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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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攻撃目標を誤るな

 残念なことに,批判者のいくたりかは,科学の最悪の部分(軍事主義,性差別主義など)を攻撃するあまり,科学の最良の部分までもを攻撃する。最良の部分とは,世界を合理的に理解しようとする姿勢と,経験的な証拠と論理性を重んじるという広い意味での科学の方法である。ポストモダニズムが本気で攻撃しているのは合理的な姿勢そのものではないだろうと考えるのは素朴にすぎよう。しかも,この合理性という側面は手頃な攻撃目標なのだ。合理性を攻撃しさえすれば,昔からのもの(たとえば宗教原理主義)にせよニューサイエンスにせよ,迷信を信奉するすべての人たちを味方につけることができるからだ。ここに,科学と技術のいい加減な混同を加味すれば,あまり進歩的とはいえないが,かなりの人気を博す社会運動ができあがる。

アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.267.
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おたくとパロディ

 しかし,「おたく」と称せられる人たちの中でも,アクティブに活動している人たちは,自分がのめり込んでいる対象が虚構の世界であることも,そして自分の活動が世間一般からは価値がないものと考えられていることも,十分に承知しています。いわば,だまされている自分自身を冷徹に見つめながらも,徹底的にその虚構にどっぷりと浸かり,さらには自らその世界を拡張していくことができるのです。
 その特徴をよくとらえているのが,「おたく」に特有のパロディ文化です。おたくたちの同人誌のほとんどが,自分の好きな作品のキャラクターを自在に活躍させるパロディで埋め尽くされているのはご存じだと思います。そして,パロディというのは,対象を醒めた目で突き放して見る見方がなければ,生みだされない文化です。評論家の浅羽通明氏の言い方を借りれば,敬虔なキリスト教徒には聖書のパロディを書くことは決してできないのです。


菊池 聡 (2008). 「自分だまし」の心理学 詳伝社 p.216

エンターテイメントを貫け

 こうした番組がブームになるたびに,そのインチキ性やヤラセを指弾する声は,科学者や良識ある人々から繰り返し発せられています。そのたびに,こうした番組作りの側がなんといって反論してきたのか?
 「これはバラエティ番組であって,エンターテイメントとして楽しんでほしい(大意)」というコメントを何度聞かされたことかわかりません。こうしたオカルト番組のゲストにさりげなくお笑いタレントを起用しているのは,エンターテイメントという言い逃れをやりやすくするためだと聞いたことがあります。
 さらに,最近のスピリチュアル批判を受けての反論では,「占いや霊視はトークのきっかけであって,この番組の本質は人生相談なのである」という新しいパターンもありました。根拠のない占いやヤラセの霊視を問題にしているのに,番組の本質は違うところにあると言って論点をずらすのは,エンターテイメントと言い逃れるのと同じ構図です。いわば,レストランでスープに虫が入っているじゃないか,という指摘に対して,「スープは食事の本質ではなく,メインディッシュを見てほしい」と言っているのと同じです。
 ただ,こうした言い訳も見方によっては成り立つのかもしれません。子ども向け番組に出てくる犬が本当に言葉をしゃべるわけではありませんし,おしりを齧るあんなに巨大な虫が本当にいるわけでもありません。すべて虚構を前提として楽しむものであれば,それを楽しめないのは野暮というものです。
 だとすればなおさら,『あるある大事典2』でも,この姿勢を貫徹してほしかった。これは今でも心からそう思っています。この番組は情報“バラエティ”番組であって,エンターテイメントとして楽しんでいただきたい。少々の捏造はよくあることです。と,言い切っていただいた方が,長期的にはどれだけメディアリテラシー向上に資することになったか,はかり知れません。


