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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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美しさへの動機づけ

研究をしている人は,誰でも,きれいな実験をしたいと願っている。疑いようのない,完璧な実験で,自分の考えを見事に証明できればと思っている。しかし,実際には,回りくどい証明になったり,間接的なデータしか集まらないことが多い。美しいデータを求めるのは,科学者であるからには,当然の願いである。しかし,それは時に改ざんへの誘惑ともなりうる。データをきれいに見せるたびに,ほんの少しお化粧をする。邪魔をしているバンドを消してしまう。矛盾するデータを隠しておく,そのような気持ちが,改ざんする人の心の奥にあるのではなかろうか。しかし,改ざんしたために,論文を撤回する羽目になったら,最もみにくい結果になる。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.188
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何本の論文を書くか

研究者はどのくらいの論文を書くのであろうか。わが国の論文数の多い30大学について,研究者1人あたりの論文生産量を調査したデータがある。2002年から2011年までの10年間の研究者1人あたり論文数は,平均10.2報であった。研究者は,1年に1報の論文を書くことになる。一番多い大学は,東京工業大学の21報,平均の2倍である。ちなみに,東大は12.6報。トップグループではあるが,それほど多いわけではない。
 論文数は,分野によって異なる。社会科学,人文学分野は,論文よりも自分の考えを1つにまとめたモノグラフを尊ぶ傾向がある。化学合成や材料科学の分野では,何かを作り出すたびに,短い論文を書いて,もの作りのプライオリティをとる必要がある。東北大学のAI(事例42)は,2500以上の論文を書いている。
 数を頼むのではなく,インパクトがあり,質のよい論文を,丁寧に書くことを心がけよう。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.165

著者の多い論文

ノーベル賞のパロディ版であるイグ・ノーベル賞は,科学に対する風刺と皮肉,ユーモアにあふれ,毎年話題になる。1993年,第三回イグ・ノーベル文学賞を受賞したのは,ページ数の100倍の人数の著者がいる医学論文であった。著者数976名は,当時としては,からかいたくなるほど,異常な著者数であった。しかし,それから20年以上経った今,1000名を超すような論文が,毎年200報近く発表されている。
 最も著者数の多い論文は,2015年5月,物理学のフィジカル・レビュー・レター(Physical Review Letters)に発表されたヒッグス粒子の質量測定の論文である。なんと334研究室の5154名の著者が名を連ねている(ギネスブックに登録されたという話は聞かないが)。33ページの論文中,24ページが著者名と所属のリストである。生命科学の分野で著者が一番多い研究は,2004年に日本から発表された高コレステロール症患者の治験研究である。北海道から九州まで,研究に参加した医師2459名が論文の最後の4ページにわたって紹介されている。
 著者数が多くなるのは,大規模な共同実験のためである。たくさんの患者を対象にした臨床研究,大がかりな設備を使う物理学の国際共同実験などでは,研究に携わった人が多くなり,1000人,2000人,さらに5000人になるのであろう。このような研究では,著者の1人が1回引用しただけで,論文の引用回数は何千にもなる。論文引用という基準で評価するのは難しくなる。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.156-157

文量リサイクリング

私は,文章リサイクリングまで盗用として扱うのは,行き過ぎだと思う。その理由を以下に記す。
・科学論文は,文学作品でもなければ,ルポルタージュでもない。科学論文にとって何より大事なのは,科学的内容である。文章の一部が一致しているからといって,不正扱いにするのは,本末転倒である。。
・科学論文は,事実を簡潔,明快かつ論理的に記載するべきである。主観的な表現を排し,分かりやすい文章で書くことが要求されている。このため,多くの論文の文章は,必然的に似通ったものになってくる。
・研究は,1つの流れで行なわれる。したがって,研究の意義を説明する序論は,先行する論文と同じような表現を使うことになる。要約,結論は短い数行で正確にまとめるため,同じような文体になる。文体が酷似するのは,科学論文にとって必然の結果である。
 幸いなことに,自己盗用への過剰反応については,反省の論調が発表されるようになってきた。ペンシルバニアの化学者,フランクル(Michelle Francl)は,文章のリサイクリングは常識の範囲であれば,許されるべきという主張を展開している。インド出身の物理学者,チャーダ(Praveen Chaddah)も,文章の盗用を理由に論文を撤回するのは,間違いであることを指摘している。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.143-144

