読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。
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ナチやコミュニストや暗黒街の処刑は,伝統的に後頭部に銃弾を撃ち込むという方法で行われてきたが,その理由も右に述べた現象で説明できる。絞首刑や銃殺刑を行うとき,囚人に目隠しをしたりフードをかぶせる理由もわかる。1979年のミロンおよびゴールドスタインの研究によれば,フードをかぶせられているとき,誘拐の犠牲者は殺される危険性がずっと高くなるという。これらの例からわかるのは,フードや目隠しの存在は処刑を行いやすくし,死刑執行人の精神の健康を守るのに役立つということだ。犠牲者の顔を見なくてすむことが一種の心理的な距離をもたらし,そのことが銃殺の執行を可能にし,同種である人間を殺したという事実の否認,合理化,受容という事後のプロセスを容易にするのである。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.225
銃剣戦には重要な心理的要因が3つ関わってくる。第1に,銃剣距離まで敵に接近した場合,兵士のほとんどは敵を串刺しにしようとはせず,銃床またはその他の手段によって敵を戦闘不能にしたり,負傷させたりする。第2に,銃剣を使用した場合,それが近距離で生じる行為であるために,その状況には深刻なトラウマの可能性がひそんでいる。そして第3に,銃剣で人を殺すことへの抵抗感は,そんな殺されかたにたいする恐怖と完全に等価である。銃剣突撃の際には,実際に銃剣と銃剣を交える前にどちらかの側がかならず逃げ出してしまうが,それはこの嫌悪感と恐怖のためなのだ。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.215
第一次大戦の至近距離での塹壕戦は,心理的にも物理的にも手榴弾は使いやすかった。そのため,キーガンおよびホームズによれば「歩兵はライフルで正確な射撃を行うことを忘れていた。おもな武器は手榴弾になっていたのだ」。いまならその理由がわかる。手榴弾が好まれたのは,近距離での殺人,とくに犠牲者の姿を見,声を聞かねばならない場合にくらべると,殺人にともなう心理的トラウマが小さかったからなのだ。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.202
兵士の使うことばにさえ,自分たちの行為の重大性への否認が満ち満ちている。兵士は「殺す」のではなく,敵を倒し,やっつけ,片づけ,ばらし,始末する。敵は掃討され,粉砕され,偵察され,ぶっ飛ばされる。敵の人間性は否定され,クラウト(ドイツ兵),ジャップ,レブ(南軍兵),ヤンク(北軍兵),ディンク(広く有色人種への蔑称。とくにベトナム兵),スラント(東洋人の蔑称),スロープ(東洋人の蔑称)という奇妙なけだものに変わる。戦争では武器さえおとなしい名称を与えられる――パフ・ザ・マジック・ドラゴン(ベトナム戦時の戦闘ヘリの愛称),ウォールアイ(初期のスマート爆弾),TOW(対戦車有線誘導ミサイル),ファットボーイとシンマン(どちらも原子爆弾)など。そして個々の兵士の武器はただの<もの(ピース)>か<豚(ホグ)>になり,銃弾は<たま(ラウンド)>になる。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.171-172
戦闘経験者と戦略爆撃の犠牲者は,どちらも同じように疲労し,おぞましい体験をさせられている。兵士が経験し,爆撃の犠牲者が経験していないストレス要因は,(1)殺人を期待されているという両刃の剣の責任(殺すべきか,殺さざるべきかという妥協点のない二者択一を迫られる)と,(2)自分を殺そうとしている者の顔を見る(いわば憎悪の風を浴びる)というストレスなのである。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.133
これは興味深いことだが,何ヵ月も連続して戦闘のストレスにさらされるというのは,今世紀の戦場でしか見られない現象だ。前世紀までは,何年も続く攻城戦のときでさえ,戦闘からはずれる休暇期間は非常に長かった。おもに火砲や戦術がまだ未熟だったために,ひとりの人間が数時間以上もつづけて実際の危険にさらされることはめったになかったのだ。戦時には精神的戦闘犠牲者は必ず出るものだが,物理的・兵站的な許容量が増大して,人間の精神的許容量を完全に超えるような長期の戦闘が可能になったのは今世紀に入ってからなのである。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.102-103
