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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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何を「突然」「瞬間」と見るか

 有名なアメリカの進化学者G・レッドヤード・ステビンスの考えがこの点で啓発的である。彼はおりたててとびとびの進化に関心をもっているわけではなく,ふつうに使われる地質学的タイムスケジュールに照らし合わせてみたときに進化的変化がどのようなスピードで起きているかを劇的に表現しようとしただけである。彼はまずマウスくらいの大きさの動物の一種を想像する。それから,自然淘汰によってごくごくわずかずつではあるが,体が大きくなることが有利になるとする。おそらくは,雌をめぐる競争で大きな雄がほんのわずかに多く利益を享受するといったことがあるのだろう。とにかくいつでも,平均的な大きさの雄は,平均よりほんの少し大きい雄に比べてわずかだけ分が悪い。ステビンスはこの仮想的な例で,より大きな個体が享受する利益を数学的に正確な値で見積もっている。彼は,人間の観察者にはとうてい測れないくらい小さな値を設定した。したがって,それによってもたらされる進化的変化の速度も結果として,ふつうの人間の生涯では気づかないほどゆっくりしたものである。かくして,進化をじかに研究している科学者に言わせれば,この動物は全然進化していないということになる。それにもかかわらず,ステビンスの仮定した数字よって与えられた速度で,それらはきわめてゆっくりと進化しているのだし,そのゆっくりした速度でも,やがてはゾウくらいの大きさにも達するだろう。では,それにはどれくらいかかるのだろうか?あきらかに人間の基準からすると長い時間だが,このさい人間の基準は関係ない。われわれは地質学的な時間について語っているのだ。ステビンスの計算では,この動物が40グラムの平均体重(マウス大)から600万グラムあまりの平均体重(ゾウ大)にまで進化するのに,約1万2000世代かかるだろうとされた。マウスの平均時間より長く,ゾウのそれよりは短い5年を1世代時間とすると,1万2000世代が経過するには6万年かかることになる。6万年は,化石記録の年代を推定する通常の地質学的方法では測れないほど短い。ステビンスが言うように,「10万年たらずで新しい種類の動物が起源するなら,古生物学者はこれを『突然』とか『瞬間』とみなす」のだ。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.386-387.


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アナロジー思考

 人間の心はアナロジー思考にひたりきっている。われわれは,ひじょうにかけはなれた過程になんとかしてわずかな類似点を探し出し,それに意味を見つけようとせずにはいられない。私はパナマで日がな一日,おびただしい数のハキリアリの2つのコロニーが戦うのを見ながら過ごしたことがあるが,心のなかで,この足の散らばる戦場とかつて見たパッシェンデールの写真とをつい比較してしまった。私はほとんど銃声を聞き硝煙を嗅いでいた。私の最初の本『利己的な遺伝子』が出版されてまもなく,2人の聖職者が別々に私に近づいてきた。彼らは2人とも,その本のなかの考え方と原罪という教義とのあいだに成立する同じアナロジーを思いついたのだ。ダーウィンは進化という考え方を,数えきれないほどの世代が経つうちに体の形が変化する生物体に対してのみ,限定的に適用した。彼の後継者は,あらゆるものに進化を見ようとする誘惑にかられてしまい,たとえば,宇宙の形状の変化に,人間文明の発展「段階」に,そしてスカートの丈の長さの流行にも進化を見た。ときにはそうしたアナロジーが途方もなく実り豊かなこともあろうが,アナロジーは往々にして度を越してしまいがちだし,またあまりに根拠薄弱で役に立たない,いやまったく有害でさえあるアナロジーにいたずらに興奮することも,じつは容易なのだ。私はしだいに私宛にくる偏執的な手紙を受け取るのに慣れっこになり,折り紙付きの無益な偏執狂の特徴の1つが,度はずれた熱狂的アナロジー化であることを学んでいった。
 しかし別の見方をすれば,科学におけるもっとも偉大な進歩のいくつかがもたらされたのは,頭のいい誰かが,すでに理解されている問題といまだに謎の解かれていない別の問題とのあいだにアナロジーが成立することを見抜いたおかげでもある。要は一方で極度に無差別なアナロジー化をすることと,他方で実りあるアナロジーに対して不毛にも目をつむることとの,中道を行くべきなのだ。



リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.313-314.

