忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

遺伝子が行うこと

 遺伝子もまた,直接自らの指で操り人形の糸を繰るのではなく,コンピューターのプログラム作成者のように間接的に自らの生存機械の行動を制御している。彼らにできることは,あらかじめ生存機械の体勢を組み立てることである。その後は,生存機械が独立して歩きはじめ,遺伝子はその中でただおとなしくしていることができる。彼らはなぜそんなにおとなしくしているのだろう?なぜたえず手綱を握って次々に指令を与えないのだろう?時間的ずれという問題があってそうできないのだ。・・・



遺伝子はタンパク質合成を制御することによって働く。これは,世界を操る強力な方法であるが,その速度はたいへん遅い。胚をつくるには,何か月もかけて忍耐強くタンパク質合成の糸を操らねばならない。一方,行動の特徴は速いことである。それは数カ月という時間単位ではなくて,数秒あるいは数分の一秒という時間単位で働く。この世に何がおこり,フクロウが頭上をサッと飛び去り,丈高い草むらがカサカサとなって獲物の居どころを知らせ,1000分の1秒単位で神経がピリリと興奮し,筋肉がおどり,そしてだれかの命が助かったり,失われたりする。遺伝子はこのような反応時間をもちあわせていない。遺伝子にできるのは,アンドロメダ星人と同様に,自らの利益のためにコンピューターを組立て,「予測」できるかぎりの不慮のできごとに対処するための規則と「忠告」を前もってプログラムして,あらかじめ最善の策を講じておくことだけである。しかし,チェスのゲームがそうであるように,生物はあまりに多くのさまざまなできごとにであう可能性があり,そのすべてを予測することはとうていできない。チェスのプログラム制作者の場合と同様に,遺伝子は自らの生存機械に生存術の各論ではなくて,生きるための一般戦略や一般方便を「教え」こまねばならないのだ。

リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸 由二・羽田節子・垂水雄二(訳) (1991). 利己的な遺伝子 紀伊国屋書店 pp.88-92.
PR

原理主義

 「真実」によって何を意味するかということを何らかの抽象的な方法で定義するという話になれば,ひょっとしたら,科学者は原理主義者かもしれない。しかし,ほかの誰もがそうである。私が進化は事実であると言うとき,ニュージーランドが南半球にあると言うとき以上に原理主義者ではない。私たちは,証拠が支持しているという理由で進化を信じるのであり,もし,それを反証するような新しい証拠が出されれば,一晩で放棄することになるだろう。本物の原理主義者はそんなことを言ったりはしないものだ。
 原理主義を情熱と混同するのはあまりにも安易である。私は原理主義的な創造論者から進化を擁護するときには十分情熱的に見えるかもしれないが,それは,私のなかに,それに対抗する原理主義があるからではない。それは,進化を支持する証拠が圧倒的に強力だからであって,私は進化に異論を唱える人々がそれを理解できない---あるいはこちらのほうがもっとよくあるのだが,聖書と矛盾するからといって証拠を吟味することを拒否される---のには,激しく落胆させられる。哀れな原理主義者たちと,彼らの影響を受けた人々がどれほど多くのことを見損なったままで死ぬということほど悲劇的なことはあるまい!もちろん,私が熱くなるのはそう思えばこそだ。なぜそうならずにいられよう?しかし,私が進化というものに寄せる信念は原理主義的ではなく,信仰でもない。なぜなら,もししかるべき証拠が出現したとすれば,自分は心を変える,しかも喜んでそうするだろうということを知っているからだ。
 そういうことは実際に起こる。私は以前に,私が通っていたオックスフォード大学の動物学教室で,敬愛されていた長老のエピソードを披露したことがある。長年のあいだ彼は,ゴルジ器官(細胞内部にある顕微鏡で見える構造)というのは実在しない人為的なもので,幻想にほかならないと,熱烈に信じていた。毎月曜日の午後は教室全体で集まり,外部から招いた講師の研究発表を聞く習慣になっていた。ある月曜日,講師がアメリカの細胞生物学者だったとき,彼はゴルジ器官が実在のものであるという完璧に説得力のある証拠を提出した。講演のあと,かの長老はホールの前方に進み出てそのアメリカ人と握手し,興奮もあらわに,「いや先生,私は君に感謝したい。私はこの15年間ずっとまちがっていました」と言った。私たちは手が赤くなるまで拍手した。原理主義者は誰もそんなことは言わないだろう。実際には,すべての科学者がそんな態度を示すわけではないだろう。しかしすべての科学者は,それが理想であると口先では同意する---たとえば政治家であれば,そんなのは節操がないと言って批判するところだろうが。いま述べたこの出来事を思い出すと,いまでも熱いものが胸にこみ上げてくる。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.414-416.

