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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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もっとも複雑な脳をもつ動物がもっとも凶悪な行動をする

 動物の暴力が発生するわけはわからないが,研究文献に目を通してショックを受けるのは,もっとも複雑な脳をもつ動物が,もっとも凶悪な行動にもかかわっているという事実だ。動物と人間は複雑な脳をもった代償をはらっているのだろう。ひとつには,複雑な脳では,接続ミスが発生することが多く,ミスから凶悪行為が生まれるのかもしれない。もうひとつ考えられるのは,脳が複雑になるほど行動の幅が広がるので,複雑な脳をもつ動物は新しい行動を自由に発達させ,その行動はいいものだったり,悪いものだったり,その中間だったりすることだ。人間は大きな愛情を注ぎ,身を挺することもできるが,同時にきわめて冷酷にもなれる。たぶん,動物も同じだろう。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.204.
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ラブラドールレトリーバーの問題点

 人間は恐怖心のあまりない犬をつくり出そうとして,大きな危険をおかしている。しまいには,とても危険な動物が登場しかねない。その一方で,これまでのところ,ラブラドールレトリーバーはこの問題からまぬかれている。ラブラドールは恐怖心があまりなく,しかも攻撃性が低い。自然界では見られない現象だ。これは繁殖家がどちらの情動も低いレベルを選択してきたからだろう。少なくとも,そういう選択をしていることを願う。ところが,ラブラドールの場合でも,あまり知られていないが,遺伝的な形質が原因の問題が出てきた。
 ひとつは,とてもおとなしい犬ができるように品種を改良していることが原因だ。そして,おとなしすぎて異常なラブラドールが出現しはじめている。上下の顎をつかむといった攻撃的なことをしても,反応を示さない。驚くべき犬も出てきて,車がバックファイヤーを起こしても,飛びはねもしなければ,誘導することになっている視覚障害者を連れて逃げもしない。こういう性格は,乱暴で何をするか予測がつかない子どもの相手にはおあつらえ向きといえる。
 ラブラドールは痛みの感覚も鈍い。とはいえ,これは昔からもっていた特性かもしれない。ニューファウンドランドの作業犬だったから,氷のような水中に飛び込んで魚網から魚をとってこなければならなかった。ラブラドールのそういう行動は今日でも見られる。幼犬は子ども用の浅いプールに飛びこんで,魚をつかまえようとしているように,がむしゃらに水をかく。
 おとなしすぎる犬をつくり出すことで生じた問題は,あらゆる意欲を奪ってしまうということだ。盲導犬訓練学校の女性と話したときに,注意散漫なために役に立たないラブラドールがいるという話を聞いた。訓練のできない犬をつくり出しているのではないかという心配が出はじめている。もっと困ったことに,癲癇をもつラブラドールが出てきた。どんなものでも脳の特性の過剰選択をすると,最後は癲癇が出る。これはスプリンガースパニエルに生じたことで,今では突然凶暴になる「スプリンガーレイジ」という病気をもっている。とても機敏に見えるように品種改良されてきて,最後には,一種の癲癇をもつようになり,突然,攻撃的になるようになった。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.172-173.