菊池 聡 (2008). 「自分だまし」の心理学 詳伝社 p.192-193

科学の4つの意味

このような攻撃を分析するために,「科学」という言葉の少なくとも4つの異なった意味を区別する必要がある。世界の合理的な理解を目指した知的行為としての科学。受け入れられている理論的・実験的結論の集まりとしての科学。独自の流儀,制度,より広い社会とのつながりをもった社会的集団を括る存在としての科学。そして,応用科学や(科学と混同されることの多い)科学技術。これらの内の1つの意味での「科学」についての正当な批判が,別の意味での科学を攻撃する議論と受け取られることがあまりに多い。社会的な制度としての科学が政治的,経済的,軍事的な権力と結びついており,科学者がしばしば社会的に有害な役割を果たすことは否定できない。科学技術は,いろいろな結果を---ときには悲惨な結果を---もたらし,また,もっとも熱烈な技術信奉者がいつも約束する奇跡的な問題解決を生みだすのは稀だというのも本当である。最後に,知識の集まりとしての科学は,常に間違いを犯しうるものであり,科学者の間違いが様々な社会的,政治的,哲学的,宗教的な偏見からくることもある。上の4つのいずれかの意味での科学への合理的な批判はよいことだと思う。特に,(少なくとも多いに納得できる)知識の集まりとしての科学への正当な批判は,一般に,次のような標準的な型を取る。まず最初に,よい科学の満たすべき基準に照らしたとき,問題にしている研究には欠陥があることを通常の科学的な議論によって示す。それが終わった後,そしてそのときのみ,その科学者たちが何らかの社会的な偏見(それは無意識のものかもしれない)をもっていたがために,よい科学の基準を破ることになってしまったことを説明しようとするのだ。最初から2つ目のタイプの批判を行いたくなるかもしれないが,それをすると批判の力はほとんど失われてしまう。


アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.268-269.


カオス理論の誤解

 カオス理論を,「些細な原因が大きな結果を生むことがある」という皆が持っている知恵と一緒にしてしまうことから来る混乱もよく見られる。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら」という話や,釘が1本足りなかったために大帝国が滅びたというような部類の話である。カオス理論が歴史や社会に「応用された」という話もよく耳にする。しかし,人間の社会というのは莫大な数の変数が絡み合った複雑きわまりない系で,それについていかなる意味のある方程式を書くことも(少なくとも今のところは)できない。そのような系でカオスを持ちだしてきたところで,クレオパトラの花についての古くからの知恵とさほど変わるところはないのだ。


アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.194.

事実と言説

 より卑近な例を挙げよう。象の群れが中で暴れているぞと声を限りに叫びながら講堂から駆け出してきた男に出くわしたとしよう。これを聞いてどう対処するか,特にこの主張の「原因」をどう評価するかは,実際に部屋の中で象の群れが暴れているか否かに大きく依存すべきことは明らかにみえる。いや,外的実在と介在物ぬきの直接的な接触ができない以上,正確には,われわれが他の人たちといっしょに(用心して)部屋を覗いたときに,象の群れが暴れているのが見えるか,その音が聞こえるか,あるいは,群れが部屋を出る前に引き起こしたのかもしれない損傷がみつかるか否かというべきだろう。そのような象の群れの証拠がみつかれば,観察されたこと全体のもっともありそうな説明は,実際に講堂で象の群れが暴れているのである(あるいは,いたのであり),先ほどの男はそれを見たか聞いて驚愕のあまり(この状況ではわれわれも彼と同じに感じて当然だろう)急いで部屋から逃げ出し,われわれが聞いた叫び声をあげた,ということである。そこで,われわれの反応は警察と動物園に電話をかけるということになる。他方,われわれの観察で講堂の中に象の証拠がみつからなければ,もっともありそうな説明は,実際は部屋の中に暴れている象の群れはいなかったのであって,この男は(内因的な,あるいは,薬物による)精神異常のために象がいると妄想し,その妄想が原因で部屋を急いで飛び出してきて,われわれが聞いた叫び声をあげた,ということになる。そこで,われわれは警察と精神病院に電話をかけることとなる。バーンズとブルアも,社会学者や哲学者向けの雑誌にどんなことを書いているにしても,実生活で同じことをするだろうことは請け合っていい。

アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン(著) (2000). 「知」の欺瞞 岩波書店 p.123.

権力の金属疲労

 今の社会に住む者のやり切れない想いは,おそらく,小学校の5,6年生からすでに芽生える。この頃から,こういう巨大な「権力」の中で,個人の無力さを思い知らされることに起因しよう。
 しかし,立ち止ってさらによく考えてみると,そういう緻密な「権力」の構造にもあちこちに「金属疲労」のようなヒビが入りはじめているのではないか。そして,そのヒビが,種々の条件で集中して現出しているのが家庭を含めた教育現場ではないか。動物を愛護し,子どもを可愛がり,狭い国土の中でお互いに気を使い合い,極力ことを穏便に済まそうとするわが国の伝統にもかかわらず,学校というもっとも理想の実現に近いはずの場において,それとは逆の営みが日々行われ,深刻化してゆく。この中で耐えている子どもや青年には気の毒だが,この矛盾の中にこそわれわれは巨大な現代社会の「権力」の「金属疲労」を実感しうるのである。


江森一郎 (1989). 体罰の社会史 シリーズ・子どものこころとからだ 新曜社 pp.260-261.