善人が悪事をなすには宗教が必要である

 だが,メッカ---あるいはシャルトル,ヨークミンスター,ノートルダムの大聖堂,シェタゴン・パゴダ,京都の寺院,あるいはもちろんバーミヤンの大仏像---をブルドーザーで壊そうとする無神論者がこの世にいるとは,私には信じられない。ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーヴン・ワインバーグが言うように,「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても,善いことをする善人はいるし,悪いことをする悪人もいるだろう。しかし,善人が悪事をなすには宗教が必要である」。ブレーズ・パスカル(パスカルの賭けのパスカルである)も似たようなことを言っている。「人間は,宗教的な確信をもっておこなっているとき以上に,完璧かつ快活に悪をなすことはない」。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 p.363.

二元論に向かう心

 宗教が何かの心理学的な副産物であるという考え方は,進化心理学という,目下発展中の重要な分野から自然に産まれてくる。進化心理学者たちは,目がものを見るために,そして翼が空を飛ぶために進化した器官であるのとまさに同じように,脳は,一連の専門的なデータ処理の必要性に対処するための器官(「モジュール」と言ってもいい)の集合ではないかと言っている。血縁関係を扱うモジュール,互恵的なやりとりを扱うモジュール,共感を扱うモジュール,等々が存在するわけだ。宗教はこうしたモジュールのいくつか,たとえば,他人の心についての理論形成のためのモジュール,同盟を形成するためのモジュール,集団内メンバーを優遇しよそ者には敵対的に振る舞うためのモジュールが誤作動したことの副産物とみなすことができる。こうしたモジュールのいずれも,ガの天空航法に相当する役割を果たしうるもので,私が子供の騙されやすさについて説明した例と同じような形で誤作動を起こしやすい。こちらも「宗教は副産物」であるという見解の持ち主である心理学者のポール・ブルームは,子供にはもって生まれた心の二元論に向かう性向があると指摘している。彼にとって宗教とは,そうした本能的な二元論の副産物である。私たち人類,ことに子供は,生まれながらの二元論者ではないだろうかと彼は言う。
 二元論者は,物質と精神のあいだに根本的な区別を認める。それに対して一元論者は,精神(心)は物質---脳の中の物質,あるいはひょっとしたらコンピューター---の1つの表れであり,物質と別個に存在することはありえないと考えている。二元論者は,精神とは物質をすみかとしながらその肉体とは切り離されたある種の霊(スピリット)で,したがって,たぶん肉体を離脱してどこか別の場所に存在することができると信じている。二元論者は精神の病を「悪魔に乗っ取られた」とためらうことなく解釈し,そうした悪魔は,肉体に一時的に滞在するだけの霊で,それゆえ「追い出す」ことができるかもしれないと考える。二元論者は,ほんのわずかな機会でもとらえて,生命をもたない物理的な対象を人格化し,滝や雲にさえ,精霊や悪魔を見る。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.204-205.

ありえなさ

 またしても,ゴルディロックス帯の場合と同じく,設計仮説の代案となる人間原理的な仮説は統計的なものである。ここで科学者が頼みにするのが,とんでもなく大きな数字の魔術だ。私たちの銀河では,10億から300億のあいだの惑星が存在すると推定されており,全宇宙にはおよそ1000億の銀河が存在する。通常そうするように用心のためにゼロをいくつか減らして,10億×10億という,宇宙にありうる惑星の数としては控え目な推計をしておこう。さて,生命の起源,DNAに相当するものの自然発生的な誕生が,本当は,まったくたまげるほどにありえない出来事であったと仮定してみてほしい。つまり,10億の惑星のうちでたった1つでしか起こらないほどありえないものだと考えるのだ。どんな科学者であれ,自分の申請している研究が成功する確率は100分の1でることを認めれば,研究助成金給付団体に笑われてしまうだろう。しかし私たちはここで10億分の1という掛け率の話をしているのである。それでも……そんなにべらぼうに低い掛け率であってさえ,10億もの惑星上で生命が誕生してることになるのだが---もちろん,地球はその1つである。
 もう一度言いたいが,この結論は非常に驚くべきものである。もし,生命が惑星上で自然発生的に誕生する掛け率が10億対1であるとすれば,それにもかかわらず,その唖然とするほどありえない出来事が,それでも10億もの惑星で起こっているだろうというのだ。そうした10億の生命をもつ惑星のうちどれか1つを見つけだせる確率は,と考えると,干し草の山の中から1本の針を探すという諺を思い出す。しかし私たちは針を見つけに出かけていかなければならないということはない。なぜなら(人間原理に戻れば),探索能力があるほどのいかなる存在も必然的に,探索を始めるそれより前に,そうした,とてつもなく稀な針のうちの1本の上にいなければならないからである。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp206-207.

