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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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非意識的な心

非意識的な心は,いわば見えないところでインターネットをスキャンし,私たちにとって興味深い情報に出会ったら電子メールで知らせてくれるコンピュータプログラムのようなものである。私たちの心の一部は,注意の焦点にないものをスキャンし,何か興味深いことが起きると注意を喚起してくれる。非意識的フィルターは,シドニーが胆嚢手術をしたことをだらだら話しているのを聞いた場合には,無視しようと決断する。しかし,彼が私たちの名前を口にしているのを聞いたときには,ただちに意識的注意に知らせるのである。

ティモシー・ウィルソン 村田光二(監訳) (2005). 自分を知り,自分を変える 適応的無意識の心理学 新曜社 p.39


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潜在学習

 潜在学習をあざやかに示して見せたのが,パウエル・レヴィッキ,トーマス・ヒル,エリザベス・ビゾーによる研究である。実験参加者に課された課題は,4分割されたコンピュータ画面を注視することだった。コンピュータ画面には,試行のたびに「X」という文字が1つの区画に現われ,参加者は4つのボタンのどれか1つを押して,それがどこに現れたかを答えた。参加者は知らなかったが,「X」の呈示方法は12パターンに分かれており,複雑な規則に則っていた。たとえば,「X」が同じ区画に2回続けて現れることは決してなかった。また,3番目の呈示位置は2番目の呈示位置に依存しており,4番目の呈示位置は,それに先行する2つの試行に依存していた。そして「X」は,少なくとも他の2つの区画に現れるまで,元の場所に「戻る」ことは決してなかった。正確な規則は複雑だったが,参加者はこれを学習しているようであった。試行が進むにつれ,遂行成績は着実に伸び,「X」が画面に現れた時に正しいボタンを押すまでの時間がどんどん速くなっていったのである。しかし,その規則がどのようなものだったか,またそもそも何かを学んでいたということさえ,誰1人言うことができなかった。
 彼らが複雑な規則を非意識的に学んでいたということは,実験の中で次に起きたことから明らかになった。研究者たちが突然,規則を変更し,「X」が現れる場所を予測する手がかりを無効にしたのである。すると,参加者の遂行成績はがくんと低下した。彼らは「X」の呈示位置を検出するのに非常に多くの時間がかかるようになり,間違いもいくつかするようになった。参加者は,課題をうまくできなくなったことに気づいたが,それがなぜかということは誰もわからなかった。彼らは,今では通用しなくなった規則を学んでいたことをまったく自覚していなかったのである。かわりに,成績が急に悪くなったことに対する別の説明を,意識的に探していた。

ティモシー・ウィルソン 村田光二(監訳) (2005). 自分を知り,自分を変える 適応的無意識の心理学 新曜社 p.36-37

意識の処理量

 私たちの五感は,あらゆる瞬間に1千百万要素以上の情報を取り込んでいる。科学者たちは,各感覚器にある受容細胞と,これらの細胞から脳へと向かう神経を数えて,この数字を割り出した。両目だけで,1秒当たり1千万以上の信号を受信し,脳に送信している。科学者たちはまた,人がどれだけ早く文字を読めるか,さまざまな光の点滅を意識的に検知できるか,異なるにおいを嗅ぎ分けることができるかといったことを調べて,任意の時点において,どれだけの信号が意識的に処理されうるかを明らかにしようとしてきた。その最も多い見積りでも,人が意識的に処理できるのは,1秒あたり約40要素の情報である。私たちは1秒あたり1千百万要素もの情報を取り入れているのに,意識的に処理できるのはそのうちのたった40要素にすぎないのである。いったい,残りの1千99万9960要素はどうなったのだろうか。このように信じがたいほど鋭敏な知覚を備えているにもかかわらず,入力情報を利用できる能力が非常に少ないシステムを設計するのは,あまりに無駄というものである。しかし幸運にも,私たちは,意識的自覚のないところで,この非常に多くの情報を有効に利用しているのである。

ティモシー・ウィルソン 村田光二(監訳) (2005). 自分を知り,自分を変える 適応的無意識の心理学 新曜社 p.33


生得と学習

 進化のコンピュータ・シミュレーションによると,学習で生じた神経回路を生得のものとするプレッシャーは,生得の回路が増えれば増えるほど弱まっていく。残りの部分が学習できないかもしれない,という危険性が低下するからである。


スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p26


話すのは「珍しい」か?

