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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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何が不道徳か

一部の医学倫理学者は,ダッハウやアウシュヴィッツでの実験から得られたデータはもう実際にあるわけだから,その情報を使っていまの時代の人命を救うことこそ彼らの死に報いることなんだと考えている。たとえ,そのデータ収集法が非倫理的なものであっても。でも一方で,データが倫理的に汚れていて,不正に得られた利益だとしたら,どんな場合であっても使ってはならないと言う人もいる。同じように,一部の動物保護運動家は,動物実験の結果もまた不正に得られた利益だと考える。そういう人たちは,動物を使って試験した薬を使うことも不道徳だと考えているのだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.307-308
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実験動物か害獣か

罠にかかったネズミは,とんでもない苦しみを味わいながら死んでいく。ハツカネズミをボール紙に糊づけして一晩放置する実験動物の申請があったとしても,動物管理使用委員会は承認しないとわたしは思う。「実験対象」というレッテルを貼られたハツカネズミには明らかに許されないことが,「害獣」というレッテルを貼られたネズミには認められるわけだ。
 このパラドックスがさらに深刻なものに思えたのは,その害獣ネズミがどこから来たのか知ったときだった。どうやら,その建物自体にもともと害獣ネズミの問題があったわけではないらしい。でも,何千もの小動物を飼っている施設だから,必ず”脱走組”が出る。要するに,悪いネズミのほとんどすべては,逃亡したよいネズミだったのだ。動物施設の管理者はこう語った。「動物が床に足をつけた瞬間に,それが害獣になるんです」。そして,ドーン!その道徳的な地位も一瞬で消えてしまうのだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.291

同じはずなのに

ところが,ハツカネズミの研究者たちは,1999年に『サイエンス』誌に掲載された論文に震撼させられた。この論文は,まったく同じ手順で8系統のハツカネズミを使って行動実験を行った,オレゴン州ポートランド大学,カナダのエドモントン大学,ニューヨーク州アルバニー大学の研究者たちがまとめたものだった。実験に際して,どの研究室も同じところからハツカネズミを入手した。ハツカネズミたちはみんな,同じ日に生まれ,同じエサ,同じ昼夜サイクルの(生活リズムの)なかで育てられ,まったく同じ手順で実験を受けた。しかも,各大学の実験者たちは,ハツカネズミを扱うときにはめる手術用手袋のブランドまで揃えたという。
 そこまで動物をまったく同じ扱いにしようと苦労したにもかかわらず,いくつかの実験では,ハツカネズミたちはほかとまったく違う行動をとった。ポートランド大学の研究室のハツカネズミは,コカインを与えると異様に興奮したのに,アルバニー大学とエドモントン大学でコカインを与えられた兄弟ネズミたちは,ほとんど反応を見せなかったのだ。研究者たちは,遺伝子的にまったく同じ動物を研究してもそれぞれの研究室の微妙な違いによって,まったく違う結果が得られかねない,と結論した。わたしは,この論文をファイル棚の「不都合な真実」のなかにしまった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.286-287

ハツカネズミの疾患モデル

そして,毛色の種類よりもっとすごいのが,ハツカネズミの疾患モデルの多様さだ。まれながんを発症する系統だけでも数百に達し,ほかに,顔面変形を起こしやすいもの,生まれつき免疫系機能不全のものもいる。また,視覚障がいや聴覚障がい,味覚障がい,あるいはバランス障がいを持っているものもいるし,高血圧や低血圧,睡眠時無呼吸症,パーキンソン病,アルツハイマー,筋萎縮性側索硬化症(ALS)といった病気にかかっているものもいる。不妊症の治療に取り組む研究者たちは,生殖器に障がいを持つ88系統のジャック・マウスのなかから必要な種類を選べばいい。そして,さらにすごいのは,各種の適応障がいを持つ(精神疾患モデルの)ハツカネズミまでいることだ。強迫神経症,慢性うつ,各種の依存症,多動性障がい,そして統合失調症のハツカネズミもいる。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.282-283

ハツカネズミのメッカ

ハツカネズミ研究の”メッカ”は,メイン州バー・ハーバーにあるジャクソン研究所だ。クラレンス・リトルが,エドセル・フォード(=自動車王と呼ばれたヘンリー・フォードの息子)の協力を得て1929年に創設したこの研究所は,年間250万匹ものハツカネズミ——近親交配,突然変異,遺伝子操作によって産まれたハツカネズミ40トン近く——を生産する”ネズミ工場”だ。科学者たちは,4000系統以上の実験用ハツカネズミ「ジャック・マウス」から好きなものを選べるし,要求に合う種類がなければ,ジャクソンの科学者たちが遺伝子操作によって,お好みの仕様の新系統ハツカネズミを作り出してくれる。新たに作るのにはもちろんカネがかかる。新しい系統を開発するには1年かかるし,その費用は10万ドルだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.281-282

