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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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逃れられない・避けられない・取り消せない状況

 逃れられない,避けられない,取り消せない状況は,心理的免疫システムを起動させる引き金となるが,苦痛が強い場合と同じで,人はそうなると気づかないこともある。例を挙げよう。ある研究で,大学生がモノクロ写真撮影の講座に申し込んだ。各学生は,自分にとって特別な人や場所の写真を12枚撮ったあと,個別レッスンを受ける。教師は1,2時間ほどかけて写真の焼き付けを教え,できのいい写真2枚を仕上げさせる。写真が乾いたところで,学生に,1枚は自分で持ち帰っていいが,1枚は写真サンプルとして提出するよう求める。一部の学生には,いったん写真を持ち帰ったらもう変更はきかないと伝え(変更不可群),他の学生には,いったん写真を持ち帰って気が変わっても,数日中に申し出れば,持ち帰った写真と提出した写真を取り換えられると伝えた(変更可能群)。各学生は写真を1枚選び,それを持ち帰った。数日後,学生に質問調査をし,他の質問といっしょに,持ち帰った写真をどれだけ気に入ったか尋ねた。その結果,変更可能群の学生は変更不可群の学生ほど写真を気に入っていないことが分かった。興味深いことに,べつの学生のグループに,考え直す機会がある場合とない場合では,どちらが自分の写真を気に入ると思うか予測させると,変更できるかどうかは写真の満足度に何の影響も与えないと予測する。どうやら,変更不可の状況は心理的防衛システムを作動させ,われわれはそのおかげで明るい見方を手に入れられるのに,そのことを予期できないらしい。

ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.247-248.


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したことよりもしなかったことを後悔する

つぎのシナリオを検討してみよう。あなたはA社の株を持っている。この1年,B社の株に変えるかどうか考えていたが,結局そうしなかった。今になって,B社の株に替えていれば1200ドル得をしていたことを知る。あなたはほかにC社の株も持っていた。この1年の間に,それをD社の株に替えた。今になって,C社の株をそのまま持っていれば1200ドル得をしていたことを知る。あなたはどちらの失敗をより後悔するだろう。研究によると,10人中およそ9人は,株を切り替えなかった愚かさより,株を切り替えてしまった愚かさの方が強い後悔を生むと予想する。ほとんどの人は,愚かな行為より,愚かな行為を悔やむと考えているからだ。ところが,10人中9人がまちがっていることが,やはり研究によってわかっている。長い目で見れば,どの階層のどの年齢層の人も,自分がした行為より自分が行為をしなかったことをはるかに強烈に後悔するらしい。もっともよくある後悔が,大学に行かなかったことや,儲けの多い商売のチャンスを掴まなかったことや,家族や友人と過ごす時間をたっぷりとらなかったことなのもうなずける。
 だが,なぜ人は,行為より不行為を強く後悔するのだろう。理由の一つは,心理的免疫システムにとって,行動しなかったことを信頼できる明るい見方でとらえるのは,行動したことをそうとらえるよりむずかしいからだ。行動を起こしてプロポーズを受けることにし,その相手が後に斧を振るう殺人鬼になったとしても,その経験からどれだけのことを学んだか考えれば(「手斧を収集するのは健康的な趣味じゃないってことね」)自分を慰めることができる。しかし,行動を起こさなかったせいでプロポーズを断り,その相手がのちに映画スターになったとしたら,その経験からどれだけのことを学んだか考えても自分を慰められない。なぜって,学ぼうにも経験自体がないからだ。


ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.241-242.


