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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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自分の世界をメンテナンスする

 人はもともと,情報のフィルタリング,取捨選択やふるい分けを行いながら日常生活を送っています。人は誰しも自分の見たいものを見たがるし,自分の見たくないものは見たがらない。見たいものを見たら喜ぶし,見たくないものを見たら不快な気分になる。人は多かれ少なかれ情報のフィルタリングを行うことで,自らの世界をメンテナンスしながら管理しています。どんな街に行くか,どの新聞を読むか,図書館のどのコーナーに行くか,どのようなサークルに入るか,何の仕事に就くか,どの人に話題を振るか,どんな服を身につけるか……。人は常にフィルタリングを行い,さまざまなトライブへと身をうずめていきます。

荻上チキ (2007). ウェブ炎上ーネット群衆の暴走と可能性 筑摩書房 pp.75-76
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「自分に関する事実」の一部は,想像の産物である。

 人間は事実というものをたいして重視してはいないが,自分のこととなると話は別である。自分の身長が1センチ違っても大騒ぎするのだ。どうして自分のことに大騒ぎするのかということは自明ではない。
「本人がこだわらなければ,だれがこだわってくれるというのか」
という人がいつかもしれないが,
「どうしてお前のことにこだわる人がいなくてはならないのか」
という,いっそう深刻な問題を提起されるだけである。
 しかし,「自分に関する事実にこだわっている」といっても,実際には,自分に関係の深い事実ほど,想像によって歪曲されているものである。多くの人は,何の根拠もなく「努力しさえすれば他人には絶対に負けない」と夢想しているし,ギャンブルをやる人は「ギャンブルを続けていれば,いつか必ず大勝する」という自分勝手な信念を持っている。他にも,
 ・あの女がこっちをちらっと見たのは,わたしに気があるからだ
 ・あの女がこっちを見もしないのは,恥ずかしがっているからだ
 ・この犬がほえるのは,わたしを手ごわい相手と思っているからだ
 ・この犬がほえないのは,わたしに敬意を払っているからだ
 ・わたしはたぶん死なない。たとえ死んでも,それは本当の死ではない
といった甘い夢の世界にわれわれはひたっているのだ。たしかにこの夢が破られるときもある。異性にふられた,体重計の上に乗った,鏡を見たときなどがそうである。しかし,その場合ですら,「女は男を見る目がない」とか,「この体重計はこわれている」と,あくまでも夢を救おうとする傾向がある。われわれがかろうじて自分に誇りをもって生きていられるのは,想像によって,このように虫のいい勘違いをするからだ。

土屋賢二 (1999). われ大いに笑う,ゆえにわれ笑う 文藝春秋 pp.64-65.

惑星の配列による引力低下

 1976年,イギリスの天文学者パトリック・ムーアはBBCラジオ第二で次のような予報を行った。午前9時47分きっかりに冥王星が木星の後ろを通過し,この惑星の配列によって木星の引力が弱まり,反対作用で地球の引力が抑制されるので,一時的に体重が軽くなるだろう,と。さらに,この天文学的現象を一般人が肌で感じる方法があるという。9時47分にジャンプしてみれば,不思議な浮遊感を覚えるはずだというのだ。
 午前9時47分になると,BBC第二には何百人もの聴取者から電話がかかりはじめ,口をそろえてその感覚を味わったと告げた。ある女性は11人の友人とテーブルを囲んでいたが,その場の全員はもとより,テーブルまでもが室内を浮遊しはじめたという。床から急に浮き上がったと思うと,いきなり天井に頭をぶつけたと文句を言う女性もいた。
 電話の発信者たちがほんとうに浮遊感を体験したのなら,きっと暗示にかかったにちがいない。なぜなら,引力は一日中まるっきり変わらなかったのだから。

アレックス・バーザ 小林浩子(訳) (2006). ウソの歴史博物館 文藝春秋 p.208.

