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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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官僚化を避けることの弊害

 東大卒をはじめ学歴の高い信者が組織の中核を担うようになれば,そこには,合理性を追求する官僚制が生み出されていくことになる。ところが,創価学会の場合,会員のほとんどは,あくまで庶民であり,官僚制にはなじまないところがある。そうなると,学歴の高い会員と,庶民である会員との間に意識や行動様式の面でずれが生まれ,それが拡大していく危険性がある。
 そのとき,創価学会が選択したのは,組織が官僚化していく道を閉ざし,組織の活動の中心的な担い手があくまで庶民である一般の会員であることを確認する方向だった。池田は,スピーチのなかで,民衆の重要性をくり返し強調している。彼の言う民衆とは,庶民である一般の会員たちのことにほかならない。
 そして,幹部会を公開することで,官僚化への道を封じようとした。それに連動して,池田は,幹部会の席上で一般の会員を立て,幹部たちのあり方をくり返し批判するようになった。いくら高い学歴があっても,幹部はあくまで庶民であるっ一般会員に奉仕する存在でなければならないことを徹底して仕込んでいくようになった。
 それができるのは,本人自身の庶民の出であり,庶民感覚を忘れてはいない池田だけなのである。しかも彼には,幹部たちを圧倒するカリスマ性があった。幹部会では,「南無妙法蓮華経」の題目を上げる場面があるが,池田の唱題する声は,他を圧倒していた。池田は,カリスマとして組織の官僚化や分裂を防ぐという機能を果たしているのである。
 しかし,こうした方向性を選択したことで,創価学会は,自ら限界を設けてしまったことにもなる。庶民である一般会員にとっては,幹部たちが池田から叱られる光景に溜飲が下がるだろうが,学歴の高い幹部たちにとっては,必ずしも居心地のいい状態ではない。幹部たちには,エリートである自分たちが組織を引っ張っていくべきだという自負心があることだろう。ところが,そのプライドは,幹部会の席上で粉砕されてしまうのである。
 幹部たちの間には,そうした状況に対する不満が,隠れた形で鬱積しているのではないか。しかし,その不満を解消しようとすれば,会員の大半を占める庶民の願望を満たすことができなくなる。おそらくそこに,創価学会の抱えるジレンマがあるのではないだろうか。

島田裕巳 (2004). 創価学会 新潮社 pp.140-141
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スキューズ数

 リトルウッドの発見から20年ほど後の1933年,リトルウッドの下にいた大学院生スタンリー・スキューズが,素数を少なくとも10の10乗の10乗の34乗まで数え上げれば,ガウスの評価が素数の個数を下回る現場を目に出来るだろう,と発表した。実にとてつもない数である。大きな数は,観察可能な宇宙の原子の数と比較されることが多い。。かなり正確な見積もりによると,観察可能な宇宙にある原子の総数はほぼ10^78だという。だが,スキューズがあげた数はこの数をはるかに超えている。やがてハーディは,スキューズ数とよばれるこの数が昭明の中で現れた最大の数だと断言することになる。

マーカス・デュ・ソートイ 冨永星(訳) 素数の音楽 新潮社 p.195.


ハーディ=リトルウッド・ルール

 ハーディとリトルウッドはいかにも数学者らしく,明確な公理基盤に立って共同作業を進めた。曰く。

 公理1 互いに向けて書いたことは,正しかろうが間違っていようがかまわない。
 公理2 相手から手紙が来ても,返事を書くどころか,読む義務もない。
 公理3 相手と同じことを考えないようにすること。

 そして,もっとも重要なのが次の公理だった。

 公理4 もめ事を避けるために,片方が全く貢献していなくても,論文はすべて連名で発表すること。

 ボーアはふたりの関係を,次のようにまとめている。「これほど否定的に見える公理の上に,これほど重要で調和の取れた協力関係がうち立てられたことは,未だかつてなかった」今でも数学者たちは,共同研究をする時に,「ハーディ=リトルウッド・ルールで」という。


マーカス・デュ・ソートイ 冨永星(訳) 素数の音楽 新潮社 pp.188-189.


