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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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100パーセント理解しあえないのが当然

 さて,この点をもう一度確認しておきましょう。「自分のことを百パーセント丸ごと受け入れてくれる人がこの世の中のどこかにいて,いつかきっと出会えるはずだ」という考えは,はっきり言って幻想です。
 「自分というものをすべて受け入れてくれる友だち」というのは幻想なんだという,どこか覚めた意識は必要です。でもそれは他者に対して不信感を持つことと決してイコールではないということは,ここまで読んでくれた皆さんになら,きっと理解していただけるはずですね。
 価値観が百パーセント共有できるのだとしたら,それはもはや他者ではありません。自分そのものか,自分の<分身>です。思っていることや感じていることが百パーセントぴったり一致していると思って向き合っているのは,相手ではなく自分の作った幻想にすぎないのかもしれません。つまり相手の個別的な人格をまったく見ていないことになるのかもしれないのです。
 きちんと向き合えていない以上,関係もある程度以上には深まっていかないし,「付き合っていても,何かさびしい」と感じるのも無理もないことです。
 過剰な期待を持つのは辞めて,人はどんなに親しくなっても他者なんだということを意識した上での信頼感のようなものを作っていかなくてはならないのです。
 このことと少し関連するのですが,このところ,自分を表現していくことに対して,すごく恐れのある人が多くなっているのではないかと思うのです。
 思春期というのは多かれ少なかれそういうものですが,それはなぜかというと,「百パーセントわかってもらいたい」とか,あるいは「自分の本当のところをすべてきちんと伝えたいじゃないか」と思ってしまうことが原因なのではないかと思います。それもやはり,「百パーセントの自分を丸ごと理解してくれる人がきっといるはずだ」という幻想を,知らず知らずのうちに前提しているためです。
 むしろ「人というものはどうせ他者なのだから,百パーセント自分のことなんか理解してもらえっこない。それが当然なんだ」と思えばずっと楽になるでしょう。だから,そこは絶望の終着点なのではなく希望の出発点だというくらい,発想の転換をしてしまえばいいのです。

菅野 仁 (2008). 友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 筑摩書房 pp.126-129.
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態度保留

 そもそも,クラス全員が仲良くできる,全員が気の合う仲間同士であるということは,現実的に不可能に近いことです。人間ですから,どうしてもお互い馬が合わない人,理屈ぬきに気に障る人というのはいます。大人だって,ほとんどの人は何かしら人間関係の悩みを持っています。
 そんなとき,ムカツクからといって攻撃すれば,ますますストレス過剰な環境を作り,自分のリスクも大きくすることになるのです。
 だからこそ第3章で強調した「並存性」という考え方が大事なのです。ちょっとムカツクなと思ったら,お互いの存在を見ないようにするとか,同じ空間にいてもなるべくお互い距離を置くということしかないと思います。
 ただし,露骨に”シカト”の態度を誇示するのも,攻撃と同じ意味を帯びてしまうことになります。朝,廊下や教室で会って目があったりしたら,最低限の「あいさつ」だけは欠かさないようにしましょう。あくまでも自然に”敬遠”するというつもりでやってください。
 要は「親しさか,敵対か」の二者択一ではなく,態度保留という真ん中の道を選ぶということです。


菅野 仁 (2008). 友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 筑摩書房 pp.91-92.

盗むな,殺すな

 社会のルールで何が一番大事かということは,いろいろな社会によって微妙に違ってくるかもしれません。でも,どんな社会にでも大体共通して大事に考えられているルールがあります。それは,「盗むな,殺すな」という原則です。
 これは,社会のメンバーそれぞれの生命と財産をお互いに尊重するというルールになっているわけです。
 どういうことかというと,自分の気分しだいで勝手に人を殺していいということになると,今度は自分がいつ殺されるかわからないということにもなりうるわけです。ですから,「殺すな」は結局自分が安全に生き延びるという生命の自己保存のためのルールと考えられるわけで,別に世のため人のためのルールと考える必要はないのです。
 「盗むな」もそうです。盗んでもいいという社会では,自分の持ち物・財産がいつ盗まれるかわからない。「殺すな」が守られない場合と同様,とても不安定な状況になってしまう。だから,「盗むな,殺すな」という社会のメンバーが最低限守るべきであると考えられているルールは,「よほどのことがない限り,むやみに危害を加えたりせず,私的なテリトリーや財産は尊重し合いましょう,お互いのためにね」という契約なのです。
 こうした観点から「いじめ」の問題をあらためて考え直してみると,誰かをいじめるということは,今度は自分がいつやられるかわからないという,リスキー(=危険)な状況を,自分自身で作っていることになります。
 いじめるか,いじめられるかを分けているのは,単にその時々の力関係によるもので,いつ逆転するかわかりません。
 無意味に人を精神的,身体的にダメージを与えないようにするということは,自分の身を守る,自分自身が安心して生活できることに直結しているのです。


菅野 仁 (2008). 友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 筑摩書房 pp.88-89.