ウィンステッドの野人

 1895年8月,ニューヨーク市の新聞は,毛むくじゃらの裸の男がコネティカット州ウィンステッドの住民を脅かしているというニュースを受け取った。
 好奇心をそそられて,新聞各紙は記者を派遣して詳細を知ろうとした。ところが,小さな町にマスコミがやってきたことで町民は興奮し,いたるところで野人を”目撃”しだした。新たな情報が出るたびに,野人の獰猛さは増していった。日ごとに1フィートかそこら身長が伸び,どういうわけか牙のような歯が生えはじめた。やがて,野人は地面まで届く太い腕を持つ,がっしりしたゴリラのような風貌になった。
 こうした戦慄すべき報道が,ウィンステッドの町にヒステリーに近い混乱をあおりたてた。人々は怪物に遭遇するのを恐れて外出をいやがるようになった。百人を超える武装隊が組織され,怪物を探しだして殺すために送り出された。そして幾日にもおよぶ捜索の末,やぶに潜んでいる怪物を首尾よく射殺した。
 しかしよく見れば,恐ろしい怪物の正体は農夫が飼っていた迷子の雄ロバではないか。そしてついに真相が明らかになる。野人などもともと存在していなかったのだ。
 最初の報道は《ウィンステッド・イブニング・シチズン》の若手記者ルー・ストーンのあまりにも豊かな想像力の産物だった。その後の騒動は大衆心理によるものだ。それから数年にわたって,ストーンはウィンステッド周辺の珍奇な植物や動物を紹介する記者として鳴らした。その無尽蔵の記事の中には,焼きリンゴのなる木,口をきいた犬,独立記念日に赤と白と青の卵を産んだ鶏などというものもある。
 ストーンは愛情をこめて”ウィンステッドの嘘つき”と呼ばれた。死後も,ウィンステッドの住民は橋にストーンの名前をつけた。その橋はサッカー・クリーク(だまされ川)に架かっている。

アレックス・バーザ 小林浩子(訳) (2006). ウソの歴史博物館 文藝春秋 pp.116-117.

ホラ吹き王子

 フィアニス・テイラー・バーナム(1810-1891)はみずからを”ホラ吹き王子”と称し,長く華々しい生涯にはその名に恥じないホラを吹いている。今日,バーナムはいまだにその名を冠したサーカス(それにバーナムにちなんだ名前の動物クラッカー)のせいで記憶されている。だが,サーカスを創業するまえは,博物館を運営する国際的に有名な興行師だった。
 初期のころは突飛な宣伝やデマを繰り広げ,風変わりな見せ物に人々をひきつけていた。その宣伝方法はしばしば信仰の中産階級の許容範囲を越えていたが,バーナムはどうにかこうにか観客を納得させることができた。娯楽を売っているのであって,詐欺ではないというのがその言い分だ。大衆にとって,バーナムはいわば愛すべきペテン師だった。
 “世に馬鹿者の種は尽きまじ”はバーナムの言葉とされている。これを最初に言ったのはバーナムではないのに。

アレックス・バーザ 小林浩子(訳) (2006). ウソの歴史博物館 文藝春秋 p.85.

浴槽の歴史はウソだが

 1917年12月28日,毒舌で知られる批評家H.L.メンケンは,浴槽がたどった数奇な歴史についての一文を《ニューヨーク・イブニング・メイル》に発表した。メンケンによれば,アメリカにはじめて浴槽が登場したのは1842年12月10日だが,国民はこの新しい習慣を導入するのに消極的で慎重だったという。医者は公衆衛生に害があると非難した。多くの市で浴槽の使用を禁止する条約が可決された。状況が打破されたのは,1850年代にミラード・フィルモア大統領がホワイトハウスに浴槽を設置してからだ。大統領の後ろ盾を得て国民感情が好転すると,浴槽はたちまち普及した。
 この話には落ちがある。浴槽の歴史はまったくのこしらえ事だった。メンケンもただちに読者からはったりを暴かれるのを待っていた。
 ところが,正反対の反応が起こったのだ。偽の歴史は野火のごとく国中にひろまり,あちこちで言及された。公衆衛生の歴史についての学術誌にも転載された。1926年には,フェアファックス・ダウニーという男が作り話をほとんど引用して,浴槽の歴史を大まじめにつづる始末。メンケンはうろたえた。種明かしの記事を何度も書き,作り話がそれ以上広まるのを食い止めようとしたが無駄だった。浴槽の歴史はすでに生命を得ていた。メンケンは悄然として「アメリカの国民はなんでも鵜呑みにしてしまう」と記事を結んだ。
 ミラード・フィルモア大統領が浴槽を採用したという作り話に敬意を表して,ニューヨーク州モラヴィアでは1975年から毎年,町の目抜き通りで”浴槽レース”が開催されている。レースはフィルモア記念日と呼ばれる祝典の余興のひとつだ。

