読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
捕食者が獲物を完全に捕り尽くしてしまうことは珍しい。獲物が乏しくなると,エレクトゥス・ホミニドもほかの捕食者と同じで,地域の個体数があっさり激減した。そのおかげで獲物は絶滅をまぬがれ,やがてヒト科の動物の数も回復できた。だが,新しくやってきた人類は,イノベーションによってこの問題を回避した。自らのニッチを変え,それまでの獲物を絶滅させても栄え続けることができたのだ。アジアの平原で最後に食べられたマンモスは,ウサギやガゼルのシチューばかりの生活の中で,珍味としてありがたがられたことだろう。現生人類は小型で動きの速い動物を捕まえるために戦術を変えるとともに,前より優れた武器を開発し,そのおかげで,人口密度が高くても生き延びられるようになった。ただしそれには,大型で繁殖に時間がかかる獲物はますます多く絶滅に追い込まれるという代償を伴ったが。大型の獲物を絶滅させながら小型の動物に狙いを移すというこのパターンは,新しいアフリカ出身の人類がどこへ行っても見せる特徴だった。オーストラリアでは人間が到着すると間もなく,サイに似た大型の有袋動物ディプロトドンからジャイアントカンガルーまで,大型の動物種がほとんど絶滅した。南北アメリカでも,人間の到着と時を同じくして,大型で繁殖に時間のかかる動物たちが突然絶滅している。ずっとのち,マダガスカルやニュージーランドでも,人間が移り住むとすぐに大型の動物が大量絶滅を起こした(ちなみに,誇示癖のある男性狩猟者は,なるべく大きな獲物を仕留めて部族内での威信を高めることばかりを考えているから,このような大量絶滅の一因として性淘汰があったことは一考に値する)。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.121-122
物々交換こそ世界を変えた芸当だった。H.G.ウェルズの言葉を借りれば,「私たちは野営地を永遠に引き払い,旅の途についた」のだ。およそ8万年前にはアフリカの大半を制した現生人類は,それでやめにはしなかった。私たちの遺伝子はほとんど信じられないような話を語っている。アフリカ以外で生まれた人全員のミトコンドリアの染色体とY染色体のDNAの変異パターンを調べると,次のような筋書きが実証される。6万5000年ほど前,あるいはそれからそれほど時を経ない時点で,総数わずか数百人程度の一集団がアフリカを離れた。彼らはおそらく,当時は今よりずっと狭かった紅海南端の海峡を渡ったのだろう。それからアラビア半島南岸沿いに広がり,大部分が干上がったペルシア湾を越え,インドと,当時は陸続きだったスリランカの沿岸を通り,ゆっくりと先へ進み,ミャンマー,マレー半島を抜け,そのころはインドネシアの島々の大半が埋め込まれていたスンダと呼ばれる陸塊の岸に沿って広がり,やがてバリ島近くの海峡に至った。だが,彼らはそこでも止まらなかった。きっとカヌーか筏に乗り,少なくとも8つの海峡(最大のものは65キロメートル以上)を漕ぎ渡り,島づたいに進んで,おそらく4万5000年ぐらい前に,オーストラリアとニューギニアが合わさった大陸,サフルにたどり着いた。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.115-116
もう明らかだろうが,私はどちらの説も気に入らない。私に言わせれば,答えは気候や遺伝子,古代の遺跡,いや全面的には「文化」の中にすらなく,経済にある。人間はあることを互いにし始め,それが実質的に集団的知性を作り上げるきっかけとなった。すなわち彼らは,血縁者でも配偶者でもない相手と,初めて物を交換し始めたのだ。だから,ナッサリウスの貝殻が地中海から内陸部にまで至った。その結果,専門化が起き,それがテクノロジーの革新を引き起こし,そのせいでさらに専門化が促進され,交換がいっそう盛んになった。こうして「進歩」が生まれた。彼らはフリードリヒ・ハイエクが「カタラクシー」と呼んだものを思いがけず手に入れた。これは,いったん始まると自らを拡張し続けるプロセスだ。