実験動物としてのネズミ

害獣だったネズミが,動物実験のモデル生物として扱われるようになったのは,1902年にウィリアム・キャッスルというハーバード大学の生物学者が,引退したボストンの学校教師から近親交配したネズミを譲り受け,それを動物遺伝学の実験に使ってからだ。ただ,はじめてハツカネズミを実験体として使った研究者は,キャッスルではない。オーストラリアの僧侶グレゴール・メンデルだ。彼は遺伝学に取り組みはじめたときに,ネズミを人工的に繁殖させた。でも,神に仕える者が交合する動物と同居するのはいかがなものかと司教に言われ,庭に生えていたエンドウマメにくら替えしたのだ。実験用のハツカネズミが公式に誕生したのは1909年,キャッスルの教え子クラレンス・リトルが純血種のハツカネズミを作ったときだ。毛の色にちなんでDBA(= Dilute Brown non-Agouti’ アグーチ遺伝子が欠損した薄茶色の毛を持つ実験用ネズミ)と名づけられたこのハツカネズミは,いまも生医学研究で使われている。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.281

食生活の大変更

人間のご先祖はたぶん,食生活を何度か大幅に変えたのだろう。はじめは繊維質の多い植物ベースの食事,それから動物の肉をもっと含む食事へ。やがて農業が発達して,ふたたび植物中心の食事に戻る。狩猟採集民の食事を見ると,人間がすさまじく多様な食物に適応できることがわかるけれど,そこには必ず肉が含まれていた。北極圏にスノーモービルや衛星テレビがやってくるまでは,アラスカ北部のヌナムイット族が摂取するカロリーの99%は,動物性だった——たとえば,生のムクトゥク(=クジラの皮膚と脂肪),魚,セイウチ,アシカのヒレを発酵させたものなど。一方,カラハリ砂漠のクン族は,85%植物性の食事でも楽々と暮らしている。何百もの狩猟採集民の食事を調べた,コロラド州立大学の栄養研究家ローレン・コーディンは,こうした集団は平均するとカロリーの3分の2を動物の肉から摂取していると結論した。動物性の食品が(クン族を下まわる)15%以下の狩猟採集社会はひとつもなかったのだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.225

雑食の影響

雑食がもたらしたいちばん重要な影響は,人間の脳の進化に対するものだ。多くの人類学者は,数百万年のあいだに人間の脳の大きさが三倍になったのは,草食から肉食に移行したことが大きく影響したと考えている。人間が肉に飢えた類人猿から進化したという発想は目新しくはない。1924年に南アフリカではじめて猿人化石の「タウング・チャイルド」を発見したレイモンド・ダートは,人間の先祖が血に飢えた殺し屋で,「生々しく悶える動物の肉を貪欲にむさぼる」のが大好きだったと書いている。人類の進化における肉の役割について,最近の理論はダートのものより洗練されてはきたけれど,基本的な発想は同じだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.224-225

飼いイヌの登場

化石を見ると,飼いイヌが登場したのは1万7000年〜1万4000年前くらいにかけてのことだったらしい。ヒトとイヌのつながりを示す有力な証拠で,いちばん古い年代のものは,イスラエル北部で出土した1万2000年前の老女の骨だ。彼女は,子イヌを両手に抱いた状態でていねいに埋葬されていた。1万年前には,人類がシベリアから北アメリカへと陸橋をわたり,彼らについていったイヌがアメリカを走りまわるようになった。そしてイヌたちは,それからたった4000年でアラスカからパタゴニアへ(南米大陸南部のコロラド川以南)の長旅を済ませている。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.148

ペットの定義

わたしのお気に入りは,ペンシルバニア大学の人類動物学者,ジェームズ・サーペルによるペットの定義だ。サーペルによると,ペットとは明白な役割を持たないままわたしたちがいっしょに暮らす動物を指すのだという。でも,この幅をもたせた定義ですらも,その境界線のあたりではおかしなことが起きる。比較的最近まで,アメリカの家庭で飼われる多くの動物には何かの仕事が与えられていた。たとえばイヌだったら,家畜の群れを追い,狩りをし,番犬になり,荷車を引き,ときにはバターをかき混ぜるのを任されたりもした。ネコだって,愛情の対象としてよりもむしろ,生きたネズミ捕りとしての立場に甘んじていたのだ。アメリカでは,カナリアを筆頭に,カゴのなかで飼われる鳥の数が爆発的に増加する19世紀半ばまでは,飼い主を楽しませるのが唯一の役目という動物はほとんどまれだった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.103-104