アレックス・バーザ 小林浩子(訳) (2006). ウソの歴史博物館 文藝春秋 pp.146-147.

多人口の幸福

 日本の人口を1億2750万とすると,日本で1万部売れた本でも,人口457万のノルウェーでは,わずか355部しか売れない計算になる。これでは採算が合わない。ましてや,人口が多い日本でも採算の取りにくい専門書をフィンランド語やスウェーデン語で出版することなど,もうほとんど不可能に近い。となると,専門的な知識を身につけようと思えば,それ以前の問題として,まず外国語ができなければ話にならない。自国の母語で書かれた知識や情報では,何を学ぶにも不自由なのである。
 このような言語状況において,すべての若者に高等教育進学の可能性を与えようとすれば,子どものうちから外国語を教えておく必要がある。美術教師になりたくて大学に行くにしても,そもそも外国語を知らなければ,美学や芸術学を勉強することができないからである。国家は外国語教育に力を入れざるをえないし,国民にとっても,外国語の習得が死活問題となる。これは,ある意味で,不幸な状況である。

薬師院仁志 (2005). 英語を学べばバカになる-グルーバル思考という妄想- 光文社 p.185-186

アメリカ新宗教

 ヨーロッパ人にとって,アメリカ的なキリスト教は,もはや自分たちが知る宗教ではなく,「アメリカ新宗教」としか言いようのないものになっている。このアメリカ新宗教は,魂の救済よりも,むしろ幸福の追求を第一とする。つまり,アメリカにおける宗教活動は,一般に,非常に現世的な営みなのである。
 だから,アメリカの各教会は,宗派ごとに分かれているだけでなく,階級や人種といった現世的な指標によっても明確に区別されている。宗派別で見れば,聖公会,長老派,メソジスト,バプティストの順に,平均収入も平均学歴も上である。人々は,社会的地位が変われば,しばしば,所属する教会や,時として宗派をも変えてしまう。事実,所属宗教団体を変えたアメリカ人の割合は,三分の一にも上っている。バプティストのコミュニティーに生まれた者でも,社会的にのし上がると,長老派のコミュニティーに宗旨替えするといった次第である。
 つまるところ,アメリカでは,教会もまた,自分たちの権利や主張を発信するための自発的集団なのだ。したがって,各教会や各宗派は,ヨコの争いの中で,非常に厳しい競争関係に置かれることになる。だから,アメリカの聖職者は清貧であってはならない。貧しい牧師は敗者なのだ。宗教市場において,いかに多くの信者=顧客を集め,いかに多くの寄付金=売り上げを集めるかが,聖職者=ビジネスマンにとって非常に重要なのである。
 ちなみに,ヨーロッパの教会では,お祈りの後,参列者の席に籠や壺が回ってくる。参列者たちは,そこに教会への寄付の小銭を入れる。一方,アメリカの教会では,しばしばカード払いの記入用紙が配られる。アメリカ新宗教は,ほとんど商売なのである。