これさえ守ればあとは自由

 ルールを大切に考えるという発想は,規則を増やしたり,自由の幅を少なくする方向にどうしても考えられてしまうのですが,私が言いたいことはそういうことではありません。むしろ全く逆なのです。
 ルールというものは,できるだけ多くの人にできるだけ多くの自由を保障するために必要なものなのです。
 なるべく多くの人が,最大限の自由を得られる目的で設定されるのがルールです。ルールというのは,「これさえ守ればあとは自由」というように,「自由」とワンセットになっているのです。
 逆にいえば,自由はルールのないところでは成立しません。
 「何でも好き勝手にやっていい」ということが自由だとしたら,無茶苦茶なことになってしまいます。人間というものは総じて自分の利益を最優先する傾向があるわけですが,「自分の利益のことしか考えない力の強い人」が一人いたら,複数の人間からなる社会における自由はもうアウトになります。この場合,誰か一人だけが自由で,残りの人はみんな不自由ということになりかねません。ルールの共有性があるからこそ,自由というものが成り立つのです。
 ホッブズの「社会契約論」を思い起こしてみてください。
 人間が生きるということの本質は自由であり,欲望の実現です。ルールとは,それぞれの人々が欲望を実現するために最低限必要なツールなのです。
 欲望は,百パーセントは実現できないかもしれない。しかしたとえば一割,二割,自分の自由を我慢して,対等な立場からルールを守ることでしか,社会のメンバー全員自由を実現することはできないのです。そうすることによって,残りほとんどの欲望は保障されます。でもルールというものの本質がそういうものだということは,なかなか了解されにくいのです。たとえば交通規則を思い出してください。どんなに急いでいても前の信号が赤ならば必ず止まる。一見すると「早く目的地に着きたい」という欲望は制限されていますが,そうした欲望を多少抑制することによって,誰もが安全に,事故に遭うよりはずっと早く目的地にたどりつくことができるのです。

菅野 仁 (2008). 友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 筑摩書房 pp.86-87.

愛せない場合は通り過ぎよ

 子どもが「○○ちゃんていうムカつくやつがいる」と家でふと漏らしたときに,「その子にもいいところはあるでしょう。相手のいいところを見てこっちから仲良くする努力をすれば,きっと仲良くなれるよ」というのは一見懐の広い大人の意見ですよね。その理想通りに運ぶこともあるでしょうが,現実にはなかなか難しいかもしれません。こんなときは,「もし気が合わないんだったら,ちょっと距離を置いて,ぶつからないようにしなさい」と言ったほうがいい場合もあると思います。
 これは「冷たい」のではありません。無理に関わるからこそ,お互い傷つけ合うのです。ニーチェという哲学者の言葉で,「愛せない場合は通り過ぎよ」という警句があります。あえて近づいてこじれるリスクを避けるという発想も必要だということです。
 ニーチェは「ニヒリズム」という言葉で有名な哲学者ですが,もうひとつ「ルサンチマン」というキーワードに焦点を当てて,ものを考えた人です。ルサンチマンとは「恨み,反感,嫉妬」といった,いわば人間誰もが抱きうる「負の感情」のことです。
 誰でも,自分がうまくいかなかったり,世の中であまり受け入れられなかったりしたときに,自分の力が足りないんだと反省するよりも,往々にして「こんな世の中間違っているんだ」と考えたり,うまくいっている人たちを妬んだりするものです。そんな感情を自覚して,「どうやりすごすか」を考えることが大切です。ニーチェは,「ルサンチマンについて陥ってしまうのが人間の常なんだけれども,そこからどう脱却するか」ということを示唆している哲学者です。「やりすごす」という発想が,非常に大事なことだと私は思っています。


菅野 仁 (2008). 友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 筑摩書房 pp.71-72.