簡単に誤る

バーナード大学の心理学者であり動物行動学者でもあるアレクサンドラ・ホロウィッツによると,その答えはノーだ。ホロウィッツは,イヌが後ろめたそうなそぶりを見せるのは,イヌが「実際に」粗相をしたときなのか,それともイヌが粗相をしたと飼い主が「考えた」ときなのかを判別する,独創的な実験を考え出した。
 この実験ではまず,イヌのすぐ目の前にイヌ用ビスケットを置き,飼い主がそれを食べないようイヌに命じる。次に,飼い主はイヌとビスケットを残して部屋を離れる。飼い主がいないあいだに,,ホロウィッツはイヌにそのビスケットを食べさせてしまったり,取り上げたりしておく。飼い主たちはなにも知らずに部屋に戻ってくる。するとその半数は(イヌの表情を見て)誤解し,イヌたちは自分の言うことを聞かなかったとホロウィッツに訴えた。実際には,イヌは何も間違ったことをしていないのに(これが不正なやり方なのはわかっているけれど)。
 こうして,イヌが悲しそうなそぶりを見せるのは,飼い主が自分のイヌが言うことを聞かなかったと「考えた」ときだけであって,イヌが実際にビスケットを食べてしまったときではないことが明らかになった。この実験はもちろん,イヌが道徳感を持ち合わせていないことを証明するものではない。そうではなく,わたしたちがいかにたやすくイヌの表情や行動を誤って解釈してしまうかを示すものだ。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.91-92

原罪の起源

隠喩としての原罪(=人類の始祖であるアダムとイブが禁断の果実を食べる罪を犯し,今日の人間もその罪を生まれながらにして引き継いでいるというキリスト教の思想)の起源は,人間が持つ相反するふたつの性質にあるのではないだろうか?ひとつは,動物に感情移入してしまう傾向であり,もうひとつは動物の肉を食べたがる欲望だ。サーペルは(他の生物種に比べて)大きな脳を手に入れたわたしたちの祖先が直面した道徳上の問題について,次のような説得力のある説明を行っている。「動物に対する高度に擬人化された認識のおかげで,狩猟生活を送っていた人類は,彼らの獲物となるその動物の行動を理解し,共感し,さらには予測するための枠組みを得ることができた。しかし,それらは同時に道徳的葛藤も生み出した。というのも,動物と人類は基本的に変わらないと考えられるのであれば,動物を殺すことは殺人になってしまうし,動物を食べるのはとも食いと変わらないことになってしまうからだ」

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.89-90

動物以下

ナチスはフレーミングを利用して,アーリア人を頂点とし,ユダヤ人を「人間以下」——ほとんどの動物以下——に分類する,倒錯した道徳体系を築き上げようとした。ジャーマン・シェパードやオオカミたちが道徳ヒエラルキーのなかで高いところに位置づけられたのに対し,ユダヤ人はネズミや寄生虫,シラミなどの害獣や害虫にたとえられた。1942年,ユダヤ人はペットを飼うのを禁じられた。ナチスは,家畜を人道的なやり方で屠殺処分するよう定めた法手続きに従い,ユダヤ人たちが飼っていた何千匹というペットを(麻酔を使って)安楽死させた。これは歴史における大きな皮肉のひとつだ。彼らのイヌやネコとは違って,ユダヤ人たちはその人道的屠殺法によって保護されることはなかった。それどころか,強制収容所に送られたユダヤ人たちがそこで受けた扱いは,第三帝国の動物福祉法下でも通用しないようなひどいものだった。ナチスにとって,ユダヤ人は人間と動物の境界線上にいるあいまいな存在だった。彼らは汚れた人種,変種であり,完全な人間でも完全な動物でもない存在だった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.84-85

