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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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数学で何を学ぶか

 数学で何を学ぶか,なんてそういう題の本もぼくは出したことがあるのだが,単純に言うなら,数学の世界を知ることとしか言いようがない。そうした世界があるのだから,そこを知ってみよう,というだけのことである。


森 毅 (2006). 指数・対数のはなし 異世界数学への旅案内[新装版] 東京図書 p.168
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評価のポイント

 小学校から大学までの数学の先生の集まっているところで,座興に,
 32.43×84.21=2730.9303
について,
 1) 273.09303 2)2730.9313 3)2730.9309 4)2730.9243
ぐらいの答を,10点満点で採点してもらったことがある。
 おもしろい現象は,小学校の先生が一番きつくって,5点以上はつけない。大学の先生だと,2)〜4)はたいてい7点か8点,甘い人になると,10点をつけてしまう。もっと甘い人だと
 32×84=2688
を答にしていても5点ぐらいつける。これに反して,逆転するのは,小数点を打ちまちがった1)で,小学校の先生が4点か5点,大学の先生が0点から3点,という傾向がある。
 べつに,これは採点基準があるわけではない。最後が3×1で3にならぬのはおかしい,なんて採点ほうだって可能である。大学の先生でも,解析か数論かで,いくらか気分が違ったりする。それでも,小学校では,小数に誤差の気分があまりなく,大学に向かって,誤差の気分がついていく,といった傾向ぐらいは見える。計算のアルゴリズムの正確さか,数に対する感覚か,そのどちらかを重視しているかということもある。

森 毅 2006 指数・対数のはなし 異世界数学への旅案内[新装版] 東京図書 Pp.25-26

責任認識の順序

 責任をめぐる正しい洞察からすれば,「意図→行為→損害の事態→責任の発生」という時間的な順序があるのではなくて,「起きてしまった事態→収まらない感情→責任を問う意識→意図から行為へというフィクションの作成」という論理的な(事実の時間的な流れに逆行する)順序になっているのですね。このことを私たちはよくよく自覚しつつ,責任論議をする必要があります。



小浜逸郎 (2005). 「責任」はだれにあるのか PHP新書 Pp.211-212.

責任

 「責任」という概念は,「道徳」や「法」という概念と比べるとかなり曖昧です。それはどうしてかというと,「責任を果たさなくてはならない」と考えたり,あるいは「責任をとれ」と言われたりする場合,そこに必ずと言ってよいほど範囲を確定できない要素が入り込むからです。この不確定要素はどこから来るのか。
 それは,そもそも人間というものが,つねに取り返しのつかない過去と予測のつかない未来とを,現在に引き寄せつつ生きている存在であることによるのではないかと私は考えました。この存在論的なあり方は,あらゆる人間にとって普遍ですから,そうである限り,「責任」概念は,本質的に不条理なものとしてできあがっていることになります。
 人が死んでしまったから責任をとれと言われても,とりようがありません。「目には目を」の原則を貫いたからといって,死んだ人が帰ってくるわけではありませんからね。
 また,あらかじめ百パーセント責任をとれるように,起こりうる未来をすべて予測しておけなどといわれても,そんなことは無理です。
 それから,人はいつも理性的な存在として行為しているわけではありません。ところが,責任について書かれたものを見ると,ほとんど,個人がある理性的な意図から行為におよんだという想定のもとに考えられています。しかし,不作為そのものに対して責任を問われる場合もありますし,何となくボーッとしているうちに何かが起きてしまったとか,無意識の行動としか考えられない振る舞いに対しても責任が問われます。人間は,むしろ無反省な状態で互いにかかわっていることのほうが圧倒的に多いにもかかわらず,それでもその結果を問われます。
 一人の行為なり作為,不作為,さらに何となくそこに居合わせたというような状態は,それだけで,時間的にも空間的にも人間関係を流れわたって,しだいに波及効果をおよぼしていく。互いに影響をおよぼし合う関係になっているということ。この事実も,だれが,だれに対して,どういう責任をとるのかを確定しようとするときに,たいへんな難題となって立ちはだかります。

小浜逸郎 2005 「責任」はだれにあるのか PHP新書 Pp.209-211

疾風怒濤

Hall(1904)の「疾風怒涛」概念:青年期は相互に矛盾する傾向のあいだを揺れ動き続ける時期であるため,若者は情動と人間関係の両面にわたって動揺を経験していると説いた。

これまでの研究から結論として示されたのは,たしかに少数の若者はストレスに満ち混乱した青年期を体験するかもしれないが,青年の多くは比較的よく適応している,ということである。青年の多くは,家族から疎外されたりせず,重大な精神病理的な障害も持たず,両親とのコミュニケーションが完全に途絶えてしまうということもなく,深刻なアイデンティティの危機を経験することもないということを研究は示したのである。