利口なハンス

 退職教員だったヴィルヘルム・フォン・オステンは,1891年,自分の種馬(「利口なハンス」と呼んでいた)が時事問題や数学などさまざまな質問に,前脚で地面をたたいて答えられると言い出した。たとえば,オステンが3+5はなんだときくと,利口なハンスはご主人が質問し終えるまで待ってから,地面を8回叩いて動きを止める。ときには,口頭で聞くかわりに厚紙に質問を書いてそれを読ませた。利口なハンスは,話し言葉を理解できるのと同じように書き言葉も全て理解しているようだった。もちろん,すべての質問に正解するわけではなかったが,ひづめのある動物としては抜きんでいていた。利口なハンスの講演は鮮烈で,たちまちベルリンの人気者になった。
 1904年にベルリン心理学研究所の所長が学生のオスカル・プングストを派遣して,この件をじっくり調べさせた。プングストは,オステンが利口なハンスの目の前ではなく背後にいるときや,オステンが答えを知らない質問のときは誤答が多いことに気づいた。ひととおり実験した結果,利口なプングストは,利口なハンスがたしかに読めることを証明した。ただし,馬が読んでいたのはオステンの身体言語だった。オステンがわずかに体をかがめると利口なハンスは地面を叩き始め,オステンが体を起こしたり,少し首を傾けたり,かすかに眉をあげたりすると叩くのを止める。つまり,オステンが利口なハンスにちょうどいいタイミングで叩き始めと叩き終わりを合図していたために,馬鹿にならない錯覚が生まれたわけだ。
 利口なハンスは天才ではなかったが,オステンも詐欺師だったわけではない。それどころか,オステンは何年にもわたって自分の馬に辛抱強く数学や世界情勢のことを話してやっていたほどで,自分が,他人ばかりでなく自分自身をも欺いていたと知って純粋にショックを受け落胆した。このごまかしは巧妙かつ効果的だったが,無意識におこなわれていた。この点,オステンだけが特別なわけではない。われわれは,好ましい事実を選んで身をさらし,好ましい事実の存在に気づき,それを記憶し,そこに低めの証明基準を当てはめるが,オステンがそうだったように,自分がこんなふうにごまかしていることは自覚していない。

ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.232-234.


ないことに気づかない

 ある研究では,志願者に3文字の文字列(SXY,GTR,BCG,EVXなど,アルファベット3文字を組み合わせた文字列)のセットを見せて推論ゲームをさせた。研究者は,1セットに含まれる複数の文字列1つを指して,志願者にこの文字列だけ特別だと告げる。志願者に課せられるのは,なぜその文字列が特別なのかを突き止めることだ。つまり,特別な文字列のどの特徴が,他の文字列とちがっているのかを見極めなくてはならない。志願者に文字列のセットを次々見せながら,研究者が特別な文字列を1つずつ指していった。志願者は何ゼット見たところで,特別な文字列の特徴を推論できただろう。半数の志願者が見たセットでは,Tのある文字列が特別な文字列で,各セットに1つだけ含まれていた。この志願者たちは,およそ34セット見たところで,特別な文字列の特徴はTがあることだと突き止めた。あとの半数の志願者が見たセットでは,特別な文字列を特徴づける点は,セットの中でその文字列にだけTが含まれていないことだった。驚くべき結果が出た。文字列のセットをいくら見せられても,だれひとりこの特徴を見極めることができなかったのだ。文字があることに気づくのは簡単でも,犬の遠吠えの例と同じく,文字がないことに気づくのは不可能だったわけだ。

ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.136-137.


*eel

もっとすごい研究がある,「eel(ウナギ)」という単語の前に咳(*で表すことにする)を録音した音を使ったものだ。志願者は,「The *eel was on the orange(オレンジに*eelがついていた)」という文では「*eel」を「peel(皮)」と聞き取り,「The *eel was on the shoe(靴に*eelがついていた)」という文では「*eel」を「heel(かかと)」と聞き取った。英語の場合,2つの文の違いは最後の単語だけであり,文末まで待たないと「*eel」に欠けている情報を補えないことを考えると,なんとも鮮烈な結果だ。しかし,脳はこれをやってのけた。しかも,なんの苦もなく瞬時にやったため,志願者の耳には欠けている情報が正しい位置で発音されるのがたしかに聞こえた。


ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.116-117.


記憶の穴埋め

 出来事のあとで得た情報が出来事の記憶を改変することは,さまざまな実験や実地の環境で何度も繰り返し再現され,ほとんどの科学者はつぎの2点を信じるようになっている。1.記憶行為には,保存されなかった細部の「穴埋め」が必要である。2.穴埋めは苦もなく瞬時におこなわれるため,われわれはたいてい,その穴埋め作業に気づかない。穴埋め現象はとても強力で,だまされるものかと思っていても阻止できない。


