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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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これでいいんだ

どうしてぼくは,そこまで悪くなってしまったのだろう。
 振り返ると,一つの理由に突きあたる。調子を崩した原因は,勝手に薬の量を調節してしまったことだ。ぼくは,本当にいけないことをしていた。
 「調子いいからこれ二錠でいいや」
 「眠れないからこれ三錠に,これ一錠プラスして……」
 主治医が処方してくれた薬の分量を守らず,自己判断で,気分に応じて飲む。少なすぎることもあれば,死にたいのかというくらい多すぎることもある。
 ぼくのしていたことは,きつい言葉を使うと,「薬物濫用」だ。
 薬をシートから出して,テーブルの上に大量に集める。それを手にとって,「これでいいんだ」と口の中に投げ込む。過剰に摂取して,安心を得ようとする。嘘の安心を手に入れてしまうと,摂取する分量を増やすことで,さらに大きな安心を求めてしまう。バランスが崩れ,反動は仕返しのように必ず襲いかかってくる。感情のコントロールは,完全に利かなくなってしまう。
 個人で分量を変えることは,絶対にしてはいけない。

ハウス加賀谷・松本キック (2013). 統合失調症がやってきた イースト・プレス pp.119
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負の力

人を怨む,世間を呪う「負の力」。
 これは,簡単に恐ろしいパワーを生み出してしまう。
 どうにでもなれというパワーは,人々を圧倒し,魅了することすらある。
 だけど,それは必ず自分に跳ね返ってきて,自分を追い込む危険な刃物だ。
 だから今のぼくは,「正」の力で物事を考え生きるようにしている。怨まず,呪わず,感謝する。100パーセントできている自信はないが,心がけるように努めている。

ハウス加賀谷・松本キック (2013). 統合失調症がやってきた イースト・プレス pp.99-100

治るんじゃないか

「そんなにたくさん薬を飲まなくても大丈夫だよ」
 「薬なんか,早く止められるように頑張れよ」
 うれしくなったぼくは,先生にも告げず,自分一人の判断で飲むべき薬の量を減らしていった。
 昼の分量をまるまる減らして大丈夫。朝の分量を半分にしてもやっていける。このままいけば治るんじゃないか。ぼくは完全に勘違いし,調子に乗っていた。
 最終的にぼくは,一日一回,それも極少量の薬しか飲まなくなっていた。
 外からどんなふうに見られていたか知らないけれど,自信はあった。薬に頼らなくても,ぼくは普通にやれるんだ,と。ただの過信だったのに,ぼくは間違った方向に舵を切っていた。

ハウス加賀谷・松本キック (2013). 統合失調症がやってきた イースト・プレス pp.96

高等商業学校群

序列が最も顕著に見られたのは高等商業学校群である。高商のなかでは最も歴史が古く,しかも予科を持ち専攻部を置いて,卒業者に学士の称号が認められた東京高等商業が一段高い地位を占め,第二高商として明治35年に設立され,しかも東京高商同様予科を置く四年制の神戸高等商業が,これに準ずる地位を占めていた。他の三校の入試倍率が3倍前後であったのに対して,この2校のそれは5倍を超えている。大正7年の大学令により,単科大学への昇格を認められたのもこの2校だけであり,東京高商は大正9年,東京商科大学(現・一橋大学)に,神戸商工は昭和4年に神戸商業大学(現・神戸大学)に,それぞれ昇格を果たした。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(下) 中央公論新社 pp.229-230

授業料の低さ

戦前期,とくに明治・大正期の私学経営上の問題は,何よりもその授業料の単価の低さにあった。明治41年当時の授業料の年額をあげれば,早稲田40円,慶應義塾36円,中央・法政30円,専修・日本27.5円,慈恵会医専70円などとなっている。これだけではその高低を判断できないが,官立の高等学校・高等高商・医専の30円,東京高工の25円などと比べてみると,慶應・早稲田,それに私立医専を例外としてほとんどの私学が,授業料を官立校と同じか,それよりも低い水準に設定していたことがわかる。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(下) 中央公論新社 pp.200