グレイは言う。「良心に反する行為を命じられた兵士が抱く疑問,そこに始まる戦争にたいする感情の論理は,ついにはここまで達するのである」。このプロセスが続けば,「良心に従って行動することができないという意識から,自分自身に対する嫌悪感にとどまらず,人類全体に対するこの上なく激しい嫌悪感が生じる場合がある」。
人間の身内にひそんで,同類である人間を殺すことへの強烈な抵抗を生み出す力,その本質を理解できるときはこないのかもしれない。しかし理解はできなくても感謝することはできる。この力があればこそ,人類はこれまで存続してきたのだ。戦争に勝つことが務めである軍の指揮官は悩むかもしれないが,ひとつの種としては誇りに思ってよいことだろう。
殺人への抵抗が存在することは疑いをいれない。そしてそれが,本能的,理性的,環境的,遺伝的,文化的,社会的要因の強力な組み合わせの結果として存在することもまちがいない。まぎれもなく存在する力の確かさが,人類にはやはり希望が残っていると信じさせてくれる。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.96-97
人間は基本的に,自分に最も身近なことを認識できない。哲学者と心理学者はこのことを早くから知っていた。サー・ノーマン・エンジェルはこう述べている。「単純で重要な問題ほど問われることが少ない。これは,人間の奇妙な知の歴史とじつによく符合している」。哲学者にして軍人でもあったグレン・グレイは,第二次大戦での個人的な体験に基づいてこう述べている。「自分自身について,そしてまたわれわれのしがみついているこの回転する地球について,あくまでも自分を見失うことなく追究し,ついに真実に到達できる人間はほとんどいない。戦争中の人間はとくにそうである。偉大なる軍神マルスは,その領域に足を踏み入れた者の目をくらませようとする・そして出てゆこうとする者には,寛容にも忘却の川(レーテー)の水を手渡してくれるのだ」。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.87-88
ごくふつうの人間は,なにを犠牲にしても人を殺すのだけは避けようとする。このことはしかし,戦場の心理的・社会的圧力の研究ではおおむね無視されてきた。同じ人間と目と目が会い,相手を殺すと独自に決断を下し,自分の行動のために相手が死ぬのを見る――戦争で遭遇するあらゆる体験のうちで,これこそ最も根源的かつ基本的な,そして最も心的外傷(トラウマ)を残しやすい体験である。このことがわかっていれば,戦闘で人を殺すのがどんなに恐ろしいことか理解できるはずだ。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.84
第二次世界大戦中の資料にかぎらず,無数の歴史資料が伝えているのはこういうことだ。すなわち,先填め式マスケット時代,ほとんどの兵士は戦闘中にせっせと別の仕事をしていたのである。ずらりと並んだ兵士が敵に発砲するというイメージは,南北戦争に従軍した兵士の生々しい証言にひっくり返される。これはグリフィスが著書に引いているもので,アンティータム(南北戦争激戦地)の戦いについて語ったことばである。「さあ大変だ。こうなったら兵卒も将校も……そのへんの烏合の衆と変わりやしない。早く銃を打とうとあわてまくって,みんながてんでに弾薬包を破り,弾丸を填め,銃を仲間に渡したり,発砲したりする。その場に倒れるやつもいれば,まわれ右してとうもろこし畑に逃げ込むやつもいる」。
これが,記録に繰り返し現れる戦闘の姿なのだ。マーシャルの第二次世界大戦の研究でも,この南北戦争の描写でも,実際に敵に発砲しているのはごく一部の兵士だということがわかる。ほかの兵士たちは弾薬をそろえたり,弾丸を装填したり,仲間に銃を手渡したり,あるいはどこへともなく消え失せたりしていたのである。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.69
戦場の人間心理が誤解されてきた根本原因をあげるとすれば,ひとつには戦場のストレスに闘争・逃避モデルを誤って当てはめたせいだ。闘争・逃避モデルとは,危険に直面した生物は,生理的・心理的な一連のプロセスを経て,闘争または逃避にそなえて態勢を整えるという考えかたである。この闘争か逃避かという二分法は,危険に直面した生物の選択肢としては適切ではあるが,ただ例外がある。その危険が同種の生物に由来する場合だ。同種の生物から攻撃された場合の反応には,威嚇と降伏という選択肢が加わるのである。動物界に見られるこの同種間の反応パターン(すなわち闘争,逃避,威嚇,降伏)を人間の戦争行為に応用するというのは,私の知るかぎりではまったく新しい試みである。
デーヴ・グロスマン 安原和見(訳) (2004). 戦争における「人殺し」の心理学 筑摩書房 pp.46