粘土ののライフサイクル

 さらにもう少し想像を進めて,ある粘土の変異タイプが,流れを堰き止めることによって,自らが堆積される見込みを高めているとしよう。これは,その粘土に固有の疵の構造にもとづく偶然の結果である。このタイプの粘土が分布する流れではどこでも,浅く大きな淀んだ池が堰き止められてできて,本流は新しい流路にそらされる。流れのない池では,同じタイプの粘土がさらに多く沈殿する。このようなタイプの粘土の結晶の種子にたまたま「感染」したすべての流れでは,流れに沿って同じような浅い池が次々に増えていく。このとき,本流がそれてしまっているので,乾期になると浅い池は干上がってしまうことがよくあるだろう。粘土は太陽に乾かされ,ひび割れて,いちばん上の層は土ぼこりになって飛んで行く。この塵の粒子はどれも,流れを堰き止めた親の粘土に固有の疵の構造,つまり流れにダムをつくるという特性を与える構造を受け継いでいる。私の家のヤナギから運河に振りそそぐ遺伝情報に喩えれば,この塵はどうやって流れを堰き止めて,最終的により多くの塵をつくるかという「指令」を運んでいる,と言ってもよいだろう。塵は風に乗って遠く,広く運ばれて行くので,それまでこのようにダムを築く粘土の種子に「感染」していなかった別の流れに,いくつかの粘土粒子がたまたま着地する可能性は十分ある。いったん適当な種類の塵に感染すると,新しい流れはダムを築く粘土の結晶を育てはじめ,堆積,堰止め,干出,風食という全サイクルを再現する。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 p.254.

病院とはこういう場所だった

 最近50年くらいの間に,医者対患者の関係には大きな変化が起こった。19世紀後半までの,ほとんどどのような文字をご覧になっても,病院というものは,一般の人々の目には,ほぼ牢獄,それも旧式の土牢まがいの牢獄に近いものと映っていたことがおわかりになるはずだ。病院とは,不潔と拷問と死のうずくまるるつぼであり,墓場へ行く一種の控えの間なのである。程度の差はあっても,よほど生活に困窮しているものならいざ知らず,そんなところへ治療を受けにいこう,などという料簡を起こすものはまずあるまい。そしてとりわけ,医学がちっとも良くならないくせに,いっそうずうずうしくなった前世紀の初めごろには,医療全般は,ふつうの人々から,恐怖と不安の目で眺められた。中でも外科は,特別ひどい,それこそ身の毛もよだつような病的残虐性(サディズム)の一変形にほかならぬもの,と信じられており,死体どろぼうの援助があってはじめて成り立つ解剖にいたっては,降神術(かみおろし)と混同視されてさえいたのだった。19世紀以降,医者や病院にまつわるおびただしい恐怖文学は,枚挙にいとまがないくらいである。


ジョージ・オーウェル 高畠文夫(訳) (1972). 貧しいものの最期 角川書店 pp.196-197. (「動物農場」所収)

結局同じになった

 しかし,20ヤードもいかないうちに,彼らはいきなり立ち止まった。農場住宅から,どっとあがる騒々しい叫び声が聞こえてきたのだ。動物たちは,駆けもどって,また窓からのぞいてみた。思った通り,ものすごい大喧嘩が始まっていた。わめき立てる声や,テーブルをドンドンたたく音がしたかと思うと,にくしみをこめた,うさんくさそうな視線がとびかい,相手の言葉を打ち消す,騒々しい怒罵の叫びがあがった。喧嘩のもとは,ナポレオンとピルキントン氏が,同時にスペードのエースを出したことらしかった。
 十二の怒声があがっていたが,その声はみんな同じだった。豚の顔に何が起こったのかは,もう疑いの余地もなかった。屋外の動物たちは,豚から人間へ,人間から豚へ目を移し,もう一度,豚から人間へ目を移した。しかし,もう,どちらがどちらか,さっぱり見分けがつかなくなっていたのだった。


ジョージ・オーウェル 高畠文夫(訳) (1972). 動物農場 角川書店 pp.149-150.