動物の確証バイアス

 確証バイアスが組み込まれているために生じる不都合は,根拠のない因果関係までたくさんつくってしまうことだ。迷信とは,そういうものだ。たいていの迷信は,実際には関係のないふたつの事柄が,偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に,たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日も,たまたま青いシャツを着ていた。それからあとは,青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。
 動物は,確証バイアスのおかげで,いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。養豚場では,豚は電子制御された狭い餌用囲いの中で一頭ずつ餌を与えられる。豚は食べ物をめぐってほんとうに意地きたないけんかをすることがある。それで養豚家は囲いを使って平和を維持するのだ。どの豚も電子タグを首輪につけていて,それが料金所の電子通行証のような役目を果たす。豚が餌用囲いまでやってくるとスキャナーがタグを読みとってゲートを開け,豚が入るとゲートを閉めて,ほかの豚が一頭も入ってこないようにする。囲いの側面はがんじょうなので,外にいる豚は鼻が中までとどかず,餌を食べている豚のしっぽやお尻に噛みつくことができない。
 豚は囲いの中に入ると,餌用囲いに入れてもらえるのは首輪のおかげだと考えるものがいて,持ち主のない首輪が地面に落ちていると,拾って囲いまで持っていき,それを使って中に入る。この場合,確証バイアスによって現実的な正しい結論を導いている。
 ところが,ほかの豚も,これまた確証バイアスにもとづいて,囲いの中の餌桶にまつわる迷信をこしらえる。私が見ていたときには,何頭かが餌用囲いまで歩いていって扉が開いていると中に入り,それから餌桶に近づき,地面を踏み鳴らしはじめた。足を鳴らしつづけていると,そのうち頭がたまたま囲いの中のスキャナーにじゅうぶんに近づいて,タグが読みとられ,餌が出てきた。どうやら豚は,たまたま足を踏み鳴らしていたときに餌が出てきたことが何回かあって,餌にありつけたのは足を踏み鳴らしたからだという結論に達していたらしい。人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。私たちの脳は,偶然や思いがけないことではなく,関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも,相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。私たちが生命を維持するうえで知っておく必要のあるものや,見つける必要があるものを学ばせる脳の同じ部分が,妄想じみた考えや陰謀めいた説も生み出すのだ。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.135-136.

研究の進歩

 動物が探索状態になるのを好むことは,自己刺激の研究からわかっている。研究では,動物に電極の調節をさせて,自分で電極のスイッチを入れたり切ったりできるようにする。電極を好奇心/関心/期待システムに埋め込むと,動物はスイッチを入れて,狂ったように走りまわったり,においをかいだりして,すっかり疲れはてるまでやめようとしない。
 こういった実験については大学で本を読んでいる人も多いので,研究の解釈がこの数年でがらりと変わっていることを指摘しておきたい。昔は,この回路は脳の「快楽中枢」と考えられていた。「報酬中枢」と呼ばれることもあった。探索回路にかかわる主要な神経伝達物質はドーパミンであるため,ドーパミンは「快楽」物質と考えられていた。私も大学でそう教わった。こういった実験について学んだときには,ESBで観察された動物はいつまでも続くオルガスムのようなものを経験しているにちがいないと考えた。
 快楽中枢は,ドーパミンが多数の薬物依存症にかかわっていることとも一致した。コカイン,ニコチンなどの刺激物はどれも脳内のドーパミン値を上昇させる。薬物を使うと気分がよくなるので人間は薬物依存におちいり,したがってドーパミンは脳内の快楽物質にちがいないと考えられた。
 ところが,現在では,まったくちがう考え方がなされている。コカインのような薬物が快感を与えるのは快楽中枢ではなく,脳内の探索システムを激しく刺激するからだという説で,その証拠は山ほどある。自己刺激をしているラットが刺激していたのは,好奇心/関心/期待回路だった。それが快く感じられるのだ。なにかに興奮して,起こっていることに大きな関心を抱き—「ハイになる」とよくいわれていた状態になる。

テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.130-131.

なぜ頭を下げるのか

 闘牛の牛が闘牛士に飛びかかる前に頭を低くする姿を見たことがあるだろう。ボーダーコリーは羊を集めるときに,まったく同じことをする。頭を肩までさげて羊をにらむ。こうするのは,網膜が私たちのものとちがうからだ。人間の網膜には中心窩がある。中心窩は目の後ろにある円形の部分で,ものがいちばんよく見えるところだ。平原に住むレイヨウやガゼルのような足の速い動物や家畜には,中心窩ではなく,網膜の後ろを水平に横切る「視覚線条」がある。動物が何かを見るために頭を低くするときには,おそらく像を視覚線条に集めているのだろう。視覚線条は動物が地平線を見渡すのに役立っているようだ。