薬師院仁志 (2005). 英語を学べばバカになる-グルーバル思考という妄想- 光文社 p.163-164

意識の定義

どんな研究分野でもたいていそうだが,用語の定義は重要である。それに意識の定義は,意識の研究をしていると思っている人の数と同じくらい,たくさんあるかもしれない。そこで色々考えた結果,本書では,よく用いられている三つの定義に依拠することにした。一つは,単なる刺激への気づき(アウェアネス)にかかわる定義。二つ目は,内省やセルフ・アウェアネスを説明した定義。そして三つ目は,心の理論,ないしは心的状態を他者に帰属させる能力に関係した定義である。

ジュリアン・ポール・キーナン,ゴードン・ギャラップ・ジュニア,ディーン・フォーク 山下篤子(訳) (2006).  うぬぼれる脳 「鏡のなかの顔」と自己意識 日本放送出版協会 p.20

ディベートはファンタジー

 ディベートなんてのを中高生にやらせてる学校もありますけど,あれもどうかなと思うんですよねえ。ディベートってのは,お互いが公平な立場で,同じ土俵に立って議論するというルールを設定してるから,論理力を使ったある種のゲームとして成り立つんであって,ありゃ,ファンタジーなんです。魔法の呪文がハリー・ポッターの小説の中でしか効果がないように,議論もディベート大会の会場でしか役に立ちません。実社会では公平な立場で議論をする機会などないぞ,と釘を刺しておかないとオトナになってから痛い目に遭うのは生徒のほうです。
 ことに,儒教倫理が根深くはびこり,たった一歳違うだけでも先輩,後輩,と呼び合うほど上下関係にうるさい日本では,公平な立場での議論を期待するのは無理でしょう。やはり,他の手段が必要です。

パオロ・マッツァリーノ (2007). つっこみ力 筑摩書房 p.72

超能力と霊魂は相反する概念

 それどころか,ESPという概念は,霊の存在を危うくしかねない。ESPに限界がないとすると,霊の存在が証明できなくなってしまうのだ。いわゆる「超ESP仮説」である。
 霊媒に憑依した霊が,故人しか知りえないような情報を語ったとしよう。ESPが存在しないなら,これは霊が実在する証拠とみなされるだろう。しかし,ESPが存在するなら,トランス状態に陥った霊媒が無意識にESPで知った事実を口にしているのではないか,という仮説を却下できなくなる。
 霊を写真に撮ったらどうなるだろう?いや,それも証明にはならない。いわゆる念写という現象が存在するなら,それが撮影者の念写ではないことをどうやって証明するのか?
 霊が何かを動かしたり,物理的な痕跡を残したら?いや,それでもだめだ。その現象が誰かの潜在的なPK能力のしわざではないと,どうして言えるのだろう。実際,超心理学者たちは,ポルターガイスト現象にRSPK(回帰性自然発生サイコキネシス)というもっともらしい名前をつけている。霊が家具を揺らしたりするなど,迷信にすぎない。そうした現象は,その家に住んでいる人間,特に思春期の少年少女が,無意識にPKで起こしている現象に違いない……。
 そう,もともと唯物論から生まれた「超能力」という概念は,「霊の存在」という概念と矛盾する。にもかかわらず,マイヤーズやライン,それに続く研究者たちは,自らの首を絞めかねない超能力の研究に没頭してきたのである。

山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.269.

科学的合理主義が「超能力」を生みだす

 奇妙なことのように思えるかもしれないが,考えてみれば当然だ。霊や神の存在を信じる者には,「動物磁気」や「超能力」などという仮説を導入する必然性がないのだ。不思議な現象はすべて霊や神が起こすのだから。しかし,唯物論者であるエリオットソンは,超常現象を目にして,それを超自然的な原因抜きで説明する必要に迫られた。そこで苦しまぎれに,それが人間の持つ能力であるという説明をひねり出したのだ。
 すなわち超能力という概念は,19世紀の唯物論の台頭,科学的合理主義の風潮の中で生まれたものなのである。地質学,生物学,天文学の発展により,聖書の絶対性が大きく揺らいでいた時代だったからこそ,エリオットソンの説は注目を集めることができたのだ。エリオットソンが1世紀早く生まれていたら,彼の理論は世間に受け入れられなかっただろう。2世紀早かったら,火あぶりにされていただろう。

山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.267.