動物の主張

 「『人間』は,生産せずに消費する唯一の動物である。ミルクも出さなければ,卵も生まない。力がなくて鋤も引けない野ウサギを捕えるほど早く走ることもできない。それにもかかわらず,彼らは動物たちに君臨している。動物を働かせ,動物には餓死すれすれの最低量を与えるだけで,あとは全部自分たちがひとりじめにしている。われわれの労力が土地を耕し,われわれの糞が土地を肥やしている。それにもかかわらず,われわれのうちで,誰か,裸の皮膚以上の財産をもっているものがいるだろうか?わたしの目の前にいらっしゃる雌牛さん,あなた方は,この1年間に何千ガロンのミルクを出されましたか?しかも,あなた方のたくましいお子さんを育てるはずのミルクは,いったいどうなりましたか?最後に一滴に至るまで,われわれの敵の咽喉を潤したのであります。また,メンドリさん,あなた方は,この1年間にどれだけの卵をお生みになりましたか?そして,そのうちのいくつがひよこに孵りましたか?残りは,ことごとく,ジョーンズと彼の一味のものたちに金をもたらすために,市場へ送られてしまったのです。それから,クローバーさん,あなたの老後の支えとなり,楽しみともなるはずだった,あなたのお腹を痛めた4頭のお子さん方は,どこにいられますか?1歳になったとたんに,みんな売られてしまいました---そして,あなたは,もう二度とお子さん方の顔をごらんになられることはないのです。4回のご出産と農場におけるいっさいの労苦の報酬として,あなたは,いったい何をもらったというのですか?どうにか命をつなぐだけの食物と厩だけではありませんか?」

ジョージ・オーウェル 高畠文夫(訳) (1972). 動物農場 角川書店 pp.11-12.

コウモリたちの会議

 ある別世界を想像することにしよう。そこでは,学識あるまったく目の見えないコウモリに似た生物が会議を開いており,ヒトといわれる動物の話を聞かされてめんくらっている。なにしろ,このヒトという動物は,新たに発見された,いまだに軍事開発の最高機密であるところの「光」と称される耳には聴こえない放射線を,周囲の事情を知る目的で実際に使うことができるというのだ。その他の点ではおよそみずぼらしいこのヒトは,ほとんど全面的に耳が聴こえない(なるほど,彼らは曲がりなりにも聴くことができるし,少々重苦しくやたらにゆっくり間延びしたようなうなり声を出すことさえできるが,彼らはそうした音を互いにコミュニケートするといった初歩的な目的のために使うのがせいぜいで,この音を使ってたいそう大きな物体すら探知できそうにない)。そのかわり,彼らは「光」線を利用するために「眼」という高度に特殊化した器官をもっている太陽がその光線の主要な発生源であり,驚くべきことにヒトは,太陽光線が物体に当たって,それからはね返ってくる複雑なエコーをとにもかくにも利用している。彼らは「レンズ」というまるで数学的に計算されたかのような形をした巧妙な装置をもっており,それによってこの音のしない線を曲げて,世界にある物体と「網膜」なる細胞の薄膜上の「像」との間に正確な一対一の対応を生みだしている。これらの網膜細胞は,いささか神秘的な方法で,光を(言うなれば)「聴こえる」ようにでき,その情報を脳に中継する。われらが数学者たちの示すところでは,高度に複雑な計算を正しくしさえすれば,ちょうどわれわれが超音波を使って通常やっているのと同じくらい効果的に,いやある点ではさらに効果的にも,こうした光線を使って世界を安全に動き回ることが論理的には可能だという!しかし,みすぼらしいヒトにこうした計算ができるなどとはいったい誰が考えたりしただろうか?


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.71-72.

一段階淘汰と累積淘汰

 一段階淘汰と累積淘汰の本質的な違いはこういうことである。一段階淘汰では,石でも何でも淘汰されたり選別されたりする実体は,一回で選り分けられ,そしてそれっきりである。他方,累積淘汰では,その実体は「繁殖(再生産)」する。別の言い方をすると,一回のふるい分け過程の結果がひきつづいて次のふるい分けに繰り込まれ,それがさらに別のふるい分けに……というふうに続いていく。その実体は継続して何「世代」にもわたる選別淘汰にさらされる。ある世代における淘汰の最終産物は次世代の淘汰の出発点であり,そういうことが何世代も続く。「繁殖」とか「世代」といった生物に結びつきのある言葉が借用されているのは当然である。それは生物が,累積淘汰にかかわっているものとして,われわれの知っている主要な例であるからだ。生物は,実際に累積淘汰にかかわっている唯一のものなのかもしれない。しかし,だからといって私は,さしあたり断定的にそう言うことで論点をはぐらかしたくはない。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.86.