人間がしゃべるのは,象やペンギン,ビーバー,ラクダ,ガラガラ蛇,ハチドリ,電気ウナギ,葉の真似をする昆虫,ジャイアントセコイア,ハエジゴク,センサーを駆使するコウモリ,頭上にカンテラをはやした深海魚などより珍しい現象といえるだろうか。これらの生き物のあるものは,その種だけに固有の特徴をもち,あるものは持たないが,それは,隣接種のどれが偶然に絶滅したかによって決まることにすぎない。ダーウィンは,あらゆる生命体が遺伝的につながっていることを強調したが,同時に,進化とは「変異を伴う」遺伝でもある。自然淘汰はからだと脳という素材から,多種多様な無数の生命体を作り出してきた。ダーウィンにとってはそれこそが「生命をこう見ることの壮大さ」だった。「この惑星が不動の物理法則に従って回転している間に,ごく単純なものから出発して,きわめて美しく素晴らしい無数の形が進化してきたし,いまも進化し続けている」のである。

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.177-178.

1パーセントの違い

 神経細胞のつながり方を制御する遺伝子が変化しない限り,脳の回路は変化できない。チンパンジーの手ぶりも人間の言語と同等に見なすべきだ,という誤った主張に,この事実が引き合いに出されることがある。チンパンジーと人間はDNAの98〜99パーセントを共通にする,という「発見」が,主張を補強する。この「発見」は,イヌイットの言語には雪を表す言葉が400ある,という例の都市伝説に劣らず広く流布した疑似事実である。DNAの99パーセントが同じなら,チンパンジーと人間は99パーセント似ているだろう,と主張は続く。
 しかし,遺伝学者はこんな推論にあきれ,DNAの類似性に関する報告にわざわざ,そんな推論は成立しないという言葉を追加する。発生というスフレを作る手順は複雑怪奇にからみ合っているので,遺伝子にわずかな変化があるだけで,最終製品に大きな影響を及ぼしうる。しかも,1パーセントの違いは,わずかとはいえない。DNAに含まれる情報量に換算すると,じつに10Mバイトに相当する。普遍文法をそっくり格納した上に,チンパンジーをヒトに変える手順書が入ってまだ余る。さらに,DNAの1パーセントが異なるというのは,遺伝子の1パーセントが異なることを意味しない。理論的には,ヒトとチンパンジーの遺伝子すべてが,1パーセントずつ違うこともありうる。DNAは非連続要素の結合体系だから,遺伝子1つのDNAに1パーセントの違いがあることは,100パーセントの違いになりうる。すべてのバイトを1ビットずつ変えたり,すべての単語について文字を1文字ずつ変えたりすれば,でき上がる文は10パーセントや20パーセントではなく,100パーセント違ったものになる。DNAも同様で,アミノ酸がただ1つ変化するだけで,できるタンパク質の形が大きく変化し,機能まで変わってしまうことがありうる。事実,遺伝子に起因する致命的な病気の多くは,こうしておきる。遺伝学的類似のデータは,進化の家系図を描く(あたとえば,ヒトとチンパンジーの共通の先祖からゴリラが枝分かれしたのか,チンパンジーとゴリラに共通の先祖からヒトが枝分かれしたのかを判断する)役には立つし,「分子時計」を使って分化の時期を測定するさいの参考にさえなるかもしれない。しかし,生命体の脳や肉体がどの程度似ているかを教えてはくれないのである。

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.177-178.


チンパンジーの言語理解

 語彙,音韻,語形態,統語などをすべて棚上げにしたとしても,チンパンジーの手話を見てもっとも印象に残るのは,彼らがとにかく基本的なところで「わかっていない」ということである。手話をすれば訓練者が喜ぶことや,手話を通じてほしいものが手に入る場合が多いことは知っているが,言語とはなにか,どうやって使うものかということを一度も実感として理解していないのだ。訓練者と交互に会話をすることをせず,相手と同時に手を動かす。手話はからだの正面ですることになっているが,からだの脇やテーブルの下などで手を動かすことも多い(足で「手話」をするのも好きだが,足の指が自由に動くのを利用しても,それを非難するつもりはない)。自発的に手話をすることはめったにない。訓練者が手を添えたり,繰り返し教えたり,強制したりする必要がある。文の多く,とくに,統語ルールに則った順序に並んだ文は,訓練者が直前にやったことの真似だったり,何千回も練習した少数の決まり文句をちょっと変えたものだったりする。ある特定の手話動作が特定の種類の内容を意味する,ということすらよくわかっていないようだ。チンパンジーの手話単語の多くは,その単語が言及する対象物と関連する状況の,どんな側面をも意味しうる。「歯ブラシ」の手話動作は,「歯ブラシ」,「歯磨き」,「歯を磨いている」,「私の歯ブラシがほしい」,「もう寝る時間だ」のいずれも意味しうる。「ジュース」の手話動作も,「ジュース」,「ジュースがいつも置いてあるところ」,「ジュースのあるところに私を連れていって」のいずれの意味にもなる。