2001年,心理学者のローレンス・スタインバーグは,アメリカ青年心理学会の会長就任演説において,育て方の型に関するこれ以上の研究は,一時的に停止してはどうかと提案した。
というのも,「子どもに厳しい要求をしながらも,支援を惜しまない育て方」が有効であることを示す科学的根拠はすでに十分にあるため,もっと争点の多い他の研究課題に取り組んだほうが有益ではないかと考えたのだ。
実際,過去40年間で,入念な計画のもとに研究が次々に行われたが,心理学的に賢明な親の家庭で育った子どもたちは,さまざまな面で優れていた。
アンジェラ・ダックワース 神崎朗子(訳) (2016). やり抜く力―人生のあらゆる成功を決める「究極の力」を身につける ダイヤモンド社 pp.282-283
現在,私はつぎのように考えている。
大変な努力を要する「意図的な練習」を行うには,「うまくなりたい」という強い意欲が最大の動機となる。あえて自分の現在のスキルを上回る目標を設定し,100%集中する。自分の理想,すなわち練習前に設定した目標に少しでも近づくために,言わば「問題解決」モードに入って,自分のあらゆる行動を分析する。フィードバックをもらうが,その多くはまちがっている点を指摘するものだ。指摘を受けて調整し,また挑戦する。
いっぽう,フローのときに優勢なのは,まったく別の動機だ。フロー状態は本質的に楽しいもので,スキルの細かい部分が「しっかりとうまくやれているか」など気にしない。よけいなことはなにも考えず,完全に集中しており,「問題解決」モードとはかけ離れた状態だ。自分の行動をいちいち分析せずに,無心で没頭している。
そういうときは挑戦すべき課題と現在のスキルが釣り合っているため,フィードバックも,よくできた部分を指摘されることが多い。自分を完全にコントロールできているように感じ,実際そのとおりになっている。気分が高揚し,時間の観念を忘れてしまう。全速力で走っていても,頭をフル回転させていても,フロー状態にあるときは,なにもかもすんなりとラクに感じられる。
言い換えれば「意図的な練習」は準備の段階で,フローは本番で経験するものだと言える。
アンジェラ・ダックワース 神崎朗子(訳) (2016). やり抜く力―人生のあらゆる成功を決める「究極の力」を身につける ダイヤモンド社 pp.186-187
ところが,実際にインタビューで話を聞いてみると,ほとんどの人は「これだ」と思うものが見つかるまでに何年もかかっており,そのあいだ,さまざまなことに興味をもって挑戦してきたことがわかった。いまは寝ても覚めても,そのことばかり考えてしまうほど夢中になっていることも,最初から「これが自分の天職だ」と悟っていたわけではなかったのだ。
アンジェラ・ダックワース 神崎朗子(訳) (2016). やり抜く力―人生のあらゆる成功を決める「究極の力」を身につける ダイヤモンド社 pp.142
では,若い人たちに「自分が本当に好きなことをしなさい」とアドバイスするのは,バカげたことなのだろうか?じつはこの問題については,「興味」を研究している科学者たちが,この10年ほどで最終的な結論に達した。
第一に,人は自分の興味にあった仕事をしているほうが,仕事に対する満足度がはるかに高いことが,研究によって明らかになった。これは約100件もの研究データをまとめ,ありとあらゆる職種の従業員を網羅したメタ分析による結論だ。
たとえば,抽象的な概念について考えるのが好きな人は,複雑なプロジェクトを緻密に管理することは楽しいとは思えない。それよりも数学の問題を解くほうがずっといい。また人との交流が好きな人は,一日じゅうひとりでパソコンに向かっているような仕事は楽しいとは思えない。それよりも営業職や教職などのほうが活躍される。
さらに,自分の興味に合った仕事をしている人は,人生に対する全体的な満足度が高い傾向にあることがわかった。
第二に,人は自分のやっている仕事を面白いと感じているときのほうが,業績が高くなる。これは過去60年間に行われた,60件の研究データを集計したメタ分析による結論だ。自分の本来の興味に合った職種に就いている従業員たちは,業績もよく,同僚たちに協力的で,離職率も低いことがわかった。また,自分の興味に合った分野を専攻した大学生は,成績が高く,中途退学の確率も低いことがわかっている。
もちろん,ただ好きなことをやっているだけでは仕事は手に入らない。ゲームの「マインクラフト」がいくら得意でも,それだけで生計を立てるのは難しい。それに世のなかには,多くの選択肢から好きな職業を選べるような恵まれた状況にない人もたくさんいる。私たちが生計を立てる手段を選ぶにあたっては,かなりの制約があるのが実情だ。
アンジェラ・ダックワース 神崎朗子(訳) (2016). やり抜く力―人生のあらゆる成功を決める「究極の力」を身につける ダイヤモンド社 pp.140-141
成長や加齢にともなう変化のほかには,どんなものが年齢とともに変化するだろうか?
