圧力

 NHKのムスタン事件や「そしてチュちゃんは村を出た」のやらせを告発した朝日新聞も,それ以前に手痛い「サンゴ損傷事件」を体験している。だが,当時の社長は役員として社に残り,大騒ぎしたサンゴの傷もほぼ2年ほどで再生した。結局,カメラマン1人が社を去っただけである。
 事件が報道された時,私も西表島に近い新石垣空港問題の取材で白保の海に潜り,サンゴを撮影していた。同じダイビングをやる仲間として元朝日カメラマンの気持ちがわかるような気がした。事件後,私は徹夜で彼と話し合った。因果なことに「カメラマンの目を避けて」である。「アザミサンゴの表面にうっすらと残ったKという傷をなぞり,隣の何もない所にYと傷つけた」というのが事の真相である。しかし,そこまでに至るプロセスが微妙なのである。
 東京から日本の最南端ともいえる西表島の外れまで社費で出張して,あてにしていた取材対象のサンゴに傷がないのでは,彼ならずとも私でも困ってしまう。なぜならば,「ダイビング」「沖縄」のフレーズは何となくトロピカルでリゾートや遊びを連想してしまうからである。「沖縄に遊びに行って何もしないで帰ってきた」などと噂されたら社内で政治生命がないのが,日本のこの業界なのだ。つまり,次のチャンスがなくなるのではないか,と疑心暗鬼するような競争社会であるからだ。
 追いつめられた彼は,ひょっとしたことでインスピレーションが浮かんだ。サンゴを傷つけようと考えたようだ。これ以上の事は推論になるので書くのはやめよう。


新藤健一 (1994). 新版 写真のワナ 情報センター出版局 pp.267-268.

競争社会の現実

 結局,いまの日本が向かおうとしているアメリカ的な競争社会では,今日の「勝ち組」にいる人でさえも,明日の「勝ち組」に居残るためには,意味のない心理的なストレスと無駄な経済的な負担を,個人的にも社会的にも負っていかなければなりません。止まらない過労死や,過度のストレスや経済的な理由による自殺の増加がその究極の姿です。
 子どもたちの貧困の問題は,こうして考えていくと,「彼ら」の問題ではなく,「私たち」の問題であるとも言えるのではないでしょうか。しかし,私たちは子どもたちという将来の貴重な宝の損失を防ぐことができるのです。子どもたちの貧困という現実を直視し必要な対策を続けていけば。

山野良一 (2008). 子どもの最貧国・日本 学力・心身・社会におよぶ諸影響 光文社 pp.258-259.

貧困と発達

 これまで見てきたように,子どもたちは貧困状況に置かれ続けることによって身体的,知的,情緒的にハンディを負う可能性が高まります。とくに,乳幼児期に経済的な困窮状況にある家庭で過ごすことはその深刻さを増す可能性があります。乳幼児期に経済的なことを心配せずに子育てに専念できることの意義は,アメリカの研究などを俟たずとも私たちにも簡単に想像できることです。
 逆に,貧困な子どもたちの発達の保障を考えるとき,家族の所得を増加させることがまず一義的に考えていかなければならない点でした。所得の増加は,家族のストレスを減らし,子どもの発達を促す遊具などの購入や,良い環境の住居で暮らす機会の増加を家族に与え,子どもたちの成長を促進することができます。
 子どもたちの貧困の実態にまったく目を向けようとしないことで,結局,日本社会は大きな社会的損失を被り続けているのかもしれません。子どもたちは,貧困状況の連鎖のなかでもがき,その才能は生かされないままに,かえって発達上のさまざまな課題を背負ったまま次の世代へと,つまりは親になっていきます。

山野良一 (2008). 子どもの最貧国・日本 学力・心身・社会におよぶ諸影響 光文社 pp.256-257.

注意

 周囲の人たちが陥りやすいあやまちのひとつは,出版されている多重人格の書物をたくさん読み,患者とともに知らぬ間に解離の世界へと没入していることである。人によっては交代人格を表にして,それぞれの年齢,性別,性格などを詳しく記載し,経過を追って詳細に記録している。彼らの患者に対する眼差しは交代人格の出現を促してしまう。このように彼らと患者が周囲から浮き上がった「閉じられた二者関係」を形成しているとき,解離の病態は慢性化し強化される。もちろん,安心できる二者関係は解離を癒すことは症例エミでみたとおりである。


柴山雅俊 (2007). 解離性障害---「うしろに誰かいる」の精神病理 筑摩書房 pp.195-196.