好悪と役立ち

人類動物学者のジェームズ・サーペルは,わたしたち人間の他の生物種に対する考え方が文化によってどう違うかを,簡単かつ手ぎわよく把握する方法を開発した。サーペルによると,人間の動物に対する考え方はつまるところふたつの側面に分けられるという。ひとつは,その生物種について感情的にどのように感じるか(「感情 アフェクト」)。そのうちポジティブなものに愛や同情があり,ネガティブなものには恐れや嫌悪がある。もうひとつは,わたしたち人間の立場から見て,その生物種に使い途があるか,役に立つか(食用になるとか,移動手段として使えるとか),あるいは有害か(たとえば人間を食うとか)という側面だ(「有用性 ユーティリティ」)。
 ここで,直角に交わる二本の線で区切られた四つの領域を想像してほしい。垂直な線は感情の側面をあらわしていて,上が「愛/好意」,下が「嫌悪/恐れ」を示す。その線は有用性の側面をあらわす水平な線によって二分され,左側は「人間にとって無益/有害」で,右側が「有益」を示す。これで四つの区分からなる分類法が完成したことになる。区分はそれぞれ,愛されていて役に立つ動物(右上),愛されているが役に立たない動物(左上),嫌われているが役に立つ動物(右下),嫌われていてしかも役に立たない動物(左下)を意味する。この分類法は,わたしたちの生活のなかで動物たちがどんな役割を果たしているか,わたしたちが動物たちをどのように分類しているのかを考えるのにかなり役に立つ。
 人間の最良の友であるイヌに対する態度の,文化による違いを考える上でも,この分類法は有効だ。盲導犬やペットセラピー犬には明らかに「愛されていて役に立つ動物」のカテゴリーがふさわしい。一方,標準的なアメリカのペット犬は,伝統的な意味で愛されているけれど,とくに役に立っているわけではない。サウジアラビアでは,イヌは一般的に嫌悪の対象となっている。これは「嫌われていて役に立たない動物」に分類される典型的な例だろう。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.66-67

名前と分類

動物に名前をつけたり,特徴を言いあらわしたりするときにわたしたちが使う言葉は,動物についてどう考えるかという問題にかかわるもうひとつの要素——すなわち,動物をどのように分類するか,ということとも深く関係している。たとえば「ペット」に分類される動物には名前をつけるけれど,「研究対象」に分類される動物にはふつう名前はつけない。最近,ある生物学者に,実験室のマウスには名前があるのかどうか尋ねてみたら,こいつは頭がおかしいんじゃないかという顔でこっちを見ていた。そりゃそうだ。だって,生物学者が突いたり,深針を挿したり,注射したりする白いマウスは,本質的にどれも同じなんだから。名前なんかつけてどうするって言うんだ?

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.61-62

言語は現実認識を生み出す

言語心理学者たちは,言語はわたしたちの現実認識そのものを映し出すのか,それともそうした現実認識を生み出す助けとなるのか,という問題について長いこと論争を続けてきた。わたしは後者の立場をとる。わたしたちの食卓にのぼる動物の名前を考えてみるといい。パタゴニアン・トゥースフィッシュ(=日本でも「銀ムツ」の名で知られる)は,南アメリカ沖合の深海に棲む,針のような歯と黄色いとび出た目を持つ先史時代的な姿の魚だ。ロサンゼルスの冒険的な輸入業者が「チリアンシーバス」(=シーバスは日本で言うスズキの仲間)というなんだか旨そうな名前に改名してから,洗練された食材として受け入れられるようになった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.60

ヘビ恐怖症は生まれつきか

科学者たちは,ヘビ恐怖症が広がっていく上で生まれと育ちのどちらが重要なのか,200年間にわたって議論してきた。ノースウエスト大学の心理学者スーザン・ミネカによると,サルの場合,ヘビに対する恐怖は学習によって身につくという。捕獲された野生のアカゲザルがヘビを怖がるのに対し,オリのなかで生まれたサルはヘビを怖がらないことを彼女は発見した。ただし,ヘビを一度も見たことのない研究室育ちのサルでも,捕獲された野生のサルがヘビに対してどう反応するかを目の当たりにすると,ヘビ恐怖症に早変わりしてしまうという。
 でも,ほかの研究者たちは,霊長類がヘビについて「空白の石版」(=生まれつきの性向を持たないことを指す。心理学者スティーブン・ピンカーの著作タイトルに使われた)だとは考えていない。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.57

気にかけているのは一部だけ

地球上に生息するほ乳類,鳥類,魚類,は虫類,両生類を合わせた六万五〇〇〇種のなかで,人がふだんから気にかけているのはほんのひとにぎりだ。なぜわたしたちはオオサンショウウオでなくジャイアントパンダを,コンドルではなくワシを,あるいはありきたりのスズメではなくルリツグミを,ダヤックオオコウモリ(=ほ乳類のなかで二種しかいない,オスが乳を出す種のうちのひとつ)ではなくジャガーを大切にするのか?わたしたちの動物に対する考え方は,たいていの場合,その生物種の特徴によって決定される——魅力の程度,大きさ,頭のかたち,ふわふわとした毛に覆われているか(これはプラスの評価),それともぬるぬるしているか(こちらはマイナス評価),どのくらい人に似ているか,あるいはどのくらい賢いとわたしたちが考えているか。足の数が多すぎるのお足りないのも嫌われる。ふんを食べたり,血を吸ったりという気持ち悪い習性もダメ。その動物が美味しいかどうかも大事だ(ただしこれはみなが思っているほどではないけれど)。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.49