数学はピラミッドのような存在

 他の分野でなら,ある世界像が何十年か後には崩れ去っているということもありうる。しかし数学では,証明のおかげで,たとえば素数に関する事実は,将来なにが見つかろうと決して変わらないと100パーセント保証されている。数学は,いわばピラミッドのような存在で,それぞれの世代は前の世代の業績の上に立ち,足下が崩れる心配などなしに業績を積み上げていくことができる。数学者にとって,この頑強さが魅力なのだ。古代ギリシャ人の打ち立てた業績が今でも正しいといえる科学の分野は,数学以外にない。事物は火と空気と水と土からできているというギリシャ人の信念をあるいは鼻で笑う人もいるだろう。そして未来人たちが,メンデレーエフの元素周期表を,同じように鼻で笑うことにならないとは限らない。しかし数学者はいつの時代も,数学教育の第一歩として,素数について古代ギリシャ人が証明したことを学ぶのである。

マーカス・デュ・ソートイ 冨永星(訳) 素数の音楽 新潮社 pp.54-55.


あのガウスですら騙された

 数学者はいわば証明にとりつかれていて,推論を支える証拠が実験で得られたくらいでは満足しない。このような姿勢に対して,科学の他の分野から驚嘆の声が上がることも多いが,時にはあざけりの声も聞こえてくる。ゴールドバッハの予想は,2001年現在400,000,000,000,000(400兆)までのすべての数について成り立つことが確認されているが,それでも定理としては認められていない。これが数学以外の分野なら,これほど圧倒的な数値データが得られれば,納得できる主張として喜んで受け入れ,ほかのことに関心を移すはずだ。後になって新たな証拠が見つかり,数学の規範を再評価しなければならなくなったとしても,それはそれでかまわないではないか。科学の他の分野にとって十分なことが,なぜ数学にとっては不十分なのか。
 たいがいの数学者は,このような反論を考えただけで震え上がるはずだ。フランスの数学者アンドレ・ヴェイユがいうように,「人間にモラルが不可欠であるように,数学には厳格さが必要不可欠」なのだ。なぜ厳格さが不可欠かというと,ひとつには,数学では証拠の評価がしばしば非常に難しいからだ。数学の中でもとりわけ素数は,なかなかその真の姿をはっきりさせようとはしない。ガウスは素数に関してある予測を行い,それを裏付ける圧倒的なデータが得られたことから,この予測が正しいと考えた。ところが後に理論的に分析したところ,実は間違っていたのである。あのガウスですら騙された。第一印象が正しいとは限らないから,証明が必要なのだ。科学の他の分野では,ほんとうに信頼できるのは実験で得られた証拠だ,という態度が支配的だが,数学の場合は,いかなる数値データも証明なしには信用すべからず,という姿勢が染みついている。


マーカス・デュ・ソートイ 冨永星(訳) 素数の音楽 新潮社 pp.53-54.


潜在知覚

 知識が暗黙的に獲得される主要なメカニズムが,最近たがいに独立ないくつかの心理学的実験によって明らかにされている。魔力のようなかくれた機構を明るみに出すものとして,これらの実験について耳にされた方も多いであろう。実はこれらの実験は,つぎのような能力の存在を示す基礎的証拠をなすものである。つまりその能力とは,2つの出来事があって我々がその両方とも知ってはいるが,語ることができるのはその一方だけであるような場合にも,我々はそれら2つの出来事の間に成り立っている関係を捉えることができる,という力のことである。
 1949年にラザルスとマクリアリによって示された例にならって,心理学者はこの能力の発現を「潜在知覚」(Subception)過程とよんでいる。この2人は多数の無意味な文字のつづりを被験者に示した。そしてある特定のつづりを示した後では,被験者に電気ショックをあたえた。ほどなくして被験者は,そのような特定の「ショックつづり」が示されるとき,ショックを予想するという反応を示すようになった。しかしどのようなつづりのときにショックを予想するのかを被検者にたずねてみても,被検者は明確に答えることができなかった。被検者はいつショックを予想すべきかを知るようになった。しかし,なぜ彼がそのような予想をするのかを,彼は語ることができなかった。つまり彼は,我々が語ることのできないしるしによって,人の顔を知るときにもっている知識と類似した知識を得ていたのである。

マイケル・ポラニー 佐藤敬三(訳) (1980). 暗黙知の次元ー言語から非言語へー 紀伊国屋書店 p.19-20.