テンプル・グランディン&キャサリン・ジョンソン 大橋晴夫(訳) (2006). 動物感覚 アニマル・マインドを読み解く 日本放送出版協会 pp.62-63

有神論者・理神論者・汎神論者

 用語法について念を押しておこう。有神論者(theist)は,そもそもこの宇宙を創造するという主要な仕事に加えて,自分の最初の創造物のその後の運命をいまだに監視し,影響を及ぼしているような超自然的知性の存在を信じている。多くの有神論的な信仰体系においては,神は人間界の事柄に密接にかかわっている。神は祈りに応える。罪を赦し,あるいは罰する。奇跡をおこなうことで世界に干渉する。善行と悪行に思い悩み,私たちがいつそれをおこなうかを(あるいはそうしようと考えることさえ)知っている。理神論者(deist)も超自然的な知性を信じているが,その活動は,そもそも最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定される。理神論の神はそれ以降のことに一切干渉せず,人間界の事柄に特別な関心をもっていないのも確かだ。汎神論者(pantheist)は,超自然的な神をまったく信じないが,神という単語を,超自然的なものではない<自然>,あるいは宇宙,あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う。理神論者は,彼らの神が祈りに応えず,罪や懺悔に関心をもたず,私たちの考えを読みとったりせず,気まぐれな奇跡によって干渉したりしないという点で有神論者と異なる。理神論者は,彼らの神が,汎神論者の神のように宇宙の法則の比喩的あるいは詩的な同義語ではなく,ある種の宇宙的な知性である点で汎神論者と異なる。汎神論は,潤色された無神論であり,理神論は薄めた有神論なのである。


リチャード・ドーキンス 垂水雄二(訳) (2007). 神は妄想である 宗教との決別 早川書房 p.34.

文化の錯覚

 文化ステレオタイプを良く調べてみると,「文化」について,いくつかの錯覚を生み出していることがわかる。もっとも重大な錯覚は,決定性,斉一性,両極性,不変性の4つだろう。いずれも,たいがいは自分がそう考えていることすら意識しないままに陥ってしまっている錯覚である。
 もう少し詳しく説明しよう。
 まず,「決定性」というのは,「文化が人間の行動を決定する」という考えかたである。(ちなみに,ここでいう「行動」は,なにかをしたり言ったりすることだけではなく,価値判断や意思決定など,表にあらわれない精神活動までをも含んだ,広い意味での「行動」である。)「日本文化は集団主義的なので,日本人は集団主義的に行動するのだ」というイメージを思い描いてしまう。これが「決定性」の錯覚である。
 「斉一性」というのは,「ある文化に属するひとびとは,みな同じように行動する」という考え方である。「日本人は集団主義的,アメリカ人は個人主義的」だといわれると,「日本人はみな集団主義的に行動し,アメリカ人はみな個人主義的に行動する」かのような気がしてくる。これが「斉一性」の錯覚である。
 「両極性」というのは,「文化差」を「白と黒」のような極端な違いとしてとらえてしまうことである。日本人論の議論からは,「日本人は非常に集団主義的に行動し,アメリカ人は非常に個人主義的に行動する」かのような印象を受ける。これが「両極性」の錯覚である。
 さいごの「不変性」は,「文化の本質は不変であり,したがって,文化差も本質的には不変だ」という考えかたである。「国民性」とか「民族性」とかいわれるような内面化された文化については,暗黙のうちに,この「不変性」が想定されることが多い。日本人論も例外ではない。
 しかし,これらは,いずれも「錯覚」であり,現実の「文化差」とは大きく食いちがっている。

高野陽太郎 (2008). 「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来 新曜社 pp.281-282.