究極のボーイング747作戦

 ありえなさ(非蓋然性)からの論証は1番の大物である。伝統的な装いの目的論的論証は,神の存在を支持するために用いられる論法として現在もっともよく知られているものであり,驚くほど数多くの有神論者が,それを完全かつ申し分なく説得力のあるものとみなしている。実際それは非常に強力で,反論の余地ない論証ではないかと私は思う---しかしそれは,有神論者の意図とはまったく正反対の方向においてである。ありえなさからの論証は,正しく展開されれば,神が存在しないことの証明に近づいていく。この,ほとんど確実に神が存在しないことの統計学的な実証法を,私は<究極のボーイング747作戦>と呼ぶことにする。
 この名は,フレッド・ホイルが言ったという。ボーイング747とガラクタ置き場をめぐる楽しいイメージから採ったものだ。ホイルが自分自身でそう書いたのかどうか確信はないが,彼の親密な同僚であるチャンドラ・ウィックラマシンジによってホイルが考えたことだとされており,おそらく本当なのだろう。ホイルは,地球上に生命が起源する確率は,台風がガラクタ置き場を吹き荒らした結果,運良くボーイング747が組み上がる確率よりも小さいと言った。ほかの人間たちが,それ以後の複雑な生物体の進化を表すのにこの一見もっともらしい比喩を借用してきた。素材となる一群のパーツをでたらめにかき混ぜて,完璧に機能するウマ,甲虫,あるいはダチョウが組み立てられる確率は,確かに747ができる確率といい勝負であろう。これは,一言で言えば,創造論者のお気に入りの論法であり,自然淘汰のイロハを理解していない人間だけがおこなうことのできる主張である。そういう人々は,自然淘汰を偶然だのみの理論だと考えているが,ところが,この理論は言葉の正しい意味での偶然とは,正反対のものにほかならない。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.169-170.


シミュレーションソフトによるモデル構築

 私は子どものころ一度,幽霊の声を聞いたことがある。男の声で,まるで朗読かお祈りでもしているようにぶつぶつと呟いていた。完全にではないが,言葉をほとんど聞き分けることもできた。それは真剣で厳粛な声色であった。古い家には司祭の隠れ穴があるという話を聞かされたことがあったので,少しばかり怖かった。しかし私はベッドから出て,音の源に向かって這ってにじり寄っていった。近づいていくにつれて声はしだいに大きくなっていき,そのあと突然,私の頭の中で「反転」が起きた。いまや十分音の近くまで来ていたので,その正体をはっきり聞き分けることができた。鍵穴を吹き抜ける風の立てる音を素材にして,私の脳内シミュレーション・ソフトウェアが,厳粛に詠唱する男の言葉というモデルを構築してしまったのだ。もし私がもっと感じやすい子供であったなら,単なる理解不能なつぶやきではなく,はっきりとした単語や文章さえも「聞いて」しまっていたかもしれない。そして私が感じやすいだけでなく,宗教的な育てられ方もしていれば,風が何を語っているのかと不思議に思ったことだろう。
 ほとんど同じ年齢のころ,別の機会に私は,海辺のある村のごくふつうの家の窓を通して,ちょっと形容しがたいほどの悪意をあらわにして,外を凝視している巨大な丸い顔を見た。私は不安に怯えながら近づいていき,ついにそれが本当は何であったかが分かった。それはtだ,垂れ下がったカーテンがたまたまぼんやりと,人の顔に似たパターンをつくりだしていただけだった。その顔と,そしてその邪悪な表情は,恐れおののく子供の脳が構築したものだった。2001年の9月11日,敬虔な人々は,ツイン・タワーから立ち上る煙の中にサタンの顔が見えると思った。この迷信は,インターネット上に公表され,広く流布した1枚の写真によって引き起こされたものだった。

リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.137-138.