交換は発明される必要があった。ほとんどの動物は自発的に物を交換したりはしない。ほかのどんな動物種も物々交換をすることは驚くほど珍しい。家族の中での分かち合いはあるし,食べ物と引き換えの交尾は昆虫や類人猿も含めて多くの動物で見られるが,ある動物が血縁関係にない動物から何かと交換で別の物を手に入れるケースはまったくない。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.102
つまり,貧しいとはこういうことだ。自分の必要とするサービスを買えるだけの値段で自分の時間を売れなければ貧しく,必要とするサービスだけでなく望むサービスまで手に入れる余裕があれば豊かだと言える。これまでずっと,繁栄や成長は,自給自足から相互依存への移行と同義だった。それは家族を,骨が折れて時間がかかる多様な生産の単位から,専門化した生産の爆発的増加によってまかなわれる楽で速くて多様な消費の単位へと変えることなのだ。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.78
このように新しいアイデアが生み出されていけば,人間の経済成長は持続しうる。現在の危機の1,2年後には世界は成長を再開するかもしれないし,失われた10年を経験する国もあるかもしれない。1930年代に起きたように,世界の一部は,経済的自給自足政策や暴力によって動乱状態になり,恐慌が大きな戦争につながるかもしれない。だが,どこかで誰かが他人のニーズを前よりうまく満たす方法を見つけ出すように動機づけられていれば,合理的な楽観主義者は人間の暮らしの改善がいずれ再開すると結論せざるをえない。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.64
カルロス5世とフェリペ2世の統治下の16世紀スペインでは,ペルーの銀鉱山が生み出した莫大な富が浪費された。それ以後も,思いがけない授かりものを得た国々,とりわけ産油国(ロシア,ベネズエラ,イラク,ナイジェリア)がこれと同じ「資源の呪い」をかけられ,レント・シーキングする専制君主に支配されることになった。そうした国はせっかくの授かりものを活かせず,オランダ,日本,香港,シンガポール,台湾,韓国といった,資源はまったくないもののせっせと貿易と販売に勤しむ国よりも経済成長率が低い。17世紀には冒険的事業家の典型だったオランダ人たちでさえ,あまりに多くの天然ガスを見つけた20世紀後半には,この資源の呪いにやられた。インフレを起こした通貨は,輸出業者を痛めつけ,オランダ病と呼ばれる事態を引き起こした。日本は20世紀の前半,嫉妬心に駆られるように資源の争奪に明け暮れ,破滅したが,世紀の後半は資源なしで貿易と販売に努め,世界一の長寿国になった。2000年代には欧米諸国は,アメリカ合衆国の連邦準備制度理事会(FRB)が私たちに向けて放出した中国の貯蓄という安価な授かりものの使い方を誤った。
マット・リドレー 大田直子・鍛原多惠子・柴田裕之(訳) (2013). 繁栄:明日を切り拓くための人類10万年史 早川書房 pp.62-63
ヴントにあっては,個人心理学と民族心理学の関係は,後者が前者の応用であるとか,後者が集団行動を扱い,それに対して前者は個人レベルの心理や行動を扱うから“個人”心理学である,といった程度の漠然たる使い分けにとどまらない。方法的体系的に独立した“二つの”学問として立てられている。生理学的心理学すなわち「個人心理学」の対象が,いわば“窓のないモナド”のように,個々に閉じており,その殻を突き破って外に出ることのない絶対私秘的な<意識>であるとするならば,そのような“個人”心理学の成果をどのように束ねてみても,それ以上に高次の統合的な学としての「民族心理学」を(つぎ木のようにではなく)形成することは困難であろう。このことはヴント自身によってとくに明らかに述べられてはいないけれども,個人心理学の目標が上記のような“内観”による“私秘的な”意識過程の分析にあるものと理解する限り(この理解の是非については後節で改めて検討するが),「生理心理学」および「民族心理学」という体系的に独立して相互に論理的交渉を持たない“二つの”心理学の併存を認める結果となってしまうのも,原理上,やむをえないことであったと思われる。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.190