スプリッティングと解離

 岡野憲一郎が指摘するように,ボーダーラインではスプリッティングが,解離性障害では解離(dissociation)が特徴的である。もちろんこのふたつの防衛機制は異なった意味を持っている。スプリッティングとは自己あるいは対象のイメージがgoodとbadに分離することであるが,そのときの記憶は保たれている。どちらかというと対象側のイメージが分かれやすい。解離もまた分離することを特徴としているが,イメージが分かれているのではなく,DSMの定義にあるように,意識,記憶,同一性,周囲の知覚などにおけるさまざまな統合機能が破綻する。つまり主として自我側の統合破綻がまずあると考えるべきであろう。


柴山雅俊 (2007). 解離性障害---「うしろに誰かいる」の精神病理 筑摩書房 p.145.

虐待の社会史

 アメリカで子どもへの虐待が社会の表舞台に登場してきたのは1960年代であり,その火付け役となったのはケンペらの被虐待児症候群(The battered-child syndrome)という論文である。当時は不当な差別や抑圧に対して泣き寝入りはしない,という意識が高まってきた時期である。
 1963年から67年までの5年間でアメリカ全州に虐待通報制度が導入され,幼児虐待の実態が把握されるようになった。70年代にはフェミニストの運動が高まり,彼女たちは性的虐待の原因が家父長制にあると主張した。1974年には児童虐待防止法が制定され,連邦の特別基金を州に与えることが定められ,通報が義務づけられる専門家の範囲と通報されるべき状態の範囲が拡大した。
 1980年頃から北米で解離性障害が注目され,それと同時にそれまでほとんどみられなかった解離と幼少時外傷との関連についての報告が始まった。以来,性的外傷,身体的虐待,養育放棄など多くの外傷体験が解離と結びついているという報告がなされるようになった。
 性的虐待はいっそう注目されるようになり,1980年から86年の間に性的虐待の報告は3倍以上にも増加し,他の虐待に比して格段に高い増加率となっている。さらに1994年,連邦議会はメーガン法を制定し,性犯罪者の監視による性犯罪の再発予防へと虐待対策を強化した。
 一方で,1980年代後半から幼児虐待対策に抗議する反対運動,いわゆる揺り戻しがみられるようになった。「実証されない通報」の割合が増加したことも原因の1つと想定されている。1988年,ミネソタ州ジョーダンでの集団性的虐待の裁判事件,1983年,マクマーティン保育園の性的虐待の裁判事件などを通して,1992年には偽記憶症候群財団(False Memory Syndrome Foundation: FMSF)が設立された。

柴山雅俊 (2007). 解離性障害---「うしろに誰かいる」の精神病理 筑摩書房 pp.114-115.

鏡が怖い2つの理由

 解離の患者が「鏡を見るのが怖い」と報告するとき,おおかたその理由は2つに分けられる。1つは,「鏡を見てもそこに映っているのが自分の姿であるという実感がない」ことである。もちろん,われわれでも病気で体調が悪くぼんやりした状態で鏡を覗き込んだとき,あるいは酒に酔ってトイレの中で鏡の前に立ったとき,鏡に映った自分の姿が自分ではないような感じがすることがある。
 さらに1つは,「鏡に自分以外の何か,普通は映らないものが映っているような気がする」とか「自分の背後に何かがいるのが映っていそうでとても怖い」という報告である。これは私自身まったく経験することはないが,学生などに尋ねてみても,男性でも「そういうことはある」と答える。解離の患者のうち数人は,幼少時に鏡の中に実際に不気味な人がありありと見えていたという。「鏡にもうひとりの自分が映っている」と報告するものも稀だがある。彼女らはわれわれ一般にもみられる表象がまさに知覚的に立ち現れる傾向をもっている。

柴山雅俊 (2007). 解離性障害---「うしろに誰かいる」の精神病理 筑摩書房 pp.56-57.

ステレオタイプに気づかない

 私たちは自分が出会うすべての人の,その豊かで複雑で独特な性質について考える時間,機会,モチベーション,それに精神力などを常に持っているわけではない(あるいは持とうとしていない)。さらにいったん立ち止まって,自分が偏見の目で人を見ているのではないかと考え,態度を改める時間も意志もない。私たちはステレオタイプの手先が真正面から自分を見つめていても気づかないのかもしれない。たとえば女性を性的な対象としているイメージはどこにでもあるため,女性を性の対象としてプライミングする実験で,性差別的なCMを見た男性被験者の多くが,自分の見たCMは,“性差別的ではなかった”ので,自分は絶対に対照群のグループに入っていたはずだと信じて疑わなかった。

コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 pp.219-220


ステレオタイプの変容

 じっさい,ステレオタイプ脅威の実体を明らかにすることで,デリケートな学生たちをその呪縛から解放できるらしいのだ。女性は数学が苦手であるということを,数学能力の男女差に関する研究の一環として提示したあとで,統計学を専攻する女子学生に数学のテストを受けさせたところ,一般的な傾向どおり,男子学生より成績が劣っていた。しかしもう1つのグループの学生たちには,ステレオタイプ脅威とその影響について事前に伝えておいた。そして女子学生たちは,こう助言された。「このテストを受けている間に不安を感じるとすれば,それは世間に広く流布している,女性の数学的能力に関するステレオタイプが原因のプレッシャーから生じるもので,実際のあなたの能力とは関係ないと頭に留めておくことが重要だ」するとそのような説明を受けた女子学生たちの成績は,男子学生とまったく変わらなかったのだ。世の先生がたには,このことを肝に銘じておいていただきたい。


コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 p.208-209

プライミング

 プライミングはどんなスキーマでも可能だ。そしてプライミングされたとき,私たちの行動はそれに合わせて変化する。この現象を早々に実証した画期的な実験の一つでは,ばらばらに並んだ単語を,意味が通る文になるように並べ替えるよう被験者に依頼した。一部の被験者用の単語には,老人のステレオタイプに関する言葉が含まれている。たとえば,皺,へんくつ,毛糸の服,物忘れ,頑固,などだ。他の被験者用の文は,偏りのない単語が使われていた。
 この実験の目的は,最初のグループに“老い”というスキーマをプライミングして,行動にどう影響するかを調べることだった。作業が終わって被験者が荷物をまとめ始めると,実験者は礼を言い,ドアのところまで案内して廊下の向こう側にエレベーターがあることを教える。しかし実験はそこで終わりではない。廊下には実験協力者が隠れていて被験者がエレベーターに行くのにどのくらいかかるかこっそり時間を計っているのだ。老人に関係する単語を並べ替えた被験者は,エレベーターまで歩いていくとき,まるで本当に腰の曲がった老人であるかのように,他の被験者より歩くスピードがずっと遅くなっていたのだ。

コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 pp.148-149

現代心理学で研究される無意識

 幸運にも,今は精神分析以外にも心の隠れた部分をさぐる方法がある。過去2,30年で,社会心理学者の間では精神生活の隠れた面とその役割について,興味がどんどん高まっている。彼らの研究には,よいニュースと悪いニュースがあった。
 よいニュースは,無意識はよく言われるような,単なる心理的葛藤を戦わせる場ではないということだ。無意識は私たちのために,てきぱきとあくことなく働いてくれている。ある有名な社会心理学者は,これを“頭の中の執事(メンタル・バトラー)”と呼んでいる。私たちの必要なものや欲しいものを,わざわざベルを鳴らさなくても,黙って揃えてくれる。面倒な仕事を無意識が引き受けてくれるおかげで,意識は人生の目的について考えたり,重大な決定を下したり,もろもろの業務をこなすことができるのである。
 悪いニュースは,仕事を他人に任せるときは,それなりの代償があるということだ。従順な無意識に仕事をさせてしまうと,その仕事がどのように行われているのかはっきりとはわからない。
 実は,これは悪いニュースではない。無意識の精神活動を行っている従順で働き者の召使(脳)を,主である意識(われわれ)が支配しているという関係は,比喩だとしても,たしかに悪い気はしない。本当に悪いニュースは,そもそも数少ない意識的な選択自体が,実は幻想にすぎないかもしれないということだ。


コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 pp.140-141

宗教と精神異常の区別

 その一線が最もあいまいになるのが,思い込みが宗教的な経験に基づくものであるときだ。信仰心と精神異常の区別には微妙なところがあり,どうしても主観がどこかに入り込んでしまう。精神衛生の専門家も,敬虔なクリスチャンがイエスの存在を感じたという幸運な経験をしたという分には,あまり心配をしない。しかし存在していたのがエルヴィス・プレスリーだったとなると,眉をつりあげる。またカトリック信者が,神が力を与えてくれたおかげでカトリック信者としての生活をおくれると精神科医にもらしても何の問題もないが,モルモン教徒が自分は死後に神に変わると口にするときは,相当の覚悟がいる。超自然的な存在に助けられるというのはいい。けれどもそうしたものに“なりたい”というのは,まったく別な話なのである。


コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 pp.111-112

自己の記憶

 私たちは,自らの複雑な心理傾向,性格,能力などについて考えるとき,自分についての真実と見なされているものを告げてもらうため,内なる神官におうかがいをたてる。私は社会生活に満足しているのか,結婚を続けたいのか。よい親といえるのか。ここであなたは,自分についての記憶の中から,その仮説が正しいという証拠をかき集めようとする。楽しかった先週末のパーティー。自分の生活のささいなことを知りたがる配偶者の可愛さ。風船で上手に動物をつくれる自分の腕前。
 ところが聞き方を逆にすると,記憶の中からまったく違った証拠が次々とあふれ出してくる。私は社会生活に不満なのか。すると友人たちのほとんどに,うんざりするような癖があるのを思い出す。離婚したいのか。そう考えると,2人とも黙りこくっていた結婚記念日のディナーの記憶がよみがえる。よい親とはいえないのか。突然,大事なものを電車の中に置き忘れてしまう悪い癖があるのに気づく。「あなたは自分の社会生活に満足していますか」(「不満ですか」ではなく)と聞かれた人のほうが,満足度が高くなるのは,こうした理由からなのだ。別れたくない相手に対して「もう私を愛していないの?」と尋ねてはいけない理由もここにある。


コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 pp.88-89.

モラル

 私は当然,いずれ息子の原始的で唯我独尊のモラル感覚も,両親の行き届いた行動としつけによって変わるだろうと思っている。少なくとも,もっとうまく隠しおおせるようにはなるはずだ。大人のモラルの皮も1枚むけば,騒々しい幼児と変わらない。本能まかせの非道ぶりがあらわになる。他人の置かれた状況に共感できなければ,私たちだって青二才の裁判官のように「グレタのバカ!」と軽率な結論に飛びついてしまうかもしれないのだ。また,状況が変わって自分自身が正しいことをしにくくなったときには,“手に負えない二歳児”と変わらない,気分まかせの行動をとっている。


コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 p.60


感情の方程式

 人間の感情にはそれほど大きな謎はない。知っておかなければならないのは,次の単純な方程式だ。

 感情=興奮+感情的思考

 どんな感情が生じるときでも興奮するのは同じで(違うのは強さだけ),それに適切な思考を合わせるのが脳の役目である。ところが感情がかわると,脳は急いで靴下を組み合わせようとする休憩直前の洗濯係の助手と変わらなくなってしまう。鮮やかな青色で犬のキャラクターがついている靴なら,何の問題もなくすぐ組み合わせることができる(私の脳は,前頭前野の抑制がきかない危険な患者とともに小さな部屋に閉じ込められていることと,手のひらに汗をかくことを,苦もなく結びつけた)。しかし長さも形も色もほとんど変わらない仕事用の黒い靴下を何足も組み合わせるとなると,話はややこしくなる。おまけに脳は,それほど慎重ではないのだ。正しく組み合わせるどころか,よく似た黒い靴下を適当に合わせるくらいは平気でやる。その結果,興奮した原因を,実際とは違うものと思い込んでしまうことがある。


コーデリア・ファイン 渡会圭子(訳) (2007). 脳は意外とおバカである 草思社 p.43

写真の独自性

 確かにカメラは純粋科学の一定条件を満たせば,時には「冷酷非情」になることもできる。しかし,私たちが一般に使うカメラでは,それはなかなか難しいのである。別の視点から写真の独自性を語ると,こうなる。
 第1に,映像は広角や望遠レンズによってイメージを強調することができるのだ。レンズによる変形や歪曲は撮影者の意図によって自由自在に変えられる。ワイドなレンズは,ただ単に広い範囲を写すだけでなく,遠近感を誇張することもできる。望遠レンズは,ただ単に遠くのものを大きく写すだけでなく,距離感を圧縮したり,不必要な部分をカットするために使うことも可能なのだ。
 第2に,“時間の固定”である。シャッター・チャンスという時間を切り取ることができるのは,写真の大きな魅力のひとつである。そこには,どの瞬間をフィルムに記録しようかという撮影者の意図と選択が働く。
 第3に,アングルや撮影意図による違いである。現実の世界は3次元の立体の世界である。しかし,カメラは2次元の世界にその主体を記録するのである。そして,人間の目は2つあるのだが,カメラの眼(レンズ)はひとつしかない。こうした物理的な違いから,事実がよく見えたり,ものの背後でわからなかったりすることがあるのだ。
 映像は,これらの3要素が複雑にからみあって再現される。だから,裏を返せば撮影者がこれらの3要素をうまく操れば,意のままのイメージを人に伝えられるのだ。映像=ビジュアル・イメージの威力とワナはここにあるのだ。


新藤健一 (1994). 新版 写真のワナ 情報センター出版局 pp.38-39.

機会平等の条件

 機会の平等はつぎの2つの条件を満たす必要がある。第1は,ある状態を望む者には,全員にそれに挑戦する機会が与えられるべきである。第2は,それに挑戦した人から誰を選抜するかという際に,差別があってはならない,ということである。教育,職業,就職,昇進などが具体的な例となる。

橘木俊詔 (2008). 早稲田と慶応 名門私大の栄光と影 講談社 p.62

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