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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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フェミニズムの2派

哲学者のクリスティーナ・ホフ・ソマーズは著書『だれがフェミニズムを乗っ取ったのか(Who Stole Feminism?)』のなかで,フェミニズムの2つの派に有用な区別をつけ,その相違点を指摘した。「エクイティ・フェミニズム」は性差別や,女性に対するそのほかのかたちの不公正さに反対する。このフェミニズムは啓蒙期から発展した古典的な自由主義と人道主義の伝統の一部であり,フェミニズムの第一派を導き,第二波を立ち上げた。「ジェンダー・フェミニズム」は,女性は依然として,広く存在する男性優位のシステムによって奴隷化されており,そのジェンダー・システムが「バイセクシュアルの乳児を,一方が命令して他方がしたがう男性と女性のジェンダー・パーソナリティに変えてしまう」と考えている。このフェミニズムは古典的な自由主義の伝統に反対し,マルクス主義やポストモダニズムや社会構築主義やラディカル・サイエンスと同盟している。そして,一部の女性学研究やフェミニズム団体や女性運動の代弁者の信条となっている。
 エクイティ・フェミニズムは,平等な処遇についての道徳上の主義であり,心理学や生物学の経験的な問題にはかかわらない。ジェンダー・フェミニズムは,人間の本性についての3つの主張を持つ経験的な主義である。1つは,男女の差異は生物学的要素とは無関係で,すべて社会的に構築されたものであるという主張。2つめは,人間の社会的動機はただ1つ,権力であり,社会生活は権力がどのように行使されているかという観点からのみ理解できるという主張。そして3つめは,人間の相互関係は,たがいに個人として対処しあう人びとの動機から生じるのではなく,ほかの集団に対処する集団ーーこの場合は,ジェンダーとしての女性を支配するジェンダーとしての男性ーーの動機から生じるという主張である。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.116-117.
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これが人間の本質?

ロマン主義の1960年代,誇りにできるほど平和なカナダでティーンエイジャーだった私はバクーニンのアナーキズムを熱狂的に信奉していた。そして,もし政府が武力を捨てれば大混乱が起こるという両親の意見を笑い飛ばしていた。私たちの対立する予想が検証されたのは,1969年10月17日午前8時,モントリオール警察がストライキに入ったときだった。午前11時20分に最初の銀行強盗が起こった。正午には略奪のためにダウンタウンの商店が閉まった。それから2,3時間のうちに,タクシー運転手たちが,空港利用客をとりあう競争相手のリムジンサービスの車庫を焼き払い,州警察の警官が屋上から狙撃され,数件のホテルやレストランが暴徒に襲われ,医師が郊外の自宅で強盗を殺害した。その日は結局,銀行強盗が6件,商店の略奪が100件,放火が12件あり,割れたショーウィンドーのガラスが積荷にして車40台分,物品損害額が300万ドルで,市当局は軍隊と騎馬警察隊の出勤を要請して秩序を回復しなくてはならなかった。この決定的な経験的検証は私の政治観をずたずたにした(そして,科学者になる前に科学者としての生活を味わわせてくれた)。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.98.