ヴント心理学の二本の柱の一つである実験心理学は,1874年の主著の表題に即して言えば「生理学的心理学」であるが,伝えられるところによると,この名称は,上記の表題以外ではあまり用いられず,彼自身も“実験的”という言葉の方を早くから慣用的に使っている。ヴントの場合,“実験的”というのは“生理的”というのと内容的にまったく同じで,そのころの感覚生理学者が日常ごく普通に用いていた実験室的方法のみが念頭に置かれており,したがって,彼の言う<実験>は非常に限られた意味しか持っていない。一方,ある学問が他の学問と異なる独立した一個の学と呼ばれるためには,当然,その学問に固有の方法と固有の対象ないし立場が明確にされていなければならない。“生理学的”方法を用いることは,これまでの“哲学的”心理学に対する新しい心理学の立場を明らかにするものではあるが,たんに“生理学的”方法を用いるだけでは,従来の生理学者による感覚知覚の研究から区別された生理学的“心理学”の存在理由として不十分である。ヴントの実験心理学をそれまでの感覚生理学から独立させ,“生理学的”諸学に対してユニークな学問にしてきたのは,したがって,生理学的方法と並ぶ内観的方法(方法としての内観)の定式化であり,生理過程ではなく意識過程を固有の研究対象と定めた点であろう。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.186
なお,この「神聖病について」の中,および『ヒッポクラテス集典』のいま一つの代表的論文である「古い医術について」の中には,のちの気質論の背景となる<体液>の考え方も示されている。彼らにとって,体液は,プネウマと並んで,その過多や欠乏が身体の状態を左右する重要な要素であったらしい。だが,これを四元素や四季と結びつけ,熱,冷,乾,湿の各比率(程度)の異なる血液,粘液,黄胆汁,黒胆汁の四種に限った有名な<四体液説>の考えは,上述の「神聖病」や「古い医術」の中ではなく,「人間の本性について」という別の短い論文の中で提示されている。元来,ある人々には活力の源となる食物やアルコール飲料が,他の人々にとってはかえって有害であるという経験的事実から出発し,その違いの原因を,身体を構成する物質の配分に求めて到達した結論が,コス派(ヒッポクラテス学派)の体液説である。したがって,そこには身体的個性すなわち<体質>の概念の芽ばえはあるが,四体液説を媒介に,これを4つの<気質>に結びつけて心理学的な気質理論(性格理論)を展開するのは,600年後のガレノスであるとされている。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.91
上記のような新行動主義の路線に比べて,認知心理学者の態度は,いま少し寛容である。行動主義や新行動主義の心理学では,被験者の心の世界は,実験者に直接それが観察できないという理由で研究対象から除外されてしまったが,その世界は“実験者には見えなくても”被験者には(少なくとも「知覚」程度の表層的な“心理”が問題となっている場合には)明らかに見えているだろう。とするならば,その“内観”を利用しないという手はない。先の「認知地図」のようなものも(相手が人間の場合は)実験者に見える被験者の行動だけから実験者が概念的に作り上げるという回りくどいことをしなくても,被験者に見えたものを具体的に描かせることで,その“絵”から,はるかに内容豊富な情報が直接得られるに違いない。「課題解決」実験場面で,認知心理学者が,しばしば被験者の“方略”についての内観報告を記録するのも,それらを集めて系統的に分類整理(解析)することによって,被験者の心の世界がどのように階層化されており,どのような構造を持っているかを,たとえ部分的にであれ明らかにすることが出来るからである。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.53-54
以上を要約すれば,一括して新行動主義者と呼ばれてきた人々は,すべて,近代自然諸科学の一つである行動主義心理学の基本路線は堅持しながら,その中で,可能な限り,ゲシュタルト心理学の提言を取り入れることによって,少なくとも古典的行動主義の要素主義的方法論の行き詰まりを打開しようとしてきたし,また,「操作的定義」という新しい武器を用いることによって,意識主義と行動主義の認識論的統合を実現することも目指していたに違いない。だが,すでに見たように,この種の“統合”が論理的に不完全であることは明らかであり,新行動主義が結局のところ古典行動主義の改良版でしかありえなかったことは,いまや誰の目にも明白なものとなっている。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.53
