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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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科学は自動的ではない

 何世代もの児童生徒に植え付けられてきたステレオタイプに,「科学的方法とは型にはまった自動的な作業だ」というものがある。つまり科学研究とは,仮説を立てて検証し,また仮説を立てることだというのだ。これに対して,科学者がやっていることを漠然とではあるが多少正確に説明しているのが,「科学者は現象を見る」という言い方だろう。科学者はひとつの現象をさまざまな角度から吟味し,あれこれやってみては何が起こるかを見るのである。ニュートンは部屋を改装した実験室で,さまざまな位置に置いたプリズムやレンズを使い,光を見た。そうして彼は最終的に,白色光は純粋なのではなく,さまざまな色の光が混じり合ったものだという結論に達した。ニュートンは後年次のように書いている。「哲学をするうえで最高にしてもっとも安全な方法は,まず最初にものごとの性質を入念に調べ上げ,そうして明らかになった性質を実験によって確立し,その後,それらの性質を説明する仮説へと,いっそう時間をかけて進んでいくことであるように思われる」。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 pp.102-103.
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科学デモンストレーションの弊害

 デモンストレーションや教科書の記述,シミュレーションなどは,科学実験は進展する一連の出来事(すなわちひとつのプロセス)なのではなく,すでに立証されていることを具体的に示すだけという考えを助長し,科学について誤ったイメージを与えかねない---それはちょうど,実験という絵画作品を,マス目を番号順に塗りつぶしていけば名画が浮かび上がる「お絵描きパズル」にしてしまうようなものだ。そんなわけで,デモンストレーションは科学の美をだいなしにすることもある。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 pp.73-74.


実験の美しさ

 現場の科学者たちは,実験室で行われていることの大半は単調で退屈だということを知っている。科学者たちは,装置類の調整をしたり,あれこれの準備をしたり,設計や修理をしたり,毎度のように起こる問題を解決したり,資金を得るために頭を下げてまわったり,することに多くの時間を費やしている。科学という営みのほとんどすべては,現時点でできることや得られている知識を,ほんの少しだけ拡張することなのだ。しかしときたま,新しい洞察にはっきりと形を与え,ものの見方を一変させるような出来事が起こる。それは,予測こそできなかったものの,起こるべくして起こった出来事だ。そんな出来事がわれわれを混乱の中から救い出し,重要なことがらをずばりと---直接的に,何の疑問も残さないほどはっきりと---指し示し,われわれの自然観を塗り替える。科学者はそんな瞬間のことを「美しい」と言うようである。


ロバート・P・クリース 青木薫(訳) (2006). 世界でもっとも美しい10の科学実験 日経BP社 pp.13-14.

心と体の二元性は錯覚

 私は正反対の提案をしたい。心と体の二元性を信じるのは,少しも「偶然」ではない,とあえて言おう。
 世間一般には,二種類の「錯覚」が存在する。偶然に起きるものと仕組まれたもの,たまたま勘違いしてしまう場合と,仕掛けられたトリックに引っかかる場合だ。たとえば,水に差し込んだ棒が曲がって見えるときや,隣の列車が動いたときに自分の乗っている列車が動いたときに自分の乗っている列車が動いたような気がするときは,偶然の錯覚だ。私たちは,情報が不正確あるいは不完全な状況下で,推論の法則を当てはめている。しかし,だれ一人私たちをだまそうとしているわけではない。
 一方,ステージで奇術師が金属製のスプーンを手で触れもせずに曲げたり,降霊会でテーブルが中に浮いたような気がしたりするのは,意図的なトリックのなせる業だ。ここでも私たちは情報が不正確あるいは不完全な状況下で推論の法則を当てはめているのかもしれない。しかし今度は,勘違いさせようとする奇術師が存在する。
 さて,心と体の二元性という考えはどっちの錯覚だろう。一般に,唯物論に傾いた哲学者はこれまでずっと,第一の種類の錯覚,つまり,遺憾なものではあるかもしれないが,純粋な勘違いという立場をとってきた。しかし,もし実際は,第二の錯覚,つまり仕組まれたトリックだったとしたらどうだろう。


ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 pp.139-140.