日本人の体罰は欧州に比べ少なかった

 来日した西洋人が,日本の教育や体罰をいかにみていたかは,比較史的観点からもきわめて興味深い。ここではツンベルク以降の著名な記録を,石附実『教育博物館と明治の子ども』などを参考にして紹介してみたい。
 まず,有名なドイツ人で長崎出島オランダ商館医師シーボルトの『シーボルトの最終日本紀行』(1859,安政六年)のものから。
 「西洋にある様な,学校の処罰は少しもなく,その上我国の様に,先生から体罰を受けるような日本の門弟は,是がために不名誉となって恐らくはその家庭から放逐されてしまうであろうし,又学友の眼には悪人となるであろう。児童教育にあっても,少なくとも知識階級には全然体刑は行われて居ない,是がため,私は我国で非常に好まれる鞭刑を見たことがなかった」。
 幕末のイギリス外交官オールコックの『大君の都』では
 「(日本人は)決して子どもを撲つことはない。文化を誇る欧羅巴の国民が,哲学者たちの賢明なる注意を他にして,その子どもたちに盛んに加える,この非人道的にして且つ恥ずべき刑罰法を,私は日本滞在中見たことがなかった」。


江森一郎 (1989). 体罰の社会史 シリーズ・子どものこころとからだ 新曜社 pp.83-84.


18世紀の日本

 以上,18世紀の体罰論の大勢をみてきたが,この時期の体罰論調を締め括るものとして,安政四(1775)年に来日した,スウェーデン出身のオランダ東インド会社医官で植物学者であったツンベルクの次のことばがふさわしいと言えよう。

 彼等(日本人)は,決して児童を鞭つことなし。……(日本では)ヨーロッパの文明国民の往々児童に課する如き残酷苛烈なる罰を,かつてみたることなし。


江森一郎 (1989). 体罰の社会史 シリーズ・子どものこころとからだ 新曜社 pp.68-69.

ものを知覚するとは

 普通の物体であれ,科学研究の対象であれ,ものを知覚するということは,あるひとつの射映を把握するとともに,予期される多数の射映からなるひとつの地平を把握することなのである。これはリンゴのようなありふれたものを見る場合にも言える。一連の経験をする過程で,(リンゴを拾い上げて,皮を剥いて,かぶりつく,等々),いくつかの射映からなるひとつの地平がしだいに充実していく。そして最終的には,そのリンゴは木やガラスでできているとわかって驚くことになるかもしれない。われわれはそれを,すでに得た射映からなる地平を捨て去ることによってではなく,再構成するという経験によって知覚するのだ。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 p.237.


一般市民の目線から離れる新聞記者

 ニューヨーク・タイムズ東京支局は,朝日新聞東京本社の建物の中にある。米国では特派員といえども,通勤は公共交通機関に頼る。赴任した直後,帰宅しようと社を出たフレンチ氏はふと視線に入った風景に疑問を抱き,筆者に問いかけてきた。
「朝日新聞の経営陣は,なぜみな揃いも揃ってあんなに若いのか?」
 最初,フレンチ氏が何のことを話しているのか理解できなかった。しかし,どうやら黒塗りのハイヤーに乗って取材先に向かう記者たちのことを指してそう言っていることに気づいた筆者は,こう説明した。
「彼らは経営者ではない。記者だ」
 フレンチ氏は驚いたような表情を見せて,さらに質問を続ける。
「そうか。それにしても朝日新聞の記者たちは金持ちが多いんだな」
 フレンチ氏の大いなる勘違いは,まだ解けていないようであった。再度説明を加えた。
「あれは会社の車だ。日本では一部の記者たちはハイヤーで取材をするのだ」
 それを聞いたフレンチ氏はさらに信じられないといった表情で,黒塗りのハイヤーを見つめている。筆者は,日本では「夜討ち朝駆け」という取材方法があり,朝日新聞のみならず政治部記者であるならば,大抵,取材先にはああいった。ハイヤーで向かうのだ,という説明を行った。だが,それでもフレンチ氏は解せないようで,こう語るのであった。
「あんなことで本当の取材ができるのか?あれでは一般市民の目線から乖離してしまうではないか。政治家や経営者と同じ視線に立ってしまって,一体どんな記事が書けるというのか」

上杉 隆 (2008). ジャーナリズム崩壊 幻冬舎 pp.97-98.

