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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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人の心のエネルギー

 「心のエネルギー」というものを,ときどき,車のガソリンのように考えてしまう人がいる。7月下旬にスタートする夏休み,まだ時間もたくさんあるうちから,少しずつ宿題をやっていけばいいのに,日がなくなって「まぎわ」までやらないんだから……と簡単に子どもを責め立てる人は,そういう誤りを犯している。人にとっての余裕の日数やエネルギーというのは,満タンになったガソリンとは違うのだ。人の心のエネルギーは,「現実」とかかわり合ってこそわいてくる。ちょうどギアが適切に「入る」ように,意識が「現実」にガチャッと「はまった」ときだけに,「やる気」はわいてくる。「まぎわ」というのは,その現実に「はまったとき」なのである。7月20日と8月20日とでは,「やらなければならない」という「現実の切迫感」が全然違う。切迫しない現実は,心のエネルギーに火をつけることができない。ガソリンなら,あればあるほど余裕があるかもしれないが,日数や時間などの余裕はたくさんある分だけあるというものではないし,残り少ないからこそその分だけしか達成できない,というものでもない。要するに,数値化には向かないものなのである。
 新しもの好きは,やりたくないことを「ロボット」任せにして,そうしてますます自分のなじみ深い環境をいとわしく思ってしまう。しかしそれは,要するに「ロボット」によって「現実」から遠ざけられているせいなのである。危機がやってきて,「ロボット」からいくぶんなりとも「現実」を奪い返し,ガチャッとギアを入れることさえできれば,自分が無能でも「グズ」でもないことを悟るのだ。エネルギーはあるのである。

佐々木正悟 (2005). 「ロボット」心理学 文芸社 p.111-113.
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ネオフィリア

 ここで,ヘビやアリクイのことを思い出そう。ふつうの動物は「新しもの恐怖(ネオフォビック)」にさいなまれている。これは当然である。「新しいこと」は「危険」だからだ。一般の動物にとって最高の金言は,「君子危うきに近寄らず」だ。「新しもの好き(ネオフィリア)」とは,動物にしては変わり種なのだ。人間は,明らかにその中でも大変な変わり種だ。つまり,人間の心の中には,ものすごい「特殊な力」が働いていると考えるのが自然だろう。それが「新しいものはすばらしい!」という心理だ。これほどの力が働かなければ,おそらくヒトは,ほかの動物と同じように,「同じ家」「同じ友達」「同じ食べ物」「同じ恋人」でいつまでも満足至極で幸せであったはずだ。

 「新しいロボット」を作ることに挑戦することほど,社会が手放しに賞賛することも他にはない。新聞には,「ペン字」や「生け花」や「尺八」などの通信講座の広告が,一面全部を毎週占領する勢いがある。そこにはこんなふうに書いてある。「新しい趣味に挑戦」「老後を豊かに」。つまり,「豊かな人生」とは「新しいロボットを増やすこと」で得られる,となるらしい。社会にこのメッセージが通用するのだから,きわめて多くのヒトの中に,「ネオフィリック」はきっちりと植え付けられている。「新しいこと」は考える余地のないほど,明瞭に「望ましいこと」なのである。

佐々木正悟 (2005). 「ロボット」心理学 文芸社 p.45-47

エネルギーの節約

 「ロボット」は,生物にとって「重要」と思われる場合を除き,心のエネルギーを「節約する」方向へと働くのだ。その目的は自由の拡大ではあるが,ご当人が自由を活用しようとしていない場合,エネルギーがどこまでも下がっていくばかりなのである。いやなこと(危険)がなければ,という但し書きがつくけれど。
 「ロボット」を使いこなすのが得意な人ほど,一歩間違うと人生は「徐々に楽しみが失われる」ばかり,たまに「はっとする」のは「危険なことがあったとき」のみ,ということになりかねない。ひとことで要約するなら,人生とは退屈プラス危険。ゼロとマイナスだけで成り立っている。ずいぶんなものだと思うのももっともだ。鬱病になっても仕方がない。先進国の自殺率が高いのも,ムリもないとさえ思えてくる。



佐々木正悟 (2005). 「ロボット」心理学 文芸社 p.38-39.