重複

ガーナーは,自ら開発したソフトを使って,論文の中から非常に似た文章を検索した。その結果,全学術論文の0.1パーセントは,他人の論文からのあからさまな盗用であった。最もひどい例は,2つの論文の間で86パーセントが一致していた。なかには同じ著者による論文がほぼ一字一句たがわずに5つの専門誌に掲載された例もあった。2012年には,論文ではなく,研究費の二重申請を調べた。官民の研究費支援機関への86万件の申請を調べた結果,170組が,目標,目的などが実質的に同じであることが分かった。そのなかには,アメリカ屈指の名門大学も含まれていた。その結果生じる研究費の損失は,年間二億ドルに達するという。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.141

特定不正行為

アメリカ国立科学財団(National Science Foundation, NSF)をはじめ,世界の国々が,重大な研究不正として認定しているのは,
 ・ねつ造(Fabrication)
 ・改ざん(Falsification)
 ・盗用(Plagiarism)
 の3つの不正である。文科省のガイドラインは,この三者を「特定不正行為」として位置づけている。それぞれの英語の頭文字をとって,「FFP」ともいう。研究不正の研究者,白楽ロックビルは,日本語の頭文字から,「ネカト」と呼んでいる。本書では,「重大な研究不正」と呼ぶことにする。分かりやすくいえば,レッドカードに相当するような一発退場の違反である。misconduct(不正)と同じような意味で,fraudということもあるが,「詐欺」のニュアンスが強い。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.127-128

実験前の「仮置き」

調査報告書は,彼の研究室運営そのものが,研究不正の背景にあることを指摘した。「これほど多くの不正行為等が発生した要因・背景としては……国際的に著名な学術雑誌への論文掲載を過度に重視し,そのためのストーリーに合った実験結果を求める姿勢に甚だしい行き過ぎ」があった。たとえば,実験を始める前に,ストーリーにあった画像を「仮置き」するといった習慣があった。大学院生たちは,技術的にも時間的にも困難であろうとも,「仮置き」のデータを作ることが求められていた。そのような「強圧的な指示・指導が長期にわたって常態化していた」という。大学院生たちは,教授の「過大な要求や期待に対し,それを拒否するどころか,無理をしても応えるしかない」と思うようになり,不正に手を染めていった,と調査委員会は指摘している。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.101-102

社会不正と研究不正

社会不正も研究不正もその根底では同じである。真実に対する「誠実さ(integrity)」の欠如,野心,競争心,金銭欲,こだわり,傲慢,責任感のない行動,「ずさん」な行為などが。不正の底流にある。それらは,程度の差はあるにしても,誰もが抱えているわれわれの心の内面の問題でもあるのだ。
 ただ1つ違うとすれば,それは,科学者と企業人が所属する組織であろう。大学は,管理者,研究者,教育者,学生の緩やかな集合体であり,それをまとめる規範は,学問と発表の自由を尊重する立場から,彼ら/彼女らの良心に任されている。それに対して,企業などの組織は,明確で強固な上下関係のもとに運営されている組織である。それゆえ,研究不正では,研究組織の脆弱性が問題を広げたが,社会不正では,逆に,強固な経営組織が不正の発見を遅らせた。いずれの場合でも,不正は,われわれ自身に内包している問題であると同時に,所属する組織の問題でもある。それゆえに,不正は今後も続くであろう。