大音響のハウリング

 「日本人=集団主義」説の立場にたつ日本人の心理学者から,つぎのような研究の動機を聞かされたことが何度かある。……「これまでの心理学は,欧米での研究結果をそのままにほんにあてはめてきた。だが,異なる文化をもつ日本人は,その心理も欧米人とは異なっているはずであり,日本人特有の心理を明らかにすることが日本の心理学者の責務なのだ。」
 この主張に共感する日本の心理学者は少なくないようである。しかし,その「日本人特有の心理」を,アメリカの自己賛美イデオロギーの裏返しである「集団主義」にもとめたのでは,結局,お釈迦様の掌の上を飛びまわった孫悟空の二の舞に終わってしまうのではないだろうか。
 「日本人=集団主義」説の立場から書かれた中根千枝や土井健郎などの著書は英訳され,おなじ立場にたつ欧米の研究者によって頻繁に引用されてきた。「日本人自身が自分たちは集団主義だと言っている」という事実は,「日本人=集団主義」説の信憑性を高めるための恰好の証拠として利用されてきたのである。その結果,「集団主義」は,日本人の代名詞にまでなった。そして,「だれもが信じている」ということ自体が,さらにまた,この説の信憑性を高める役割をはたすようになった。
 「ハウリング」という現象がある。マイクとスピーカーが向かい合っているときに生じる現象である。はじめ,マイクに小さな音がはいると,それがアンプで増幅されてスピーカーから出てくる。その音がマイクにはいって,さらに増幅されてスピーカーから出てくる。さいごには,耳をつんざくような大音響になってしまう。これが「ハウリング」である。
 「日本人は集団主義的だ」という欧米人の言葉を耳にした日本人は,「欧米人の言うことだから間違いはないだろう」と思い,自分でも「日本人は集団主義的だ」と語るようになる。これを聞いた欧米人は,「日本人自身がそう言っているのだから間違いはないだろう」と考えて,「日本人=集団主義」説にますます確信をいだくようになる。このサイクルが繰り返されていくうちに,だれもが確信をもって「集団主義的な日本人」を口にするようになる。
 しかし,だれもが信じているということは,かならずしも,この説が正しいということを証明しているわけではない。だれもが信じていることは,たんなる大音響のハウリングにすぎないのかもしれないのである。

高野陽太郎 (2008). 「集団主義」という錯覚 日本人論の思い違いとその由来 新曜社 pp.246-248.

集合的な意思決定

 集合的な意思決定は合意形成といっしょくたに考えられることが多いが,集団の知恵を活用するうえで合意は本来的には必要ない。合意形成を主眼に置くと,誰かを刺激することもない代わりに誰の感情も害さないような,どうでもいい最大公約数的なソリューションになりやすい。合意志向のグループは慣れ親しんだ意見ばかり大事にして,挑発的な意見は叩きつぶすからだ。
 この「みんなで仲良くしようヨ」的アプローチが生み出す問題は,第二次世界大戦後に多くの企業がつくりだした無限とも思えるマネジメントの階層によってますます悪化した。意思決定プロセスにできるだけ多くの人を参加させようとすると,企業のトップはほかの人たちが本当に考えていることからますます隔絶されるという矛盾が起きるのだ。意思決定の前にマネジメント層ごとに綿密に検討を加えるので,ソリューションの質も落ちていく。

ジェームズ・スロウィッキー 小高尚子(訳) (2006). 「みんなの意見」は案外正しい 角川書店 pp.219-220.

実力主義へのこだわり

 過去に優れた業績があったからといって,現在の研究が優れていると判断されるようなことがあってはいけない。過去の業績はアイデアの実質的な妥当性とは全く無関係なのだから。名声をもとに科学界のヒエラルヒーがつくられるようなことがあってもいけない。
 科学界のエートスのすばらしさは,実力主義への断固としたこだわりにある。マートンが科学的規範について書いた著名な論文にはこうある。「ある主張が科学のリストに載るか否かは,その主張をしている人の個人的,社会的属性に影響されない。彼の人種,国籍,宗教,社会経済階級,個人的資質は無関係である」。
 科学の世界では,主張している人が誰であるかに関係なく,ほかのどんな理論よりもデータをうまく説明できるというアイデアに内在する価値ゆえに業績として認められる。
 これは幻想にすぎないかもしれないが,とても大切な幻想だ。

ジェームズ・スロウィッキー 小高尚子(訳) (2006). 「みんなの意見」は案外正しい 角川書店 p.189.