民主党は記者クラブを開放していた

 たとえば民主党が記者クラブを解放した時のことだ。岡田克也代表(当時)は,それまで院内の会議室で行っていた記者会見を党本部で開くことに決めた。これによって記者クラブ以外の雑誌やフリー記者も会見に参加できることになった。だが岡田氏のこの英断に対して既存のメディアは冷たかった。長野県知事や鎌倉市長が記者クラブを開放した時は大騒ぎして克明に報じたが,国政になると完全に口をつぐんでいる。今日に至るまで,ただの一度も民主党が記者クラブを開放したと報じたメディアはない。よって,国民はこの事実を知らないし,驚いたことに筆者がこの話をしたほとんどの記者も,民主党の記者クラブ開放に気づいていなかったのである。
 つまり議論以前の問題なのだ。


上杉 隆 (2008). ジャーナリズム崩壊 幻冬舎 pp.83-84.

スクープ記事で不安になる日本人記者

 記者クラブの記者ならば,他紙に自分の書いたものと同じ内容の記事が載っていた途端,心から安堵するに違いない。さらにコメント内容まで同じならば,より確かな安心が待っている。問題は,同じような取材をしていて,自分だけが独自の記事を書いてしまった場合だ。
 朝刊でスクープ記事を書いた記者が,どの新聞社も追ってこないことに不安になり,自らライバルたちに情報をリーク,他紙の夕刊に書かせるという信じがたい話は,記者クラブであるならば少しの違和感もなく受け入れられることだろう。
 実際に筆者もその種の行為をいくつか見聞している。独自ネタでスクープ記事を書いたまではよかったが,のちに心配になったのだろう,各方面に電話を入れ,自分の記事が逸脱していないかどうかを確認して回った新聞記者を知っている。
 その記者は,他紙が夕刊で追ってこないことを知るとさらに焦った。そしてテレビ局の記者にリークし,夜のニュース番組で扱われたのを知って,ようやく安心した様子を見せたのである。
 彼らの職業は一体何なのか?自分を信頼できない人間が,記者と名乗って自信のない記事を書く。それを読むのは読者だ。読者こそが災難だ。一体,自らの自信の持てない記事を出して,どのように読者を納得させようとしているのか。


上杉 隆 (2008). ジャーナリズム崩壊 幻冬舎 pp.39-40.

保守かリベラルか

 アメリカでは政治関連の書籍にある暗黙のルールがある。それは「学術書でないかぎり,政治を扱う本は,すべて保守かリベラルどちらかの党派性にまみれている」という前提だ。「党派本」といっても,政党がプロパガンダのために発行している本というわけではない。保守がリベラルを,リベラルが保守を「仮想敵」とした二項対立のアウトラインで,“党派政治のミニチュア”を,読書を通じて体験できる本という意味である。アメリカ人でも,政治批評家にかなり詳しくないと,その本が「保守本」なのか「リベラル本」なのか著者名を見ただけではわからない。1冊だけ読んで真に受けると,アメリカが急に保守化,あるいは左傾化したという印象につながりかねない。


渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.184.

アメリカは党員だらけ?

 「アメリカは党員だらけで驚かされる」という感想をもらすひともいる。ある程度親しくなるとパーティなどで「わたし,民主党員なんです」といわれることがあるからだろう。こうした感想は,政治的にとても熱心でないかぎり政党の党員になることがない,日本の党員のイメージをあてはめたものだろう。「デモクラットです」「リパブリカンです」は状況によっては訳出が難しい。厳密には,民主党登録者,共和党登録者ということだが,個別の選挙で民主党や共和党に入れることがあっても,あえて「インディペンデント(無党派)」と答える人もいる。選挙登録やここ最近の投票行動のことだけでなく,全体としての支持表明のニュアンスもふくまれているから,文脈によっては「民主党支持」「共和党支持」程度にしておいたほうが,日本人にはわかりやすいことがある。


渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.175-176.

銃規制とハンティング文化

銃をめぐる賛否は,共和党,民主党をこえた,アメリカ固有の文化に根ざした問題で,「アカデミック・リベラル」と「土着リベラル」でも見解が割れる。原因は狩りを行う「ハンティング」文化の根強さだ。
 アメリカでは州法で認められた範囲で,シカや野鳥を狩りに行くことは,かなり広く浸透しているレジャーやスポーツだ。ごく一部以外では猟銃に触れることのない,現代の日本社会の観念からすると想像を絶する浸透度である。リベラルな民主党支持者であるはずのウィスコンシン公共放送のマイク・サイモンソン記者は「ハンティングはアメリカの伝統。自然との対話だ。父親が道で自動車の運転を教えるように,森で息子に教えるもので,暴力的な銃マニアのものではなく家族的スポーツだ」と擁護する。
 このハンティング文化が銃規制推進の足を引っ張っている。穏健な北部諸州の民主党員のなかに,銃規制が勢いを増すといずれハンティングにも規制がかかるのではないかという疑念がぬぐえないからだ。NRAはハンティング文化をハンドガンなどの銃砲全体への規制反対のなかで巧妙に利用してきた。あくまで全米「ライフル」協会であり,全米「マシンガン」協会ではなくハンティング愛好のスポーツマンのための団体だというレトリックである。


渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.164-165.