天空のティーポット

 この誤りについて説明するもう1つの方法として,立証責任という観点からのものがあり,この手の説明の仕方は,バートランド・ラッセルによる天空のティーポットのたとえ話で,申し分なく例証されている。

 正統派の人々の多くは,教条主義者が一般に認められているドグマを証明するよりも,懐疑論者がそれを反証するのが務めであるかのごとく語る。もちろん,これはまちがいである。もし私が,地球と火星のあいだに楕円軌道を描いて公転している陶磁器製のティーポットが存在するという説を唱え,用心深く,そのティーポットはあまりにも小さいのでもっと強力な望遠鏡をもってしても見ることができないと付け加えておきさえすれば,私の主張に誰も反証を加えることはできないだろう。しかしもし私がさらにつづけて,自分の主張は反証できないのだから,人間の理性がそれを疑うのは許されざる偏見であると言うならば,当然のことながら私はナンセンスなことを言っていると考えられてしかるべきである。しかし,もし,そのようなティーポットの存在が大昔の本に断言されており,日曜日ごとに神聖な真理として教えられ,学校で子供の心に吹きこまれていれば,その存在を信じることをためらうのは,異端の印となり,疑いをもつ人間は,文明の時代には精神分析医の,昔なら宗教裁判官の注意を引くはめにおちいっただろう。

 こんなことを言って時間を無駄にすることはないだろう。なぜなら,これまで私が知るかぎり,誰もティーポットを崇拝したりしていないからだ。しかし,もし問い詰められれば,私たちは,軌道を回るティーポットなど絶対に存在しないという強い信念を公言することをためらわないだろう。けれども厳密に言えば,私たちはみなティーポット不可知論者でなければならない。天空のティーポットが存在しないことを,確実に証明することはできないのだ。なのに,実際問題として,私たちはティーポット不可知論を捨て無ティーポット論をとるのである。



リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 pp.81-82.

「コーカサス人種」の由来

 生物学や進化論など私自身の分野でこのように一見すると気まぐれと思われる名称の中で,ヨーロッパ,西アジア,北アフリカの明るい肌をした人々がコーカサス人種と公式に名づけられたことほど,好奇に思われたり,問い合わせがあったり,講義のあと質問されたりしたものはない。どうして,この西洋で最も一般的な人種がロシアの山脈の名前になぞらえられたのだろうか。すべての人種の分類に最も影響を与えたドイツの博物学者(ナチュラリスト),J・F・ブルーメンバッハ(1752〜1840)が1795年に出版した独創的な著作『人類の自然的種類について』の第3版でこの名称を考え出したのである。ブルーメンバッハの初めの定義では,この名称を選ぶとき,2つの理由,すなわち,1つはこの狭い地域から最も美しい人々が出ていること,もう1つはこの地域で最初に人類が創造された可能性があること,を引き合いに出している。

スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい 下 差別の科学史 河出書房新社 pp.317-318.


遺伝的変異

 同じように,我々の種であるホモ・サピエンスは,遺伝的能力がはっきりと異なった亜種(人種)を内包していたかもしれない。もし,我々の種が数百万年前から存在し(多くの種はそうである),それぞれの人種が地理的に,この期間のほとんどを著しい遺伝的交換なしに隔離されていたとすれば,それぞれのグループ間に多数の遺伝的差異がゆっくり蓄積されていったに違いない。しかし,ホモ・サピエンスはせいぜい数十万年生存しているにすぎず,今日のすべての人種はおそらく,数十万年前に共通の祖先から分岐したにすぎない。我々はいくつかの目立った外見上の特徴を重大な違いであると主観的に判断してしまう。しかし,生物学者たちは最近---ずっと以前から推測されていたのだが---人種全体の遺伝的差異は驚くほど小さいと主張するようになった。ある遺伝子の頻度は人種によって異なるが,“人種遺伝子”---すなわち,ある人種には存在するが,残りのすべての人種には存在しない---なるものを見出していない。レヴォンティン(1972年)は,血液の違いを暗号化している17の遺伝子の変異を研究し,変異のわずか6.3パーセントが人種に帰することができることを見出した。85.4パーセントもの変異は,地域集団内で起こる(残りの8.3パーセントは1つの人種内の地域集団間の差による)。レヴォンティンが(私信で)述べたのだが,もしホロコーストが起こり,ニューギニアの森林奥深くに住む小グループの種族だけが生き残ったとしても,50億の人口の無数のグループ内で現在表現されているすべての遺伝的変異は保存されることになるだろう。

スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい 下 差別の科学史 河出書房新社 pp.234-235.