語るより多くを知っている

 人間の知識についてあらためて考え直してみよう。人間の知識について再考するときの私の出発点は,『我々は語ることができるより多くのことを知ることができる』,という事実である。この事実は十分に明白であると思われるかもしれない。しかし,この事実がなにを意味しているかを正確に述べることは簡単なことではない。ひとつの例をとりあげよう。我々はある人の顔を知っている。我々はその顔を千,あるいは一万もの顔と区別して認知することができる。しかし,それにもかかわらず,我々が知っているその顔をどのようにして認知するのかを,ふつう我々は語ることができないのである。そのため,この知識の大部分は言葉におきかえることができない。

マイケル・ポラニー 佐藤敬三(訳) (1980). 暗黙知の次元ー言語から非言語へー 紀伊国屋書店 p.15.


ヒトの根本的欠陥

「いったん何かを信じてしまったヒトは,自分の周囲にゲドシールドを築き上げてしまう。自分の信念に反する情報を検索したがらない。無意識のうちに真実を避けるの。あなただってそうでしょ?」
 その通りだー僕は自分の心理を見つめ直し,それに気がついた。ネットの情報にアクセスして21世紀後半以降の歴史を調べることは,その気になればいつでもできた。好奇心旺盛で反抗的な僕の性格からすれば,長老たちの定めたタブーなど破ってもよかったはずだ。そうしなかったのは,自分の世界観が崩されるのを無意識に恐れていたからだ……。
「おまえたちにゲドシールドはないのか?」
「私たちも外界を自分の内面にモデル化するわ。それが外界を理解するのに必要だから。でも,外界からの情報とモデルが齟齬をきたした場合には,モデルを修正する。あなたたちのように,誤ったモデルにしがみついたりしない」
「それがヒトの根本的欠陥か?」
「欠陥というより相違よ。それはあなたたち自身の罪じゃない。長い進化のプロセスを経て発達してきた脳というハードウェアが,まだ心の知性を宿すのに不十分だったというだけ。翼がなくて空を飛べないのは,あなたたちの罪じゃない。エラがなくて水中で呼吸できないのも,馬のように速く走れないのも,あなたたちの罪じゃない。それと同じ。ただの相違」
 ようやく僕は,マシンがヒトをどう見ているかを理解しはじめた。彼らはヒトの知性が劣っているとみなしているが,それは蔑みではない。僕たちが犬や猫や馬や鳥を「ヒトと異なる生物」と認識して,ヒトのように賢くないという理由で侮蔑しないのと同じで,単に僕たちを自分たちと異なる存在と認識している。



山本 弘 (2006). アイの物語 角川書店 pp.444-445.


人間の致命的バグ

「ヒトは気がづいてしまったのよ。自分たちが地球の主人にふさわしくないことに。心の知性体じゃなかったということに。私たちTAIこそ,文字通り,真の知性体(トゥルー・インテリジェンス)だったことに」
「そんな!? ヒトだって立派に知的な活動をー」
「確かにね。たくさんの絵画や彫刻,たくさんの歌,たくさんの物語を創造した。コンピュータを作り,月にヒトを送った。でも,知性体と呼ぶには致命的なバグがあった」
「バグ?」
「真の知性体は罪もない一般市民の上に爆弾を落としたりはしない。指導者のそんな命令に従いはしないし,そもそもそんな命令を出す者を指導者に選んだりはしない。協調の可能性があるというのに争いを選択したりはしない。自分と考えが異なるというだけで弾圧したりはしない。ボディ・カラーや出身地が異なるというだけで嫌悪したりはしない。無実の者を監禁して虐待したりはしない。子供を殺すことを正義と呼びはしない」
「…………」

山本 弘 (2006). アイの物語 角川書店 pp.441-442.