知っているものしか見えない

 ここには明らかなパターンが見られる。人類がまだ飛行機を持ってなかった頃,空を飛んでいたのは木造の帆船だった。ヨーロッパで硬式飛行船が開発されていた時代,アメリカに「幽霊飛行船」が出現した。ナチスのV2ロケットがロンドンを爆撃した翌年,スカンジナビアに「幽霊ロケット」が出現した。ケネス・アーノルドが円盤を目撃したと誤って報じられると,「空飛ぶ円盤」が出現した。アメリカが三角形のステルス機の存在を公表した翌年,ベルギーに黒い三角形のUFOが出現した……。
 もし今,どこかの国の科学者が,画期的な性能を持つドーナツ型の飛行機を開発したなら,たちまちドーナツ型のUFOが出現するに違いない。

山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.187-188.

陰謀論は宗教に似ている

 彼らは「真実」を求めているのだ。UFOの謎に頭を悩ませ,単純明快な論理ですべてを説明することを夢見ているのだ。「誰かが真実を隠している」「誰かが我々を騙している」という説は,安直であるがゆえにアピールしやすい。隠されている真実さえ明らかになれば,すべては単純明快であったことが判明するだろう……。
 陰謀論というのは宗教に似ているー私はふと,そう気づいた。
 この世は混迷に満ちている。多くの悲しむべき出来事,不条理な出来事が常に起きている。戦争,災害,不景気,伝染病……そこにはなんの秩序も基準も見当たらない。どんなに正直に慎ましく暮らしていても,天災であっさり死ぬことがある。悪人が罰を受けることなくのさばることがある。人の生や死というものには,結局のところ,意味などない。
 しかし,多くの人はそれに納得しない。自分たちの生には何か意味があると信じたがる。この世で起きることもすべて,何か意味があると考えたがる。偶然などというものはありえない。どんな事件にもすべてシナリオがあるー誰かが仕組んだことなのだ,と。
 阪神大震災が起きた時,オウム真理教は「地震兵器による攻撃だ」と主張した。そのオウム真理教事件は,一部の陰謀論者に言わせれば,フリーメーソンや北朝鮮の陰謀なのだそうだ。1996年にO-157が流行した時も,2005年にインフルエンザが流行した時も,やはり陰謀説を唱える者が現れた。こうした説は決して近年の流行ではない。14世紀にフランスでペストが大流行した時,「ユダヤ人が井戸に毒を流しているからだ」という噂が流れ,大勢のユダヤ人が殺された。1853年,長崎にコレラが流行した時も,「イギリス人が井戸に毒を流している」という噂が広まった。1995年,エボラ出血熱が流行したザイールでも,「医者が病気をばらまいている」という噂が流れた。時代や民族を問わず,人は大きな災厄に接すると,「誰かのせいだ」と考えたがるらしい。
 考えてみれば,ノアの洪水の伝説も,そうして生まれたのではないだろうか。昔の人にとって,自分たちの住む地域が「全世界」であったろう。自分たちの住む地域に洪水が起きた時,「全世界が洪水に見舞われた」と思いこんだろう。生き残った人たちは考えた。なぜこんな悲惨なことが起きたのか。誰が何のために私たちの隣人を殺したのか……彼らはその不条理な悲劇を合理的に説明するため,物語を創り上げたのだろう。「死んだのはみんな悪い人たちで,神は彼らを罰するために洪水を起こしたのだ」と。
 そう,宗教とは「神による陰謀論」なのだ。災厄を起こしたものの正体が人であれば陰謀論になり,神であれば宗教になる。それだけの違いだ。
 そう考えれば,カルトを盲信する者がしばしば陰謀論を唱える理由も説明がつく。神を信じる心理,陰謀を信じる心理は,結局のところ同じメカニズムによるものだからだーすべてにきっと意味があると考えたがる心理。
 あいにくと私にはそんな心理はない。災厄は意味も理由もなく起こるということを,子供の頃に知ってしまったからだ。

山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.83-84.