ロボットの特徴

①「ロボット」は何かに挑戦した成果を保存しておく。人間は新しい技術を獲得した成果を「ロボット」にして装備する。そして必要な場合に再利用できるようにする。これは人間の自由を拡大している。
②「ロボット」は何かを見,聞き,知ったということを保存しておく。こうすることで,人間は世界のどの部分はすでに織り込み済みであり,どの部分はまだ未知であるかを区別できる。そうすれば,既知の部分についてあれこれ悩まずにすむ。このこともまた人間の自由を拡大している。
③「ロボット」は,とくに使い込まれれば,ほとんど無意識のうちに仕事を処理してくれる。こうして人間は,じぶんのやっているあれこれを「ロボット」任せにして自分は他のことをしていられる。自由の拡大である。
④「ロボット」は1つの重要な仕事を成し遂げるために,グループとしてチーム・ワークをなす。あなたが取引先のお得意様と重要な契約を取り付けられるのは,日本語を操る「ロボット」,パソコンを操る「ロボット」,書類を作成する「ロボット」,上司の指示を記憶している「ロボット」などが,スムーズに仕事を処理してくれるからである。

佐々木正悟 2005 「ロボット」心理学 文芸社 p.35-37

ロボット

 英国の文学批評家であり,小説家であり,哲学者であり,オカルトや犯罪の研究家としても知られるコリン・ウィルソンが,「ロボット」という心理学的な概念を発表した。
 コリン・ウィルソンによれば人間の非常にユニークな特徴のひとつとして,「ロボットを使う」,それどころか「ロボットになってしまう」ということが挙げられる。「ロボット」という言葉によって彼が指している意味は,つまるところ人間の学習能力のことなのである。

佐々木正悟 (2005). 「ロボット」心理学 文芸社 p.27

基本的帰属錯誤

 わたしたちが性格とは統一された包括的なものだと思いこむのは,人が頭の中で情報処理するときに,一種の死角のようなものがあるからである。こういう傾向を心理学者は,「基本的属性認識錯誤」(fundamental attribution error; FAE)と呼んでいる。この面白い言い回しは,人間は他人の行動を解釈するとき,おしなべてその根本的な性格特徴を過大評価し,状況や背景の重要性を過小評価するということを意味している。わたしたちは常に出来事を状況的に解釈しないで,素因的に解釈しようとする。
 たとえば,同じ程度の技術を持つバスケットボール選手のチーム2組に,片方は照明のきいた体育館で,もう一方は照明の暗い体育館でシュート練習をしてもらい(当然こちらはシュートの失敗も多くなる),観客にどちらの選手が上手いか判定してもらうという実験がある。するとたいていは照明のきいた体育館の選手のほうが上手いと答える。
 また別の例では,クイズ・ゲームをするという名目で人を集め,2人1組に分けて,くじ引きをしてもらう。どちらかが「解答者」のカードを引くと,片方は「出題者」になる。出題者には,自分が特に興味を持っていたり,専門知識を持っている分野から「難問ではないが回答不能ではない」程度の問題を10問選んでもらう。たとえばウクライナの民族音楽に詳しければ,それに関連した問題を考えてもらうわけだ。クイズが終わると,出題者にも解答者にも,相手の一般知識の程度を評価してもらう。するとまず間違いなく,解答者は,出題者よりもはるかに知識があると答える。

マルコム・グラッドウェル 高橋 啓(訳) (2001). なぜあの商品は急に売れ出したのか 口コミ感染の法則 飛鳥新社 p.216-217

※"fundamental attribution error"は,「基本的帰属錯誤」などと訳されるのが一般的。原因帰属バイアスの一種。訳者が知らなかったということか。

50回折ってみる

 ここにかなり大きな紙がある。それを1回折り畳み,さらにそれをまた折畳み,最終的に50回折り畳んでもらうとする。こうして折り畳まれた紙はどれくらいの高さになるだろうか?このクイズを出された人は,幾重にも折り畳まれた紙を頭に思い描いて,たいていは電話帳の厚さくらいと答える。大胆な人は冷蔵庫くらいの高さになると答えるかもしれない。
 だが,正しい答えは,ほぼ太陽までの距離に相当する高さになるのである。もう1度折り畳めば,太陽と地球の間を往復した距離に相当する。

 大きな変化はときに小さな出来事に由来し,ときとしてその変化はきわめてすばやく生じることがある。感染の威力を正しく理解するには,この可能性に自分自身をならしていく必要がある。