ダニエル・ギルバート 熊谷淳子(訳) (2007). 幸せはいつもちょっと先にある-期待と妄想の心理学- 早川書房 p.113


心霊科学

「そう。幽霊と云うのは正に方便です。見えないモノは説明し難い,だから見えるように形を与えて説明した,それだけです。あれは子供が絵に描いたお陽様のようなものです。円の周りに棒線が幾つも引いてある絵です。それを捕まえて科学的に解釈したりする馬鹿が現れると,心霊科学のような手の付けられない程愚かな疑似学問が生まれてしまう。心霊科学と云うのは,太陽の周りに棒が何本あるのか望遠鏡で数えるようなものですよ」

京極夏彦 (2006). 陰摩羅鬼の瑕 講談社文庫 p.1110

運を鍛えよ

運を鍛える4つの法則と12のポイント

法則1 チャンスを最大限に広げる
 運のいい人は,偶然のチャンスを作り出し,チャンスの存在に気付き,チャンスに基づいて行動する。
ポイント
1.運のいい人は,「運のネットワーク」を築き,それを広げている。
2.運のいい人は,肩の力を抜いて生きている。
3.運のいい人は,新しい経験を喜んで受け入れる。

法則2 虫の知らせを聞き逃さない
 運のいい人は,直感と本能を信じて正しい決断をする。
ポイント
1.運のいい人は,直感と本能に耳を傾ける。
2.運のいい人は,直感を高める方法を知っている。

法則3 幸運を期待する
 運のいい人は,将来に対する期待が夢や目標の実現を促す。
ポイント
1.運のいい人は,幸運が将来も続くだろうと期待している。
2.運のいい人は,たとえ可能性がわずかでも目標を達成するために努力して,失敗してもあきらめない。
3.運のいい人は,対人関係がうまくいくと思っている。

法則4 不運を幸運に変える
 運のいい人は,不運を幸運に変えることができる。
ポイント
1.運のいい人は,不運のプラス面を見ている。
2.運のいい人は,不運な出来事も,長い目で見れば最高の結果になると信じている。
3.運のいい人は,不運にこだわらない。
4.運のいい人は,積極的に行動して将来の不運を避ける。

リチャード・ワイズマン 矢羽野薫 (2004). 運のいい人,悪い人-運を鍛える四つの法則 角川書店 p.212-213

傷つけるのが当然

 どんな映像でもどんな音楽でもどんな言葉でも,誰かを傷つける可能性はきっとある。別にメディアに限らない。僕らの日常は,誰かを傷つけたり,誰かに傷つけられたりすることのくりかえしだ。もしもそれが嫌ならば,部屋に引きこもって一歩も外に出ないことだ。でもじつはこれだって,君の家族をこれ以上ないほどに傷つける。
 誰かを傷つけることなどできない。もちろんだからといって,どんどん傷つけろという意味じゃないよ。できるだけ避けることは当たり前だ。ところがメディアの過ちは,こうして問題を避けてさえいれば,誰も傷つけずにすむと本気で思い込んでいることだ。

森 達也 (2004). いのちの食べかた 理論社 p.106


ダークサイドへの過程

Fear is the path to the darkside.
Fear lead to anger, anger lead to hate, hate lead to suffering.

Yoda said to Anakin, in StarWars Episode I

人生はボクシングのようなもの

 生きることの厳しさは,お金を稼ぐようになると始まるのではない。お金を稼ぐことで始まって,それが何とかなれば終わるものでもない。こんな分かり切ったことをむきになって言い張るのは,みんなに人生を深刻に考えてほしいと思っているからではない。そんなことは,ぜったいにない!みんなを不安がらせようと思っているのではないんだ。ちがうんだ。みんなには,できるだけしあわせであってほしい。ちいさなおなかが痛くなるほど,笑ってほしい。
 ただ,ごまかさないでほしい,そして,ごまかされないでほしいのだ。不運はしっかり目を開いて見つめることを,学んでほしい。うまくいかないことがあっても,おたおたしないでほしい。しくじっても,しゅんとならないでほしい。へこたれないでくれ!くじけない心をもってくれ!
 ボクシングでいえば,ガードをかたくしなければならない。そして,パンチは持ちこたえるものだってことを学ばなければならない。さもないと,人生が食らわす最初の一撃で,グロッキーになってしまう。人生ときたら,まったくいやになるほどでっかいグローブをはめているからね!万が一,そんな一発をくらってしまったとき,それなりの心構えができていなければ,それからはもう,ちっぽけなハエがせき払いしただけで,ばったりとうつぶせにダウンしてしまうだろう。
 へこたれるな!くじけない心をもて!わかったかい?出だしさえしのげば,もう勝負は半分こっちのものだ。なぜなら,一発お見舞いされても落ち着いていられれば,あとのふたつの性質,つまり勇気とかしこさを発揮できるからだ。ぼくがこれから言うことを,よくよく心にとめておいてほしい。かしこさをともなわない勇気は乱暴でしかないし,勇気をともなわないかしこさは屁のようなものなんだよ!世界の歴史には,かしこくない人びとが勇気を持ち,賢い人びとが臆病だった時代がいくらもあった。これは正しいことではなかった。
 勇気ある人びとが賢く,賢い人びとが勇気を持つようになってはじめて,人類も進歩したなと実感されるのだろう。なにを人類の進歩と言うか,これまではともすると誤解されてきたのだ。