五重の排除

 これまで述べてきたことを踏まえて,私は貧困状態に至る背景には「五重の排除」があると考えている。
 第一に,教育課程からの排除。この背景にはすでに親世代の貧困がある。
 第二に,企業福祉からの排除。雇用のネットからはじき出されること,あるいは雇用のネットの上にいるはずなのに(働いているのに)食べていけなくなっている状態を指す。非正規雇用が典型だが,それは単に低賃金で不安定雇用というだけではない。雇用保険・社会保険に入れてもらえず,失業時の立場も併せて不安定になる。かつての正社員が享受できていたさまざまな福利厚生(廉価な社員寮・住宅手当・住宅ローン等々)からも排除され,さらには労働組合にも入れず,組合共済などからも排除される。その総体を指す。
 第三に,家族福祉からの排除。親や子どもに頼れないこと。頼れる親を持たないこと。
 第四に,公的福祉からの排除。若い人たちには「まだ働ける」「親に養ってもらえ」,年老いた人たちには「子どもに養ってもらえ」,母子家庭には「別れた夫から養育費をもらえ」「子どもを施設に預けて働け」,ホームレスには「住所がないと保護できない」ーーーその人が本当に生きていけるかどうかに関係なく,追い返す技法ばかりが洗練されてしまっている生活保護行政の現状がある。
 そして第五に,自分自身からの排除。何のために生き抜くのか,それに何の意味があるのか,何のために働くのか,そこにどんな意味があるのか。そうした「あたりまえ」のことが見えなくなってしまう状態を指す。第一から第四までの排除を受け,しかもそれが自己責任論によって「あなたのせい」と片づけられ,さらには本人自身がそれを内面化して「自分のせい」と捉えてしまう場合,人は自分の尊厳を守れずに,自分を大切に思えない状態にまで追い込まれる。ある相談者が言っていた。「死ねないから生きているにすぎない」と。周囲からの排除を受け続け,外堀を埋め尽くされた状態に続くのは,「世の中とは,誰も何もしてくれないものなのだ」「生きていても,どうせいいことは何一つない」という心理状態である。


湯浅 誠 (2008). 反貧困 「すべり台社会」からの脱出 岩波書店 pp.60-61.


人を伸ばす基本

 仕事にはセンスがつきもの。努力しても乗り越えられない壁というのは,どうしたってあります。しかし問題となるのは,スキルは一朝一夕に高くなるものではないのに,仕事ができないことをセンスが低いからだと思い違いをして,干すような状況をつくることです。
 「最近の若い者はレベルが下がった。昔は……」
 と嘆く人は,かつての自分のことを忘れてしまっています。
 チャンスを与える。チャンスを生かして能力が上がったら,どんどんレベルの高い仕事を与えてさらに伸ばす。そして,能力に見合った給与をきちんと支払うーーー。
 これが,人を伸ばす基本です。

山田咲道 (2008). バカ社長論 日本経済新聞出版社 pp.48-49.

嫉妬とは

 翌日,談春(ボク)は談志(イエモト)と書斎で二人きりになった。突然談志が,
 「お前に嫉妬とは何かを教えてやる」
 と云った。
 「己が努力,行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって,自分のレベルまで下げる行為,これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来なら相手に並び,抜くための行動,生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの,世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は現実だ。そして現状を理解,分析してみろ。そこにはきっと,なぜそうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」


立川談春 (2008). 赤めだか 扶桑社 p.116.