マルコム・グラッドウェル 高橋 啓(訳) (2001). なぜあの商品は急に売れ出したのか 口コミ感染の法則 飛鳥新社 p.27


育毛剤の怪

 私たちは,期待や仮説のような思いこみを持ってしまうと,日常経験でそれに当てはまることに敏感になります。それが占いが当たったように感じる1つの原因でもあります。つまり,今日の運勢などで,あいまいに出会いや出来事をほのめかされているといつもなら気にもとめない経験でも,「今朝の占いで言っていたことってこのことかな」と当てはめてしまうのです。そしてこの的中感が相手方のトークを信じる源泉となるのです。
 もっといい例がありました。実は,あるお父さんが,ちょっと髪の毛が薄くなってきて気にしていました。それである日,とある付け薬が効くと信じて購入し,毎日忘れずに数回振りかけて頭をとかしていました。
 しばらく経って,大学生の娘に,「どうだ,少し効いてきた気がしないか」と頭の上を見せながら聞くのですが,どうも娘には頭髪になんの変化も感じられませんでした。それでどんな薬か手に取って見たところ,とんでもないことを発見してしまいました。なんと,その薬瓶には,内キャップがあって,それがはまったままだったのです。ということで,このお父さん,1滴も使わずに効いてきた気がしていたということに初めて気づき,立場を失いました。

西田公昭 (2005). まさか自分が…そんな人ほど騙される 詐欺,悪徳商法,マインド・コントロールの心理学 日本文芸社 p.81-82.

知識獲得・維持の方法

 知識を獲得し,維持する方法には4通りあるとチャールズ・サンダース・パースは考えた。固執,権威,先験,科学的手法である。
 「固執」は,知識の源としてはいちばん劣っている。反証がいくらあろうと,永遠の真理だからというただそれだけの理由で,正しいと信じるからだ。
 「権威」も大差はなく,専門家と認める相手の言葉をそのまま鵜呑みにする。とくに気をつけなければいけないのは,権威ある人間がその立場を振りかざして,自説の正しさを押し付けるようなときである。ただし権威者から学べることも多少は受け入れないと,進歩がないことはパースも認めている。
 「先験(ア・プリオリ)」は直観法とも呼ばれており,「なるほどと思う」もしくは「納得できる」考えを受け入れるというものだ。もっとも,ある人が納得できる考えも,ほかの人から見るととうてい受け入れがたいかもしれない。「先験」は主観的な評価であり,直観的な反応なので,つねに正しいわけではない。
 「科学的手法」はひとつではない。たとえば天文学者が用いる手法は記述が中心であって,物理学や化学の実験的手法とは性質を異にする。それでも知識獲得のための科学的手法は,経験主義と,程度の差こそあれ論理を基盤にしていることが共通している。
 行動科学の分野では,理論を出発点として演繹的に推理していく「トップダウン」方式が研究の主流となっている。科学者はその理論に基づいて,検証が可能な具体的な概念を作り上げる。それが仮説である。次に実験を行うのだが,その結果は仮説を裏付けることもあれば,否定することもある。優れた科学は自己修正が利いて固執しないことが特徴なので,仮説と矛盾する実験結果が出たら,もとの理論は修正するか,放棄しなければならない。こうしたルールが守られているおかげで,経験的に引き出された事実を合理的な手法で結びつけることができるのだ。

スチュアート・A・ヴァイス (1999). 人はなぜ迷信を信じるのか 思いこみの心理学 朝日新聞社 p.304-310より


ピアジェ

 ピアジェは神童だった。1896年8月9日,スイスのヌーシャテルに生まれ,早くから生物学に関心を示した。10歳の時,公園で見つけたアルビノのスズメについて博物学雑誌に寄稿したのが,その後の多彩な叙述活動の始まりである。15歳から18歳にかけて,軟体動物に関する文章を積極的に発表したことが評価され,ジュネーブの自然史博物館で,軟体動物コレクションの学芸員にならないかと誘われたこともある(ハイスクールも終えていなかったので断ったが)。生物学で博士号を取ったのは21歳で,その後興味は心理学へと向かった。チューリヒで勉強を続け,やがてパリのソルボンヌ大学に学び,1920年にはビネ研究室でテオフィル・シモンと並ぶ地位に就いた。シモンとアルフレッド・ビネがビネ=シモン知能テストを開発したとき,ピアジェは知能テストの項目標準化の手伝いをしている。
 伝説によると,テスト項目を調べていたピアジェが強い興味を示したのは,子どもたちが正解したときではなく,まちがったときの反応だったという。年齢によって,頭の回転だけでなく,考え方の質も違っていた。ピアジェは子どもの思考についての論文を発表するようになり,ジュネーブにあるジャン・ジャック・ルソー研究所に地位を得てからも,認識発達の研究を続けた。ピアジェは,ライフワークとして,数多くの著作で自分なりの認識発達論を展開していったが,生物学での蓄積を完全に捨て去ったわけではない。子どもの環境適応方法を強調したその姿勢は,生物学的,進化論的なプロセスの影響を強く受けていた。それによると,子どもは成長とともにいくつかの認識段階をくぐり,12歳ぐらいには最終的な「形式的操作段階」に到達するという。この段階になると,子どもは抽象的思考,つまり言葉や論理表現だけで思考できるようになる。