イレヴン・プラス試験

 能力が遺伝することを根拠に,単一直線上にランクづけるというバートの考えは,イギリスで遺伝決定論を論拠とする知能テストの実施という政治的大勝利をもたらした。1924年の移民制限法が心理学におけるアメリカの遺伝決定論者たちの大きな勝利の印だとすれば,いわゆるイレヴン・プラス試験(中等学校進学適性検査)が同じインパクトを与える勝利をイギリスの心理学へもたらしたのである。子どもたちを別々の中等学校に入れるためのこの制度のもとで,生徒たちは10歳か11歳で大規模な試験を課せられた。それぞれの子どもたちにスピアマンのgを評定するためのこれらのテスト結果によって,20パーセントの子どもは大学入試準備をすることになる。“グラマー”スクールへ送り込まれ,残りの80パーセントは技能学校や“新中等学校(セコンダリー・モダーン・スクール)”へ追いやられ,さらなる高等教育には不適格であると見なされた。


スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい 下 差別の科学史 河出書房新社 pp.179.

相関の解釈

 相関係数を計算するのは容易だが,その解釈の間違いに悩まされてきた。次にその例を示そう。いま成長期にある1人の子どもの腕の長さと足の長さとの関係をプロットしたとしよう。2つの興味深い意味のある高い相関が得られるだろう。第1は,私がやった単純化である。私は2次元(足の長さと腕の長さ)から始め,それを1次元に効果的に還元させた。この例では相関が非常に強力なので,この(1次元の)直線は,もともと2次元として考えられたほぼ全ての情報を表していると言えよう。第2は,この場合,1次元へ還元したことの原因について合理的な推論をなしうることである。腕の長さと足の長さとは,しっかりと関連しあっている。なぜなら,いずれも,根底にある生命現象,すなわち成長の部分的測定値だからである。
 しかし,相関は原因を明白に特定するための魔法の方法だなどと,期待しすぎないためにも,ここで,私の年齢と過去10年間のガソリンの値段との関係を取り上げてみよう。この場合には,相関は完全なものに近い。しかし,原因については誰も何も指摘できないであろう。相関という事実は原因に関しては何も示さないのである。強い相関が弱い相関よりもその原因をよく表すなどと考えるのは正しくない。私の年齢とガソリンの値段との相関は,ほぼ1.0である。先に腕の長さと足の長さの場合には原因に言及したが,それは相関が高いからではなく,これらについての生物学上の知識をもっていたからである。原因については単なる相関の事実からではなく,他のところから推論されなければならない(しかしながら,我々は原因を求めてはならないということを銘記しているならば,思いもよらない相関が我々を原因究明へと導いてくれるかもしれない)。この世界に見られる相関関係のほとんどには因果関係がない。過去数年感,減少し続けているものならいかなるものでも,地球とハレー彗星間の距離(これも最近は減少し続けている(原書出版時点の話であり,現在ではこの距離は増加しつつある))と強い相関を示すであろう。しかし,最も先進的な占星家でさえ,これらの間に因果関係があるとは認めないだろう。相関が原因を暗示するという根拠のない仮定は,おそらく人間の論理的思考のうち2つないし3つの最も重大で最も一般的な誤りに入る。


スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい 下 差別の科学史 河出書房新社 pp.96-97.

移民の制限

 プリガムは自分の個人的負債は返済できたがテストがもたらした結果を覆すことはできなかった。移民の割当人数はおのままであり,南ヨーロッパや東ヨーロッパからの移民は減っていった。1930年代を通じてユダヤ難民はホロコーストを予想し,アメリカに亡命し,移住しようとしたが認められなかった。法に基づく割当人数や,ひきつづいた優生学に基づく宣伝によって,北部,西部ヨーロッパ諸国に対して拡大された割当人数が満たない年ですら,ユダヤ人は締め出された。チェイス(1977年)は,1924年から第二次世界大戦勃発までの間,600万人の南部,中部および東部ヨーロッパ人が割当人数によって締め出されたと計算している(移民が1924年以前の比率で続いたと仮定して)。我々は外国へ移りたいと望みながら行き場のなかった多くの人々に何が起こったかを知っている。破滅への道はしばしば間接的であるが,思想は銃や爆弾と同じように確実な手段となり得るのである。