思うに,それは「環境」だ。私たちは年齢を重ねるにつれ,新しい環境に放り込まれる。たとえば初めての就職や結婚も,大きな環境の変化をともなう。いつのまにか親たちが年老いて,自分が親の世話をする立場になることもある。このように状況が変われば,それに応じて生活のしかたを変えなければならない。そして,地球上でもっとも適応能力に長けた人類は,変化する。困難に立ち向かうのだ。
言い換えれば,私たちは必要に迫られれば変化する。必要は「適応の母」なのだ。
アンジェラ・ダックワース 神崎朗子(訳) (2016). やり抜く力―人生のあらゆる成功を決める「究極の力」を身につける ダイヤモンド社 pp.126-127
1.「やり抜く力」や「才能」など,人生の成功に関わる心理学的な特徴は,遺伝子と経験の影響を受ける。
2.「やり抜く力」をはじめ,いずれの心理学的な特徴についても,その遺伝に関係する遺伝子はたったひとつではない。
そして,つぎの重要なポイントも加えておきたい。
3.遺伝率の推定値を見れば,形質の発現のしかたは人によってさまざまであることがわかるが,「平均」がどれだけ変化しているかは,遺伝率を見てもわからない。
たとえば,身長の遺伝率は多様性を示唆しており,一定の集団内でも,背の高い人もいれば低い人もいることを示している。しかし,人びとの「平均身長」がどれだけ変化したかについては,何の情報も示していない。
このことは,「環境」が私たちに与える影響がきわめて大きいことを示すエビデンスであり,非常に重要である。
アンジェラ・ダックワース 神崎朗子(訳) (2016). やり抜く力―人生のあらゆる成功を決める「究極の力」を身につける ダイヤモンド社 pp.119
実際,重要度の低い目標をあきらめるのは悪いことではなく,むしろ必要な場合もある。ほかにもっとよい実行可能な目標があるなら,ひとつの目標だけにいつまでも固執するべきではない。また,同じ目標を目指すにしても,いまの方法よりもっと効率的な方法や,もっと面白い方法があるなら,新しい方法に切り替えるのは理にかなっている。
どんな長い道のりにも,回り道はつきものだ。
しかし,重要度の高い目標の場合は,安易に妥協するべきではない。
アンジェラ・ダックワース 神崎朗子(訳) (2016). やり抜く力―人生のあらゆる成功を決める「究極の力」を身につける ダイヤモンド社 pp.108
そう言ってバフェットは3つのステップを説明した。
1.仕事の目標を25個,紙に書き出す。
2.自分にとってなにが重要かをよく考え,もっとも重要な5つの目標にマルをつける(5個を超えてはならない)。
3.マルをつけなかった20個の目標を目に焼きつける。そしてそれらの目標には,今後は絶対に関わらないようにする。なぜなら,気が散るからだ。よけいなことに時間とエネルギーを取られてしまい,もっとも重要な目標に集中できなくなってしまう。
この話を聞いたとき,私は思った。仕事の目標が25個もある人なんているんだろうか?いくら何でも多すぎでは?
そこで実際に,自分のいまの目標(あるいは携わっているプロジェクト)を罫線入りのメモ用紙に書き出してみた。長々と続くリストは,気がつけば32行にもなっていた。それで納得したのだ。なるほど,これは役に立つかもしれない。
アンジェラ・ダックワース 神崎朗子(訳) (2016). やり抜く力―人生のあらゆる成功を決める「究極の力」を身につける ダイヤモンド社 pp.95