エーリッヒ・ケストナー(作) 池田香代子(訳) (2006). 飛ぶ教室 岩波書店 p.23-25.


大人は子どもの心を知らない

 しかたがないので,ある作家から贈られてきた子どもむけの本を読み始めた。けれど,すぐに放り出してしまった。腹が立ったからだ。なぜかというと,この人は,この本を読む子どもたちに,子どもというものはのべつまくなしに楽しくて,どうしていいかわからないくらいしあわせなのだと信じ込ませようとしていたからだ。このうそつきの作家は,子ども時代はとびきり上等のケーキみたいなものだと言おうとしていたのだ。
 どうしておとなは,自分の子どものころをすっかり忘れてしまい,子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを,ある日とつぜん,まったく理解できなくなってしまうのだろう。(この際,みんなに心からお願いする。どうか,子どものころのことを,けっして忘れないでほしい。約束してくれる?ほんとうに?)
 人形がこわれたので泣くか,それとも,もっと大きくなってから,友達をなくしたので泣くかは,どうでもいい。人生,なにを悲しむかではなく,どれくらい深く悲しむかが重要なのだ。誓ってもいいが,子どもの涙は大人の涙よりちいさいなんてことはない。おとなの涙よりも重いことだって,いくらでもある。誤解しないでくれ,みんな。なにも,むやみに泣けばいいと言っているのではないんだ。ただ,正直であることがどんなにつらくても,正直であるべきだ,と思うのだ。骨の髄まで正直であるべきだ,と。


エーリッヒ・ケストナー(作) 池田香代子(訳) (2006). 飛ぶ教室 岩波書店 p.19-20.


子どもの時間

 子供の一日,一年は濃密だ。点と点の隙間には,さらに無数の点がぎっちりと詰まり,密度の高い,正常な時間が正しい速さで進んでいる。それは,子供は順応性が高く,後悔を知らない生活を送っているからである。
 過ぎたるは残酷なまでに切り捨て,日々訪れる輝きや変化に,節操がないほど勇気を持って進み,変わってゆく。
 「なんとなく」時が過ぎることは彼らにはない。
 大人の一日,一年は淡泊である。単線の線路のように前後しながら,突き出されるように流されて進む。前進なのか,後退なのかも不明瞭なまま,スローモーションを早送りするような時間が,ダリの描く時計のように動く。
 順応性は低く,振り返りながら,過去を捨てきれず,輝きを見いだす瞳は曇り,変化は好まず,立ち止まり,変わり映えがない。
 ただ,「なんとなく」時が過ぎてゆく。

リリー・フランキー (2005). 東京タワー オカンとボクと,時々,オトン 扶桑社 p.83


広範な環境の影響

 子どもに限らず,人の人格や性格は,家族,家庭をはみ出した,もっと広い範囲の環境によって形成されてゆく。
 その場所の空気や土壌,気質に,DNAと血を混ぜて,一滴たらすと,その土地による,その人の性質が芽吹いてくるのだろう。

リリー・フランキー (2005). 東京タワー オカンとボクと,時々,オトン 扶桑社 p.54


メスカリン服用時の様子

 脳にはその働きを促進するいくつかの酵素体系が与えられている。これらの酵素のうちの幾つかは脳細胞へのグルコース供給の調整を司っている。メスカリンはこれらの酵素の生産を抑制し,それによって糖分をコンスタントに必要とする器官が使えるグルコース量を減らしてしまう。メスカリンが糖分の正常な定量を減らすとどんなことになるか。いままでの観察事例があまりに少ないので十全の答は出せない。しかし観察者の下でメスカリンを服用したことのある少数の人々の場合,そのほとんどに以下に要約できるようなことが生じている。