このような証拠に基づいて言えば,スタンレー・ホールが青年期は疾風怒涛の時代だとした考え方は,誤解を与えるものだと結論づけられるだろう。深刻な動揺は少数の若者によって経験されているに過ぎないからである。

J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 (2003). 青年期の本質 ミネルヴァ書房


若者の心の健康

心の健康とは,単に精神的に病気ではないという状態以上のものと考えるべきである(Wilson,1995)。このことは若者の場合にはとくに重要で,若者は心の健康の状態がそもそも幸福感によって決まり,しかも幸福感は医学的ないし認知的な要因が原因であるというよりは,対人関係がうまくいっているかとか社会的環境とかいったものでもたらされることが多い。

J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 (2003). 青年期の本質 ミネルヴァ書房


青年期の反社会的行為

Silbereisen et al.(1986)は,いわゆる「反社会的」と呼ばれているたくさんの行為は,実際のところ目的があり自己調整的であり,そして青年期の発達の諸側面に対処するためのものだと言っている。それらの行為は,少なくとも短い期間は,発達にとって建設的な役割を果たすことができる。それらの行動は象徴的(すなわち,たいていは成熟した自己イメージをつくりたくて,あるいは魅力や社交性を身につける手段だと思ってなされる)とも言えるが,若者にリスクをもたらしうる。大人と同じように,10代の若者がある行動をとるのは,通常,そうすることによって,たとえば誰かを喜ばせたり,友達から受け入れられたりといった何らかの望ましい結果が得られると信じているからである。そういうことをする時,若者は,その行動が自分たちにとってもしかすると危険かもしれないという事実を無視したり,軽視することがある。

J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 2003 青年期の本質 ミネルヴァ書房


親のモニタリング

これまでの研究では,親がモニタリングを怠ると,年ごろの子どもは犯罪や薬物使用,学業不振,避妊をしないセックスなど,さまざまなリスク行動に結びついていくことが一貫して明らかにされている。

Stattin & Kerr(1999)は,自らの実証的な研究に基づいて,それらは,親のモニタリングよりもむしろ若者の自己開示のいかんこそが問題行動に結びつく重要な変数であると提言する。つまり,それまでは親のモニタリングは,いつ何時でも年ごろの子どもの居場所を親が把握していたかどうかによって評価されてきた。しかしながら,Sttatinらは,10代が自分のしていることを開示する場合にのみ親が10代の行方を知っていることを示した。モニタリングと監督は青年の活動に関する多くの情報を得ようとして親が率先して行うものではなく,むしろ若者から親へと向かって流れるコミュニケーションによる機能なのである。



J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 (2003). 青年期の本質 ミネルヴァ書房


青年期の自己中心性

Elkind(1967)は,他者の思考を考慮することができる能力が青年期の自己中心性の基礎になると考えた。そもそも他者が考えていることと自分自身の関心とを区別することはきわめて難しい。だから若者は,自分がある考えや問題に取りつかれると,他者もそのことに関心をもっているに違いないと考えてしまうのだ。

Elkindは,具体例として,青年の容姿をあげる。概して,10代は自分が他者の目にどう見えるかを非常に気にし,他者も自分と同じくらい容姿に関心をもっていると思い込む。Elkindはこれを「想像上の観客」という概念に結びつけた。自己中心性のため,青年は現実の社会状況であれ想像上の状況であれ,他者の反応を常に予期している。しかしながら,これらの反応は,他者も自分のことを自分自身と同じくらい批判や称賛をもって見ているという前提のうえに立っている。このように,10代はたえず想像上の観客を構成し,それに向けて反応している。そしてこのことが,青年の行動の多くを説明するのである。たとえば若者の自意識とか,プライバシー願望や,服装への関心や,鏡の前で長い時間を過ごすことなどは,すべてこの「想像上の観客」という概念に関連しているのである。

青年期の自己中心性のもうひとつの重要な側面は,Elkindが「個人的寓話」と呼ぶところのものであり,たとえば感情の過剰分化がある。おそらく青年は自分が多くの人にとって非常に重要な存在だと信じているため,自分の関心や感情は非常に特殊で独自なものだと思い込むようになる。自分の個人的な惨めさや苦しみが独自なものだという信念は,もちろん文学においてはおなじみのテーマであり,Elkindはこれは若者が個人的寓話を作り上げる基礎になっていると考えた。つまり,個人的寓話は個人の自分自身についての物語であり,万能感や不死といった幻想を伴って作られる神話なのである。それは本当の話ではないが,意義のある目的のために役立つものであり,いくつかの有名な青年の日記に典型的に現れている。この種の材料を見ると,ひとは青年期の経験が普遍的な意義をもつという信念に至るが,個人的寓話が作り出されるのもこの信念からである。