進化に使える時間

 眼は化石にならないので,何もない状態から現在のわれわれのもっているような複雑さと完全さをそなえた眼が進化するのにどれくらいの時間がかかったのか,わからない。しかし,それに利用できる時間は数億年である。比較のために,人間がイヌを遺伝的に淘汰することによってはるかに短い期間で生みだしてきた変化を考えてみよう。数百年ないしはせいぜい数千年のうちに,われわれはオオカミからペキニーズ,ブルドッグ,チワワ,そしてセントバーナードまでつくってきた。悲しいかな,それらはしかしやっぱりイヌではないか。違う「種類」の動物になったりしていないではないか。なるほどそのとおりだ。そういう言葉遊びが慰めになるというのであれば,それをすべてイヌと呼んでもかまわない。しかし,それに要した時間についてちょっと考えてほしい。オオカミからこうしたイヌのあらゆる品種を進化させるのにかかった時間を,ふつうに歩くときの一歩で表してみよう。それと同じ尺度で,あきらかに直立歩行をしたもっとも初期の人類の化石であるルーシーや彼女の仲間にまで遡るためには,どれくらい歩かねばならないだろうか?ロンドンからバグダッドまでずっととぼとぼ歩かねばならない距離というのがその答えだ。オオカミからチワワまで進んだときの変化の総量について考え,それにロンドンとバグダッド間の歩数を乗じてみよう。そうすれば,自然界に実際に起こった進化において期待できる変化量について,ある直感的観念が得られるだろう。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.79-80.

懐疑論者の二重規範

 ドナルド・グリフィンは,1940年に開かれた動物学者たちを驚かせたある会議で,同僚のロバート・ガランボスとともにコウモリのエコロケーションという新発見の事実をはじめて報告したとき,どんな反応が起こったかを語っている。それによると,ある高名な科学者がとても信じられないと言わんばかりに憤慨して,

 ガランボスの肩をつかんで揺さぶりながら,そんなとんでもない発表はとうてい本気にできないと,不満を述べた。レーダーやソナーは,軍事技術としてまだ開発中の機密事項であったし,コウモリがたとえかけ離れてはいるにせよ電子技術の最新の勝利と似たことをしているという考えは,大部分の人々に納得されなかったどころか,感情的な反発を招いたのだ。

 この高名なる懐疑論者に同情するのはたやすい。彼がそれを信じたくなかったのはどこかしらとても人間的である。しかもそれこそ,人間とはまさしくそういうものなのだということを語ってもいる。われわれが信じがたいと思うのは,われわれ人間の感覚がコウモリの感じていることを感じられないからなのは,はっきりしている。われわれは,人工的な機械を使ったり紙上で数学的な計算をしたりというようなレベルの話としてしかそれを理解できないので,小さな動物が頭のなかでそんなことをしてのけるとは,とても想像できないと思っている。しかるに,視覚の原理を説明するために必要になるはずの数学計算だってまったく同じように複雑でむずかしいけれども,小さな動物がものを見ることができるということについては,かつて誰ひとりとしてそれを信じがたいとは思いもしていない。われわれの懐疑主義にこうした二重規準(ダブル・スタンダード)がみられる理由は,ごく単純に,われわれが,見ることはできてもエコロケーションはできないからである。

リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.70-71.

コウモリであるとはどのようなことか?

 「コウモリであるとはどのようなことか?」という,哲学者トマス・ネーゲルの有名な論文がある。その論文はコウモリについて書かれているのではなく,われわれではない何かであるというのは「どのような」ことなのか,に想像をめぐらすという哲学的な問題について書かれている。なぜコウモリが哲学者に格好の話題なのかといえば,エコロケーションするコウモリの経験がどうみても異質のものであり,われわれ自身の経験とはたいへん異なっていると考えられているからである。とはいえ,コウモリの経験を共有したいとしても,洞窟へ行き,大声で叫ぶとか二本のスプーンを打ち合わせるとかして,そのエコーを聴くまでにどれくらいの時間が遅れるかを意識的に測ったうえで,洞窟の壁がどれくらい離れているかを計算してみるなどというのは,もうほとんど確実にはなはだしい誤解を招くもとなのだ。
 それがコウモリであるとはどのようなことかと関係ないのは,これから述べることが色をみるというのはどういうことなのかと関係ないのと同じである。すなわち,ある装置を使ってあなたの眼に入ってくる光の波長を測ってみて,波長が長ければあなたは赤を見ているのだし,短ければ紫とか青を見ている。われわれが赤と呼んでいる光が,青と呼んでいる光より長い波長をもっているのは,ただ物理的な事実にすぎない。波長が異なれば,われわれの網膜にある赤色感受性をもつ視細胞にスイッチが入ったり青色感受性をもつ視細胞にスイッチが入ったりする。しかし,色というものをわれわれが主観的に感じるさいに,波長の概念などはまるで関係ない。青とか赤を見るのが「どのようなことか」について考えても,どちらの光がより長い波長をもっているかはまったくわからない。(ふつうはそんなことはないが)もし波長が問題であるとするなら,われわれはそれを覚えておくとか,あるいは(いつも私がしていることだが)本で調べるかしなくてはならない。同じように,コウモリは,われわれがエコーと呼んでいるものを使って昆虫の位置を認識している。しかし,われわれが青とか赤を認識するときに波長で考えたりしてないのと同じく,コウモリは昆虫を認識するときにきっとエコーの遅れによって考えたりしてはいないはずである。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆(監訳) (2004). 盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か? 早川書房 pp.67-68.