キツネの家畜化実験

 1950年代末に,人里離れたシベリアのノボシビルスクという町で,ドミートリイ・ベリャーエフは40年にわたって続く実験を開始した。遺伝学を修めていたベリャーエフは家畜化のプロセスを再現することに関心を寄せ,犬と非常に近いが家畜化はされていない種で,それをやってみることにした。選ばれたのはギンギツネである。実験はベリャーエフの死後も続き,15年後の1999年までに,研究グループは4万5000匹のキツネを繁殖させ,30世代以上にわたる交配の結果,100匹ほどの人なつっこいキツネを生み出していた。リュドミラ・トルットによれば,この「家畜化された少数精鋭(エリート)」のキツネは尻尾を振り,甘えるように鳴き,「積極的に人間との接触を確立しようと,くんくん鳴いて人の関心を引いたり,実験者に対してにおいを嗅いだりなめたりと,イヌのようなことをする」という。
 だが,この前例のない繁殖計画がもたらした結果は,凶暴性のある祖先から従順な動物が生まれたというだけではなかった。家畜化のプロセスは,同時にさまざまな特徴を生み出し,その多くは,イヌやウマやウシなど,他の種の家畜化においても見られるものだった。たとえば直立していた耳はだらりと垂れ,尾は巻き上がり,毛皮の色はただの一色からまだらへと変わり,色素の沈着している部分としていない部分が入り混じるようになった(白黒のボーダーコリーもその一例である)。変化はその他にも数多くあった。家畜化されたエリートキツネは頭が小さくなり,鼻先が短くなり,性的成熟に達するのが1ヶ月ほど早くなり,一度に生む子の数が増え,さらにホルモン生成や脳神経科学の面でも違いを示す。
 どうやってベリャーエフらはこれだけ多くの---身体構造,心理,行動の---変化を,たった40年で引き起こせたのだろう?頭の小さいキツネ,耳の垂れたキツネ,尾の巻き上がったキツネ,皮膚に色素が沈着していないキツネだけを繁殖させたのだろうか---違う。それなら早く性的成熟に達するキツネだけを繁殖させたのか---それも違う。それならキツネを独特の方法で訓練したとか,人間やイヌがそばにいるところで育てたのだろうか---それも違う。彼らがやったことはただ1つ,毎月1回キツネの子をテストするだけだった。「子ギツネが生後1ヶ月に達すると,実験者が自分の手から食物を差し出しながら,同時に子ギツネをなでて手なずけようとする・……テストは毎月,子ギツネが生後6ヶ月か7ヶ月になるまで続けられる」。そのたびにキツネの子は「馴れ度」を採点され,やがて高い得点を出したキツネだけが繁殖を許される。つまり,このたった1つの行動にもとづく選択だけで,先程述べたような数々の変化が生み出され,それとともに家畜化されたキツネができあがるのだ。


マーク・S・ブランバーグ 塩原通緒(訳) (2006). 本能はどこまで本能か ヒトと動物の行動の起源 早川書房 pp.296-299.


どこまで遺伝でどこまで環境?