メディアと暴力

 メディアの暴力はアメリカの暴力犯罪の主要な原因の一つだという考えは,保守派政治家の間でもリベラルな保健専門家の間でも一様に信条となっている。アメリカ医師会,アメリカ心理学会,アメリカ小児科学会は連邦会議において,両者の関連を調べた3500以上の研究のうち関連が見られなかったものは18だけだという証言をした。社会科学者なら誰でもこの数字にうさんくささを感じるだろうが,心理学者のジョナサン・フリードマンは自分で確認してみることにした。すると実際は,メディアの暴力と暴力行動の関連を調べた研究は200しかなく,関連が見られなかったものが半分以上を占めていた。残りの研究で見られた相関関係も小さく,ほかの説明が容易につくものーーたとえば暴力的な子どもは暴力的な娯楽を求める,子どもはアクションだらけの映像で一時的に刺激される(ただし永続的な影響は受けない)などだった。フリードマンや文献を再検討した数人の心理学者は,メディアの暴力にさらされることは暴力行動にほとんど,あるいはまったく影響を与えないという結論をだしている。近年の歴史から真偽の確認をしても,同じ結論が示唆される。人びとはテレビや映画が発明される前の時代のほうが暴力的だった。カナダの人たちもアメリカ人と同じテレビ番組を観ているが,カナダの殺人の発生率はアメリカの4分の1である。1995年にイギリス領のセントヘレナ島にはじめてテレビが設置されたが,住民は暴力的にはならなかった。暴力的なコンピュータゲームが急激にでまわったのは1990年代で,犯罪発生率が低下した時期にあたる。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.60-61.

人減の本質?

 先史時代のチャーチルの推測も裏づけされている。現代の狩猟採集民は先史時代の社会をかいま見せてくれる存在であるが,かつては,彼らの戦闘は儀式的でだれか一人が倒れるとすぐに停止されると考えられていた。しかしいまでは,世界大戦の死傷者がかすんで見えるほどの率で殺し合いをすることが知られている。考古学的な記録もこれよりましとは言えない。何十万年にもさかのぼる血なまぐさい先史時代の無言の目撃証言が,地中や洞窟にひっそりと横たわっているのだ。頭皮をはがれた跡や,斧の傷跡のある頭蓋骨。矢尻の刺さった頭蓋骨。人を殺すために特殊化した,狩猟には適さないトマホークや槌矛に似た武器。先端のとがった棒でできた柵など,要塞のような防御設備。それに複数の大陸で見られる,人間がたがいに矢や槍やブーメランを投げ合っている場面や,それらの武器で倒された場面を描いた絵。「平和の人類学者」たちは何十年間も,カニバリズム(食人)の習慣はどんな人間集団にもなかったと主張していたが,それと矛盾する証拠がどんどん集まっており,なかには決定的な証拠もある。アメリカ南部の850年前の考古学発掘現場から,食用にする動物の骨のようにぶつ切りにされた,人間の骨が発見された。そしてヒトのミオグロビン(筋肉たんぱく質の一つ)が,土器の破片からも,化石化した人糞からも(動かぬ証拠として)発見されたのである。ネアンデルタール人と現生人類の共通祖先の近縁であるホモ・アンテセソール(Homo antecessor)も,たがいを殴ったり解体したりしており,暴力とカニバリズムが少なくとも80万年前にさかのぼることを示している。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.52.

悲劇的ヴィジョンとユートピア的ヴィジョン

 悲劇的ヴィジョンにおいては,人間は生まれつき知識や知恵や美徳に制約があり,社会機構はすべてそれらの制約を認識しなくてはならない。「はかない人間には,はかないことが似つかわしい」とピンダロスは書き,「人間性という曲がった木材から,真にまっすぐなものは作れない」とカントは書いた。悲劇的ヴィジョンとつながりがあるのは,ホッブズ,バーク,スミス,アレグザンダー・ハミルトン,ジェイムズ・マディソン,法曹家のオリヴァー・ウェンデル,ホームズ・ジュニア,経済学者のフリードリッヒ・ハイエクおよびミルトン・フリードマン,哲学者のアイザイア・バーリンおよびカール・ポパー,法学者のリチャード・ポズナーである。
 一方のユートピア的ヴィジョンによれば,心理的制約は社会機構から生じる人為的所産であるから,よりよい世界で何が可能かと考える観点が,それによって制約されるべきではない。ひょっとすると「ある人たちは,ものごとをあるがままに見て『なぜ?』と問う。私はこれまでになかったものごとを夢見て『なぜそうであってはいけないのか?』と問う」を信条にしているのかもしれない。これは1960年代のリベラリズムの偶像だったロバート・F・ケネディの言葉としてしばしば引用されるが,もともとはファビアン協会の斬新的社会主義者だったジョージ・バーナード・ショーが書いた言葉である(ショーは「早期に着手されるなら,人間の本性ほど完全に変えられるものはない」とも書いている)。ユートピア的なヴィジョンは,ルソー,ゴドウィン,コンドルセ,トマス・ペイン,法律家のアール・ウォレン,経済学者のジョン・ケネス・ガルブレイス,それに少し遠くなるが政治哲学者のロナルド・ドゥオーキンともつながりがある。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[下] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.18-19.