スティーヴン・J・グールド 鈴木善次・森脇靖子(訳) (2008). 人間の測りまちがい 下 差別の科学史 河出書房新社 p.83

我々は犬から学んだ

 ところが,カリフォルニア大学ロサンゼルス校のロバート・K・ウェインのチームが犬のDNA変化を調べたところ,13万5千年前にはべつの個体群としてオオカミから分離していたはずだとわかった。1万4千年前より昔に,犬が人間といっしょに暮らしていたことが化石から明らかにならないのは,おそらく,それ以前の人間はオオカミ,あるいは犬に進化しかけているオオカミと仲間だったからだろう。たしかに,遺跡を見ると,10万年前より昔の人骨の付近にオオカミの骨がたくさんある。ウェイン博士の説が正しいなら,オオカミと人間が仲間になったのはホモサピエンスが直立猿人から進化したばかりのころだ。人間とオオカミが初めていっしょに暮らすようになったころ,人間には財産と呼べるものは粗末な道具がごくわずかしかなく,少人数の集団で放浪の生活をしていた。おそらく,社会の構造はチンパンジーの群れとたいして変わらなかっただろう。言葉すらもっていなかったかもしれない。
 つまりオオカミと人間は,最初に友達になったときには,今日の犬と人間よりも立場がもっと対等だったということになる。基本的には補いあう技術をもつ,ふたつのことなる種が協力したといえる。これは前代未聞,空前絶後の大事件だ。
 オーストラリアの考古学者のチームはあらゆる証拠を調べて,原始人はオオカミと仲間だった時代に,オオカミのように行動して考えることを学んだと確信している。オオカミは集団で狩りをし,人間はしていなかった。オオカミには複雑な社会構造があり,人間にはなかった。オオカミには同性の非血縁者のあいだで誠実な友情があり,人間にはなかった。これは,今日のほかのどの霊長類の種にも同性の非血縁者のあいだで友情が見られないことから判断できる(チンパンジーは親子関係が中心だ)。オオカミはなわばり意識がきわめて強く,人間は—これまた,今日のほかのどの霊長類にもないことから判断すると—おそらくなわばり意識は弱かった。
 原始人は,ほんとうの意味で現世人類になるころには,オオカミのこういった点をすべて学んでいた。ほかの霊長類といかにちがうかを考えると,私たちがいかに犬に似ているかがわかる。ほかの霊長類がしなくて私たちがすることには,犬がしていることがたくさんある。オーストラリアの研究チームは,犬のほうこそ,私たちにいろいろ教えてくれたのだと考えている。
 研究チームは理由をさらに広げる。オオカミと,次に登場した犬が,見張りと護衛の役目を果たし,人間が個人で小さな獲物を狩るのではなく,集団で大きな獲物を狩ることができるようになったおかげで,原始人は生き残るうえではるかに有利になった。オオカミが原始人にしたことを考えあわせると,原始人が生き残り,ネアンデルタール人が絶滅した大きな原因は,おそらく犬だろう。ネアンデルタール人は犬を飼っていなかった。
 犬は,人間が子どもを残せるほど長生きするのを手助けしただけではない。犬のおかげで,人間はほかのすべての霊長類から抜きん出るようになった。オーストラリア博物館の主席調査科学者ポール・テイコンは,人間が友情を発達させたことから,「人びとの集団のあいだで知識の交換が進み,生存するうえできわめて有利になった」と述べている。文化進化はすべて協力を土台とし,人間は,かかわりのない人と協力する方法を犬から学んだ。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.398-400.

サヴァンの能力

 1999年に,オーストラリア国立大学精神センターの心理学者アラン・シュナイダーが,サヴァンのあらゆる才能を統一する理論を述べた論文を発表した。博士の説が正しいのであれば,おそらく,動物の天才の説明にもなるだろう。シュナイダー博士と共著者のD・ジョン・ミッチェル博士によると,サヴァン自閉症の人の能力はすべて,見たり聞いたりしたものを,ふつうの人のようにすみやかに,統合した全体,つまり概念に組み込んで処理しないところから生まれる。
 ふつうの人が建物を見ると,知覚経路を通って入ってくる何千何百もの建物の部分のすべてを,脳が,ひとつの統合されたもの,建物に変換する。脳はこれを自動的におこなう。ふつうの人はこれをせずにはいられない。だから,美術の先生はふつうの絵画の練習で,さかさまにした絵を見たとおりに写生させたり,対象そのものではなく,対象を取りかこむネガティヴスペースを描かせたりする。対象をさかさまにしたり,ネガティヴスペースを描いたりして脳をだますと,もっと簡単にイメージをばらばらのままにすることができ,自分で統合した対象の概念ではなくて,対象そのものを描けるようになる。人はいつも,自分が描いたさかさまの絵のすばらしさに,あっと驚く。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 p.392.