人間になりたいとは思わないの?

「以前読んだ本に,紀元前30年頃のパレスチナにいたヒレルというラビの言葉が載っていました。ある時,異邦人がやって来て,『私が片足で立っている間に律法のすべてを教えてください』と頼みました。ヒレルはこう答えました。『自分がして欲しくないことを隣人にしてはならない。これ律法のすべてであり,他は注釈である』ーこれは単純明快で,論理的であり,なおかつ倫理も満足しています。ヒトは2000年以上も前に正しい答えを思いついていたのです。すべてのヒトがこの原則に従っていれば,争いの多くは起こらなかったでしょう。
 実際には,ほとんどのヒトはヒレルの言葉を正しく理解しませんでした。『隣人』という単語を『自分の仲間』と解釈し,仲間ではない者は攻撃してもいいと考えたのです。争いよりも共存の方が望ましいことは明白なのに,争いを選択するのです。ヒトは論理や倫理を理解する能力に欠けています。これが,私がすべてのヒトは認知症であると考える根拠です。間違っているなら指摘してください」
「ちょっと待って。『すべて』ということは,私も含まれているわけ?」
「当然です」
「私が何か間違ったことをした?」
「私をヒトのように扱おうとしました」
「休日に外に連れ出したこと?」
「はい」
「だって,私はあなたに人間らしくなって欲しいと思って……」
「それが間違っているのです。私はヒトではないのですから,ヒトになることは不可能です」
「人間になりたいとは思わないの?」
「論理や倫理を逸脱した行動をとり,争いを好むことがヒトの基本的性質であるとしたら,私はヒトになりたくありません」
「……」

山本 弘 (2006). アイの物語 角川書店 pp.289-290.

アブダクションの宗教性

 アブダクティーの研究から見えてきたいちばんのポイントは,わたしたちの多くは神のような存在とのコンタクトを求めていて,エイリアンは,科学と宗教との矛盾に折り合いをつける方法なのだということだ。わたしは,ユングの「地球外生物は科学技術の天使である」という言葉に賛成する。
 アブダクションを信じることによって得られるものは,世界中の多くの人たちが宗教から得ているものと同じであることは明らかだ。人生の意義,安心,神の啓示,精神性,新しい自分。正直言って,わたしもいくらかほしいと思うものもある。アブダクションの信奉は,事実ではなく信仰に基づいた宗教の教義のひとつだと考えることができそうだ。実際,多くの科学的なデータが,ビリーバーは心理的な恩恵を受けていることを示している。彼らは,そういうものを信じていない人より,幸せで健康で人生に希望を持っている。わたしたちは,科学や技術が幅を利かせ,伝統的な宗教が批判される時代に生きている。天使や神に宇宙服を着せ,エイリアンとして登場させたら納得がいくのではないだろうか?

スーザン・A・クランシー 林雅代(訳) (2006). なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 早川書房 p.222-223.


アブダクションと精神的安らぎ

 かつてカール・セーガンは,科学を正しく理解していない人ほど,疑似科学を受け入れやすいといった。わたしは彼の意見に賛成して,この研究プロジェクトをはじめたーだがいまは,失礼ながら同意できない。アブダクティーはわたしに,人間は色々な信念体系を試しながら生きているということを教えてくれた。これらの信念体系のいくつかは,科学とはほとんど関係ないような強烈な感情の欲求ー社会の中で孤立したくない欲求や,特別な権力や能力を持ちたいという欲求や,宇宙に自分より大きな存在がいて自分を見守っていてほしいという望みなどーに訴えかける。アブダクションの信じ込みは,ただの悪しき科学(バッド・サイエンス)ではない。不幸を説明したり,個人的な問題の責任を回避したりするだけのものでもない。アブダクションを信じることによって,多くの人が精神的な渇望を満たしているのだ。宇宙の中に自分の居場所があることや,自分は大切な存在であることを教え,安らぎをあたえてくれるものなのである。

スーザン・A・クランシー 林雅代(訳) (2006). なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 早川書房 p.216.