共存すること

 こうした状況の中で,クラスで本当に「こいつは信頼できるな」とか,「この子といると楽しいな」という気の合う仲間とか親友というものと出会えるということがあれば,それはじつは,すごくラッキーなことなのです。そういう友だちを作ったりで会えたりすることは当然なのではなくて,「とてもラッキーなこと」だと思っていたほうが良いことは多いような気がします。
 そういう偶然の関係の集合体の中では,当然のことですが,気の合わない人間,あまり自分が好ましいと思わない人間とも出会います。そんな時に,そういう人たちとも「並存」「共存」できることが大切なのです。
 そのためには,「気に入らない相手とも,お互い傷つけあわない形で,ともに時間と空間をとりあえず共有できる作法」を身につける以外にないのです。大人は意識的に「傷つけあわず共存することがまず大事なんだよ」と子どもたちに教えるべきです。そこを子どもたちに教育していかないと,先生方のこれからのクラス運営はますます難しくなると思います。「みんな仲良く」という理念も確かに必要かもしれませんが,「気の合わない人と並存する」作法を教えることこそ,今の現実に即して新たに求められている教育だということです。

菅野 仁 (2008). 友だち幻想 人と人の<つながり>を考える 筑摩書房 pp.69-70.


小説家のサルに投資するか

 無限大匹のサルを(頑丈な)タイプライターの前に座らせて好きに叩かせると,『イーリアス』を正確に書き上げるサルが確実に一匹は出る。でも,調べてみると,一見して思うほどには面白い話ではないのがわかる。そんなことになる確率はとても低いからだ。この話をもう一歩進めてみよう。これでどのサルが英雄かはもうわかったわけだ。では,そのサルが次に『オデュッセイア』を書く方に賭ける人はいるだろうか?
 この思考実験で面白いのは二歩目のほうだ。過去のパフォーマンス(この例では『イーリアス』を書き上げた実績)は将来のパフォーマンスとどれくらい関係あるのだろうか?過去の実績にもとづき,過去の時系列データの特徴に頼って将来を予測するなら,どんな判断を下すときでも同じことが当てはまる。さっきのサルが,あなたの家を訪ねてきて,すばらしい実績をあなたに吹き込んだとしたら,どんなことになるだろう?だってほら,『イーリアス』を書き上げたんだから。

ナシーム・ニコラス・タレブ 望月 衛(訳) (2008). まぐれ 投資家はなぜ,運を実力と勘違いするのか ダイヤモンド社 p.170.

規範的科学と実証的科学の違い

 ここでちょっと立ち止まって,規範的科学と実証的科学の違いを説明しておくのがいいだろう。規範的科学(これはどう見ても自己矛盾をはらんだ表現だ)は規範にもとづく教えを説く。物事がどうあるべきかを研究する学問だ。一部の敬愛学者,たとえば効率的市場教の信徒たちは,人にとって合理的に行動するのが一番いい(数学的に「最適」である)わけだから,人間は合理的,人間の行動も合理的だと仮定して研究を行うべきだと信じている。その正反対にあるのが実証的科学だ。こちらは人が実際にどう行動しているかの観察にもとづいて形づくられる。経済学者は物理学者をうらやんでいるけれど,その物理学はもともと実証的科学だ。一方,経済学,とくにミクロ経済学や金融経済学は圧倒的に規範的である。規範的経済学は美意識に欠ける宗教みたいなものだ。

ナシーム・ニコラス・タレブ 望月 衛(訳) (2008). まぐれ 投資家はなぜ,運を実力と勘違いするのか ダイヤモンド社 p.232.

生き残るアイデア

 それに私は,進化論の主張と条件付確率の数学でアイデアについて検討したことがある。あるアイデアがいろいろな時代を経て長い間生き残ったとしたら,そのアイデアは相対的により適応しているということだ。一方ノイズ,少なくともノイズの一部は,その間に取り除かれている。数学的には,進歩とは新しい情報の一部が過去の情報よりも優れているということであって,新しい情報の平均が古い情報に置き換わるということではない。つまり,疑わしいときはシステマティックに新しいアイデアを否定するのが一番いいやり方だ。明らかに,そして驚くべきことに,常にそうなのだ。なぜだろう?

ナシーム・ニコラス・タレブ 望月 衛(訳) (2008). まぐれ 投資家はなぜ,運を実力と勘違いするのか ダイヤモンド社 pp.82-83.