道徳化

 ベジタリアンには二種類あって,脂肪と毒素を減らすためという健康上の理由で肉を避ける人たちと,動物の権利を尊重するという道徳上の理由で肉を避ける人たちがいる。ロジンが明らかにしたところによれば,健康ベジタリアンよりも道徳的ベジタリアンのほうが,肉を食べない理由をたくさん挙げ,肉に対して情動的に大きく反応し,肉を汚物であるかのようにあつかう傾向が強く,たとえば肉汁を一滴だけ落としたスープを食べることを拒否した。また道徳的ベジタリアンは,ほかの人たちもベジタリアンになるべきだと考える傾向や,肉を食べると攻撃的になって動物のようになると考えるなど,自分の食習慣に奇妙な美点をあたえる傾向も強い。しかし食習慣と道徳的価値観を結びつけるのはベジタリアンだけではない。学生に人物描画を提示して性格を判断させると,なんと彼らはチーズバーガーとミルクシェイクを食べる人は,チキンとサラダを食べる人に比べて親切や思いやりに欠けると判断する。
 ロジンは,喫煙が近年に道徳化されたことを指摘している。タバコを吸うかどうかの決定は長い間,好みあるいは分別の問題で,吸わない人は,単にタバコが好きではないから吸わない,あるいは健康に良くないから吸わないだけだった。しかし副流煙の有害な作用が発見されたことに伴って,喫煙は不道徳な行為とみなされるようになった。喫煙者は追い払われて悪者扱いされ,嫌悪と汚染の心理が働きはじめる。非喫煙者は煙を避けるだけでなく,煙に触れたものをみな避ける。ホテルでは禁煙の部屋を求め,あるいは禁煙フロアさえ求める。同様に,処罰の欲求も喚起された。陪審員は煙草会社に「懲罰的損害賠償金」と呼ばれるのにふさわしい巨額の賠償金を課してきた。以上はそのような判断が不公正だと言っているのではなく,それらを動かしている感情を自覚すべきだと言っているだけである。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[中] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.258-259

リスク評価と直観

 危険だという認識が見当はずれになるのには,本質主義の直観のほかにも理由がある。リスク分析家は,人びとの恐怖心がしばしば客観的な危険性とずれていることを発見して当惑する。大勢の人が飛行機を避けるが,実際は車で移動する方が11倍も危険性が高い。サメに食べられるのを恐れるが,浴室で溺死する率のほうが400倍も高い。飲用水からクロロフォルムやトリクロロエチレンを除去するために高額な費用のかかる対策を要求するが,ピーナッツバターのサンドイッチを常食する方がガンになる見込みが何百倍も高い(ピーナッツには発癌性の高いカビがつくことがある)。こうしたリスク評価の誤りの中には,高所や閉所や捕食や毒に対する生得的な恐怖が関係しているものもあるかもしれない。しかし人は,心が確率を見積もる方法のために,たとえ危険性についての客観的な情報を提示されてもそれを十分に理解できないのかもしれない。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[中] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.178