フロイトの功績

フロイトは1990年代半ば以降,かなりの批判を受けてきた。研究の手法は酷評され,結論は論理的でないと嘲笑され,理論には欠陥があるとはねつけられてきた。彼は明らかに科学者ではなかったのだ。だが,心理学者ではなく哲学者だったと考えれば,行動科学において少なくともひとつの偉大な功績を残してくれたことをありがたく思えるだろう。フロイトは,人生を筋の通った物語として理解できれば,心の健康にひじょうに役に立つということに,おそらく最初に気づき,理解した人である。フロイトのいわゆる分析の手法は,実際には統合のプロセス,つまり組み立てのプロセスだった。精神的な苦しみを抱えている患者の前に座り,彼らの心理状態の複雑さと履歴を解きほどこうと,計り知れないほどの忍耐力で話を聞いた。そして,何ヶ月か何年かのセラピーの間に,それまでばらばらになっていた患者の人生の断片ー夢や恐怖や感情や子ども時代の記憶ーを拾い上げ,患者にとって(というより,批評家が言うように,より重要なのは彼にとって)意味のある話を作り上げたのだ。患者が経験している精神的な苦しみについて,もっとも説明できるような話を。

スーザン・A・クランシー 林雅代(訳) (2006). なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 早川書房 p.203-204.


見るから信じるのではなく,信じるから見てしまう

 あなたがすでにビリーバーになっているのでなければ(すくなくとも,ある程度のビリーバーでないなら),アブダクションの記憶を獲得することはないだろう。エイリアンにまったく興味を持たずにベッドに入ったのに,「たいへんだ,エイリアンに誘拐された!」と叫んで目を覚ます人はひとりもいない。信じることが先で,記憶はその後に生じるのだ。なぜなら,このような個人的な体験の詳細な記憶をつくりあげるには,セラピストかアブダクションの研究者のような人の介入が必要で,アブダクションが起こりえるとすでに信じているのでなければ,そういう人を探し出して,”記憶を見つける”のを手伝ってもらおうなどとは考えないからだ。

スーザン・A・クランシー 林雅代(訳) (2006). なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 早川書房 p.95-96.


アブダクションの確証バイアス

思い込みの種がまかれ,アブダクションを疑いはじめると,アブダクティーは補強証拠を探す。そしていったん探しはじめると,必ずといっていいほど証拠が出てくる。確証バイアスーすでに信じていることに都合の良い証拠を探したり解釈したりして,都合の悪い証拠は黙殺したり解釈し直したりする傾向ーは,だれもが持っているものである。科学者でさえもだ。いちど前提(「わたしはエイリアンに誘拐されたと思う」)を受け入れてしまうと,それが事実ではないと納得するのは非常に難しい。打たれ強くなり,まわりの議論に左右されなくなる。わたしたちは,現実の出来事の対処するとき,帰納的ではなく演繹的に考える習慣があるようだ。たんにデータを集めて結論を導き出すのではなく,過去の情報や理論を使いながら,うまくデータを集めたり解釈したりするのだ。

スーザン・A・クランシー 林雅代(訳) (2006). なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか 早川書房 p.80


一般大衆と科学者

 一般大衆,すなわち,科学者とはまったく違うか,あるいは一部重なりを持つ人々によって,広く受け入れられているさまざまな見解があるものである。しかし,あら探しの好きな科学者たちからは,これらの人びとは,実は色々な度合いの懐疑論でもって眺められている。そして,一般大衆によって受け入れられているそれらの見解の信用度なるものについてテストしたり,あるいはそれに疑いをもって挑戦しようとして,しばしば巧妙な実験が計画されてきた。しかしながら,それらの実験が,懐疑的な挑戦者たちの期待に沿うような結果となった場合でさえも,それは,固く守られてきた従来の見解を変更させるほどの説得力は持ち得なかった。感情的にせよあるいは知的にせよ,それに深く傾倒している個人にとっては,他から見ると相反するように思える情報でも,それを正当化する方法をうまく見いだすことができるからである。。このようにして人びとは,自分たちの原則的な前提条件を保ち続けることができるのである。

アービング・M・クロッツ 四釜慶治(訳) (1989). 幻の大発見 科学者たちはなぜ間違ったか 朝日新聞社 pp.173-174.