スチュアート・A・ヴァイス (1999). 人はなぜ迷信を信じるのか 思いこみの心理学 朝日新聞社 p.215


ニューエイジ・ムーブメント

 30年ほど前から始まったいくつかの社会的潮流が,迷信や超常現象信仰を広めるのに役立っている。1970年代から80年代に盛んになり,今日もまだ続いているニューエイジ・ムーブメントは,西欧の科学技術,既存の宗教を拒絶し,古くからの迷信をよみがえらせると同時に,新しい迷信も取り入れた。ニューエイジ信奉者たちは,宇宙に存在する英知や,何世紀も前に存在していた人物と交信できるという「チャネラー」のもとを訪ねたり,魔法の水晶を使ったり,手で触れて病気を治すという異端的な治療法を支持している。霊魂が生まれ変わることや,占星術,数秘術,超感覚的知覚,つまり超能力(ESP)も信じられている。ニューエイジ雑誌はいくつも出版されており,ニューエイジ系書店の数は1982年から87年の間に2倍に増え,アメリカ国内で2500店に達している。女優のシャーリー・マクレーンはニューエイジ・ムーブメントを代表する人物として,これまでに5冊の著作を世に出し,合計で800万部以上が売れている。

スチュアート・A・ヴァイス (1999). 人はなぜ迷信を信じるのか 思いこみの心理学 朝日新聞社 p.30


偶然と必然

 たとえば,遺伝しないガンがあるとしよう。そのガンはランダムに起こる。そして,かかるのは人口の0.5%。まれな病気なのだ。ところが,廃棄物処理場のそばに住んでいる一家の子ども3人がこのガンにかかる。こんなことは偶然には起こりそうにないので,私たちは,廃棄物処理場のそばに住むのは危険だと言うかもしれない。何しろ,無作為に選んだ3人のきょうだいがそろってこのガンになる確率は0.05^3,つまり8000分の1である。これは,間違いなく,たいていの人が考える,偶然には起こりそうにない出来事の定義に合う。だが,米国ほどの大きさの国では,子どもが3人いる家族は100万世帯を越える。そして,これだけの家族のうち,子どもが3人そろってガンになる家族は8000世帯に1つと予想される。つまり,100万世帯のうち125世帯だ。

バート・K・ホランド 林 大(訳) (2004). 確率・統計で世界を読む 白揚社 p.120-121.

病は・・・

1992年,米国でC.K.ミーダー博士が「サザン・メディカル・ジャーナル」に発表した論文には,2人の医師が観察した出来事が述べられている。ブードゥー教の聖職者と言い争いをした時,死をもたらす呪いをかけられたと信じた男性が,ものを食べるのをやめ,衰弱して,入院せざるをえなくなった。チューブを通して栄養を与えられ,人事不詳になって瀕死の状態に陥った。医師たちが調べても,この人の臓器に何の病気も見つからなかった。
 担当医師は,おびえている患者の妻や身内の目の前で患者に,ある事実を「明かし」た。医師自身,少し前にこの患者についてそのブードゥー教の聖職者と激しい言い争いをし,手荒な脅しによって,患者が抱えている問題の正体を白状させたと言ったのだ。それによると,まじないの力でトカゲが1匹患者の体内に棲みついて,患者が食べたものを食いつくし,さらに患者のはらわたまで貪っているというのだった。意思は,このような説明をしたあと,嘔吐を引き起こす薬を患者に注射して,患者が吐いたところに早業でトカゲを1匹置いた。患者は眠り込み,翌朝目覚めたときには食欲のかたまりになっていて,1週間後に退院した。

バート・K・ホランド 林 大(訳) (2004). 確率・統計で世界を読む 白揚社 p.116-117.