直観を捨てる必要性

子どもたちは学校に行かなくても歩いたり,しゃべったり,物を認知したり,友だちの性格を覚えたりすることを学ぶが,これらの課題は読んだり,足し算をしたり,歴史上の日付を覚えたりすることよりもはるかに難しい。書き言葉や算数や科学を学ぶには学校が必要だが,それはこれらの知識やスキルが発明されたのがあまりにも最近のことで,まだ種全体が要領を進化させるに至っていないからである。
 したがって子どもは,空っぽの容器や万能の学習者であるどころか,特定の方法で推論や学習をするための仕掛けの入ったツールボックスを備えており,それらの仕掛けをうまく使って,本来の目的とはちがった問題を克服しなくてはならない。それには子どもの精神に新しい事実やスキルを入れ込むだけではなく,古いものを除去したり無効にしたりする必要がある。学生がニュートン物理学を学ぶには,まずインペトゥスにもとづいた直観物理学を捨てなくてはならないのである。現代生物学を学ぶには,その前に,生命のエッセンスという立場から考える直観生物学を捨てる必要がある。そして進化論を学ぶためには,その前に,デザインを設計者の意図に帰する直観工学を捨てる必要がある。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[中] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.162-163.

科学的知識と人間の価値

 科学的知識によって人間の価値が損なわれるのではないかという不安について考えると,私は映画『アニー・ホール』の冒頭で,主人公のアルビー・シンガーが子どもの頃に,かかりつけの医師のところに連れてこられたシーンを思い出す。

 母親 気が落ち込んでいるんです。急に何もできなくなってしまって。
 医師 どうして落ち込んでいるの,アルビー。
 母親 フリッカー先生にお話しなさい。(息子の代わりに答える)何か読んだらしいんです。
 医師 何か読んだ?
 アルビー (うつむいて)宇宙は膨張している。
 医師 宇宙は膨張している?
 アルビー 宇宙はすべてでしょ。それが膨張しているなら,いつかばらばらになって,何もかも終わりになってしまうんだ。
 母親 それがあなたになんの関係があるの?(医師に向かって)宿題もしなくなってしまって。
 アルビー 宿題なんかに,なんの意味があるのさ。

 このシーンがおかしいのは,アルビーが分析の二つの水準ー宇宙をはかる何十億年という尺度と,数十年,数年,数日という人生の尺度とを混同しているからだ。アルビーの母親の言うとおり,「宇宙があなたになんの関係があるの?あなたはブルックリンにいるのよ。ブルックリンは膨張していません!」なのだ。
 私たちの動機がすべて利己的であるという考えに出会って落ち込む人は,アルビーと同じくらい混乱している。究極要因(何かが自然淘汰で進化した理由)と至近要因(それが,いまここでどのように働いているか)とを混同しているのだ。二つの説明は良く似ているように見える場合があるので,混同されるのも無理はない。
 リチャード・ドーキンスは,遺伝子を利己的な動機をもつ行為主体としてイメージすると,自然淘汰の論理を理解しやすいことを示した。彼がこれを思いついたことをだれもねたむべきではないが,このメタファーには,うっかりしているとひっかかるワナがある。遺伝子はメタファーとしての動機(自分のコピーを作ること)をもち,遺伝子がデザインする生物個体は現実の動機をもっている。しかしこの二つの動機は同じではない。ある遺伝子のもっとも利己的なふるまいが,人間の脳に非利己的な動機ー惜しみない深い利他心ーを組み込むことだという場合もある。子ども(自分の遺伝子を後世に伝える人)や,忠実な配偶者(遺伝子の運命をともにする人)や,友人や同盟者(あなたが信頼に値する人間であればあなたを信頼する人たち)に対する愛情は,どこまでも深くなりうるし,遺伝子(究極レベル)はメタファーとして利己的であっても,人間(至近レベル)については非難すべきところはない。
 説明がこれほど混同されやすい理由はもう一つあるのではないか,と私は感じている。だれでも知っているように,人はときに秘めた動機をもつ。表向きは寛大だが内心は欲が深いということもあるだろうし,表向きは信心深いが内心はシニカルだとか,表向きはプラトニックだが内心は欲望を感じているということもあるだろう。私たちはフロイトのおかげで,秘められた動機が行動に浸透し,意識にのぼらない心の部分でその影響力を行使するという考えに慣らされている。それと,遺伝子はいわばその人の本質あるいは中核だというよくある誤解が一緒になって,ドーキンスとフロイトのあいのこができる。メタファーとしての遺伝子の動機は,その人の深いところにある無意識の秘められた動機だ,という考えである。これは誤りである。ブルックリンは膨張していない。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[中] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.105-107.