まず,心理学史における方法論上の変革は,その第一弾が19世紀後半の「内省のみによる意識の質的分析から実験の併用による意識の統制的かつ量的分析へ」という形で出現した古典的実験心理学の登場であり,第二弾が20世紀初頭の「分析加算的実験から現象学的実験へ」という形で起こったゲシュタルト革命であり,後者と同時に起こった「内観法の否定」という行動主義革命には単なる方法上の革命を越える認識論的主張が含まれていた。次に,心理学史における認識論上の変革は,その第一弾が,17世紀のデカルト的「我(意識)の発見」に始まり,これを外的世界と並ぶ“もう一つの”広がりのある「内的世界」として外的世界と類比的な分析的学問の対象に変えてしまったロック,および,その後の連合心理学者たちの内観心理学にいたるまでの,やや長い道程として出現し,つづく第二弾は,この「内的世界」を科学の対象から追放した20世紀初頭の行動主義革命であり,そして,第三弾が,いまなお完成していないゲシュタルト心理学者による現象学的な“意識の復権”である。
高橋澪子 (2016). 心の科学史:西洋心理学の背景と実験心理学の誕生 講談社 pp.49-50
ヘクラーが指摘するように,「ほとんど知られていないが,道義的見地から軍事力を縮小した一連の前例」が存在する。その前例が示しているのは,理解に至る道――すなわち,戦争を,殺人を,そして社会における人間の生命の価値をどう考えるか,その選択権は私たちが握っているのだという,その理解に至る道なのである。近年,人類はこの選択権を行使して,核による滅亡の瀬戸際から身を退いた。同様に,殺人を可能にする技術を社会から遠ざけることもできるはずだ。教育と理解が第一段階だ。そしてやがてはこの暗い時代を過去のものにして,いまよりも健全な社会,いまよりも自己についてよく知っている社会を作り上げることができるだろう。
だがそれに失敗すれば,残された可能性はふたつしかない。かつてのモンゴル帝国や第三帝国と同じ道をたどるか,レバノンやユーゴスラビアと同じ道をたどるかだ。次の世代も,また次の世代も,同類たる人間の苦しみにたいしてますます脱感作されて育ってゆくなら,そのほかの可能性などありえない。私たちは,社会に安全装置を掛けなおさねばならないのである。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.504-505
今日の(そしてベトナム時代の)アメリカ陸軍および海兵隊で兵士の訓練に用いられている方法は,まさに条件づけ技術の応用そのものだ。これによって養われるのは,反射的な<早撃ち>の能力である。とはいえ,この方面での兵士の訓練に,だれかが意図的にオペラント条件づけや行動修正技術を応用したとは考えられない。これはまずまちがいないと思う。私は20年軍籍にあるが,兵卒,軍曹,将校のだれひとり,あるいは官民とわず関係者のだれひとり,射撃訓練で条件づけが行われていると口にした者も,あるいは理解していた者もいない。しかし,歴史学者であり職業軍人でもある心理学者の立場から見ると,そこで行われているのがまさに条件づけなのは火を見るより明らかだ。そのことは,時とともにいよいよはっきりしてくる。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.393-394
この残虐行為はたんに正しいというだけではない。殺した相手よりも自分のほうが,倫理的社会的文化的に勝っている証拠なのだと,兵士はそう信じなければならない。残虐行為は相手の人間性を否定する究極の行為であり,殺人者の優越を肯定する究極の行為である。これと相いれない考え,すなわち自分は過ちを犯したのだという考えを,殺人者は力づくで抑えこまねばならないそしてさらに,この信念を脅かすものには,それがなんであれ激しく攻撃を加えねばならない。殺人者の精神の健康は,自分の行いが善であり正義であると信じられるかどうかにかかっているのである。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.337