黒木登志夫 (2016). 研究不正 中央公論新社 pp.iv

確証バイアスとセレンディピティ

人はとかく混沌にパターンを見出し,出来事,とりわけそれが恐ろしい出来事のときにはその意味を理解しようと物語をつくり上げる。私にはその習性を非難する資格はない。なんといっても,一冊の本を自分がアメリカ史に見たと考えたパターンで埋め尽くしたばかりなのだ。けれども,物語を紡ぐときに罠にはまることがある。確証バイアスとセレンディピティが組み合わさって,自分がつくり上げるストーリーがかならずしもこの世界を映してはいないということに気づかないかもしれないのだ。
 陰謀論がとくに魅力的に映るのは,私たちがパターンの裏に知性を見るからである。それは煙にかたちのみならず顔を見るのだ。それは人間のもっとも基本的な性質,サイエンスライターのマイケル・シャーマーがエイジェンティシティ(パターンに意味,意図,作意を付与する傾向)と呼ぶものにもとづいている。陰謀論者が主張する物語は正しいときもある。またチキンレストランを人を不妊にする陰謀と勘違いしたり,一風変わった集団をボディ・スナッチャーのカルトと信じたり,ムーニナイトをテロと早とちりしたりもする。
 陰謀論者はこれからも姿を消すことはないだろう。なぜなら陰謀論者はたえず私たちとともにあるからだ。私たちがパターンを見出すのを止めることはない。物語を紡ぐのも止めることはない。いつでも早計な結論に飛びつくし,とりわけ外国や,自分とは異なる派閥,サブカルチャー,社会階層に対処するときにはそうだ。そして,私たちの伝承に出没する多くの怪物とは違って,陰謀は実際にも存在するし,陰謀を恐れる人がかならずしも誤っているとも限らない。人類がある限り,パラノイアもまた存在するのだ。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.421-422

パターンの投影

ネットで検索すれば,ほかにも悪魔が写っているとされる9・11の写真をもっとたくさん見ることができる。一部は偽物だが,すべてがそうであるわけではない。またなかには目をぐっと細めなければ顔とわからないものもあれば,フィリップスの写真のようにすぐにそれとわかるものもある。
 この顔が何を意味するかについては諸説ある。あるウェブサイトはこう書く。「憎悪と暴力の行為は悪魔にとってこの上ないスリルなのだ。悪魔たちはニューヨークでなにが起きるかを知っていて,飛行機が突っ込むその瞬間に現れるべく集結した。人がスリルを求めて列車に飛び乗るのと同じだ」。キリスト教徒の陰謀論者テックス・マーズは,この映像を外敵と位置づける。「悪魔に率いられたアラブのテロリストたちが独自の証拠を残し,自分たちの蛮行を世界に知らしめたいと考えるように,悪魔もまたこの写真で自分の仕業だとわかるように高笑いしながら自慢する。「私がやったのだ。私は自分の仕事を誇りに思うぞ!」」しかし,別の著述家はこの事件に上層の敵を見る。「世界貿易センタービルの惨事の写真を見ると,悪魔は現在このビルに住んでいると言っているように思えないだろうか?これらの写真は世界貿易センタービルに隠れていた悪魔が目覚めたように見えはしないか?なぜなら第一,第二,第三世界の債務をつくり出すのは,連邦準備制度,外交問題評議会,そして世界貿易センターなのだ」。
 またこの悪魔の顔に善意の陰謀または少なくとも善意の者の影を見る人もいる。あるウェブサイトはこの映像を「大いに必要とされているアラーの神の命令——イスラム教でテロに訴えることは許されない,と最終的に告げる最高権威が与える最後通牒」と呼ぶ。
 最後に,私好みの解釈がある。この顔は,データにパターンを投影するアポフェニアという現象だというのである。それは,より詳しく言うなら,パターンに意味を付与するパレイドリアだ。このパレイドリアによって,私たちは月に人の影を見るし,「天国への階段」を逆回転すると悪魔の声を聞いたと思い,ロールシャッハ試験を受けるとはからずも自分の無意識が現れたと考える。ネットには見ていて楽しいパレイドリアの例を示す写真が無数にあり,これらの写真では山やパスタ,時計,雲に思いもかけないようなかたちが出現する。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.418-419

終末論を信じると

歴史家のリチャード・ランデスによれば,人が終末論を信じる心理状態にあると,「万事が息づき,教え,一つのことを指し示すように思われ,すべてが記号論的になる。あらゆることに意味があり,パターンがあるように見える」。9・11後の数か月,こうした心理状態は避けようもなかった。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.379