 予想はつくかもしれないが,遺伝要因と環境要因の境界線は,複雑さの度合いが増すにつれてさらにあいまいになる。今度はフェニルケトン尿症(PKU)を考えてみよう。これは「遺伝病」の古典的な一例だが,単純な環境の調節で避けることができる。問題となる遺伝子は,アミノ酸フェニルアラニン(合成甘味料ニュートラスイートの主要成分)を分解する肝臓酵素,フェニルアラニン水酸化酵素(PAH)をコードする。PAH遺伝子の2つのコピーに欠損を抱えて生まれてきた子どもは,体内にフェニルアラニンが蓄積するため,結果として他のアミノ酸が脳に送られにくくなる。アミノ酸が不足して,最終的にはタンパク質が足りなくなるため,脳の正常な発達が妨げられ,精神遅滞が生じる。この一連の事象はあらかじめ定められた避けられない流れのように見えるが,決してそうではない。フェニルケトン尿症の幼児にフェニルアラニンを含む食物を摂らせなければ,簡単に防ぐことができる。さらに,いったん脳の発達が完了してしまえば,ふたたびフェニルアラニンを含む食物を摂りはじめても,なんら影響はない。こうした発見にもとづいて,分子生物学者のマイケル・モレンジは,食生活にフェニルアラニンが含まれていた場合にしかフェニルケトン尿症が発症しないなら,この典型的な遺伝病はむしろ環境病と呼ぶべきなのではないかと疑問を投げている。実際,その観点からすると,発症に必要な環境条件がそろわないために存在を知られていにだけで,フェニルケトン尿症のような病気がほかにどれだけあるのかという疑問がわいてくる。おそらくそうした病気のうちのいくつかは,いずれ私たちの子孫が新しく植民地化した惑星の根本的に異なる環境にさらされたときに発症するだろう。
 近年の研究を見ると,フェニルケトン尿症から学ぶべき点はさらに多い。たとえば,あるフェニルケトン尿症の女性は,乳幼児期に低フェニルアラニン食によって治療に成功し,おとなになった現在は通常の食生活を送っている。ただし,彼女はいまでもPAH遺伝子が欠損しているので,摂取したフェニルアラニンを分解できないため,もはや無害だとはいえ,このアミノ酸の血中濃度そのものはきわめて高い。無害と言ったが,それは彼女にとってという意味である。なぜならこの女性が妊娠すれば,フェニルケトン尿症ではない正常な胎児が,彼女の子宮のなかでフェニルケトン尿症の幼児と同程度のフェニルアラニン血中濃度にさらされるからである!つまり,遺伝子は違うのに,結果は同じとなって,過剰なフェニルアラニンによる精神遅滞が引き起こされるのだ。それぞれの場合で原因をどこに求めればいいのだろう?ダグラス・ウォルステンがこの難題をうまく言い表している。すなわち,フェニルケトン尿症は環境上の障害によって脳の発達を阻害する遺伝病なのか,それとも母体の遺伝子の欠損から生じる環境上の障害なのか?境界線はぼやけていく一方である。

マーク・S・ブランバーグ 塩原通緒(訳) (2006). 本能はどこまで本能か ヒトと動物の行動の起源 早川書房 pp.88-89.

ネコのDNAを送る

 このように激しい勢いで事態が進展していったため,遺伝子の本当の機能を冷静に振り返ろうとする多くの人の意見は,ほとんどかき消されてしまった。興奮が収まったいまになって都合よく冷静さを呼びかける人も(フランシス・コリンズなど)いるにはいるが,騒ぎが始まったばかりのときからそう主張していた人もたくさんいた。彼らは論理的で科学的な事実にもとづいて,当時の論調を支配していた単純すぎる考え方に疑問を投じる主張を掲げていた。そうした批判派の一人が,自らも分子革命において初期の中心的役割を果たした分子生物学者のガンサー・ステントだった。ステントは,カール・セーガンが半ば本気で言った,ネコのDNAを別の惑星のエイリアンに送ってやればネコそのものを送ってやるのと同じだという意見に強烈に反論し,それならエイリアンは「地球の生命について,単なるDNAと……タンパク質のアミノ酸配列との型通りの関係だけでなく……それ以上のことを相当よく知っていなければならないだろう」と断じた。たしかにエイリアンがネコのDNAを使ってアミノ酸とタンパク質を合成できるだろうと私たちが勝手に思ったとしても,彼らの手元には(せいぜい)タンパク質が乱雑に積み重なったものしか残らないだろう。

マーク・S・ブランバーグ 塩原通緒(訳) (2006). 本能はどこまで本能か ヒトと動物の行動の起源 早川書房 pp.72-73.

遺伝子だけでペットはつくれない

 クローニングが期待され,だからこそ恐れられているのは,家畜,ペット,そしておそらく人間の子どもまで含めて,動物の複製をつくれる能力がこの技術にあるからだ。しかし,クローニングによってつぎつぎに生まれてくるヒツジやネズミ,ウシ,ヤギ,ウマ,ブタなどに世間の多大な関心が集まっているなかで,すっかり陰に隠れている驚くべき観察結果がある。クローンは決して複製ではないのだ。これが最も明確に表されたのは,世界初のクローン猫,Cc(カーボンコピーの略)が2001年12月22日に誕生したときである。Ccをつくりだしたプロジェクトは,ある犬の飼い主の資金援助を受けていた。その飼い主は死んだ愛するコリーの複製をつくりたいと願い,クローンならその希望をかなえてくれると期待していた。しかし,白い毛にグレーの縞が入ったCcが,母親と似ても似つかないことは一目瞭然だった。母親のレインボーは白地に茶色と黄褐色と金色の斑点のある典型的な三毛猫だったのだ。そしてCcが成長するにつれ,さらに多くの違いが現れた。たとえばレインボーは肉付きがよくておとなしかったのに,娘のCcはやせていて活発だった。これこそ明らかな証拠ではないか。つまり---とくとごらんあれ---遺伝子だけではペットはつくれないのである。


