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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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罪悪感の機能

Baumeister, Stillwell, & Heatherton(1994),Sommer & Baumeister(1997)によると,罪悪感には「対人関係を高める」機能がある。
 それによると,①罪悪感を感じるのは,その人間関係が重要であり,お互いが相手を気にしているからである。
 ②罪悪感は,人間関係における公平性を回復させる機能がある。一般的に言って,罪悪感を感じる対象は,弱い立場にいる人である。罪悪感があると,その後,譲歩や再割り当てが行われ,結果として公平性が回復するのである。
 ③罪悪感は感情的苦痛を「再配分」する機能がある。たとえば,対人関係の中で誰かが被害を受けたとしよう。この場合,被害者は苦痛を感じ,加害者は利益を得る。こういうときに加害者に罪悪感が生じ,加害者も苦痛を感じるのである。そのことが被害者に伝わると,被害者の苦痛は軽くなる。その結果,被害者と加害者の苦痛度は等しくなり,公平性が保たれる。それによって,2人の関係がより強まることだろう。


J.P.タングネー & P.サロベイ (2001). 恥・罪悪感・嫉妬・妬み:問題をはらむ社会的感情 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 191-221.


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嫉妬と妬み

 ギリシア語の語源からいうと,嫉妬(jealousy)という語は,熱狂的(zealous)という語と同じ語源を持っている。つまり,人や物を熱烈に奨励することを意味している。嫉妬とは,奨励されるものがなくなってしまうのではないかという疑いのことである。
 一方,妬み(envy)は,ラテン語のinvidere(悪意をもって人をみること)からきている。妬みとは,他人が所有しているものを欲しがったり不満をもったりすることを意味している(Salovey & Rodin, 1986, 1989)。

嫉妬と妬みという語は非対称的に用いられている。つまり,妬みのかわりに嫉妬という言葉を用いることはあるが,嫉妬のかわりに妬みという語を使うことはない。嫉妬という語には,親密な関係が壊れるのではないかという予期と,ライバルとの社会的比較という2つの側面がある。これに対して,妬みという語はライバルとの社会的比較という側面だけである。


J.P.タングネー & P.サロベイ (2001). 恥・罪悪感・嫉妬・妬み:問題をはらむ社会的感情 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 191-221.


恥と罪悪感の区別

Lewis(1971)は恥と罪悪感を区別した。ルイスによれば,恥と罪悪感の違いは,きっかけとなる出来事の違いではなく,そうした出来事がどのように解釈されるかの違いである。関心が「行動」に向けられるか,「自己」に向けられるかの違いである。
 関心が「行動」に向けられると罪悪感を感じる。罪悪感とは,自分のしたこと(あるいはできなかったこと)を否定的に評価することである。「わたしはなんて恐ろしいことをしたんだ」と感じることである。行動に注目するので,緊張や自責や後悔の念を生むのである。罪悪感を感じると,自分の行動について繰り返し考え,別にふるまえばよかったと思ったり,すでにしてしまったことを何とか元通りにできないかと考えるのである。
 一方,関心が「自己」に向けられると恥を感じる。恥とは,自分自身を否定的に見ることである。「私は価値のない人間だ。無能で悪い人間だ」と感じることである。恥を感じると,自分が縮んで小さくなったように感じる。無力でさらされていると感じる。まわりに実際の人がいなくても,他者の目に映る自分の姿をイメージしていることが多い。たしかに恥においても,罪悪感のように「行動」に関心が向くこともあるが,そうした行動が自分の欠点を示すものと考えられてしまうのである(Lewis, 1971; Tangney, 1995a)。

J.P.タングネー & P.サロベイ (2001). 恥・罪悪感・嫉妬・妬み:問題をはらむ社会的感情 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 191-221.