ポップコーンの正規分布

 電子レンジにかけるとポップコーンになるトウモロコシをはじけさせると,正規分布曲線が音になって耳に聞こえる。しばらくは何も起こらないが,やがて1つまた1つと粒がぽんとはじけるのが聞こえるようになる。そして次に,いくつかが一度にポンとはじけるのが聞こえる。ポンという音の間隔は短くなっていき,やがてたくさんの粒が同時にはじけ,絶え間なく音が続くようになる。うるさい音を立てながらはじける粒の数は増え,頂点に達し,次第に減っていき,1度に2つほど粒がはじけるのが聞こえるだけになる。ついには,ポンという音の間隔が数秒になる。


バート・K・ホランド 林 大(訳) (2004). 確率・統計で世界を読む 白揚社 p.77-78.

使ってみないと分からない

 さて,ここで問いたいのは能力や性質がそれだけで存在することがありうるのか,ということである。
 包丁は切る力を持っているという言い方は,ちょっと変だが可能である。「切れる」包丁とか「切れが良い」包丁という言い方もできる。前者の言い方が能力的な言い方で後者の言い方が性質的な言い方である。さて,ある包丁が目の前にあるときに,それが「切れる」かどうか「切る能力」を持つかどうかはどうすればわかるのだろうか。
 使ってみるしかない。魚などを切ってみるしかない。極端な話,プラスチックや紙で作られたおもちゃの包丁という可能性だってある。切ってみて初めて「切れる」かどうかがわかる。
 その一方,本物の包丁で食べ物ではなく鉄板などを切ろうと思っても切ることはできない。しょせん「刃がたたない」のである。
 包丁の能力・性質は実際に魚なり何なりを切ろうとしてみなければわからない。結果を見なければわからないのである。包丁がなければもちろん切れないが,かといって包丁そのものの中に「切る力」が備わっているわけではない。「切る」という行為を行う中で,その力が発揮されているにすぎないのである。切る力(能力)は,切るモノと切られるモノ(ついでに言えばそれを使う人)すべての条件が揃った時のみに出現する。私たちは成長の過程で道具の使い方を覚えてきたために(たとえば紙を切る時に包丁を使って「切れないなあ」と言う大人はいないだろう),ある能力をある道具に固有のものとして見てしまう。そしてそのような見方が「能力」「性質」という考え方を生み出すのである。

サトウタツヤ (2006). IQを問う 知能指数の問題と展開 ブレーン出版 p.153-154.

知能検査の目的と序列化

知能検査の目的は(それが果たされたかどうかは別にして),知能の状態の把握にある。そして,把握した結果は何らかの形で表記するのであるが,その表し方はすべて同じだというわけではない。ここでまとめておきたい。

 段階ービネの本来の目的は,「遅れがある/ない」の把握であった。
 年齢水準ービネの改訂版で現れた考え方で,検査を受けた子どもが「一般的な他の子どもたちでいうと何歳程度の発達水準にあるか」ということを把握する。
 IQーシュテルンによって提唱されたもので「精神年齢を実際の年齢で割ってそれに100を掛けることで指標化」したものである。100が標準。実用化したのはターマン。
 知能偏差値ーウェクスラーによって提唱されたもので,年齢母集団の分散を加味した上で指標化したものである。100が標準。

 これら4つの中で最も広く知られているのがIQである。また,ビネの最初の取り組み以外は結果を数値で表すようになってきていることに注意されたい。そして,この数値化はある意味で便利であるが,きれいな花にはトゲがある,のたとえどおり非常に大きな副作用があったのである。それは序列化である。数値化されるとそれを比較するのが簡単になる。数字自体に強烈な序列性があるからである。そしてその数字=序列が猛威をふるったのだ。人種間,階層間の比較によっていわれのない差別を受けた人が少なくなかったのはすでに述べた通りである。

サトウタツヤ (2006). IQを問う 知能指数の問題と展開 ブレーン出版 p.96-97.