信心と悪事

 また,魂は肉体よりも長く生きるという教義は,正当さにはほど遠い。この地球上に住む私たちの生活の価値を必然的に下げるからである。スーザン・スミスは幼い二人の息子を湖の底に沈め,「私の子どもたちは最善のものにふさわしい子たちです。そしてこれから,それを得るのです」という合理化で,良心をぬぐいさった。幸福な死後の生活への言及は,子どもを殺して自殺した親の遺書に典型的であり,また私たちは,そのような信念が自爆者や自爆ハイジャック犯を鼓舞することをあらためて感じたばかりでもある。だからこそ私たちは,神の裁きを信じなくなったら人は大手を振って悪を実行するようになるという議論を否定すべきなのである。たしかに神の裁きを信じない人が,法制度やコミュニティの非難や自分の良心からうまく逃れることができると考えたとしたら,永久に地獄で暮らさなくてはならないという脅しで悪事を思いとどまることはないだろう。しかしそういう人は,永久に天国で暮らせるという約束に誘惑されて,何千人という人びとを殺すこともないのである。

スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[中] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.103-104.

差別の正当化?

 それでは,生物学の発見は人種差別や性差別を正当化できるのだろうか?とんでもない!偏狭な差別を告発するのは,人間は生物学的に区別がつかないという,事実についての主張ではない。個人を,その個人が属する集団の平均的特性にしたがって判断することを糾弾する道徳的姿勢である。開かれた社会は,雇用や昇進や給与や入学や刑事裁判に際して,人種や性や民族を無視することを選択しているが,それはそれ以外のやり方が道徳的に不快だからである。人種や性や民族にもとづいて人を差別するのは不当であり,本人にはどうにもできない特性にペナルティを課すことになる。アフリカ系アメリカ人や女性やその他の集団が奴隷にされたり虐げられたりしていた過去の不正義を存続させることになる。社会を敵対する派に分裂させ,恐ろしい迫害にまでエスカレートさせかねない。しかし差別に反対するこれらの議論はどれも,人間の集団は遺伝的に区別が可能か不可能かという問題に依拠してはいない。


スティーブン・ピンカー 山下篤子(訳) (2004). 人間の本性を考える[中] 心は「空白の石版」か 日本放送出版協会 p.20

一次元化

 私たちはつい,ものごとを一元的に見てしまう。ひょっとするとそれは幼い頃の考え方のなごりかもしれない。小さい子どもには<中心化>傾向がある。つまり,物のある一つの次元に注目して,他の次元を無視してしまう。高くて細いコップの水を低くて太いコップに移しかえると,7歳児は「もとのコップの水のほうが多い」と言う。もとのコップのほうが高いからである。高さの次元に注目して,幅の次元を無視してしまうのだ。人を一元的に見るなら,そういう子どもとあまり変わらないようなことをしているといえる。たとえば,人びとはよく他人を「良い」か「悪い」か,「積極的」か「消極的」かで評価したがり,複雑な多元的観点からは見ない。
 私たちはまた,相関関係を錯覚しがちである。つまり,ある面でこういう人は別の面でもこうだ,と結論づけてしまう。たとえば,政治的に保守的な人は,自分の子どものしつけにも厳しいだろうと想像する。保守的な価値観は厳しさとうまく合いそうだから,そういう相関関係があるにしろないにしろ,それがあるだろうと決めてかかるとき,一次元化の罠に陥り,二次元を一次元にまとめていることになる。


R.J.スターンバーグ 松村暢隆・比留間太白(訳) (2000). 思考スタイル:能力を生かすもの 新曜社 p.111-112.