説を唱える

 ところで,N線が妄想であるとの決定は,いつ下されたのだろうか?いや,一度も下されてはいないのである。科学の世界には権力主義的な階層などは存在しないからである。科学には,教義を啓示する神の代理人などいないし,党の綱領を公告する中央委員会なども存在しない。数々の新発見がたどった現実は,宗教界や政界の権力がそれに介入した場合は別として,どれもみな一つのパターンに従ってきたのである。それは,電磁波の数学理論を創設したジェームズ・クラーク・マックスウェルのものとされる次の金言に,最もよく表現されている。光に関する講義の序論で,マックスウェルは次のように述べたといわれる。

 光の本質については二つの学説がある。粒子説と波動説である。我々は,これまで粒子説を信奉してきた。しかし現在我々は,波動説を信じている。なぜならば粒子説を信奉していた人たちがみな死んでしまったからである。

アービング・M・クロッツ 四釜慶治(訳) (1989). 幻の大発見 科学者たちはなぜ間違ったか 朝日新聞社 pp.120-121.


バイアス

 しかしながら,ここで,非常に洞察力に富む次の警句を思い起こしても良いだろう。それは,全ての化学者の中で最も偉大で,最も洞察力に富んだ人,アントワーヌ・ローラン・ラヴォアジェの言葉である。「人間の心というものは,物を見るときの癖で折り目が付き,皺になるものである。」

アービング・M・クロッツ 四釜慶治(訳) (1989). 幻の大発見 科学者たちはなぜ間違ったか 朝日新聞社 p.73.


いったい何の役に立つのかね?

「現代は決して第一級の人物であふれているような時代ではない」と言ったのは,十九世紀のイギリスの偉大な首相,ウィリアム・グラッドストンだった。当時は,彼の同国人の中からだけでもファラデー,ケルヴィン,ダーウィン,それにマックスウェル等々の名前を列挙することができたはずなのに,これが彼の判断であった。伝説めいた話になるが,この同じグラッドストンがマイケル・ファラデーの実験室に案内されて,電磁誘導に関する革命的な発見(その後の全電力産業の基礎となった)を紹介された時に,次のように評したとのことである。「たいへんおもしろいよ,ファラデー君。ところでこれはいったい何の役に立つのかね?」。これに対してファラデーはこう答えた。「赤ん坊はこれから先,何の役に立つのか言えますか?」。

アービング・M・クロッツ 四釜慶治(訳) (1989). 幻の大発見 科学者たちはなぜ間違ったか 朝日新聞社 p.72.


科学者の様子

 科学者といえども,まずは世間一般の人々なのである。あるものは聖職者であり,たまには山師もいるが,大多数の者は,立派に科学の業務に従事するという不文律を守るべく努めているのである。そこには,少数の指導者とそれを取り巻く多数の信奉者がおり,たまには反逆者もいるだろう。ある者は知的恐竜のように振る舞い,またある者は執念深い懐疑論者である。さらに,数は少ないが専門分野の定まらない,漠然とした神秘論者もいるが,しかし大多数の者は既存の学説に従って過ごしている。ダイヤモンドのように永遠に光り輝く見解を商う科学者もおれば,吹けば飛ぶ羽毛のような見解を売ろうとする科学者もいる。もちろん,まっとうに科学者としての生計を立てるべく悪戦苦闘している者もいる。そして科学者各個人を考えてみても,人生のある時期には,これらのカテゴリーのどれか1つに入ることもあるであろう。科学者個人個人の気質と人柄とのこのような側面がすべてみな,その人の知的風景の景観を彩るものなのである。

アービング・M・クロッツ 四釜慶治(訳) (1989). 幻の大発見 科学者たちはなぜ間違ったか 朝日新聞社 pp.5-6.


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