良いことをすれば良い人になる

「まず行動を変える」方略は,おそらくこの場合にも有効で,意識的物語と適応的無意識に望む変化をもたらすことができる。要するに,もっと良い人になりたいなら,「良いことをすれば良い人間になる」方略をとるべきなのだ。他人の助けになり,気配りするよう振る舞うことで,私たち人間は人に役立ち,気配りできる人として自分を考えるようになるだろう。

ティモシー・ウィルソン 村田光二(監訳) (2005). 自分を知り,自分を変える 適応的無意識の心理学 新曜社 p.277


行動を変えよ

非意識的な傾向を変化させる第一歩は,行動を変えることである。非意識的なレベルで偏見を持っているのではないかと心配な人は,可能な限りいつも,偏見の無い方法で行動するよう最善を尽くすことが出来るだろう。そうすることで,2つの方法で自動的なレベルの変化を導きうる。第1に,先に述べた自己知覚過程に従って,行動から非意識的に,自分は偏見のない人であると推論する機会が得られる。すなわちそれは,態度と感情を推論するための新しい「データ」を,適応的無意識に提供する。
 第2に,ウィリアム・ジェームズが述べているように,ある行動をすればするほど,それはより習慣的で自動的になり,努力と意識的注意を必要としなくなる。社会心理学の変わらぬ教えの1つは,態度や感情の変化にしばしば行動変化が先行することである。このように,自分についての意識的概念に一致するように行動を変えることは,適応的無意識に変化をもたらすよい方法である。

ティモシー・ウィルソン 村田光二(監訳) (2005). 自分を知り,自分を変える 適応的無意識の心理学 新曜社 p.277

教育現場の男女差

マイラ・サドカーとデービッド・サドカーは,非意識的レベルで働く同様の自己成就予言が,アメリカの教室に学ぶ少年と少女の成績の違いに影響を及ぼしていると主張している。意識的なレベルでは,たいていの教師が男子と女子を平等に扱っていると確信している。ある実験で,サドカーたちは教師にクラスで男女の生徒たちが議論しているフィルムを視聴させた後,男子と女子のどちらの方が議論に貢献していたかを尋ねた。教師たちは女子が男子よりも参加していると回答した。サドカーらがもう一度フィルムを見て男子と女子が発言した回数を数えるように要求して初めて,教師たちは男子の方が3対1の割合で女子よりも多く発言したことに気づいた。
 非意識的レベルでは,教師は男子を女子よりも好意的に扱うことが多いため,男子は女子よりも成績が良くなるとサドカーは主張する。非意識的な心には結論を急ぐ傾向があり(「私の算数の授業では,男子の方が良くできる」),たとえ教師たちが意識的には皆を同様に扱っていると信じていたとしても,男子を優遇することになる。

ティモシー・ウィルソン 村田光二(監訳) (2005). 自分を知り,自分を変える 適応的無意識の心理学 新曜社 p.71

合理化・正当化

 社会心理学の教えのなかで最も息の長いものの1つは,リード夫人のように,人は自分にとって心地よく世界を見るためなら,どんなことでもするということである。私たちは,脅威をもたらす情報を合理化し,正当化することに長けたスピンドクターなのだ。ダニエル・ギルバートと私は,この能力を「心理的免疫システム」と呼んでいる。私たちは,身体的健康を脅かすものから自分たちを保護する強力な身体的免疫システムをもっているが,それとちょうど同じように,心理的健康を脅かすものから自分たちを保護する強力な心理的免疫システムももっている。心理的健康を維持するということに関しては,私たち1人ひとりが究極のスピンドクターなのである。
 西洋文化の中で育ち,相互独立的な自己観を持っている人は,他者に対する自分の優越性をことさら大きく見て,心理的健康の感覚を増そうとしがちだ。他方,東アジアの文化に育ち,人間をもっと相互協調的なものと見る人は,集団成員との共通性を過大に見やすい。すなわち,相互協調的な自己観を持つ文化の中に育った人は,肯定的な自己観を促進する戦術にはそれほど出ないかもしれない。というのも彼らは,社会集団から切り離された自己にあまり重きを置かないからである。それでもなお,心理的健康の感覚を維持するため,やり方は異なるものの,非意識的な情報操作は行われている。何が私たちの気分を良くするかは,文化やパーソナリティ,自尊心のレベルに依存する。しかし,良い気分でいたいという欲求,そしてこの欲求を非意識的思考によって満たす能力は,おそらく普遍的なものである。


ティモシー・ウィルソン 村田光二(監訳) (2005). 自分を知り,自分を変える 適応的無意識の心理学 新曜社 p.52-53


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