Elkindは,想像上の観客と個人的寓話という青年期の自己中心性の基礎をなす2つの側面は,青年期の認知的行動を説明するのに役立つものであり,問題を抱えた青年の治療においても助けとなるという。


J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 2003 青年期の本質 ミネルヴァ書房


移行とターニングポイント

移行とターニング・ポイントという概念を結合するうえで必要な前提は,移行期が比較的普遍的な発達的挑戦によって特徴づけられるということである。すなわち」,ほとんどの人は移行期を通過していくが,この移行期では生物学的,心理学的,社会的な変化への順応の新たな様式が必要になるということである。したがって,定義からすると,移行期の文脈で起こるターニング・ポイントは,個人あるいは個人から形成する集団にとってはとくに顕著なものになるかもしれない。これらのターニング・ポイントは,往々にして行動面での変化を生じさせたり,移行期の文脈以外で生じるターニング・ポイントに比べて,より大きくて長続きする変化となるかもしれない。(Graber & Brooks-Gunn, 1966

J.コールマン & L.ヘンドリー 白井利明ほか訳 (2003). 青年期の本質 ミネルヴァ書房

うまくいかない信念

人々は関係がどのように機能するかについて特定の信念や基準をもっており,これらは時に非常に非現実的,あるいは非合理的でさえあるので,パートナーを失望と苦悩の底へ落とし込む。こうした信念の中には危険なものもある。具体的には,以下のような信念を抱いている人は,関係にあまり満足しない傾向がある(Moller & Van Zyl, 1991)。
(a)相手を誤解することはその人を愛していない証拠である
(b)意見の不一致は破壊的である
(c)男性と女性は互いにかなり異なっている
(d)人は決して変わることはない
(e)セックスはいつでも完璧であるべきで,そうでなければ愛は偽物である
不満を感じる主な理由は,そうした信念をもつことによって課題解決が適切に行えないことであるらしい(Metts & Cupach, 1990)。すなわち,こうした信念を持っている人は,不一致が生じた時にそれを解決するための建設的な行動をとることが少ない。


R.S.ミラー (2001). うまく機能していない関係 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 361-396.

アメリカのいじめ:フラタニティ

アメリカでは多くの国民が,さまざまな危険な通過儀礼を受けている。フラタニティの新入りいじめ(hazing),つまり新たにフラタニティに入る者への厳格な通過儀礼によって,重傷を負ったり命を落としたりしたケースもある。新入りいじめは,事実上すべての大学で,また国内のすべてのフラタニティで禁じられているが,儀礼にかかわる事故やその他の不祥事のニュースがときおり報道されていることからすると,いじめが依然として水面下で行われていることは明らかである。


J.A.シェパード & K.D.クワニック (2001). 不適応的な印象維持 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 279-314.


言い訳

言い訳は,その出来事に対する個人の責任を低減しようとする試みである(Schlenker, 1980; Snyder & Higgins, 1988; Snyder, Higgins, & Stucky, 1983)。

責任のトライアングル・モデル(Schlenker, Britt, Pennington, Murphy, & Doherty, 1994)
a)その状況では人がどうふるまうべきかを説明する,出来事についての明確な規定があるほど(規定ー出来事間のリンク),b)役割・信念・性格によって行為者がその規定を適用できるほど(規定ーアイデンティティ間のリンク),c)出来事に対する統制力があるという点で行為者がその出来事とつながりをもっているほど(アイデンティティー出来事間のリンク),人はその出来事に対する責任をもつ,とされる。逆に,これらのリンクが弱いほど,出来事に対する個人の責任が弱まることになる。

言い訳は,トライアングル・モデルにおけるいずれかのリンクを弱めることによって,その事象に対する責任を低減する機能を果たす。


J.A.シェパード & K.D.クワニック 不適応的な印象維持 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 2001 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 279-314.


有能そうに見えること

おそらく,実際に有能であることと同じくらい重要なのが,有能そうに見えることである。

有能である,つまり高い能力をもっているという印象を形成,維持できる方法がいくつかある。
1.能力を診断するテストの成績によるもの
2.自分の業績や能力を他者に伝えること
3.人とのつながりを利用するもの:ある人と一緒にいる人々は,その人の延長であると見なされることが多い(Sclenker & Britt, 1999)。


J.A.シェパード & K.D.クワニック (2001). 不適応的な印象維持 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 279-314.