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.162-163.


オペラント条件づけサーカス

 チンパンジーはじつは,訓練者がやっていたと主張したことより,はるかに興味深いことをやっていた。プロジェクトを見学したジェーン・グッドールは,テラスとペティットに,ニムの手振りはすべて,自分が野生のチンパンジーを観察して見慣れているものと同じだ,と感想を述べた。真性のASLは,手の形,動き,位置,動きの方向を単位とする非連続要素の結合体系である。チンパンジーはASLの単語を覚えるより,自分にとってもっとも自然なジェスチャーに頼るほうを選んでいたのだった。人間が動物を訓練する時は,この種の後戻りがよくおきる。B.F.スキナーの弟子で企業家精神に富んだ2人,ケラーとマリアン・ブリランド夫妻は,ネズミやハトを餌で釣って特定の行動をさせるというスキナーの理論を,サーカスの動物の訓練に応用して,ビジネスを成功させた。2人がその間の経験を書いた有名な文章がある。題名は,スキナーの著書『生命体の行動』をもじって,「生命体の誤行動」。2人はいろいろな動物に,ジュークボックスや自動販売機の模型にポーカーチップを入れると餌がもらえる,という訓練をしたことがある。すると,同じ形の訓練をしていても,それぞれの種の本能が滲み出してくる。ヒヨコはチップをつつき,豚は鼻で弾いたり掘る仕草をし,アライグマはチップをこすって洗ったという。

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.160.

優れた器官

 象の鼻は長さ2メートル,太さ30センチ。筋肉の数は6万にも上る。象はその鼻で木を根こそぎ引き抜いたり,材木を積み上げたり,丸太を所定の位置にぴたりと置いたりして,橋作りに従事する。鼻の先を丸めて鉛筆をはさみ,便箋大の紙に絵を描くことができる。鼻の先端の,筋肉の突き出たところでトゲを抜いたり,ピンやコインを取り上げたり,檻の戸のボルトを抜いて棚に隠したり,カップをつかんだりもできる。カップを割らず,しかも,しっかり押さえ込むので,べつの象の力を借りなくては取り上げられない。鼻の先端はとても感覚が鋭いので,目隠しをされても,鼻の先でさわれば物の形や材質が分かる。野生の象は,鼻で草を抜き,膝にたたきつけて泥を落としたり,椰子の木をゆすって実を落としたり,からだに泥を吹きつける。歩きながら鼻で地面をさぐって,落とし穴を避ける。井戸を掘って,鼻で水を吸い上げる。鼻をシュノーケル代わりにして,深い川の川床を歩いたり,潜水艦のように水面下を泳いだりする。鼻からいろいろな音を出したり,鼻で地面を叩いたりして意思を伝え合う。鼻の内面には化学受容器があって,草に隠れるニシキヘビや,1キロ以上離れたところにある食べ物を嗅ぎ当てることができる。
 これほど優れた器官を持つ生き物で,現存するのは象だけである。現存する生き物で象にもっとも近いのは,たぶん,モルモットを大きくしたようなハイラックスだろう。いままでは,象の鼻がそれほど独特の存在などとは思ってもみなかった人が多いのではなかろうか。こんなことを騒ぎ立てる生物学者がいなかったのは確かである。
 しかし,その生物学者の何人かが象だったら,どうだろう。他のどんな生命体も,象の鼻に近いものすら持っていないのだから,いったい,どんなふうに進化してきたのかが大問題になるのではなかろうか。ある学派は,他の種とのギャップを埋めようとするかもしれない。主張はこんなふうに展開するだろう。象とハイラックスはDNAの約90パーセントを共通にしているのだから,大違いだとはいえない。象の鼻はじつは,皆が思っているほど複雑な器官ではないのかもしれない。ひょっとしたら,筋肉の数を数え違っていたかもしれない。ハイラックスにも鼻がある。ただ,見落とされていただけなのだ。なんといっても,鼻孔はあるのだから。ハイラックスを訓練して,鼻孔で物を拾わせる実験は失敗したとしても,舌でつまようじを押させる訓練に成功した別のグループが,丸太を積み上げたり,黒板に絵を描いたりするのとの違いは程度の問題だ,と主張するだろう。逆に,象の鼻のユニークさを信じる学派は,象の祖先は鼻が長くはなかったが,あるとき,突然変異が起きたのだ,と主張するかもしれない。象の頭が大きくなる過程で,副産物として鼻も自動的に伸びたのだ,という説も出るだろう。ただし,こう主張すると,鼻の進化にもう1つ,矛盾を追加することになってしまう。象の祖先は,これほど複雑で細かな動きのできる器官など,必要なかったはずだからである。
 いずれも奇妙な主張に思えるかもしれないが,これらはすべて,象とは別の種の,その種だけに固有の複雑な器官について,科学者たちが提出してきたものだ。複雑な器官とはすなわち,言語である。