恥と罪悪感

恥は,公の場に出たり人から非難されたりすることから生じ,罪悪感は,自分の良心の呵責から生じる。

恥は,その人のもろさや欠点が公にさらされることによって生じる。罪悪感は,人の心の中で生じる。社会の規範を破ったり不道徳な行いをした責任について,他人は知らないことについても罪悪感を感じるのである(Gehm & Scherer, 1988, p.74)。

ところが,このような公私による区別を支持するような実証的な証拠はないのである。

恥と罪悪感の違いは,きっかけとなる出来事の内容が違うのかもしれない。たとえば,ある種の出来事は恥を引き出し,別の出来事は罪悪感を引き出すかもしれない。ところが,こうした区別を裏付ける証拠もあまりないのである。

J.P.タングネー & P.サロベイ (2001). 恥・罪悪感・嫉妬・妬み:問題をはらむ社会的感情 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 191-221.


自己制御

自己制御(self-regulation)とは自分の行動をコントロールすることである。自己制御は「自動的な制御」と「コントロールされた制御」とに分けられ,通常は後者によっている。自己制御は衝動を制御することによって行われる。自己制御には,①自分と基準を比較し,②自分を基準に近づけるように操作し,③基準に到達するまで比較を繰り返す,といったプロセスがある。こうしたプロセスはフィードバックのループをなしている。
 自己制御の失敗には,制御不足と制御ミスがある。制御不足が起こるのは,基準がない場合,基準どうしが矛盾している場合,モニタリングに失敗した場合,望ましい操作を実行できなかった場合である。制御ミスとは,自分の行動をコントロールできても,思い通りの結果を得ることができないことである。
 われわれは自己制御の「力量」モデルを仮定している。自己制御を行うためには「力量」すなわち心的な資源が必要である。自己制御のためにこの力を利用すると,一時的に消耗してしまう。この力量は訓練によって強められる。ストレスや不快感情があると,そのために力量が使われてしまい,自己制御のための力量がなくなってしまう。

K.L.デイル & R.F.バウマイスター (2001). 自己制御と精神病理 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 158-190.

抑うつ者に会いたがる

非抑うつ傾向者は非抑うつ傾向者に会いたがるが,抑うつ傾向者は他の抑うつ傾向者に会いたがる(Rosenblatt & Greenberg, 1988)。

J.V.ウッド & P.ロックウッド (2001). 低自尊心者の社会的比較 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 106-153.

思春期の自己中心性

親や高校の先生には明らかなことであるが,思春期の若者は他者からどのように見られているかに強い関心をもっており,あらゆる視線が自分に注がれている,実際に他者から見られていると完全に信じている(Elkind, 1967)。そして,「名誉挽回は無理だ」とか「いっそ死んだ方がましだ」といった非合理な考えに至ることが多い。実際,多発する思春期の自殺は,面子を失ったという思い込みが生み出す屈辱感が引き金となる(Shaffer, 1974, 1988)。自殺する可能性のある人が,面子を失ったと現実以上に思い込んでしまっている,言い換えれば,他者は自分の欠点に気がついており,よく覚えており,評価していると考え過ぎてしまっているのだとしたら,それだけスポットライト効果の研究は自殺という現代における危急な問題について語るべき重要な事柄を含んでいることになる(Garland & Zigler, 1993)。

T.ギロビッチ,J.クルーガー,& K.ザビツキー (2001). 日常生活の中の自己中心性と対人的問題 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 72-105.

スポットライト効果

社会心理学の膨大な研究は,人々が,他者のちょっとした行動からでも属性を推測する強力な傾向があることを示している。すなわち,人は酌量すべき状況的要因があってもそれを適切に考慮せずに,他者の行動からその人がどのような人物なのかという結論まで飛躍してしまいがちなのである。

しかし

概して,自分が孤立していることに気づいている他者は思ったより少ないかもしれない。孤立していることを否定的に見ている他者はもっと少ないかもしれない。実際,最近の研究は,人はそのような状況では自分の行動を監視することに忙殺され,自分の行動が他者の目にどのように映っているか判断するのがむずかしいことを示している。特に,肯定的,否定的いずれの意味合いをもつ行動でも,人はいっしょにいる他者が自分の行動に気づいたり覚えている可能性を過大評価してしまうようである。


T.ギロビッチ,J.クルーガー,& K.ザビツキー (2001). 日常生活の中の自己中心性と対人的問題 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 72-105.