皮膚視覚

1つの種類の感覚インプットを別の種類の感覚インプットに代行させる可能性の研究には,1960年代末にポール・バック=イー=リータが他に先駆けて着手した。彼は,被験者に特殊な装置を装着させた。彼は,被験者に特殊な装置を装着させた。この装置は,映像を取り込むテレビカメラと,それを振動に変換して肌で感じられるようにするために,機械仕掛けのバイブレーターをずらっと平面上に並べたものから成り,被験者は,カメラを頭部につけ,バイブレーターを胴体に密着させる。すると被験者は,驚くほどわずかの練習をしただけで,触覚情報を使って,周りにある物を正確に視覚的に判断できるようになった。バック=イー=リータは,この現象を「皮膚視覚」と名づけ,被験者たちは限定的ではあるが視覚的知覚を得ていると,何のためらいもなく主張した。

ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 pp.62-63.

感覚器の自覚

 ことによるとみなさんは,私の主張----ある人が外界の物体の色に関して抱く所信は,「感覚様相(モダリティ)の区別がない」可能性が十分あるという主張----は非現実的だと思うかもしれない。しかしそれなら,児童心理学者たちが最近発見した事実について考えてほしい。3歳の子供は,色彩をはじめ,周囲の物体の属性についての所信にどの感覚器を通して至ったか,ほんとうにわからないことがあるようなのだ。3歳児に緑色の軟らかいボールを手に持たせ,何色か訊くと,目で見て緑と答える。硬いか軟らかいか尋ねると,握ってみて軟らかいと答える。ところが,ボールを袋に入れ,色を知るには,あるいは,硬いか軟らかいかを知るには,どうしなければならないか,中に手を入れて触ってみなければならないのか,それとも,中をのぞいてみなければならないのか,と訊くと,わからないと答える可能性が高い。


ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 pp.30-31

サルの注意

サルを使った実験で私が発見した一つの裏づけについてここで触れておいてもよかろう。スクリーンが空白で何の特徴も持たないとき,サルたちは赤いスクリーンより青いスクリーンを圧倒的に好んだ。ところが,スクリーンにおもしろいものが現れると,この好みは完全に消えてなくなった。スクリーンが空白の場合は,サルたちは自分の感覚以外に注意を向けるものがない。だから赤の感覚より青の感覚を好む。しかし,スクリーンに何かおもしろいものがあれば,サルたちの注意は外の世界へと引きずり出され,自らの反応からそらされる。そうなると,外界のものが青であろうが赤であろうが,どうでもよいようだ。


ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 p.28


色への反応

 私は自分の研究で,アカゲザルが色のついた光に,一貫した強い感情反応を示すことを明らかにした。たとえば,赤い光の降り注ぐ部屋にアカゲザルを入れると,不安そうで落ち着かなくなり,光の色を青に変えると,かなり穏やかになる。好きなほうを選ばせると,赤の部屋より青の部屋を圧倒的に好む。
 人間は(そして,ついでに言えば,ハトも),色のついた光におおむね同じような反応を示す。私たちは,赤の感覚は強烈で,熱く,刺激的で不穏と評する。赤い光は生理的な興奮状態を引き起こし,青い光はその逆の効果を持つことがわかっている。そして,これは生後わずか15日の赤ん坊にも当てはまる。実験では,被験者は青い部屋よりも赤い部屋のほうが暖かく感じ,時間は速く過ぎるように思え,反応時間が短くなる。


ニコラス・ハンフリー 柴田裕之(訳) (2006). 赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由 紀伊国屋書店 p.26