眼球運動とヴァーチャル・リアリティ

 ヴァーチャル・リアリティをつくりだす精巧なコンピュータとして,脳が機能していることを証明するには,以下のような簡単な実験をしてみればよい。まず,目をきょろきょろ動かして,あたりを見まわしてもらいたい。あなたが目をきょろきょろさせるのに応じて,あなたの網膜は揺さぶられる。まるで,地震のときのように,である。しかし,あなたには,地震のときと同じようには感じられない。あなたが見ている世界は,山のごとく不動である。お察しのとおり,私は,「不動世界のモデル」を脳がつくりだしている,ということを主張したいのである。しかし,この事実だけでは,十分な証明にはなっていない。なぜなら,あなたの網膜を揺さぶるには,これとは別の方法もあるからだ。では次に,まぶたの上から眼球を,やさしくつんつんと突いてみてほしい。さきほどと同じように,網膜像は揺さぶられるだろう。実際,指の動かし方をうまく調節すれば,眼そのものをきょろきょろさせたときと同様の影響を,網膜に与えることができるはずだ。それにもかかわらず,指で突ついた場合には,地面が揺れ動いているように見えてしまう。まるで,地震が起こったかのように風景全体が揺れて見えるのだ。
 この2つのケースのあいだには,どんな差があるのだろうか。このことに関しては,次のように説明することができるだろう。脳の中のコンピュータは,通常の眼球運動を計算にいれている。外界についてのモデルを作る際には,それを考慮するように設計されているのである。見たところ脳は,眼からの情報だけではなく,眼の動きに関する指示を出すような部門からの情報も,計算にいれているようだ。筋肉に対して,眼球を動かすように命令を出す際には,脳は必ず,その命令の内容のコピーを,ヴァーチャル・モデル構築部門に送る。そして眼が動くとき,ヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアは,網膜像の動きを予想するよう指示を受け,その動きの大きさを正確に予想させられる。このことによって,ヴァーチャル・モデルは眼球運動の影響分だけの補正を受けることになるのだ。このシステムにより,外界についてのモデルは,眼を動かしても揺れたりはしない。別の角度から見た像になるだけである。しかし,眼球運動の予告が,ヴァーチャル・リアリティ部門にこないときに,網膜に映る外景が揺れ動いたとしたら,そのモデルは,網膜像の揺れに応じて揺れるのだ。うまくできているものである。なぜなら,そのときは,たぶん本当に地震が起こっているのだから。あなたが,眼球を突つくことで,このシステムを欺いているのないかぎりは。

リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.366-367.