マーク・S・ブランバーグ 塩原通緒(訳) (2006). 本能はどこまで本能か ヒトと動物の行動の起源 早川書房 pp.96-97.

白黒争い

 さて,1977年に改訂された指導要領に基づき,いよいよ1981年から中学の英語の授業は週三時間に減らされることになる。この頃から,コミュニケーション重視の指導法が勢力を得,それが文法軽視の傾向を生み出すことになる。國弘正雄,村松増美といった英語の名人が,こぞって文法の重要性を説いたにもかかわらず,まさに彼らのような「英語を使える人材」を理想として改訂されたはずの指導要領の結果,中学の学習から文法が切り捨てられていくのは,まさに皮肉としか言いようがなかった。
 さらに,文法軽視の傾向が顕著になるに従って,コミュニカティブ・アプローチそのものを悪玉扱いする識者が現れるわけだが,「英語教育大論争」の「実用英語vs.教養英語」といい,今回の「コミュニケーション重視vs.文法重視」といい,この分野の論争が,えてして単純な「白黒争い」に堕してしまうのは悲しむべきことである。なぜ,文法を軽視せずにコミュニケーション・スキルを上げる方法が議論されないのか,不思議でならない。これでは『ジャック・アンド・ベティー』や『アメリカ口語教本』の時代から,ただの一歩も前進していないではないか。

晴山陽一 (2008). 英語ベストセラー本の研究 幻冬社 pp.124-125.

冷笑主義者

 冷笑主義者の目的は,すべての言論を否定することです。否定することは簡単です。いろんな説を否定しさえすれば,簡単に自分たちが優位に立てます。
 実際のところ,彼らは,自分たちの主張が他人に受け入れられることすら求めていません。どこかの誰かが何かの説を正しいとどれだけ主張しようと,まったく困りません。そういう人たちを「バカだ」と見下すことさえできれば,それで満足です。だから,普通の人が常識的に受け入れている様々なことを否定して場を乱すのです。
 議論の場では,彼らは同じ土俵に立っていないことに注意しなくてはなりません。アリの行列にイタズラをして遊ぶ子供のようなものです。一生懸命に巣に餌を運んでいるアリに対して,障害物を置いてみたり,乗っている板をくるっと回したりして,右往左往するアリを眺めて楽しむのと同じ感覚です。一生懸命に議論をしている人々に対して,様々なイタズラを仕掛け,それに反応するさまを眺めて楽しんでいます。まじめに議論をしている人にとっては,非常に迷惑な存在です。

岩田宗之 (2007). 議論のルールブック 新潮社 pp.50.


公転するティーポット

 哲学者のバートランド・ラッセルが出したティーポットの喩え話がある。ある人が,「地球と火星の間に楕円軌道を描いて公転している陶磁器製のティーポットが存在している」という説を唱えたとしよう。ところが,そのティーポットはあまりに小さいので最も強力な望遠鏡を使っても見ることができず,重力が小さいので地球や火星に及ぼす影響も検出することができない。そのため誰も反論することができない。さて,この場合,反証できないからと言ってそれが実在すると主張できるだろうか。むろん,それを主張する人が実証責任を負うべきことは誰でも分かる。ティーポットがあってもなくても何ら効果を及ぼさないから,勝手な主張をするなら自分で証明すべきなのだ。

池内了 (2008) 疑似科学入門 岩波書店 p.19

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