後知恵バイアス

 私たちの頭は世界の仕組みをちゃんと理解できるようにはできていない。むしろ,問題をすばやく避けて子孫を残せるようにできている。私たちの頭が物事を理解するようにできていたら,そこには,過去の歴史をビデオみたいに正しく時間に沿って流し,しかも私たちがついていけるところまでスロー再生してくれる機械が組み込まれていただろう。事象が起きた後に得られた情報を,事象が起きたときにわかっていたはずだと考え,その結果,事象が起きた当時の情報を過大に見積もってしまうことを,心理学者たちは後知恵バイアスと呼ぶ。「最初からわかっていたよ」というやつだ。
 さて,先ほどの役人タイプは,損に終わった取引を「重大な過失」と呼んでいた。選挙の候補が何かの判断を行ってその結果選挙に負けたとき,マスコミがその判断を「間違い」と呼ぶのと同じだ。この点は喉が嗄れるまで繰り返す。間違いかどうかは事後に決まるのではない。事前に得られた情報に照らして決まるのだ。
 後知恵バイアスにはもっと悪い効果がある。過去を予測するのがとてもうまい連中が,自分は将来を予測するのもうまいのだと勘違いして,自分の能力に自信を持ってしまうのだ。だからこそ,2001年9月11日のような事件が起きても,私たちには,この世界では大事なことは予測できないものだということが覚えられない。ツイン・タワーが崩壊するのが,あの当時予測できたような気がしてしまうのだ。


ナシーム・ニコラス・タレブ 望月 衛(訳) (2008). まぐれ 投資家はなぜ,運を実力と勘違いするのか ダイヤモンド社 pp.78-79.

優しい関係」の維持

 現代の若者たちは,自己肯定感が脆弱なために,身近な人間からつねに承認を得ることなくして,不安定な自己を支えきれないと感じている。しかし,「優しい関係」の下では,周囲の反応をわずかでも読みまちがってしまうと,その関係自体が容易に破綻の危機にさらされる。その結果,他者からの承認を失って,自己肯定感の基盤も揺らいでしまう。だから彼らは,この「優しい関係」の維持に躍起とならざるをえない。きわめて高度で繊細な気配りが求められるこのような場の圧力が,彼らの感じる人間関係のキツさの源泉となっている。その意味で,「自分の地獄」とは,ひきこもりの青年たちだけの問題ではない。現代の若者たちに共有された一般的な問題なのである。

土井隆義 (2008). 友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル 筑摩書房 pp.99-100.

「優しい関係」の規範

 そもそも,意図せずして「優しい関係」の規範に抵触してしまうのは,それだけ互いのコミュニケーションへ没入できていないことの証拠でもある。したがって,そのこと自体が,「優しい関係」の維持にとって大きな脅威とみなされる。「優しい関係」は,強迫神経症のように過同調を互いに煽り合った結果として成立しているので,コミュニケーションへ没入していない人間が一人でもいると,その関係がじつは砂上の楼閣にすぎないことを白日の下に晒してしまう。王様が裸であることに皆が気づいているが,それを指摘するようなシラけた態度を誰も示してはならない。「優しい関係」を無傷に保つためには,皆が一様にコミュニケーションへ没入していなければならないのである。
 このような意味において,昨今のいじめ問題は,誰もがコミュニケーションへ没入せざるをえない今日の人間関係のネガティブな投影でもある。昨今のマスメディアでは,コミュニケーション能力の未熟さから若者達の人間関係が希薄化し,いじめをはじめとする諸問題の背景になっているとよく批判される。しかし,このように見てくると,実態はやや異なっていることが分かる。彼らは,複雑化した今日の人間関係をスムーズに営んでいくために,彼らなりのコミュニケーション能力を駆使して絶妙な対人距離をそこに作り出している。現代の若者たちは,互いに傷つく危険を避けるためにコミュニケーションへ没入しあい,その過同調にも似た相互協力によって,人間関係をいわば儀礼的に希薄な状態に保っているのである。

土井隆義 (2008). 友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル 筑摩書房 pp.46-47.

リンチの語源

 自警団が警察に代わって犯罪者を捕らえ,裁判所の代わりに暴力で刑罰を与えることを,「リンチ」と呼ぶ。この名称の由来は,ヴァージニアに入植したチャールズ・リンチ(1736〜96)にあるとされる。
 大佐だった彼は,1780年頃,馬泥棒などを処罰する目的で自警団を結成し,犯人を自分たちで捕まえては,裁判を行い,有罪と決まればその場でむち打ち刑に処した。これが,のちにフロンティア各地で行われる自警団による犯罪者の処罰の方法の原型となる。

鈴木 透 (2006). 性と暴力のアメリカ 中央公論新社 pp.81-82.