人気の職業

 どんな時代にも,大学生に人気の職業進路がある。わたしが卒業した1972年には,間違いなく法曹界に進むのが社会的地位の高い職業だった。わたしが卒業したイェール大学では,クラスの卒業生の半数以上が法科大学院に進んだそうだ。そのころは法曹家が,名声とやりがいと収入と,そしてたぶん,けっして確かとは言えないが,感激を一番兼ね備えた職業だとみなされていた。
 わたしは15回目の同窓会に出た。すると弁護士でいっぱいだった。会社の顧問弁護士やら,訴訟弁護士,遺言の認証弁護士,さらに公益弁護士[公共利益のための集団訴訟等をあつかう]までいた。だが驚いたのは,弁護士の数ではなく,その多くが自分の職業に満足していないことだった。満足していない人がその職業を選んだのはたいてい,職業が自分のスタイルや能力に適合していたからではなく,その職業が当時金持ちへの道だったからである。よく考えずに選んだ結果,一生職業に不満を抱き続けることになった。
 たしかに,もっと悪い状況になった可能性だってある。ほとんど例外なく,たくさんお金を儲けていた。しかしお金があって豊かな暮らしができるがゆえに,本当は興味のない職業から抜け出せなくなってしまったのである。もはや自分のライフスタイルを維持するためにお金が必要になってしまった。別のもっと面白そうな職業に変わったとしても,給料は大幅に減ることになり,それでは誰も楽しめそうではない。

R.J.スターンバーグ 松村暢隆・比留間太白(訳) (2000). 思考スタイル:能力を生かすもの 新曜社 p.109

事故の報道

 大事故が起きたあとの論評では,小さな障害が無数にある状況で真の問題を見ぬく難しさを取り上げるべきなのに,そうした記事にはめったにお目にかかれない。当事者である会社や関係官庁も,事故当時はまだ他にいくつも安全問題があったなどと,宣伝しようとは決して思わない。マスコミは,同時に存在していた他のさまざまな問題について耳にしていたかもしれないが,そんな事実は記事には邪魔なだけだ。記者は,明快で人びとをひきつけるテーマ,すなわち「取り返しのつかない問題につながる初期の徴候に気づきながら,経営者は何も対策を講じなかった」というようなテーマを探しているのだ。

ジェームズ・R・チャールズ(著) 高橋健次(訳) (2006). 最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか 草思社 pp.293.

危険を見逃す

 われわれはだれもが,わたしも含めて,これまでにスニークの徴候をだまって見逃した経験を持っている。深刻な事態に発展するかもしれない徴候ですら,見逃したことがある。いま現在,わたしは,「エンジン点検の必要あり」を示す警告灯がダッシュボードでほぼ常時光っているバンを何ヵ月も乗りまわしている。その車はまだちゃんと走るし,オイルも不凍液も十分入れてあるし,警告灯のつく原因を修理工が発見できないでいるので,わたしはそのまま放っておくことに決めたのだった。
 ハートフォード・スチーム・ボイラー・アンド・インスペクション社のエネルギー工学担当副社長,ロバート・サンソンが,同社の代表としてある化石燃料発電所の管制室を訪れていたとき警告ホーンが鳴った。そうしたことは複雑なシステムのコントロールルームではごく普通に起こる。オペレーターのひとりがすばやく手を伸ばして解除ボタンを押し,警告をキャンセルした。ふたたび静けさの戻った管制室で,サンソンはそのオペレーターに,たった今,君がボタンを押して警告ホーンをキャンセルするのを見た,とサンソンはいったが,オペレーターは否定した。サンソンはわたしにこう語った。「そんなふうで話はいきちがいを続け,ついにわたしがコンピュータのログを点検してみたところ,オペレーターが解除ボタンを押したことが記録されていた。警告をキャンセルすることが,無意識に繰り返される機械的反応となっていたのだ」。それはモグラ叩きのようなものだった。穴から飛び出してくるビニール製のモグラの頭を叩くゲームでは,反応が速いほど得点が高くなる。
 サンソンによれば,ある発電所の故障が起きたとき,記録を調べてみるとひとりのオペレーターが立て続けに26回,解除ボタンを押したことが分かった。サンソンの表現によれば,「ついにマシンが音をあげてこういった。わかった,おまえの勝ちだ,おれが壊れてやろう」というわけだ。