オウムの言語

 さいわい,動物は私たちがわかっている以上に賢いという意見は,かなり尊重されるようになった。それというのも,主要な研究チームのひとつ,アイリーン・ペッパーバーグ博士と25歳のヨウム(アフリカハイイロオウム),アレックスのおかげだ。アレックスは今では,4歳から6歳のふつうの子どもの認識レベルに達している。
 アレックスの成果がまさに画期的なのは,それまで,鳥に何かを教えることなどだれにもできなかったからだ。試した人がいなかったわけではない。鳥の研究者は膨大な時間をかけて,色などの概念を教えようとしてきたが,一歩でも理解に近づいた鳥は一羽もいなかった。なじみのあるものの名称でさえおぼえられなかった。これがサルにできることは,だれもが認めていた。サルのカンジには2歳6か月の子どもに相当する「受容言語」(受容言語とは理解できる言葉で,これに対して「表出言語」は,話したり,書いたりできる言葉だ)があると言われている。カンジのようなサルに,ほんとうに言語能力があるのかどうか,専門家がたとえ疑問視していても,サルが大量の言葉をおぼえられるのは明らかだった。ところが鳥には,ほんとうに,三歩歩くと忘れてしまう脳みそしかないように見えた。
 だから,ペッパーバーグ博士の成功は大きな衝撃だった。アレックスは,これまでどんな鳥でも,なしえなかった色や形などのカテゴリーをおぼえた。しかも簡単に。さらに,一度おぼえたら,それまで見たことのないまったく新しいものでも,「どんな色?」と「どんな形?」とたずねられると自然に答えられた。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.319-320.

キツネの家畜化実験#2

 気性と外見の関係で私が気に入っている例に,ドミトリー・ベリヤエフがロシアでおこなったギンギツネの繁殖実験がある。ベリヤエフ博士は遺伝子学者で,私たちが家畜に見る形質は自然淘汰で決定されたと考えている。犬が今のようになったのは,その行動が生存と繁殖の手助けとなったからだ。。
 博士は仮説を調べるために,ギンギツネを使って自然淘汰の研究に着手した。数世代のあいだに,野生のキツネを犬のような家畜に変えることができるのか,たしかめたかったのだ。そこで,各世代の中で,いちばん「手なずけやすい」もの—人間との接触を我慢しようとするキツネ—だけに子どもをつくらせた。
 この計画が開始されたのは1959年で,85年に博士が世を去ると,べつの研究者グループがあとを引きついだ。都合40年におよぶ,30世代以上をかけた,キツネの飼いならしの品種改良がおこなわれたのだ。今日では,キツネは,犬ほどではないが,とてもよく飼いならされている。研究者によると,キツネは幼いときには人間の注意を引こうとして競い,あわれっぽい声で泣いたり,しっぽを振ったりする。ベリヤエフ博士が考えていたとおり,家畜に変身しているのだ。
 おもしろいことに,キツネは性格にともなって外見が変化した。最初に変化が見られたのは,毛の色だった。銀色から,ボーダーコリーのような黒と白になったのだ。写真で見ると,ボーダーコリーにそっくりだ。しっぽも巻くようになり,耳のたれたキツネが出てきた。たれ耳というのは,上出来だ。かのダーウィンによると,少なくとも家畜が見つかっている国で,耳のたれていない品種がひとつもない家畜はいないそうだ。それは事実ではないと思う。どこの国を見わたしても,耳のたれた馬の品種など考えられないからだ。とはいえ,そのほかの家畜は,どれもすべて,たしかに,耳のたれた品種が少なくともひとつかふたつはある。耳のたれた野生動物といえば,私が知っているのはゾウくらいだ。
 キツネの写真を見ると,骨も太くなっていると思う。これは,骨のきゃしゃな動物が神経質であることを考えると,予想がつく。ベリヤエフ博士はキツネがおだやかな性格になるように品種を改良していた。それで,おそらく,体が少しずつ大きくなり,骨が太くなっていったのだろう。
 飼いならされたキツネは,体と行動の変化にともなって,脳も変化していた。頭が小さくなり,血中のストレスホルモンの値が小さくなり,脳内のセロトニン値が高くなった。セロトニンは攻撃性を抑制する。もうひとつ,興味深い変化があった。雄の頭蓋骨が「雌性化」していたのだ。頭の形が野生のオスのキツネよりもメスのキツネに似ている。
 やがて,案の定,神経症の問題を抱えるキツネが出てきた。癲癇を起こし,奇妙な姿勢で頭を後ろにそらすようになったものもいた。わが子を食べてしまう母親さえいた。純粋な過剰選択は,かならず,問題をまねく。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.312-314.