9.11陰謀論

ジョージ・W・ブッシュが大統領だったころ,政治的パラノイアの象徴としてもっとも頻繁に引き合いに出されたのは,トゥルーサー(truther)と呼ばれた「9・11トゥルース運動」にかかわる人びとだった。彼らはアメリカ政府内の悪人が9・11を計画したが,それを防止する手立てをわざと取らなかったと信じていた。しかし,トゥルーサーはしょせん脇役に過ぎなかった。9・11後にいちばんよく見られたパラノイアは,無害な学校の宿題を聖戦の証拠と見誤るような心理状態だったのだ。アメリカ人は次なる恐ろしい攻撃に神経を尖らせていた。しかもどのような攻撃になるのかを少なくとも知っていた冷戦時代とは違って,いまやありとあらゆる活動や物体が脅威に思えた。
 それは,スパイや破壊活動を探した過去に人びとが覚えた不安と同質のものだった。だが現在では,陰謀者を発見できなかった場合の結果は昔とは比較にならぬほど大きかった。なにが武器であってもおかしくないし,なににどのような意味があるのかわからないのだ。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.376

真面目な陰謀論・風刺的な陰謀論

真面目な陰謀論と風刺的な陰謀論を区別できない人もいる。クラスナーの悪ふざけや『アイアンマウンテン報告』が実際に陰謀が存在する証拠と誤って解釈されたことはすでに見てきた。同じことはロバート・アントン・ウィルスンにも起きた。彼の小説はありとあらゆる陰謀論に引用され,そもそも彼の皮肉のおもな対象であるキリスト教原理主義の人びとにすら引用される始末だった。「こうした人びとの多くは,私の著作の特定のくだりを文脈なしに引用すればきわめて彼らに都合がいいと気づいた」と彼はあるインタビュアーに話している。「しかし私はまったく気に病んでいない」と彼は付け加えた。「それは絶妙なジョークに思えるからね」

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.322-323

聞こえると思えば

ポップ音楽の制作者のなかには逆再生すると隠されたメッセージが聞こえる音をわざと挿入した人もいたが,そうしたメッセージはたいてい悪魔的ではなく無意味だったり滑稽なものだったりした。たとえば,エレクトリック・ライト・オーケストラの「ファイアー・オン・ハイ」は「音楽は逆方向に再生できるが,時間は逆行できない。逆に回せ,逆に回せ,逆に回せ」という逆再生で聞こえるメッセージで起きるパニックのパロディをつくった。たいていの場合,メッセージとされるものは心が暗示によって雑音にパターンを見つけた結果だった。なにが聞こえるか教えてもらわずに,レッド・ツェッペリンの「天国への階段」を逆回転して聞いても,たぶん奇妙な音以外にはなにも聞こえないだろう。ところが,悪魔的なメッセージが込められていると知ると,「愛するサタン」という言葉が聞こえてくる。そして逆回転した音楽が再生されている状態で,話者の背後にある暗号とされるものを見ていると,「愛する悪魔」だけでなく,「では,私の愛するサタンに乾杯。その小径は私を悲しみに突き落とし,その力たるやサタンそのもの。彼は己とともにある者に666を与える。小さな道具小屋があって,そこで私たちは彼に苦しめられた。悲しきサタン」という,まとまりのない不気味な「ことばのサラダ」を聞いたと思うかもしれない。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.259-260