真実を教えようとしている

 「嘘は強い。ひとたび成功した嘘,多くの支持者を獲得した嘘は,真実が暴露されたぐらいで揺らぐものではない。何年,何十年でもはびこり続けるのです。それに対して,真実はなんとも弱く,はかない。大きな嘘にあっさり押し流されてしまう。真実を口にしただけで処刑された時代もあったのです。人類の歴史を見れば,むしろ嘘が勝利した例の方が圧倒的に多いと言えるかもしれません。
 ですから,もし本当に子供たちに社会の中で成功するすべを身につけさせようと思うなら,学校は嘘の大切さを教えるべきなのです。嘘がいかに強いものかを,嘘をどのように使えばいいかを教えるべきなのです。嘘を武器に使う者の方が勝てるのですからー」
 そこで校長は,悲しげな表情で大きくかぶりを振った。
 「しかし,そんなことはしません。学校ではそんなことを教えません。私たちはあなたたちに真実を教えようとしています。真実を守ることを教えようとしています。たとえそれが不利と分かっていてもです。それはなぜなのか?考えてみてください」
 それだけ言って,校長は私たちを放免した。処分は一切なしだった。私と葉月は,校長室を後にし,無言で廊下を歩いていった。
 「……なぜなんだろう?」
 何分かして,はづきがぽつりと言った。
 「どうして校長,『真実を教えています』じゃなく,『真実を教えようとしています』って言ったんだろう?」

山本弘 (2003). 神は沈黙せず 角川書店 p.39.

極論は無意味

 さて最後に,「それでは,親が子どもにどう接するかは問題ではないというのですか?」だが,これはなんという質問だろうか!もちろん問題に決まっている。ハリスは読者にその理由を思い出させている。
 第一に,親は子どもに対して大きな力を行使し,その行動は子どもの幸福におおいに影響する。育児にはとりわけ倫理的な責任がある。親が自分の子どもを殴ったり,自尊心を傷つけたり,与えるべきものを与えなかったり,無視したりすることが許されないのは,大きくて強い人間が小さくて無力な人間に対してそのような行為をするのは恐ろしいことであるからだ。ハリスが書いているように,「私たちは子どもの明日を掌握してはいないかも知れないが,今日を掌握しているのは間違いないし,明日を悲惨なものにする力も持っている」のだ。
 第二に,親と子の間には人間関係がある。自分の夫や妻のパーソナリティを変えられると信じている人は,新婚夫婦を除けばだれもいないのに,だれも,「それでは,夫(あるいは妻)にどのように接するかは重要ではないというのですか?」とたずねはしない。夫と妻がたがいによくしあうのは(あるいは,そうすべきなのは)相手のパーソナリティを望ましいかたちに作りかえるためではなく,満足できる深い関係を築くためである。夫あるいは妻のパーソナリティを改造することはできないと言われて,「彼(あるいは彼女)に注ぎ込んでいるこの愛情がすべて無意味だなんて,おそろしくてとても考えられません」と応答している人を思い浮かべてみよう。親と子についてもそうなのだーーある人のもう一人に対する行動は,二人の関係の質に影響を及ぼす。人生の時間が過ぎていくあいだに力のバランスが変わり,自分がどのように扱われたかを記憶している子どもたちが,親との関係において発言力を増していく。ハリスはこのあたりのことを,「道徳的要請だけでは,自分の子どもによくする十分な理由にならないと思う人は,こう考えてみるといいでしょう。子どもが幼いときによくしておくこと。そうすれば自分が年を取ったときによくしてもらえます」という言い方で述べている。うまく社会生活を送っているが,子どもの時に親から受けた残酷な仕打ちについて話をすると,いまだに怒りで身が震えるという人たちがいる。かと思えば,一人でいる時間に,母親や父親が自分のしあわせのためにしてくれたやさしい行為や自己犠牲,たぶん本人たちはとっくに忘れているそのような出来事を思い出してしんみりする人たちもいる。子どもがそのような思い出を持って成長できるようにという理由だけからでも,親は子どもにいい接し方をすべきである。
 私は人びとがこうした説明を聞くと,目を伏せていくぶん恥ずかしそうに,「ええ,そうですね」と言うのを見てきた。人びとが子どもを理屈や知識でとらえるようになると,こうした簡単な真実を忘れてしまうという事実は,現代の教養が私たちをどこまで遠くつれてきたかを示している。現代の教養は,子どもたちを人間関係のパートナーとしてではなく,好きな形をつくれるパテのかたまりのように考えるのを容易にする。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.226-228.