残虐行為には,単純にして恐ろしく,きわめて明白な有用性がある。モンゴルは,かつて抵抗した町や国を徹底的に殲滅したことで有名だったが,ただそれだけで,戦わずして数々の国を降参させることができた。<テロリスト>の語はずばり<恐怖(テロル)を行使する者>という意味である。個人でも国家でも,恐怖を無慈悲かつ効果的に駆使して権力をにぎるのに成功した例は,地理的にも歴史的にも近いところにごろごろしている。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.335
合衆国は比較的平等主義的な国家なので,戦時中に民族的・人種的憎悪を国民の心に深く植えつけるのは,他国にくらべていささかむずかしい。だが対日戦では,敵があまりに異質だったために文化的距離を有効に導入することができた(パールハーバーの<復讐>だったので,倫理的距離という強力なバックアップもあった)。ストウファーの研究によれば,第二次大戦中のアメリカ兵の44パーセントは「ぜひ日本兵を殺したい」と答えている。しかし,ドイツ兵についても同じように答えた者はわずか6パーセントだった。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.271
この現象はまた正反対の方向にも働く。自分と外見がはっきり違う人間は,非常に殺しやすくなるのである。組織的なプロパガンダによって,敵はほんとうは人間ではなくて<劣った生命形態>であると兵士に信じさせることができれば,同種殺しへの本能的な抵抗感は消えるだろう。人間性を否認するため,敵は<グック(東洋人の蔑称)>,<クラウト(ドイツ兵の蔑称)>,<ニップ(日本人の蔑称)>などと呼ばれる。ベトナムでは,<ボディカウント(敵の戦死者数)>的思考回路がこの現象を助長していた。敵をたんなる数として呼び,また考えるのである。あるベトナム帰還兵によれば,そのおかげで北ベトナム軍兵士やベトコンを「蟻を踏みつぶす」ように殺すことができたという。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.269
このような現象は,軍事史をひもとけばいたるところに見られる。たとえば戦車(チャリオット)(馬に牽かせる古代の戦車)である。戦車はきわめて長期にわたって戦場を支配してきたが,その理由はしばしば不可解とされてきた。戦術的,経済的,そして力学的に見た場合,戦車はコスト効率のよい戦争の道具とはいえない。にもかかわらず何世紀にもわたって戦場の花形でありつづけたのである。だが,戦車のもたらす心理的影響に目を向ければ,その成功の理由はすぐにわかる。戦車は史上初の組扱いの武器(クルーサーブド・ウェポン)だったのだ。
ここには複数の要因が関わっている。長距離兵器としての弓,射手が高貴の身分だったことによる社会的な距離。戦車は敵を追跡して背後から矢を射かけるのに使われたから,そこから心理的な距離も生まれていた。しかし決定的だったのは,戦車が伝統的に御者と射手との二人乗りだったことだ。ただそれだけのことで,近接度の高い集団内における義務と匿名性が発生していたのである。第二次大戦中,ライフル銃手は15~20パーセントしか発砲しなかったのに,組扱いの武器(機関銃など)では100パーセント近くが発砲されていたのと理由は同じである。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.258-259
義務感の発生に加えて,集団また匿名性の感覚を育てることで殺人を可能にする。この匿名性の感覚はさらに暴力を助長する。場合によっては,この集団匿名性という現象は,先祖返り的な一種の殺人ヒステリーをうながすようだ。このような例は動物界にも見られる。1972年のクラックの研究には,無意味で不気味な殺生が動物界でも現実に起きていることを示す例があがっている。たとえば,必要以上の,あるいは食べられる以上の数のガゼルを殺すハイエナ,嵐の夜の飛べないカモメを<いいカモ>として,食べきれないほどに殺すキツネなど。シャリットはこう指摘する。「人間界でもたいていそうだが,動物の世界に見られるこのような無意味な暴力は,個ではなく集団によって行われる」。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.255-256