実証の必要性

 科学の歴史,とりわけ医学の歴史の大半は,1つのパターンを示しているように見える---しかし,そう見えるだけの---個別の物語の表面的な魅惑から,徐々に乳離れしていく過程であった。人間の心は,ほしいままに物語をつくりあげるものであり,それ以上に,あたりかまわずにパターンを探し求めるものである。私たちは雲やトルティーヤのなかに人間の顔を見いだし,お茶の葉や星の運行に運勢を見る。しかし,それが見かけだけの幻影ではなく,真のパターンであることを証明するのはきわめて難しい。人間の心は,早合点し,ランダムでしかないところにパターンを見てしまう素朴な傾向を疑うように学習しなければならないのである。これこそ,統計学が必要な理由であり,いかなる薬または療法も,統計的に解析された実験によって実証されるまでは採用するべきではない理由である。そうした実験では,人間の心の,誤りやすいパターン探索の性癖が体系的に取り除かれる。個人的な物語は,いかなる一般的傾向についても,けっしてすぐれた証拠になりえない。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.324.

ダグラス・アダムスの言葉

 ダグラス(・アダムス)は自分自身を笑いものにし,自分のジョークに笑うことがありました。それは,彼の魅力を形づくる数多くの要素のうちの1つでした。

 私たちが世界を見る視点には何かしら奇妙なところがあります。私たちが深い重力の井戸の底で,9000万マイル彼方の核融合の火の玉の周りを巡る,気体でおおわれた一惑星の表面で暮らしていて,それが正常だと考えているという事実は,明らかに私たちの視点がどれほど歪んだものになりがちであるかを示す徴候の一部であります。しかし,私たちは,知の歴史を通じてさまざまなことをおこない,自らの誤解のいくつかをゆっくりと正してきたのです。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.295.

区別のためのレッテルの一つ

 ちょっとだけ付け加えれば,宗教は区別のためのレッテルとして使われているもののなかで,驚くほど不必要だという点で異例のものである。もし宗教的な信念を支持する何らかの証拠があるならば,それに付随する不愉快なことにもかかわらず,それを受け入れなければならないかもしれない。しかし,そんな証拠などありはしないのだ。現実の世界政治についての意見の不一致のゆえに,他の人間に死に値する敵というレッテルを貼るのは確かに悪いことだ。大天使や悪魔や空想上の友だちがすむ妄想の世界についての意見の不一致によって同じことをするのは,どうしようもなく馬鹿馬鹿しい悲劇である。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.279.

よくある思考プロセス

 上品なリベラル派は,十分に大きな声で叫ぶすべての人間の言い分をできるかぎり聞き入れようとする最大限の努力を払って不可知論的な懐柔策をもちだすが,かえって,以下のようなよく見られるだらしのない思考を,滑稽なほど延々とつづけさせることになってしまう。それは,ほぼ次のように進む。あなたは否定を証明できない(ここまではまあいい)。科学は超越的なものの存在を反証する手立てをもたない(これは厳密に正しい)。したがって超越的なものへの信仰(あるいは不信)は,純粋に個人の好みの問題であり,したがって両者とも同等の敬意をもって遇されるべきものである!あなたがそういう類のことを言うとき,誤りはほとんど自明である。帰謬法について説明するまでもないだろう。バートランド・ラッセルから要点を借用すると,私たちは,「太陽のまわりを楕円軌道を描いて公転するティーポットがある」という理論についても,同じように不可知論的でなければならない。私たちはそれを反証することができない。しかしそのことは,ティーポットがあるという理論が,それがないという理論と同レベルの条件にあることを意味しないのだ。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.262.