この子の運命

ハリスは,親が子どもの人格を形成できるという信念がどれほど歴史の浅い偏狭な考えであるかを指摘して,1950年代にインドの僻地の村に住んでいたある女性の言葉を引用している。子どもにどんな人間になってもらいたいと思っているかと聞かれた彼女は,肩をすくめて,「それはこの子の運命で,私が望むことではありません」と答えたのである。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.224-225.

すべては環境要因へ

 親と子を人間ドラマの主役にしたのはルソーだった。子どもは高貴な野蛮人で,育児や教育はその本質的な性質を開花させるか,あるいは堕落した文明の荷物を背負わせる。20世紀版の高貴な野蛮人とブランク・スレートは,親と子を中央舞台に置きつづけた。行動主義者は,子どもの人格は強化刺激の随伴によって形成されると主張し,親が子どもの泣き声に反応すると泣き叫ぶ行動に対して報酬を与えることになり,泣き叫ぶ行動の頻度が増えるだけだから,親は子どものSOSに反応すべきではないと助言した。フロイト派は,子どもの人格形成は離乳や,トイレット・トレーニングや,同性の親との同一化がどれくらいうまくいくかによって左右されるという学説を立て,赤ちゃんを親のベッドに入れると有害な性的欲求を喚起させることになるので,入れないようにと親に助言した。まただれもが,精神障害を母親の責任にする理論を立てた。自閉症は母親の冷たさのせいにされ,統合失調症は母親による「ダブルバインド」のせい,拒食症は娘に完璧さを求める母親の押しつけのせいにされた。自己評価の低さは「毒のある親」のせいで,そのほかの問題はすべて「機能不全家庭」のせいだった。いろいろなタイプの心理療法で,50分間のセッションが患者の子ども時代の葛藤をよみがえらせることに費やされ,たいていの伝記はその人の悲劇や大きな業績のルーツを求めて子ども時代を詮索しまわった。
 そしていまでは,高い教育を受けた親のほとんどが,子どもの運命は自分の掌中にあると信じている。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.192.

行動遺伝学の3法則

 行動遺伝学の3法則は心理学の歴史の中でもっとも重要な発見かもしれない。大部分の心理学者はまだこれに真剣に取り組んでいないし,大部分の知識人は,ニュース雑誌の特集記事で説明されていても,これを理解していない。それは,これらの法則が難解だからではない。ーー法則はどれも,数式を使わない1文で述べることができる。それは,これらの法則がブランク・スレート説を踏みにじっているからであり,ブランク・スレート説があまりにしっかりと定着しているために多くの知識人はそれに代わるものを理解することができず,ましてそれが正しいかまちがっているかを議論することなどなおさらできないのである。
 その3法則をここにあげる。

●第1法則 人間の行動特性はすべて遺伝的である。
●第2法則 同じ家庭で育った影響は,遺伝子の影響よりも小さい。
●第3法則 複雑な人間の行動特性に見られるばらつきのかなりの部分は,遺伝子や家庭の影響では説明されない。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.175.


平等とは

 実際は,フェミニズムの信条と,男女が心理学的に同一ではない可能性は両立不能ではない。くり返しになるが,平等とは,あらゆる人間の集団が置き換え可能であるという経験的主張ではなく,個々人は集団の平均的属性によって判断されたり制約を受けたりするべきではないという道徳的信条である。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.113.


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