「ガイア」仮説の捉え方

 なるほど,熱帯多雨林の生物体が他の種のために貴重な奉仕を行っているという,なんとも優しげな意見もある。たしかに土壌細菌をすべて取り去ってしまえば,木々に対する影響,ひいては森林のほとんどの生命に対する影響は,悲惨なものとなるだろう。しかし,それが土壌細菌がそこにいる理由なのではない。土壌細菌が枯れ葉や死んだ動物や排出物を分解し,肥えた土をつくることが,森林全体の繁栄が続くために有用である,というのもたしかにそのとおり。しかし土壌細菌は土を肥やすためにそれをするのではない。土壌細菌は枯れ葉や死骸を自らの食料にしているのだ。土を肥やす活動を組み込んだ自らの遺伝子の利益のために。この私利をはかる活動にただ付随する結果として,土が植物にとって改善され,そのため植物を食べる草食動物や,草食動物を食べる肉食動物も恩恵をこうむるのだ。熱帯多雨林の群落に住む種が,そこに住む他の種のいる中で繁栄する理由は,それが祖先たちの生き延びてきた環境だからである。おそらく土壌細菌がそれほど存在しないところで繁栄する植物もあるだろうが,それは熱帯多雨林で見られる植物ではない。そのような植物は,砂漠に行けば見つかるだろう。
 これが,「ガイア」仮説の誘惑への正しい対処法である。「ガイア」という夢のような空想の中では,全世界はひとつの生命体であり,それぞれの種は全体の利益のためにわずかながらの貢献を行っていて,たとえば細菌はすべての生命のためを思って大気中の気体の含有量を改善するために働いているらしい。この手の悪質な詩的科学の中で,私が知っている最も極端な例は,ある著名な年配の「エコロジスト」の言葉だ(エコロジストにつけたかぎ括弧は,学問分野としてのまっとうな学者ではなく,環境保護運動の活動家であることを示している)。私にこの話を教えてくれたのはジョン・メイナード=スミス教授だが,その彼がイギリスのオープン・ユニヴァーシティが主催する会議に出席していた時のこと,話題が恐竜の集団絶滅のことになり,このカタストロフィーを引き起こしたのは彗星の衝突なのだろうか,という疑問が出された。髭を生やしたそのエコロジストは,少しの疑念ももっていなかった。「もちろんそうじゃない」彼は断固として言った。「ガイアはそんなことを許しませんよ!」

リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.293-295.


迷信条件づけ

 実験室に話を戻すと,スキナーは,それぞれ異なった目的をもつありとあらゆる種類のスキナーボックスをつくり出して,膨大な研究集団を組織し研究を進めた。そして1948年,スキナーボックスの基本は踏襲しつつも,ある天才的な仕組みを考案した。彼は,行為と報酬の因果関係を完全に切断してみたのである。彼は,鳩が何をしてもしなくとも,時々「報酬を与える」ように装置を設定した。こうなると実際に鳩に必要なことは,くつろいで報酬を待つことだけである。しかし実際に鳩はこのようにはしなかった。そのかわり,8例中6例で,鳩は,まるで自分たちが報酬を受けられる動作を身に付けているかのように,スキナーが「迷信行動」と呼ぶものを作り上げたのである。正確に言うと,こうした行動の内容は鳩によって異なっていた。次に「報酬」がもらえるまで,1羽は独楽のように回転し,2,3羽は反時計回りに回った。別の鳩は箱の特定の上方の角に向かって繰り返し頭を突き出した。また別の鳩は頭で見えないカーテンを持ち上げるかのように,「ぐいと持ち上げる」行動を示した。2羽は別々に,頭や体を周期的に左右に「振り子を揺らす」ような動作を開発した。この最後の動作は,たまたまではあるが,何羽かのゴクラクチョウの求愛ダンスにかなり類似したものに見えたに違いない。スキナーが迷信という言葉を使ったのは,鳩が,本当はそうではないのに,まるで自らの一定の動作が原因となって,報酬のからくりに影響を及ぼしていると考えているかのように行動したからである。これは鳩にとっては,雨乞いの踊りと同じようなものである。
 迷信行動は,いったん身に付くと,報酬のからくりが止まってからも,長時間にわたって保たれるようだった。しかし,その動作は不変ではなく少しずつ変形していった。そのあてもなく変形するさまは,さながらオルガン奏者によって進められていく即興のようだった。典型的な一例をあげよう。鳩の迷信行動は,頭を真中の位置から左へ急に動かすという形で始まった。時間が経つにつれ,その動きはもっと精力的になっていった。最終的には,体全体が同じ方向に向き,足も1,2歩踏み出すようになった。何時間にもわたって「局所的な偏向の動作」が続くとしまいには,左方へのステップはこの行動の顕著な特徴となった。迷信行動が可能となるのは,種がもともと有していた能力に基づくものであろう。しかし,このような状況下で一定の動作を行うこと,また,それを何度も行うことは鳩にとって本能的な行動とはいえないだろう。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.220-222..