ジェームズ・R・チャールズ(著) 高橋健次(訳) (2006). 最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか 草思社 pp.266-267.

起こりえないことは無視してしまう

 われわれは人間の常として,自分が起こりそうだと考えていることだけに注意を集中する。こうした了見は,文字通りわれわれのものの見方そのものにも影響を与えがちだ。1981年のこと,わたしは,ある記事の取材でテキサスA&M大学の教授と面談していた。わたしは,机越しに教授と向き合う椅子に座って,メモを取っていた。インタビューをはじめて15分ほどした時,教授の背後で私の席からは見えない位置にあったくずかごが,とつぜん炎を噴き上げた。炎は少なくとも1メートル以上あった。われわれ二人はとびあがった。教授がくずかごをおおったので,炎はすぐに消えた。客の誰かが煙草の吸い殻を入れたので火事になったのだろう,と教授は言った。
 教授が消化につとめているとき,私は彼の椅子の後ろでちらっと炎があがったのを見たことを思い出した。われわれ二人がびっくりする30秒ほど前だっただろう。一種のフラッシュバックである。メモを取っているとき,わたしは意識の境界ぎりぎりのところで,教授の背後がちらっと光ったのを目撃していたのだ。閃光はほんの一瞬で,すぐに視界から消えた。どう見えたにせよ,私の大脳の「最新出来事中枢」はその事件を確認したのだが,あまりにも起こりそうにない出来事だったので,正気であつかう必要はないと判断して,ただちに無視したのだった。

ジェームズ・R・チャールズ(著) 高橋健次(訳) (2006). 最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか 草思社 pp.196-197.

平均的人間は平均以上だと自己評価する

 現実的な非常訓練とは,たんにある種の技能を人びとに覚え込ませる手段にすぎないと思われるかもしれないが,べつの利益もある。あまりにも多くの人間がいだいている見当違いの自信を打ち砕いてくれるのだ。二人の心理学者,コーネル大のデビッド・ダニングと,イリノイ大のジャスティン・クルーガーは,各種の大集団を全体としてとらえれば,平均的人間は,自分のことを技量においても知識においても平均以上だと評価している,という既知の事実をさらに追究してみようと考えた。平均的人間は,技量において平均以上ではありえない,ということは明白だ。だとすれば,われわれが自分のことについて知らないのはどうしてなのか。無知が自信過剰をはぐくむ,と二人はいう。なかでも,危険というほかはないほどの知識しか持ち合わせていない分野においてそれは顕著だ,と。ダニングとクルーガーは,コーネル大の学生のもっている論理的思考力やユーモアといった技量について調査し,テストを行ったところ,毎回くり返し同じパターンがあらわれた。テストの結果が最も悪い連中は,それ以外の学生にくらべると,自分の成績と技量をきわめて過大に評価していた。この現象について二人の心理学者は,チャールズ・ダーウィンの次のようなことばを引用している。「知識よりも無知のほうが自信を生むことが多い」。


ジェームズ・R・チャールズ(著) 高橋健次(訳) (2006). 最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか 草思社 pp.191-192.