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.151-153.


赤ん坊はなぜしゃべりながら生まれてこないのか

 では,ここで,本性の最初に提起した疑問に立ち返ろう。なぜ,赤ん坊はしゃべりながら生まれてこないのか。答は部分的にはすでに出ている。赤ん坊は,発声器官をうまく動かすために自分の声を聞く必要があり,言語共同体に共通の音素,単語,句順を知るために年長者の話すのを聞く必要がある。文の獲得は単語の獲得に,単語の獲得は音素の獲得に依存するから,言語発達は順序を踏んで進行する。しかし,心的機構の実態がどんなものであれ,これだけのことができるほど強力なら,数週間か数ヶ月のインプットがあるだけで十分ではなかろうか。なぜ,3年もかかるのだろう。もっと早くならないものか。
 おそらく,早くはならない。複雑な機械を組み立てるには時間がかかるものだが,人間の赤ん坊は,脳の組み立てが完成する前に子宮から追い出されている可能性が高い。人間は,あきれるほど大きな大きな頭を持った動物だ。頭は女性の骨盤を通り抜けなければならないが,通路の広さには限りがある。他の霊長類が寿命の何パーセントを胎内で過ごすかということから,人間の場合を比定すると,18ヶ月で生まれていい計算になる。赤ん坊が単語をつなぎはじめる時期ではないか。18ヶ月も胎内にいたとしたら,しゃべりながら生まれてきたかもしれないのだ!

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.92


喃語の重要性

 喃語はどうして,これほど重要なのだろうか。赤ん坊の状態は,つまみやスイッチのたくさんついたオーディオ装置を説明書なしで手に入れてしまった状態に似ている。そんな装置を手に入れたら,とりあえずいろいろなつまみを回したり,スイッチをいじったりして,結果を見るしかない。ハッカー語でいう「フロブ」である。赤ん坊も生まれつき,発声器官を動かしてさまざまな音を出すための命令セットを持っている。喃語を発する赤ん坊は自分の声を聞きながら,どの筋肉をどの方向へどのくらい動かしたら,どんな音が出るかを試している。自力で使用説明書を書いているようなものなのだ。親の発音を真似るためには,この作業が欠かせない。コンピュータ科学者の中には,赤ん坊の喃語にヒントを得て,斬新なロボットを作ろうとしている人もいる。とりあえずいろいろやってみながら,内的ソフトウェアモデルを作りだすロボットである。


スティーブン・ピンカー 1995 言語を生み出す本能(下) 日本放送出版協会 p.58-59

Time flies like an arrow

Time flies like an arrow. の5つの意味

「時は矢のように過ぎる」
「矢の速度を測定するのと同じやり方でハエの速度を測定せよ」
「矢がハエの速度を測定するのと同じやり方でハエの速度を測定せよ」
「矢に似ているハエの速度を測定せよ」
「ハエの一種である「タイムフライ」は矢を好む」