アメリカ人の信仰への関心

 また,カウンターカルチャーのひとつとして栄えたものに,仏教やヒンズー教などキリスト教以外の宗教への目覚めがあった。1970年代には,曹洞宗の流れをくむ禅センターがサンフランシスコに設立されるようになる。早朝,5時から7時までの座禅と読経に参加したのは,当時はヒッピーが中心だった。自営農場で無農薬野菜を栽培して,玄米パンと菜食を徹底した。いまでもカリフォルニアの富裕層には仏教徒が少なくない。自宅のフローリングに金ぴかの仏像を持ち込む人もいれば,,仏陀の肖像画を壁や天井に埋め込んで,家族で座禅を組むなど,「アメリカ化」されたアプローチも当時と変わっていない。根底に東洋文化や哲学への興味があり,ヨガマットや座禅で使う「坐蒲」も西海岸から流通がはじまった。
 つまり,なんらかのかたちでの信仰への関心は「保守」「リベラル」ともにもつものであり,福音派信者やキリスト教原理主義は保守派や共和党に多いものの,必ずしも信仰そのものが「保守」の専売特許ではない。「リベラル」にも信仰を熱心にきわめようとする人たちは多い。ニューエイジやベジタリアンのライフスタイルには,リベラルの「信仰」への接し方に別の意味での激しさもうかがえる。キリスト教の神を信じないとすれば,いったいなにを信じていけるかという深刻な模索がそこにはある。

渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.155-156.

宗教で大学選択

 割合としては少ないが宗教を基準に進学する大学を選ぶひとたちもいる。モルモン教徒,原理主義的なプロテスタント教徒,そして敬虔的なカトリック教徒である。モルモン教徒はユタ州のブリガムヤング大学に進学するが,高校の成績があまり芳しくない生徒は,アイダホ州などユタ州外にある分校に進学する。南部には原理主義的なプロテスタント教徒の大学が多数あるが,有名なもののひとつにサウスカロライナ州のボブ・ジョーンズ大学がある。ここは1990年代まで,聖書の教えにもとづいてとの理由で異人種間の恋愛が禁止されていた。アメリカ国内でも原理主義性が有名な大学である。


渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.146.

アメリカのビールのステレオタイプ

 ビールはアメリカでは,仕事帰りのブルーカラー労働者と,キャンパスで週末にはしゃぐ学生の飲み物である。ある程度富裕な層やホワイトカラーのプロフェッショナル層の飲み物ではないという建前がある。だから,ビールの広告ではかならず,ハーレーダビッドソンに乗っているようなオートバイ野郎で腕にタトゥーを入れている革ジャン姿の「荒くれ者」か,力仕事をしているひげ面で吊りズボンの男たちが出演する。あるいは,水着姿の女性たちというセクシャルなイメージにうったえる。完全に男性社会,それも白人男性向けの商品イメージである。



渡辺将人 (2008). 見えないアメリカ---保守とリベラルのあいだ 講談社 p.20.


科学は美を破壊するか

 十八世紀と十九世紀初め,ロマン主義の詩人たちのあいだに生じたこの亀裂は,今もわれわれとともにある。一方の陣営にとって,研究や探索は美を破壊するものであるのに対し,他方の陣営にとって,それは美を深めるものなのだ。物理学者リチャード・ファインマンはかつて,芸術家である友人に,芸術家は花の美がわかるのに,科学者は花の一部だけを見て,冷たく生命のない物質にしてしまうと難じられたことがあった。もちろんファインマンはそうは思わなかった。そこで彼はこう反論した。科学者である自分は,花の美しさがわからないどころか,芸術家よりもいっそうよくわかる。たとえば自分は,花の細胞の中で起こっている美しくて複雑な反応を理解することができるし,生態系における美も,進化のプロセスに花が果たす役割の美しさも理解することができる。「科学の知識は」とファインマンは言った。「花を見て楽しくなる気持ちや,なぜだろうと思う気持ち,そして畏怖の念を強めてくれるものなのだ」。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 p.127.


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