直感的確率論者

 私たちは,事実はどうあれ,偶然の一致にはなんらかの意味があり,ある種のパターンにそってそれが起こると思いがちである。パターンを探そうとするのは人間のより一般的な傾向で,この傾向は特筆に値するものであり有益でもある。実際,この世の中の多くの出来事や特徴はでたらめでなく,ある種のパターンをもっている。そして,こうしたパターンを検出することは私たち人間にとっても,動物一般にとっても,有益なことなのである。実は何もないのに一見パターンに見えるものを捉えることもあれば,逆に実はパターンがあるのにそれを見つけられないこともある。シチリア島の沖の,片方にスキラの大岩を,もう片方にカリブディスの渦巻きを擁する海の難所を切り抜けるように,この二者のあいだで舵をいかに取るかが難しいのだ確率の考え方は子の難しい舵取りに大いに役立つ。しかし確率論が定式化されるよりもずっと以前から,人間や他の動物は,十分に有能な直感的確率論者だったのである。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.216.

ペトワック(PETWHAC)

 ここで私はちょっとした頭文字からなる専門用語を作りたい。ペトワック(PETWHAC)は,“本来偶然にすぎないのに,なにか関係があるように見える事象の集合(Population of Events That Would Have Appeared Coincidental)”の略である。集合(population)とは奇妙な言葉に思われるかもしれないが,正確な統計学的用語である。さて,霊能者の呪文から10秒以内に止まった誰かの時計,という現象は明らかにペトワックの範疇に入る。同様のことは,その他多くのことについても言える。厳密に言えば,居間の時計が止まったことは除外すべきだ。霊能者は振り子時計までをも止められるとは口にしなかった。それゆえに,人々は霊能者の念力は思いのほか強力なのだ,という誤った思いこみを強めることになる。霊能者は,腕時計が一日前に止まることや,心臓発作に同調して止まることについても何も言わなかった。これも同じ効果をもたらす。
 つまり,このような関係のない周囲のできごともペトワックの範疇に入ってくる。そこには,なにか神秘的な力が働いたに違いないと思ってしまうのだ。このように考えはじめると,ペトワックは本当に,かなり大きな集合となる。ここが重要なポイントだ。もし腕時計が24時間も前に止まれば,易々とだまされることもないし,このできごとをペトワックに含めることもないだろう。しかし,もし腕時計が呪文のちょうど7分前に止まれば,このことに感銘を受ける人がいるかもしれない。なぜなら7は古代から神秘的な数字だからだ。おしておそらく,同じことが7時間,7日,などにも言えるだろう。ペトワックの例はたくさんあることをよく知っておけば,なにか偶然の一致が起きたときに惑わされずにすむ。ペテン師の策略のひとつは,ありふれた現象をさも珍しいことのように思わせることにある。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.205-206.

2分の1の確率

 出生率の専門家として著名なロバート・ウィンストンは,自分がもし,不徳なやぶ医者だったら次のような広告を新聞に載せると語っている。それは,次の子どもはぜひとも男子を,と望む人々を対象としたものである(この根底にある性差別は私のものではなく,古代であれば世界中で,また今日でも多くの場所で明らかに存在するものであろう)。「あなたの赤ちゃんを男の子にします。私の特許秘策に対して500ポンドをお支払いください。失敗すれば全額返済いたします」。返金保証は,生み分け方法への信頼を確立するためのものである。当然のことなgら,男の子は約50%の確率で生まれるから,この計略はけっこうな稼ぎとなるだろう。もし,女の子が生まれた場合,たとえば,250ポンドの賠償金を申し出てもいい。返金保証に加えてでも,である。それでも,長い目で見れば,彼はかなりの利益をあげることになるのだ。
 私は,1991年の王立協会クリスマス講義の1つで,同じような実演を行なった。私の前の聴衆の中には霊的能力の持ち主がいらっしゃる,その人は精神の力だけで物事に影響を与えることができるのです,と切り出して,その人物をこれからあぶり出してみましょう,といった。「まず最初に,その霊能者が,講堂の左半分におられるか,右半分におられるかを調べてみましょう」。そしてアシスタントにコインをトスしてもらうことにした。この間,聴衆全員を立たせ,講堂の左にいる人にはコインが表が出るように「念じて」もらった。右にいる人は,裏が出るように念じるのである。どちらか一方が外れるのは当然であり,その人たちには座ってもらう。つぎに,残った人を2つに分けた。一方は表を,他方は裏を「念じる」。再び敗者が座った。このようにして二等分を繰り返すうち,7,8回のトスの後,必然的に,1人が立ったまま残った。私はいった。「われわれの霊能者に盛大なる拍手を」。しかし立て続けに8回コインに影響を与えることができたからといって,彼が霊能者にちがいない,と言えるだろうか。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.198-199.