科学とは証拠に向かう態度

 しかし科学はただの名前ではない。証拠に向かう態度なのである。科学者は自分の考えを検証する覚悟がなくてはならないし,科学者の考えは,検証によって,誤りだと証明されることがありうるものでなければならない。これは,中学の教科書に書いてあるほど単純で純粋な仮説検証の営みではない。科学者も人間であり,自分の考えにとらわれてしまい,時には,実験で確かめられなかったとき言い訳をすることもあるかもしれない。実験条件にまずいところがあった,さらに実験をする必要があるなどなど。自分の考えに疑問を投げかける証拠,それどころかそれを否定する証拠を前にしてもその考えにしがみつくという科学者の弱さを指摘することもできる。このような行動に焦点を合わせると,欠点を強調する科学像が描ける。相対主義的な批判者の中には,科学は,その内部に意見の不一致があるのだから,ほかのどの見方とも変わらず真理から遠いもう一つの視点に過ぎないと主張する。この混迷からの出口の一つは,科学を理想と認識しながら,個々の科学者はこの理想に及ばないかもしれないと認めることである。
 にもかかわらず,時がたち,利用できる証拠が増えるにつれて,科学は知識の体系を蓄積し,私たちは,その予測の正しさが確実に確認されるという考えに基づいてこの体系に大きな信頼を置く。科学のこのような進歩は,厳格で絶え間ない自己検討を要求する科学者の共同体,ある考えを,それが証拠によって裏付けられるかどうかを判定できる形で検証することを要求する共同体があって可能となる。どんな検証方法にも弱点があるから,もっとも厳しく検討されて持ちこたえた考えのみを科学が最終的に受け入れるための土台となるのは,複数の検証の積み重ねだ。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2007). 統計という名のウソ 白揚社 p.209-210.

両極を避ける

 それでも科学がすべての問いに答えられるわけではない。科学によって(この時点では,すべての病気を説明できるわけではないが),人々がなぜ,どのように病気になるのかがわかる。しかし,若い女性がどれだけつつましく振舞うべきかはわからない。これは科学で判断できる主題ではない。科学の限界は私たちの文化では問題になる。それはまさに,私たちが科学に高い期待を抱いているからだ。私たちは,病気になったら,医師が判断を下し,悪いところを治療してくれると期待し,そうならないと苛立つ。社会的パターンを明らかにする研究や,リスクを評価する研究まで利用して,どう振舞うべきかを提示する。私たちの社会はデーター統計ーを,完全な答えでなくても少なくとも,さまざまな問いの答えを考えつくうえで重要な情報を与えてくれるものとして扱う。そうした問いには,必ずしも科学の守備範囲におさまらないものが数多く含まれる。
 統計と向き合うとき,極端な相対主義と極端な絶対主義の両極を避けなければならない。統計が社会の産物であること,そして,統計が,どのような手続きによって作り出されるかに左右されることを覚えておかなければならない。しかし,科学が,証拠を評価する術,数字の正確さを評価する術を与えてくれることも理解しなければならない。こうした点は,統計をめぐって意見の不一致が起こるときとくに大切になる。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2007). 統計という名のウソ 白揚社 pp.207-208.

二極化

 ここには大事な点がある。何が本当かをめぐる論争は,2つの根拠薄弱な立場に二極化しがちだ。一方の極には相対主義者がいる。現実とはわけのわからぬものであり,私たちは何も本当に知ることはできない,あらゆる視点を受け入れ,権威とされているどんなものにも疑念を抱くべきだと示唆するポストモダンの理論家たちだ。この立場の極端な変種は,超常現象があるという信念や陰謀説など,証拠が乏しい,あるいはまったくないさまざまな信念をすべて正当なものと認める。もう一方の極には,絶対主義者の領域がある。この人々は,事実は事実だと主張し,権威ある知識への異議申し立てに我慢できない。

ジョエル・ベスト 林 大(訳) (2007). 統計という名のウソ 白揚社 p.205.

子どもは純真?