①ー記憶力や「まともな思考」力は減少することがあってもごく僅かでしかない(薬の力が効いているときの私の会話記録を聞いてみると,普段の私より愚鈍になっているということはないようだ)。
②ー視覚印象が非常に強化され,感覚内容が即座にまた自動的に概念に服従させられるということのない幼年時代の知覚の清純さを目がいくらかでも取り戻す。空間への関心は減り,時間への関心はほとんど零になる。
③知能は損なわれることなく感覚知覚が巨大に改善されるが,意思力の劣化は激しい。メスカリン服用者は特定のことをする気になれず,普段ならそのために行動を起こし,また苦しみも耐えるのにやぶさかではない事柄に対しても,まったく興味を抱かない。そういう事柄に心を煩わすことができないのである,他に考えるべきもっといいことがあるのだというもっともな理由で。
④ーそのもっといいことは(私の経験によると)「外側で」あるいは「内側で」あるいは両方の世界で,つまり内面世界と外在世界で同時にあるいは継続的に経験されうることなのである。健全な肝臓と平等な心の所有者でメスカリンを服用することになった人たちの場合は,誰にとってもこれらのことが現実にもっといいことであるのは自明に思える。

オルダス・ハクスリー 1995 知覚の扉 平凡社 p.28-29.

ベルクソンの示唆

 このときの体験を考察してみると,著名なケンブリッジ大学の哲学者C・D・ブロード博士の意見に賛同することになるようだー「ベルクソンが記憶と感覚知覚に関して提唱したような理論をわれわれは今までの傾向を放れてもっと真剣に考慮した方がよいのではなかろうか。ベルクソンの示唆は脳や神経系それに感覚器官の機能は主として除去作用的であって生産作用的ではないということである。人間は誰でもまたどの瞬間においても自分のみに生じたことをすべて記憶することができるし,宇宙のすべてのところで生じることすべてを知覚することができる。脳および神経系の機能は,ほとんどが無益で無関係なこの巨大な量の知識のためにわれわれが押し潰され混乱を生まないように守ることであり,放っておくとわれわれが時々刻々に知覚したり記憶したりしてしまうものの大部分を閉め出し,僅かな量の,日常的に有効そうなものだけを特別に選び取って残しておくのである。」このような理論によると,われわれは誰もが潜在的には<遍在精神 Mind at Large>なのである。しかし,われわれが動物である以上は,われわれの仕事は何としてでも生き残ることである。生物としての生存を可能にするために,この<遍在精神>は脳および神経系という減量バルブを通さなければならない。このバルブを通って出てくるものはこの特定の惑星の表面にわれわれが生き残るのに役立つようなほんの一滴の意識なのである。

オルダス・ハクスリー (1995). 知覚の扉 平凡社 p.25-26.

現代の英雄伝説

 幼年期の影響というのは面白いものだ。同世代の人の作るものは何に影響されたか大体分かる。TVドラマや漫画など,ビジュアルなものの影響は特に大きい。デジタル世代の現代の子どもたちが大きくなった時に何を作るか,非常に興味がある。ゲームの世界に影響を受けた彼等はどんな夢を見るのだろうか?彼等の作り出す虚構は私たちのものとどのくらい違っているのだろう?
 大量のストーリーが消費されている現代,結局のところ,ゲームの中の虚構は一つのテーマに統合されつつある。英雄伝説,もしくは英雄になるための成長物語,である。とどのつまり,最も古典的なテーマに立ち戻ろうとしているわけだ。ゲーム製作者という吟遊詩人が作り出す,古典的なストーリーから派生したさまざまなバージョンをそれぞれのゲーム機でプレイヤー達が聞いている。彼等が聞きたがっているものは,大昔から変わっていないのだ。