ナイーブな現実主義(naive realism)

人は,自分よりも他者のほうがバイアスを示しやすいと考えているらしい。知りうる限りの客観的な現実に通じているのは自分であり,自分と異なる見方をする人は歪んでいるのだ,と信じている。



T.ギロビッチ,J.クルーガー,& K.ザビツキー (2001). 日常生活の中の自己中心性と対人的問題 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 72-105.

認知的誤り

ベックは,抑鬱的な人の思考が,破滅化(catastrophization),過度の一般化,個人化,否定的な出来事に対する選択的注意など,多様な認知的誤りによって特徴づけられていることを示した。彼のいう個人化は内的な帰属を行うことに対応し,過度の一般化は,原因が時と状況を越えて一般化される安定的・全体的帰属と類似している。破滅化と選択的注意という認知的誤りは,失敗や出来事の否定的な側面に焦点を合わせる傾向を指すが,これも否定的な出来事についての全体的帰属との類似性がみてとれる。

D.ベルードラン & C.A.アンダーソン 帰属過程:社会心理学と臨床心理学の統合 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 2001 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 35-71.

人は見たいものを見る

人はしばしば見えるはずだと期待しているものを見るが,自分自身の知覚にそうした過程が影響していることには気がつかない。最も重要なのは,社会的な出来事や個人的な出来事には曖昧な要素が含まれているので,解釈のされ方も多様になることである。曖昧な出来事は,利用しやすい(accessible)認知的カテゴリによって解釈されやすい(たとえばHiggins, 1996)。

D.ベルードラン & C.A.アンダーソン (2001). 帰属過程:社会心理学と臨床心理学の統合 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 35-71.

因果関係への関心

たとえば,因果関係に対する関心によって,人は環境を支配・制御していると感じることができるし,周囲の環境を理解しようとする欲求を満足させることができるのである。

D.ベルードラン & C.A.アンダーソン (2001). 帰属過程:社会心理学と臨床心理学の統合 R.M. コワルスキ&M.R.リアリー(編著) 安藤清志・丹野義彦(監訳) 臨床社会心理学の進歩 実りあるインターフェースをめざして 北大路書房 35-71.

ニュートンの創造

自然が人間の知覚機能によって条件づけられていることは認めても,人間がその法則を言葉で定式化したかどうかには係わりなく,人間の知覚の継起は確かに同じ法則に従うのではなかろうか?引力の法則はニュートンが生れるよりずっと以前から惑星の運動を支配していたのだ,と読者はいいたいだろう。まさに然り。そして否なのだ。・・・ニュートンは引力の法則を発見したのではなくて,創造したのだ。われわれが惑星の運動とよぶ感性的印象の継起を簡単に記述する方法ーこれをニュートンは発見したのではなく,発明したのだ。彼は純然たる知的な概念,すなわち相互加速度の助けを借りてこれを発明したのである。・・・記述の方法の発明ーこれは発見というより創造(creation)である。科学の進歩とはこういう記述の方法を創造することなのである。

安藤洋美 (1989). 統計学けんか物語 カール・ピアソン一代記 海鳴社 p.40

順序を考えよ

人類学者たちは空想的な話をたくさんするが,この「直立二足歩行が手を自由化し,大脳の発達を促し,ついには文化の創造と発展につながった」というような決まり文句はその典型である。

島 泰三 (2003). 親指はなぜ太いのか:直立二足歩行の起源に迫る 中公新書 p.160

このblogについて

このblogは,私が読んだ本の中から「これは」と思った一節をそのまま記載し続けるものです。
特に説明をつけることはありません。説明が必要なときは適宜つけようと思います。

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