人種間の変異は

 ダーウィンは,ヴィクトリア朝時代のすべての人間と同じように,人類に見られる差異を強く意識していたが,彼の同時代のほとんどの人間よりもよりいっそうヒトという種の根本的な均一性を強調した。『由来』において,「さまざまな人種は別種とみなすべきだ」という彼の時代にかなり好まれていた考え方を慎重に考察し,断固としてそれを退けた。現在では,人類は遺伝しレベルで,十二分に均一なことがわかっている。全世界の人類集団のあいだの遺伝的変異よりも,アフリカの小さな地域内のチンパンジーのあいだに見られる遺伝的変異のほうが大きいと言われている(人類が過去数十万年のあいだに隘路(ボトルネック)を通過してきたことを示唆している)。さらに,ヒトの遺伝的変異の大多数は人種間ではなく,人種内に見られる。これが意味するのは,1つの人種を除くすべての人類が消滅させられたとしても,ヒトの遺伝的変異の大部分は残るだろうということである。人種間の変異は,すべての人種内にある大量の変異のてっぺんに載せられたほんのちょっとの付け足しなのである。これこそ,多くの遺伝学者が人種という概念を完全に放棄するように提唱する理由なのである。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.139.

歴史的な幼稚症

 ある世紀に書かれたものを,別の世紀の政治的な色眼鏡を通して眺めるのは,歴史的な幼稚症の徴候である。『人間の由来』というまさにその表題が,私たち自身の時代の道徳観に疑いを抱くことなく取り込まれてしまっている人々のあいだに癇癪を引き起こすだろう。私たちの時代のタブーを冒瀆するような歴史的文書を読むことは,そのような道徳観のはかなさへの貴重な教訓を与えてくれると言うこともできる。私たちの子孫が私たちのことをどのように判定するのか。誰にわかるというのだ?

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.124.

サンダーソンの教育

 サンダーソンは,生徒をやる価値のある熱狂から隔てかねないという理由で扉への施錠を忌み嫌ったが,そのことは,教育に対する彼の全体的な態度を象徴していた。ある生徒は,自分がやっている課題に熱中するあまり,午前2時に図書室(もちろん鍵はかかっていない)で本を読むために,しょっちゅう寄宿舎からこっそり抜け出していた。校長は図書室で彼を捕まえ,この規律違反に大声で叱責した(彼の気性の激しいのは有名で,彼の有名な格言のひとつは,「腹が立つとき以外は罰してはならない」であった)。またしても,その生徒自身がことの次第を語っている。

 雷は通り過ぎた。「ところで,君はこの部屋で何を読んでいたのだ?」。私は自分をとりこにしている研究のことを話し,昼間は忙しすぎて,そのための勉強をする時間がないのだと言った。そうか,そうかと,彼は理解してくれた。彼は私がつけていたノートをざっと見て,それで彼の心は決まったようだ。彼は私の横に座って本を読んだ。それらの本は,冶金学的な工程の発展を扱ったものだった。そして,彼は,発見と発見の価値,知識と力に向けて人類がやむことなく手をのばしつづけること,知ってつくりたいというこの願望の意義,そしてその過程において私たちが学校でしていることについて語りはじめた。私たちは語りあい,彼はこの静かな真夜中の部屋で,1時間近く話をしてくれた。それは私の人生で最も偉大で,最も人間形成に役立つ時間の1つだった。……「さあ,部屋へ帰って寝なさい。このことについては,私たちは昼間に少し時間を見つける必要があるね」。

 あなたはどう思うかわからないが,私はこの話を読んで,危うく涙がこぼれそうになった。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 pp.104-105.

陪審裁判は・・・

 陪審裁判は,これまで誰かが思いついた名案のなかで,きわだって群を抜いた最悪なものの一つであるに違いない。その考案者を非難することはほとんどできない。彼らが生きていたのは,統計サンプリングや実験計画という原理が確立されるずっと以前のことなのだ。彼らは科学者ではなかった。



リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.72.