恩田 陸 (1997). 三月は深き紅の淵を 講談社 p.301


30代以降は人生の付け足し

一生を左右するような出来事が起きるのはせいぜい二十代までで,あとの人生はその復習か,つけ足しにしか過ぎないのです。

蓮見圭一 (2005). 水曜の朝,午前三時 新潮社 p.58

効果の高い偽薬

 高名な米国人医師ウルフ博士は,(はるか)以前より,ほぼ連続する窒息性の発作に苦しむ喘息患者の治療に取り組んでいた。そこで,かなり希望のもてる新薬が登場したとの噂を聞きつけると,製薬会社に連絡をとり,新薬を手に入れることにした。結果は上々であった。だが,効果の高さは,かえって博士の不振を呼び覚ますことになった。あまりにも美しすぎる花嫁を迎えたようなものである。はたして,本当に薬理学的な効果だったのだろうか?博士はふたたび製薬会社に連絡をとり,新薬と同じ外見をもった偽薬を送ってもらった。そして,患者には何も知らせずに,あるときは本物の薬を,あるときは偽薬を投与した。本物の薬を投与すると必ず,症状は改善した。誠実で科学的な精神を尊ぶ医師にとっては,治療の客観的有効性を見事に証明するのは至難の技である。そのころになって,製薬会社からウルフ教授に連絡があった。始めからすべて偽薬だったというのだ!製薬会社の研究者たちもまた,初期の治療報告があまりにもすばらしいことに不審を覚え,博士と同じような配慮から,この新薬を求める医師たちに計画的に偽薬を送り付けていたのである。

パトリック・ルモワンヌ 小野克彦・山田浩之(訳) (2005). 偽薬のミステリー 紀伊国屋書店 p.252-253


意味が先行する

 私たちの経験する事柄は,意識される前に意味を獲得している。
 神経系の配線の具合だけが,こうした錯覚の原因ではない。文化的要因の占める比重もきわめて大きい。たとえば,西洋以外では,絵に遠近法を用いない文化が多い。したがって,錯覚には,絵をどう「読む」かという文化的慣習がしばしばかかわってくる。だからといって,そうした慣習が意識されやすくなるわけではない。生まれ育った背景から自分自身を切り離すのは難しい。絵を意識的に「見る」ことを始めるずっと前に,大量の情報が処分されているからだ。
 エチオピアのメ・エン族を対象に,画像知覚を調べた文化人類学の研究がある。絵を見る際に処分される情報の一例として,この研究を引いてみよう。学者たちはメ・エン族の人に絵を見せ,これは何かと尋ねた。「彼らは紙に触り,匂いをかいだ。紙を丸め,クシャクシャという音に耳を傾けた。それから,少しちぎって口に入れ,噛んで味わった」紙に描かれた図柄は彼らの興味を引かなかった。メ・エン族の人にとって,絵とは布に描かれたものだからだ。(もっとも,布に描かれた西洋画をメ・エン族に見せたところ,西洋人の基準からすれば読み取れて当然の情報が読み取れずに苦労していた。)
 文化人類学者コリン・ターンブルは,コンゴのピグミー族の研究を行った。ピグミーは一生を森の中で過ごすため,遠くにある物体の大きさを判断するという経験がない。ターンブルは一度,案内人のケンゲを森の外に連れ出した。「ケンゲは平原を見渡し,数マイル先のバッファローの群れに目を留めた。あれはなんという虫か,と訊くので,あれはバッファローだよ,と言って,君も知っているフォーレスト・バッファローの2倍はある,と答えた。ケンゲは大声で笑い,そんな馬鹿な話はよしてくれ,と言った。……車に乗り込み,バッファローが草を食んでいる場所に向かった。ケンゲはバッファローがだんだん大きくなるのをじっと見ていた。そして,どのピグミーにも劣らぬ勇敢な男性でありながら,席を移って私に身を寄せ,これは魔法だ,とつぶやいた。本物のバッファローとわかった時には,もはやおびえていなかったものの,どうしてあんなに小さく見えたのかを判じかねていた。最初は本当に小さかったのに突如大きくなったのか,それとも何かのまやかしなのかと,すっかり当惑していた」
 西洋人にしても,西洋画の理解に苦しむ時がある。それが芸術という隠れ蓑を着ているときはなおさらだ。
 パブロ・ピカソはあるとき,列車で同じコンパートメントに乗り合わせた乗客から,なぜ人を「ありのままに」描かないのか,と尋ねられた。ピカソがそれはどういう意味か,と問い返すと,男は札入れから妻の写真を撮り出して言った。「妻です」ピカソは答えた「ずいぶん小さくて平べったいんですね」

トール・ノーレットランダーシュ 柴田裕之(訳) (2002). ユーザーイリュージョン:意識という幻想 紀伊国屋書店 p.234-235

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