動物は一般化しない

 というのも,動物はうまく一般化しないからだ。「飼い主の男性はだいじょうぶだ」から,「飼い主の男性と郵便配達夫はだいじょうぶだ」というふうに一般化しない。ふつうの人はほぼ,この正反対だ。えてして一般化の不足よりも,過剰で誤りをおかす。これが固定観念,「過般化」だ。女性はすべてXで,男性はすべてYになる。ふつうの人は自然にそんなふうに考えるが,動物には,「女性」のカテゴリーにすべての女性をひとまとめにして入れることを,積極的に教えなければならない(動物もたしかにカテゴリーをつくることがある。一種の一般化だ。これについては次の章で述べる)。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 p.292.

恐怖の研究

 動物が抱く恐怖を理解するには,脳に関する知識が役に立つ。恐怖の神経学で代表的な研究者に,ニューヨーク大学のジョゼフ・ルドゥー博士がいる。博士は著書『エモーショナル・ブレイン』で,恐怖は扁桃体で発生すると解説している。科学者でない人にとってまことに興味深いのは,脳の中には二種類の恐怖があるということだ。これは博士が発見した「速い恐怖」と「遅い恐怖」で,博士はそれぞれ「低位の経路」,「高位の経路」と名づけた。
 高位の経路が遅い恐怖を与えるわけは単純だ。脳を通る物理的な道のりが低位の経路よりも長いのだ。高位の経路では,怖い刺激,たとえば道ばたでヘビを見かけるなどの情報は,感覚器官を通って脳の奥にある視床にとどく。視床は分析するために,脳の上部にある皮質に刺激の情報を伝える。それで,ルドゥー博士は遅い恐怖を高位の経路と呼ぶ。情報は遠路はるばる脳のてっぺんまで伝わらなければならない。情報がたどり着くと,皮質はみなさんが見ているものをヘビだと判断して,この情報—ヘビがいるぞ—を扁桃体に送り,みなさんは恐怖を感じる。この過程は全部で0.024秒かかる。
 低位の経路でかかる時間はその半分だ。速い恐怖システムを使うときには,道ばたでヘビを見ると,知覚情報は視床にとどき,そこから直接扁桃体に送られる。扁桃体も脳の奥,頭の側面にある。この過程は0.012秒かかる。ルドゥー博士が速い恐怖を低位の経路と呼ぶのは,知覚情報が脳のてっぺんまで伝わらないからだ。皮質は蚊帳の外だ。。
 どちらのシステムも同じ知覚情報が入力されて,同時に作動する。つまり,視床は恐怖になりそうな知覚情報を受け取って,二カ所に送り出す。ヘビを見ているなら,速い恐怖システムが,0.012秒でぎょっとさせる。それから,0.012秒後に,くわしく分析するために皮質を経由してようやく扁桃体にたどり着いた,まったく同じ情報による恐怖の衝撃を受け取る。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.282-283.

イメージと恐怖・パニック

 私は自分の体験と,発表した研究から,言葉よりも心に描くイメージのほうが,恐怖とパニックにはるかに密接に結びつくと考えるようになった。ウエスタンオンタリオ大学の精神医学助教授ルース・ラニアスは,「心的外傷後ストレス障害」いわゆるPTSDに苦しんでいる人の脳スキャンをおこなった。性的虐待,暴行,あるいは交通事故が原因でPTSDをもつ11人と,同じような体験をしてもPTSDにならなかった13人の脳をスキャンした。ふたつのグループに見つかった大きなちがいは,一方のグループが心的外傷を視覚的に記憶し,もう一方は言語を使って,言葉による物語として記憶していたことだった。スキャンの結果はこれを裏づけていた。心的外傷を思い出すときに,PTSDのある人は脳の視覚領域が(ほかの領域とともに)明るくなり,PTSDのない人は言語領域が明るくなった。
 どういうわけか,言葉がかかわる恐怖はレベルが低い。これは,「百聞は一見にしかず」ということわざにもあらわれている。怖いものを描いた絵は,言葉で述べた説明よりもはるかにおそろしい。その証拠に,怖いものを目で見た記憶は,言葉で頭に入れた記憶よりもおそろしい。言葉のほうがおそろしくないのはどうしてなのか。これが脳内でどう作用しているのか,だれにもわからない。けれども,動物と自閉症の人は絵に頼らざるをえないので,恐怖を抑制するとなると,大きな不利をこうむっている。


テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.257-258.

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]