次元モデル

 性格というのは,リアルな現象だ。心理学者は数学的モデルを発展させることで,性格の多次元にわたるヴァリエーションをある程度扱えるようになった。初めは多数の次元があるが,それは数学的手法によって少数の次元へと統合され,そこでは予言的な力が,目に見えて減少している。こうして抜粋された性格の次元は,攻撃性,頑固さ,愛情深さなど,われわれが直感的に知っているものに近いことも多い。性格を多次元空間のなかの点として捉えるのは,その限界を考慮しても,うまい考え方であり,実際に役に立つ。性格をそれぞれ相容れないカテゴリーに分類するようなやり方など及びもつかないもので,言うまでもないが,新聞の占星術で使われるようなばかげた12のごみ溜めとは,天と地ほどの差があるのだ。心理学者が立脚しているのは,人々自身の本質的な部分に関するものであり,誕生日などではない。また,心理学者による多次元的な尺度化は,ある職業に向いているとか,結婚しようとするカップルの相性が良いとか,といったことの判断に役立てることができる。これに比べて占星術師による12個の分類棚は,良く言っても,的外れで金のかかる酔狂でしかない。


リチャード・ドーキンス 福岡伸一(訳) (2001). 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか 早川書房 pp.166.

生命の本質は自己複製子

 最後に,簡単な宣言をもって締めくくりとしよう。それは利己的遺伝子/延長された表現型という生命観の全体についての要約である。それは,宇宙のどんな場所にいる生物にも適用される生命観だと,私は主張する。あらゆる生命の根本的な単位,原動力は自己複製子である。自己複製子とは,宇宙にあるどんなものであれ,それからその複製(コピー)がつくられるもののことだ。まず最初に,偶然によって,小さな粒子のランダムなひしめきあいによって,自己複製子が出現する。一度,自己複製子が存在するようになれば,それは自らの複製を果てしなくつくりだしていくことができる。しかしながら,どんな複製過程も完全ではなく,自己複製子たちの集団はおたがいに異なったいくつかの変異を含むようになる。そういった変異のあるものは自己複製の能力を失ってしまっているとする。すると,その仲間は,彼ら自身が消滅したときに,消滅してしまうことになる。また別の変異はまだ複製をつくることはできるが,ずっと効率が悪くなっている。だが,ほかの変異はたまたま,新しいやり方をもつようになっていて,自分の祖先や同時代のものよりもずっと効率よく自己複製できるとする。すると,集団のなかで優勢になるのは彼らの子孫である。やがて時間が経過するとともに,世界はもっとも強力で巧妙な自己複製子によって埋めつくされるようになるだろう。
 徐々に,よき自己複製子となるためのますます洗練されたやり方が発見されるだろう。自己複製子は,自らの固有の性質のおかげだけではなく,世界に対してそれがもたらす帰結のおかげによっても生き残る。そういった帰結はきわめて間接的なものでありうる。必要なのはただ,どんなにまわりくどく間接的なものであれ,最終的に自己複製子が自らを複製するさいの成功率にフィードバックし,影響を与えるような帰結であることだけだ。

リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸 由二・羽田節子・垂水雄二(訳) (1991). 利己的な遺伝子 紀伊国屋書店 pp.423

「不自然」であること

 避妊は,いばしば「不自然だ」といって非難される。確かにそのとおり。きわめて不自然にちがいない。ところが困ったことに,不自然なのは福祉国家も同様なのだ。われわれのほとんどは福祉国家をきわめて望ましいと信じていると,私は考えている。しかし,不自然な福祉国家を維持するためには,われわれは,同様に不自然な産児制限を実行しなければならない。そうしなければ,自然状態におけるより,さらにみじめな結果に至るであろう。福祉国家というものは,これまで動物界に現れた利他的システムのうちおそらく最も偉大なものにちがいない。しかしどのような利他的システムも,本来不安定なものである。それは,利用しようと待ちかまえる利己的な個体に濫用されるすきをもっているからだ。自分で養える以上の子供をかかえている人々は,たぶんほとんどの場合無知のゆえにそうしているのであり,彼らが意識的に悪用を計っているのだと非難するわけではいかない。ただし,彼らが多数の子をつくるよう意図的にけしかけている指導者や強力な組織については,その嫌疑をとくわけにはいかないと私には思われる。


リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸 由二・羽田節子・垂水雄二(訳) (1991). 利己的な遺伝子 紀伊国屋書店 pp.185.


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