善と悪は表裏一体

善意の者がわれわれを導いてくれるという考えはパラノイアの特効薬になる。「私たちは現在極度の恐怖を抱えた文化に生きています」とバーナムは述べた。「9・11後に敷かれた警備体制のばかばかしさを考えるといいでしょう。どのオフィスに行くにも,磁気読取機を通らねばなりません。それで,誰かがヴァージニア州リーズバーグの裁判所を爆弾で吹っ飛ばすとでもいうのでしょうか?ありえません。図書館?正気ですか?」彼女は天使たち,すなわち「私たちの味方であり,わたしたちが想像する以上に私たちにとって良きことが起きるように願っている心霊的な存在」を信じるほうがましだと考えている。
 しかし,善の陰謀と悪の陰謀は表裏一体の関係にある。神聖な運命を希求していると考えているなら,そこにある他の目には見えないもの(その神聖な運命が果たされるのを望まない闇の危険な力)を見ることは難しくはない。清教徒は彼らの町を荒野にある悪魔に魅入られた丘の上に見た。1957年にユリーカ・カレッジで建国の父たちに独立宣言に署名するよう求めた謎の男について話したあと,レーガンは共産主義者の脅威について話しはじめた。「私たちのなかにはこの敵,邪悪な力とハリウッド社会で間近に接した人がいる」と彼は卒業生に語った。「ここで間違わないでもらいたいのだが,これは邪悪な力なのだ。弾丸の音が聞こえないからといって騙されないでほしい。それでも,君たちは命をかけて戦っているのだから」。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.198-199

悪魔の悪賢いトリック

21世紀では,一般の共和党員は敵を億万長者ジョージ・ソロスの手先と非難し,一般の民主党員は敵を億万長者チャールズとデイヴィッド・コッホ兄弟の傀儡と非難する。上層の敵を信じるのは少数派だと言われてきたが,こうした策略はもはや政党政治の一部となった。悪魔のいちばん悪賢いトリックはほとんど誰も悪魔の存在を信じない点にある。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社

同性愛者への懸念

同性愛者に対する懸念はつねに,アメリカ文化の一要素であったが,第二次世界大戦後,この懸念は過熱状態に陥り,歴史家のデイヴィッド・K・ジョンソンが同性愛を象徴する色を冠して「同性愛者(ラヴェンダー)狩り」と呼ぶ時代にアメリカは突入した。性犯罪者に関する懸念が嵩じて,21の州とコロンビア特別区は,戦後10年ほどのうちに「性的精神病質者」を取り締まる法律を導入した。こうした方策は性的暴行から子どもを保護するために推進されたのだが,導入とほぼ時を同じくして,合意のある成人しか関与していない事例にも適用されることになった。一方ワシントンでは,性に対する懸念は冷戦と重なりあっていた。ウォルデックが「ホモセクシャル・インターナショナルが共産党インターナショナルの関連団体のごとき存在になっている」と警鐘を鳴らしたとき,政府当局者らはこれを深刻に受け止めた。今日では性差別防止のための立法を早くから擁護してきた人物としてよく知られる,キャサリン・セント・ジョージ下院議員(ニューヨーク州選出)は,ウォルデックの記事が連邦議会議事録に掲載されるよう取り計らった。中央情報局(CIA)長官のロスコー・ヒレンケッターは,ある下院委員会で,「倒錯者が要職に就くと,政府内政府」を形成すると訴えた。ゲイによるフリーメイソン的友愛について述べたヴィダルの一節に悪意を加味したような言葉で,ヒレンケッターは同性愛の公務員が「ロッジ,すなわち友愛会に所属している」と証言した。「倒錯者の一人がほかの倒錯者を支部に紹介すると,彼らは次々に移動して,多くの場合,その場限りの情事をさらに重ねるために,突き進むのだ」。ゲイやレズビアンは,裏づけとなる根拠がほとんどないにもかかわらず,危険人物と見なされた。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.108-109

全体主義

共産主義やマッカーシズムに与する者たちが体制順応主義を憂慮していたと聞くと,違和感を覚えるかもしれないが,全体主義への反対を公言する者たちが権威主義的な手段を是認することには,さらに強い違和感があるかもしれない。ところが,これは珍しくもなく,その歴史も全体主義の誕生にまでさかのぼる。歴史家レオ・リブフォは,「ファシスト(ブラウン)狩り」という言葉を生み出して,1930年代から40年代における国家転覆を阻止する運動の高まりを評した。この頃,ナチに対する当然の恐怖から,極右の言論と集会の自由に対する制限を求める声が上がったが,こちらは当然とは言いがたかった。そうしたなか,当局は多種多様な人びとをひと括りにし,ドイツに同調する人たちだけでなく,高名な保守派の人びとまでも監視下に置いた。ファシスト狩りは左翼ではなく右翼に向けられたものではあるが,より知名度の高い赤狩りと同じく,手近な脅威を誇張し,ほんとうに凶暴な陰謀者たちと,急進派だが平和的な活動家や主流派の人たちとの区別を曖昧にしている。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.102-103