 しかし一般には,子供は純真だという先入観がはびこっている。子供が純真そうな顔つきをしているのはたしかだが,実は未発達のために,そのような顔つきしかできないだけではないかと思う。その証拠に,身体を自由に操れる大人になると,純真そうな顔つきをするものは皆無となり,邪心が露骨に顔に現れるようになる。
 そもそも,大人になるとあれだけ悪いことをするような人間が子供のころだけ汚れのない人間だったはずがない。子供の頃は純真だったのに大人になって突然悪くなった,と考える方が不自然である。
 子供は実際には嘘もつけば,親の目を盗んで悪いこともする。そうでない子供もいるかもしれないが,それは,悪いことを思いつくだけの知恵がないか,実行するだけの体力や知力がないか,機会がないか,のいずれであるにすぎない。

土屋賢二 (2001). 哲学者かく笑えり 講談社 pp.111-112.

段階評価

 このように男は「たんなる見せかけ」を軽蔑する。しかし女に対しては,外見にとらわれて,内面にまでは目がとどかない。いくら内面的葛藤を抱えていても,男の本質は単純なのだ。
 このことは男女の語彙の差にも現れている。女の語彙は少ない。「すてき」,「いやらしい」など,主観的感想を4段階くらいで表現するための語彙に限られている。一方,男の語彙は,さらに少なく,「許せる」と「許せない」しかない。他のことばも使いはするが,それらはすべてこの2つの単語の同義語である。
 男が女を選ぶ基準も非常に単純である。女が男を選ぶときのように複雑な条件をつけたりしない。たいていは容貌と性格をもとにして選ぶが,そういっても実際は簡単である。容貌のランクは①許せる,②ただちに許せるとはいえない,の2段階しかない。性格も①許せる,のみの1段階評価である。

土屋賢二 (2001). 哲学者かく笑えり 講談社 pp.75-76.

健康法の根拠

 先日,身体の一部をマッサージするとあらゆる病気が治るという健康法をテレビで紹介していたが,その考案者は「なぜ寝たきりの猿がいないのか。それは自然な生活を送っているからだ。猿や猫が医学部に行って医学を勉強するだろうか。人間だけが医者になるのだ」と話していた。
 ふつうなら,ここから出てくる結論は,「自然界の動物は,寝たきりになるほど長生きしないし,医学部へ行けるほど頭が良くないし,入学金を払えるほど金持ちでない」ということだと考えるだろう。しかしテレビでは「だから人間は不健康だ」という結論を引きだしていた。
 わたしなら「自然の動物が虫歯になるだろうか。歯を磨く人間だけが虫歯になる。野生の動物が近視になるだろうか。学術書や請求書を読む人間だけが近視になる。野生の動物が頭痛に悩むだろうか。シソとミョウガと納豆(これらはほんらい食品ではない)を食べる人間だけが頭痛に苦しむのだ」と主張して,歯を磨く,学術書や請求書を読む,シソとミョウガと納豆を食べる,といった行為をやめるよう提唱するところだ。

土屋賢二 (2001). 哲学者かく笑えり 講談社 pp.43-44.

「民間健康法」と「正規の健康法」

 健康法にはさまざまあるが,大きく「民間健康法」と「正規の健康法」の二種類に分類することができる。民間健康法は,次のような特徴をもっている。民間健康法は,次のような特徴をもっている。
①簡単安易である。毎日50キロ走れとか,100日間山にこもれ,といった健康法があっても普及しないだろう。所要時間も1日5分が限度であろう(健康を切望しているといってもこの程度のものである)。
②万病に効く。画期的な健康法であればあるほど,あらゆる病気を治すものだと信じられている。「水虫からガンまで」,「夜尿症から心臓マヒまで」治る,というふれこみがあれば申し分ない。
③痛くない。せいぜいタワシでこするときの痛みが限度である。
④厚生省や科学者が認めていない。
 これらの条件が満たされれば効果のほどは二の次である。確実に効果があるなら,健康法として定着するはずであるが,民間健康法はどれも定着せず,流行りすたりを繰り返しているのがその証拠である。
 「正規の健康法」は,これと逆で,医学に裏づけされたものを指す。当然厚生省も認めている。したがって正規の健康法はスリルに乏しい。
 たとえば「脅威の回春術」といっても,正規の健康法に従うかぎり,結局は「規則正しい生活と適度の運動とバランスのとれた栄養」というハンで押したような結論が出るだけである。われわれはそんなまどろっこしい健康法を求めているのではない。一発逆転の健康法を求めているのだ。ここに各種の民間療法がもてはやされる余地がある。

土屋賢二 (2001). 哲学者かく笑えり 講談社 pp.41-42.

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