1960年代にハーバード大学で開発された初代コンピュータが,この文章に対応するツリーを5つも発見して,研究者をぼう然とさせた。

スティーブン・ピンカー (1995). 言語を生み出す本能(上) 日本放送出版協会

思想

「思想は言葉のように個々の単語から成り立っているのではない。もし私が,私は今日青いジャンパーを着た男の子が裸足で通りを走っていくのを見た,という思想を伝えたいと思うとき,私は,男の子,ジャンパー,ジャンパーが青であること,男の子は裸足であること,その子は走っていることを,個々別々に見ているわけではない。私は,この全てを思想の不可分な一幕として,同時に見ているのである。しかし,私は,言葉の上ではこれを個々の単語に分解する。思想は常に全体的な,個々の単語をはるかに越えた広がりと容量を持つものなのである。雄弁家は,しばしばひとつの思想を数分間にわたって展開する。この思想は,彼の頭の中では全体として保持されているのであり,決して言葉が展開されるように逐次的に,個々の単位ごとに生ずるのではない。思想の中では同時的に存在しているものが,言葉の中では継時的に展開される。思想は,単語の雨を降らせる雨雲に喩えることができるだろう」(ヴィゴーツキー, 1934)

中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.38

思考

 ヴィゴーツキーの発達図式によれば,思考は,外的記号としての自己中心的言語による媒介を経て,内的記号としての言葉ー内言ーによって媒介された思考へと発達していく。したがって,意識の発達は内言の発達と不可分のものなのである。

中村和夫 2004 ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.57 

書き言葉と内言

 書き言葉は,書く前あるいは書いている過程で,あらかじめ頭の中に書きたいことがあれこれと浮かんでくることを前提としている。この頭の中での書きたいことの展開は,まさに内言によって行われる。つまり,書き言葉は内言の絶えざるはたらきを必要としている。

 内言は自分との対話であるから,内言で陳述されていることがらの状況や内容は,その主体にとっては分かっている。第三者に対する話し言葉で不可欠な主語や状況の説明語は内言では不要であり,省略される。内言は言葉の構造という点では非文法的で,主語や説明語が省略された,ほとんど述語の連鎖で成り立っている言葉である。内言は最大限に圧縮された,構文の整っていない言葉であり,内言の意味の世界は当人だけが了解している。

 したがって,頭の中の書きたいことを内言のまま文字にしたのでは,当人にはその背後の意味が分かっても,読み手には全く伝わらない。内言の意味まで伝わる書き言葉には,主語と述語,様々な修飾語や補語,接続詞などが必要である。書き言葉は省略を許されない,最大限に展開された構文的に形の整った言葉なのである。

 こうして,子どもが内言の意味の世界を書き言葉にするときには,最大限に圧縮された言葉を,最大限に展開された構文の整った言葉へと翻訳しなければいけない。しかも,この再構成の過程そのものを自覚的・随意的に行うことができて初めて,書き言葉が綴られることになる。


中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.38

書き言葉と話し言葉

ヴィゴーツキー(1934, 1935):書き言葉は話し言葉を文字へと単純に移し替えたものではない。

 読み書きを学んでいる9歳児(当時のソ連では1〜2年生)が,書き言葉の発達に関しては,話し言葉の発達よりも遅れているという現象があった。9歳児の話し言葉には形容詞や副詞あるいは接続詞などを使った長い従属文がふんだんに登場するのに,同じ9歳児の書き言葉には名刺や動詞や助詞はあるが,形容詞や接続詞があまり登場しない。話し言葉によって与えられる物語は9歳児として理解するのに,書かれた物語については2歳児の話し言葉程度のものしか理解できない。

 書き言葉は話し言葉に対して,ちょうど算数に対する代数と同じ関係にある

 書き言葉はイントネーションを持たず,話し相手なしに行われる。話し言葉は,常に相手の具体的な会話場面での相手とのやり取りであり,相手の表情やイントネーションや対話での相手の応答それ自体が理解を促している。

中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.36-37

ルリヤ(1974)による調査研究

 社会革命直後のウズベキスタンでの調査。革命前まではイスラム教の伝統的因習の下で,大部分は読み書きができなかった。革命後,「文盲」撲滅運動が起き,中等学校や職業技術学校が作られ,特に若者たちは読み書きと科学の基礎を習得していった。

 このような変化の中,(1)読み書きができず新しい社会の形態にも参加していないグループ,(2)短期の講習を受けて多少の読み書きができる程度のグループ,(3)学校や講習会に2〜3年いて,職業技術学校に入学した読み書きができる者のグループ,が併存した。