ドイツからの恐怖

ひとたび外からの敵という筋書きが確立されると,教皇や大族長だけでなく,敵と想定されるあらゆる相手方に適用できた。1917年4月に,アメリカがドイツとオーストリア=ハンガリー帝国に対抗する連合国軍に加わり,第一次世界大戦に参戦したとき,戦場ははるか遠いヨーロッパだったが,敵の長い触手がアメリカの中心にまで届いているのではないかという恐怖に国民の多くがとらわれた。
 触手を伸ばす敵国に対する国内での対抗策は,ときには恐ろしく,ときには滑稽で,その両方の場合もあった。ドイツ音楽の演奏が禁じられた町もあった。ピッツバーグではベートーヴェンが禁止となった。また,ドイツ人が所有する醸造所への厳しい取締りが行なわれた。コミック・ストリップの『カッツェンジャマー・キッズ』は,ドイツ系と思われる主人公の腕白少年の出身国を設定し直し,二人がほんとうはオランダ人であるとした。
 ドイツ語で書かれた本が焼かれる焚書が,国中のいたるところで頻発した。自警団員はドイツ移民を捕らえては拷問にかけ,その財産を破壊した。イリノイ州コリンズヴィルでは,暴徒化した人びとが,ドイツ系アメリカ人の未成年に事実無根のスパイ容疑をかけて集団暴行し,殺害した。被告人側の弁護士は裁判でこの犯罪を「愛国的殺人」と主張し,陪審員はほどなく,殺害に加わった人たちを無罪放免にした。コリンズヴィルの市長は,連邦議会が背信行為防止にもっと力を尽くしてさえいれば,このような出来事は避けられただろうと述べた。

ジェシー・ウォーカー 鍛原多惠子(訳) (2015). パラノイア合衆国:陰謀論で読み解く《アメリカ史》 河出書房新社 pp.57-58

心理的麻痺

人びとが動物の扱いについてどう思っているか本当に知りたいなら,カネの動きを見ればいい。アメリカ人は動物保護団体に対し,年間20億ドルから30億ドルを寄付している。すさまじい金額だと思うだろう?でも,動物を殺すのにかけている金額と比べたら”雀の涙”だ。食肉に1670億ドル,ハンティング用品や機材,旅費に250億ドル,害獣駆除に90億ドル,毛皮衣料に16億ドル,計2026億ドル也。もちろん,自分が知りもしない人間以外の生きものの福祉を拡充しようという動物保護団体に寄付する金額よりは,自分のペットの幸福や健康のために投じる金額のほうがはるかに多い。このことは人間性の根底を流れるいくつかの原理にぴたりと重なる。ひとつは,すっかり定着した進化の法則,すなわち「家族優先」だ。ペットはいまや多くの家庭において家族の一員と考えられているのだ。
 もうひとつは,オレゴン大学の認知心理学者ポール・スロヴィックが「心理的麻痺」と呼んでいる現象だ。つまり,悲劇が大きければ大きいほど,人びとはよりその悲劇を気にかけなくなるようなのだ。たとえば,病気の子どもひとりを救うために寄付してもいいと人びとが考える金額は,病気の子ども8人のグループを救うために寄付していいと考える金額の二倍だと言われる。もっとたくさんの人が苦しんでいるとなると,人間の無関心はさらに拡大する。『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムニスト,ニコラス・クリストフが指摘したように,五番街にあるリッチな分譲マンションに巣くった一羽のアカオノスリ(=赤茶けた尾羽を持つ北米産のタカの仲間)が追い払われそうになったとき,ニューヨーク市民の怒りはそれこそ怒髪天を衝くがごときだったのに,スーダンで故郷を追われた200万人の窮状についてはほとんど怒りの声をあげることもなかったおいう事実は,この心理的麻痺の考え方を使って説明できる。スロヴィックは,圧倒的な人数を前に人間が無関心になる現象を「共感の崩壊」と呼んでいる。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.316-317

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