自己開示と精神的健康

自己開示が健康に及ぼす影響には,4つの限定条件がある。
1.自己開示から得られる最も重要な身体的,心理的効用は,開示した直後ではなく,自己開示全体が生み出す否定的感情の高まりを経験した後に得られる。
2.自己開示の健康への効果は,人が以前は話さなかった否定的な異様の個人情報を開示した後に最も顕著になる。ふだんから自己開示をしている人や,肯定的または中立的な内容を開示する人は,身体的,心理的健康において大きな変化は見られない。
3.多くを開示することが,必ずしも良いこととは限らない。あまりにも多くの情報を開示する人は,他者に不安と懸念を生じさせ,その結果他者から遠ざけられてしまう。
4.自己開示が感情や健康に及ぼす影響は,自己開示という行為そのものではなく,開示の性質によって決まるようである。出来事を思い出した時の感情を開示することが重要な要素となっているらしい(Pennebaker, 1988)。

R.M. コワルスキ (2001). 言い出しがたいことを口にする:自己開示と精神的健康 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 251-278.


ソシオメーター理論と暴力,自己愛

 暴力傾向についていうと(Baumeister et al., 1996),高自尊心者は,すでに他者から受容されていると確信しているので,他者からの評価を気にしない。だから暴力をふるったりしても,他者からの評価を気にしないのだろう。
 また,ナルシストも,すでに他者から受容されていると確信している。ナルシストは自己中心的な行動をとるが,これは,他者を利用することが当然であると信じ込んでいるからである。だから,そうした行動に対して他者から反発を受けると,ナルシストは驚いてしまうようである。他者が自分を受容しているのは当然だと考えているからである。


M.R.リアリー (2001). 自尊心のソシオメーター理論 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 222-248.


ソシオメーター理論



自尊心とは,自分と他者との関係を監視する心理的システムである。主観的な自尊心とは,他者からの受容の程度を示す計器(メーター)である。これがソシオメーター理論の基本前提である。自尊心が高まるということは,自分が他者から認められているというシグナルである。逆に自尊心が低くなるということは,他者から認められていないというシグナルである。

M.R.リアリー (2001). 自尊心のソシオメーター理論 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 222-248.


自尊心機能論

 Bednar et al.(1989)の理論によると,自尊心とは「自分の適切さについての感情的なフィードバック」である。自尊心が低いということは自分が適切ではないということの信号である。自尊心は,心理的脅威に対処するか回避するかによって変わる。つまり,脅威に対処すれば自尊心は高まり,回避すれば自尊心は低まる。逆に,自尊心の高低が,脅威に対する反応に影響を与える。つまり,自尊心が高いと対処反応が増え,自尊心が低いと回避反応が増える。

M.R.リアリー (2001). 自尊心のソシオメーター理論 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 222-248.


脅威処理理論(Terror Management Theory)

 人間は他の動物とは異なり,死を避けることができないことを認識している。こうした死の不可避性の認識が,人間に実存的な脅威を引き起こさせる。この脅威を和らげるために,人間は宗教や芸術といった文化を作り出したのである。自尊心もまた,死への脅威を緩衝するという防衛的な機能をもっている(Solomon, Greenberg, & Pyszczynski, 1991)。死への脅威に身がすくんでしまうことがないように,人は自尊心を維持するように動機づけられるのである。
 この理論を支持する実証的な証拠はかなりある。たとえば,人はいつか必ず死ぬのだという運命を強調すると,自尊心への関心が強まる。また,自尊心が高いと,死についての不安が弱まる(Greenberg et al., 1992)。しかし,自尊心が実存的な脅威を緩衝するかどうかについては,強く支持する研究はまだなく,支持しない研究もいくつかある(Sowards, Moniz, & Harris, 1991)。まだ議論の余地があるものの,脅威処理理論は自尊心の機能について考える手がかりになる。

注)進化論的に見ると,脅威処理理論はうまい説明ではない。進化論的に見ると,死や不幸を心配する低自尊心の人のほうが,心配しない高自尊心の人よりも,生き残って子孫を増やせるだろう(Leary & Schreindorfer, 1997)。進化の過程において,死に対する脅威を和らげるシステムができてくるとは考えにくい。

M.R.リアリー (2001). 自尊心のソシオメーター理論 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 222-248.


現実をゆがめて自尊心を高める

 現実を歪めて知覚し,自尊心を高めたとしても,一時的にはよい気持ちになるかもしれないが,そこに価値があるとは考えにくい。長い目で見れば,自己欺瞞は不適応をもたらす。その極端な例がナルシシズムである。

 Baumeister(1989)は,「幻想の最適な境界線」があると述べている。つまり,ポジティブな方向に少しだけ歪めて知覚することは適応的であるが,大きく歪めたりネガティブな方向に歪めることは不適応的であるという考え方である(Baumeister, 1989)。しかし,こうした仮説に反して,現実を大きく歪める場合でも益があるという研究結果もある(Baumeister, 1989; Baumeister & Scher, 1988)。また,この仮説のようにポジティブな幻想がネガティブな幻想よりも価値があるという仮定には,何の根拠もない。場合によってはネガティブ幻想にも価値があるかもしれない。これについては今後の検討が必要である。


M.R.リアリー 自尊心のソシオメーター理論 (2001). R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 222-248.


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