 これらの住民に対して,知覚,抽象的概念,推論,自己意識などについての実験的調査を行った。
 読み書きのできないグループの者の思考の特徴として,抽象的な一般化された論理的思考ができないこと,つまり,概念的思考が成立していないことが挙げられる。彼らの思考は,具体的な場面や行為を離れられない直観ー行為的次元にとどまった。

 ルリヤはヴィゴーツキーにならい,このような思考を「複合的思考」と呼んだ。概念は,個々の対象を,抽象した共通の本質的特徴によってグループにまとめるが,複合は,個々の対象を,それらが具体的な事実として近接した関係にあるということで,ひとつにまとめる。したがって,個々の対象は偶然的(非本質的)な事実関係という脈絡の中でまとめられ,体系性を持たない。概念的思考においては,犬と鶏と小麦と庭木は生物という抽象化された共通の本質的特徴で結合されるが,複合的思考においては,たとえば,それらはみなペトロフのものであるということで,ひとつにまとめられる。

中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.34-35

ヴィゴーツキーによる子どもの科学的概念の発達

 ヴィゴーツキーによる,学校教育での子どもの科学的概念の発達と教授との関係の捉え方

 従来の考えを2つにまとめている
 1.科学概念は大人(教師)の思考領域から子どもへと既成の形で受け取られ,したがって,子どもにおけるそれ自身の内面的歴史(内面的発達過程)を持たないというもの。それゆえに,子どもの科学的概念の発達という問題は,科学的知識の教授とその直接的な習得という問題に還元される。ここでは,科学的概念は教師の口から子どもの頭へと直接伝えられるのであり,子どもにおけるその独自の発達過程は問題にされない。
 2.子どもにおける概念の発達の独自の内面的歴史は認めているのだが,そこで研究されてきたのは,もっぱら自然発生的な生活的概念であり,その知見がそのまま科学的概念の発達にも当てはまるというもの。したがって,科学的概念の発達は独自の問題とはされず,生活的概念の発達と本質的に違いはないとされるのである。その当然の帰結として,ここでは,科学的知識の教授ということ自体が問題とならないし,科学的概念の発達ということ自体が,子どもの発達にとって重要な位置を与えられないのである。ピアジェの考えがこれに該当する。

ヴィゴーツキーの考え
 1.科学的概念は子どもに覚えられるものではなく,暗記されるものでもなく,記憶によってとらえられるものでもないと指摘し,科学的概念は既成の形で子どもに直接的に習得させることはできない。科学的知識の教授により,子どもには科学的概念の発達が終わるのではなく,まさにそこから始まるのだ。
 2.科学的概念は日常生活の中で自然発生的に子どもに発達する生活的概念と同じようには決して発達しないし,生活的概念の発達は科学的概念の発達について何も説明できない。つまり,科学的概念の発達は子どもに自然発生的に生ずるものではなく,体系的な科学的知識の教授との関係を抜きにはあり得ない。

中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.21-22

最近接発達の領域

 最近接発達の領域とは,子どもがある課題を独力で解決できる知能の発達水準と,大人の指導の下や自分より能力のある仲間との共同でならば解決できる知能の発達水準とのへだたりをいう。そして,このへだたりは,いまは大人の仲間や援助の下でしか課題の解決はできないが,やがては独力での解決が可能となる知的発達の可能性の領域を意味している。

中村和夫 (2004). ヴィゴーツキー心理学完全読本 新読書社 p.17

日本と欧米の違い

 しかし,日本が欧米と決定的に異なる点が2点ある。1つは,やはり宗教の有無だ。宗教に力のある社会では,最終的にそれに頼ることが可能だ。少なくともそういう選択肢はまだ存在している。
 葬儀ビジネスと化した日本の寺院に対して,欧米におけるキリスト教の潜在的な影響力は(いい意味でも,悪い意味でも)非常に強力である。それは貧しく病んだ人々を救うための中心的存在にもなりうるし,ブッシュ政権を見れば分かるように国家の政策を動かす圧力団体としてのパワーも持っている。
 そしてもう一点は,日本という国は,どうしようもないほど硬直した統制的な社会であることだ。日本においては,個人の影響力によって社会的システムに変化をもたらすことは,僥倖に頼る以外はほとんどまったく不可能であり,この点でもネットパクターは絶望的になるのである。


岩波 明 (2006). 狂気の偽装 精神科医の臨床報告 新潮社 p.138

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