事件の意味

 事件を起こすことで,各人の反応がわかり,それぞれの性格が測定される。いままでのデータだけではわからなかった性格が,より深く判明するのだ。それが情報となって記録されるのだろう。工場では製品について,熱したり低温にしたり,衝撃を与えたりして試験をやっているという。つまり,そんなようなことなんだろうな。
 現代における事件の意味と必要性とが,少年にいくらかわかってきた。むかし,事件といえばいやなことであり,それ以外のなにものでもなかった。そのごマスコミが発達してからは,事件が娯楽の意味をもつようになってきた。事件のニュース,事件の中継,それらは人びとを楽しませる要素をおびた。それに教訓としての意味がすこし。
 そして,コンピューター時代のいま,事件は新しいデータ,新しい情報をうみだすという意味を持つようになったのだ。


星新一 (1985). 声の網 角川書店 p.156


筒井康隆の弔辞

 葬儀の日,筒井が新一に送った追悼の言葉の中で,参列者の胸に迫り,記憶に刻まれたのは次の一節だった。それは,SFを志したときから憧れ,二十五歳のときに初めて出会ってからは甚大なる影響を受け,敬愛し続けた星新一を,最後の最後には支えきれなかったことに対する悲憤がにじみ出ているようであった。

 星さんの作品は多くの教科書に収録されていますが,単に子どもたちに夢をあたえたというだけではありませんでした。手塚治虫さんや藤子・F・不二雄さんに匹敵する,時にはそれ以上の,誰しもの青春時代の英雄でした。お伽噺が失われた時代,それにかわって人間の上位自我を形成する現代の民話を,日本ではたった一人,あなたが生み出し,そして書き続けたのでした。そうした作品群を,文学性の乏しいとして文壇は評価せず,文学全集にも入れませんでした。なんとなく,イソップやアンデルセンやグリムにノーベル文学賞をやらないみたいな話だなあ,と,ぼくは思ったものです。    (『不滅の弔辞』)

最相葉月 (2007). 星新一 一〇〇一話をつくった人 新潮社 pp.509-510.


過去に関係ない,突如としての変革はありえない

 柴野宛の手紙の下書きが残っているため,その一節を引用する。

 何事に於ても過去に関係ない,突如としての変革はありえない。文学に於ても同じで,やはり過去ー現在につながる流れの上に未来の変革も築かれる。ピカソの絵も若い頃の正確なデッサンの上にできたものであり,呉清源が新布石で大さわぎをまき起したのも正確な旧定石の研究の上に築かれたものである。あまり突拍子もないことは大衆に受け入れられない。たとえそれが正しくても,正しいとの判断を誰もつけてくれないのなら正しいものではない。また面白いとも思ってくれない。非ユークリッドキカが存在し,面白いと思われるのは,ユークリッドキカが存在するからである。
 故にSFに於ても,大衆をひきつけるものになるからには,既成のものの長所と短所をみきわめ,長所を残し,既成のもので満たされないものをSFの形で補うことをしなくてはならない。松本(清張・引用者注,以下同),有馬(頼義)が探小(探偵小説)で探小専門作家を圧倒したのは,この点をのみ込んでいたからだろう。探小の枠にとじこもっていた探小専門作家はこの圧力に抗し切れない。トリックが甘いとか言ってみたところで一方には大衆の支持があるので,お話にならない。いづれSFもこの問題にぶつかる時がくるかもしれない。その時になってアイデアがイミテーションだとか言ってもどうにもならない。そして自己満足のためにますます自分と大衆を遊離させてしまってはつまらない。折角ブームが来ても自分をす通りしている。哀れな探小専門作家の二の舞を避けるように今から考えておかなくてはならない。(中略)瀬川式意見の「科学をわきまえて,それをのりこえなくてはならない」の意見が尤もである如く,「文学をわきまえ,それを乗りこえなくてはならない」のである。

 作家は論争など早々に切り上げ,自身の創作に専念するのみ。読者を獲得しなければ意味はない。新一はそう考えていた。

最相葉月 (2007). 星新一 一〇〇一話をつくった人 新潮社 pp.326-327.


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