二股はかけられない

 科学は「スペア臓器」のための幹細胞クローニングが間違っているかどうかを言うことはできない。しかし,幹細胞クローニングが,組織培養のような久しく認められてきたものと道徳的にどこが異なるかを説明せよという難題を突きつけることはできる。組織培養は,数十年にわたってガン研究を支える大黒柱となってきた。有名なヒーラ(HeLa)細胞系列は,1951年に亡くなったヘンリエッタ・ラックスという女性の細胞に由来するもので(HeLaは,彼女の姓と名の頭の二文字ずつをとってつなげたもの),現在では世界中の研究室で育てられている。カリフォルニア大学のある典型的な研究室では,1日あたり48リットルのヒーラ細胞が増殖させられているが,これはこの大学の研究者たちに日常的に供給するためのものである。世界全体で1日あたりのヒーラ細胞の生産量は数トンにおよぶに違いない---すべてがヘンリエッタ・ラックスの巨大な1つのクローンをなしている。この大量生産が始まってから半世紀がたつが,これに異議を唱えた人は誰もいないように思われる。今日,幹細胞研究を中止せよと煽り立てている人々は,彼らがヒーラ細胞の大量培養に異議を唱えない理由を説明しなければならない。二股をかけることはできないのだ。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.66.

方法が重要

科学者を本当に特別なものにしているのは,彼らの知識よりはむしろ,知識を得るための方法なのであり,それは誰でも有効に使うことができる方法なのである。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 p.54.

不連続精神

 ここで種差別主義者が潜ませている前提は非常に単純である。人間は人間で,ゴリラは動物。両者のあいだには疑う余地のない深い断絶があり,したがって,一人の人間の子供の命は,世界中のすべてのゴリラの命よりも価値があるというのは。一頭の動物の「値打ち」は,その飼い主にとっての,あるいは,稀少な種の場合にはにんげんにとっての,代わりの動物を買うのに必要な値段でしかない。しかし,知覚のない胎児の組織のちっぽけな一片でさえ,ホモ・サピエンスというラベルを貼り付ければ,その命は突然,無限の,はかりしれない価値へと跳ね上がるのだ。
 この思考法は,私が“不連続精神(マインド)”と呼びたいと思っているものを特徴づけている。私たちは誰も,身長180センチメートルの女性は背が高く,150センチメートルの女性は高くないことに同意する。「高い」とか「低い」のような言葉は,私たちを,世界を定量的な階層構造に押し込みたいという誘惑に駆り立てるが,このことは世界が本当に不連続な分布をしていることを意味するものではない。あなたが,ある女性の身長は165センチメートルだと言い,この女性は背が高いのかそうでないかを決めてくれと私に頼んだとしよう。私は肩をすくめて,「彼女は165センチメートルで,これであなたの知りたいことが伝わっているわけじゃないのですか?」という。しかし,少しばかり戯画化して言えば,不連続精神の持ち主は,その女性が背が高いか低いかを判定するために(高い費用をかけて)裁判所に行くだろう。実際には,戯画だという必要さえほとんどない。何年ものあいだ,南アフリカ政府の裁判所は,さまざまな比率で混血している特定の個人を,白人,黒人,「有色(カラード)」と呼ぶべきかどうかを裁定する活発な駆け引きをおこなってきたのである。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2004). 悪魔に仕える牧師 なぜ科学は「神』を必要としないのか 早川書房 pp.44-45.

獲得形質の大部分は破損

 獲得形質にまつわる問題は基本的にこうである。獲得形質を遺伝するのはまことに結構なことなのだが,すべての獲得形質が改善とはかぎらない。実際,獲得形質のほとんど大部分は損傷である。獲得形質が無差別に遺伝されるのであれば,あきらかに進化は一般的な適応的改善の方向には進まない。折れた足や疱瘡の跡も,固くなった足の皮膚や日焼けした肌と同じように次の世代に伝えられてしまう。どんな機械でも,古くなってから獲得した特徴の大部分は,時間の経過により積もり積もった破損によるものであろう。つまり,それはくたびれていく傾向にあるのだ。かりにそうした特徴がある種の走査過程によって寄せ集められ,次世代の設計図に織り込まれれば,あとに続く世代はしだいにがたがたになっていくはずである。新たな設計図を携えて新規まきなおしをはかるのではなく,各世代は全世代に累積した衰えや損傷でじゃまされ,その傷跡を背負って新生活をはじめることになるのだ。

リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 p.472.


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