動物虐待と暴力

一部の研究者や動物保護団体にとって,動物虐待と対人暴力の結びつき(を主張すること)は,いまや使命感を帯びたこの上ない熱意をもって追い求めるべき,道徳上の”聖戦”のごときだ。しかし,研究者のなかにも,そうした単純な「つながり」説には疑問を抱く人が増えてきている。彼らは,「つながり」説に賛同する人たちとメディアのせいで,人々のあいだで馬鹿げた道徳的パニックがいつまでも続くことを懸念する。「つながり」説を懐疑的に見ている人たちは,動物虐待なんか無視してもかまわないと主張しているわけではない。むしろ彼ら研究者たちは,動物虐待が子どもたちを大人になってからサイコパス(=「反社会性人格障がい」とも呼ばれる)にしてしまうからという理由ではなくて,動物虐待が持つ本来の意味合いを考える必要があるという意味で,重大な問題として扱うべきだと考えている。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.44

もともと似ているのか似てくるのか

ロイとクリステンフェルドは,飼い犬が飼い主に似る理由についてふたつの可能性を考えた——収束説と選択説だ。収束説は,飼い主と飼い主と飼いイヌが年を経るにつれて本当に似てくるというものだ。一見するとこの考えは馬鹿げているように見える。とはいえ,人間どうしについて言えば,夫婦の結婚生活が長くなるにつれて顔が似てくるという収束が起こることが,すでに明らかになっている。そこでロイとクリステンフェルドは,もしも収束説が正しいのなら,飼い主と飼いイヌがいっしょにすごす時間と,両者の似具合とのあいだには,なんらかの相関があるはずだと考えた。
 それに対して,選択説は,そもそもペットを選ぶとき,わたしたちは知らず知らずのうちに自分に似た動物を選んでいると考える。ロイとクリステンフェルドは,もしこちらの説が正しいのなら,雑種よりも純血種のイヌを飼っている人のほうがよりイヌに似ているはずだと推論した。というのも,雑種の子イヌが成犬になったときにどんな見た目になるかを予測するのは(純血種のイヌがどんな見た目になるかを予測するより)むずかしいからだ。
 ふたつの説を検証するために,ロイとクリステンフェルドはいくつものドッグパークをうろついて,飼い主とそのイヌの写真を撮ってまわった。ふたりは次に,撮ってきた飼い主の写真,飼いイヌの写真,それに別の無関係なイヌの写真をそれぞれひとまとめにして学生たちに見せ,飼い主とその飼いイヌの写真を正しく組み合わせるよう求めた。もし偶然だけが作用しているなら,学生たちが飼い主の写真と飼いイヌの写真を正しく組み合わせることができる確率は50%になるはずだ。でも,もしも飼いイヌが飼い主に似る傾向があるなら,学生たちはもっと高い確率で正しい組み合わせを選ぶことができるに違いない。ふたりは,収束説よりも選択説のほうが,飼い主とイヌの見た目が似る理由をうまく説明できると考えていた。したがって,飼い主と飼いイヌの見た目が似るのは(成犬になっても見かけがあまり変化しない)純血種のときだけにかぎられ,いっしょに住んでいる時間の長さと,どのくらい似ているかにはなんの関係もないと予想された。
 ロイとクリステンフェルドの予想はあらゆる点で正しかった。学生たちは,飼い主の写真とその純血種の飼いイヌの写真を,3分の2の確率で正しく組み合わせることができた。これはただやみくもに組み合わせを選んだ場合に予想される結果に比べて,かなり高い正解率だった。また,選択説から予想された通り,学生たちは(飼いはじめは似ていても,成犬になると見かけがガラリと変わる)雑種については,その飼い主と正しく組み合わせるのにはあまり成功しなかった。結局,選択説が予想していたような,飼い主は長くいっしょに住めば住むほど飼いイヌに似てくるなんて証拠はどこにも見当たらなかった。

ハロルド・ハーツォグ (2011). ぼくらはそれでも肉を食う:人と動物の奇妙な関係 柏書房 pp.33-35

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