専任の教授陣

繰り返し指摘してきたように,この時期の大多数の私学は官立諸学校に教員,それも非常勤講師の供給源を全面的に依存していたのであり,近距離に官立学校が立地していなければ,その設立や存続は事実上不可能であった。先にもふれたが,法学系私学が神田界隈に集中していたのは,ひとつにはそのためであり,裏返せば慶應義塾が三田,早稲田が高田馬場と,都心を離れた場所に立地しえたのは,創設時から専任の教授陣を擁していたためといってよい。
 明治期はもちろん,いまなお続いている私立高等教育機関の圧倒的な東京一極集中も,このことと深くかかわっている。同志社や関西大学の不振は,京都や大阪に官立の,とくに法文系の学校が長く存在しなかったことと無関係ではない。京都帝国大学法科大学,さらには文科大学が創設されてはじめて,京都や大阪が,わが国第二の私立高等教育機関の集積地として発展を遂げる基盤が,用意されたのである。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(下) 中央公論新社 pp.183-184

カレッジからユニバーシティへ

早稲田大学は,ドイツの大学をモデルに国家の大学として「上から」創出された帝国大学とは違って,「カレッジからユニバーシティへ」と発展を遂げてきた,いわばアメリカ型の「私立」大学であり,つねに大学としての「事実」の形成に努力することを求められている。その「事実」は施設設備だけではなく,教員と学生の「実質」の問題であり,また開設される学部・学科の「綜合」性の問題でもある。早稲田大学は校名変更によって,ようやくその「事実」としての大学の出発点に立ったに過ぎない。その名にふさわしい「事実」を構築していく努力は設置者だけでなく,教員にも学生にも等しく求められている——それが,欧米諸国の大学事情に通暁していたであろう,高田の認識であった。
 慶應義塾もそうだが,わが国の私立大学を代表する早稲田大学が,いかにアメリカの私立大学に親近感を持ち,それをモデル視していたかは,たとえば明治34年にすでに,シカゴ大学やコロンビア大学などと「連絡を通じ」,卒業生の大学院への受け入れ承認を得ていたことからもうかがわれる(『二十五年記念早稲田大学創業録』14ページ)。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(下) 中央公論新社 pp.100

東京帝国大学の独占的体制

京都の新帝国大学が,東京のそれの三分の二の規模を持つものとして構想されたことは,すでに見たとおりである。それがどのような理由であるのか,またその後の規模拡大の過程でどこまで意識されていたのかは,明らかではない。しかし現在に至るまで京都大学の規模が東京大学に及ばず,またその後開設された帝国大学の規模も,東京のそれを超えることがなかったことは事実である。というより,戦前期を通じて東京帝大とそれ以外の帝国大学の間には明確な,規模と組織編成上の序列がつけられていた。
 大正八年,帝国大学令が改正され,分科大学制が廃止されて学部生に移った時点を例にとれば,各帝国大学の学部編成は,東京が法・医・工・文・理・農・経,京都は法・医・工・文・理,東北は理・医,九州は医・工,北海道は農・医となっている。東京帝国大学の独占的体制は,この時点になってもまだ,基本的に揺らいではいなかったのである。それ以前の時期についてはあらためていうまでもないだろう。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(下) 中央公論新社 pp.54-55

私立専門学校の位置づけ

専門学校令の公布を機に高等教育機関として整備を進め,「大学」として実質の構築に向けて先頭を走っていた早稲田にして,現実はこのようなものであった。私立専門学校と官立諸学校との間で教育条件,ひいては社会的威信の格差は依然として大きかった。中学校卒業者の間では,まずは高等学校か官立の専門学校・実業専門学校をめざして受験を繰り返し,数年の予備校通いや浪人の後に(あきらめて)私立専門学校へ,というのが支配的な進学のパターンだったのである。

天野郁夫 (2009). 大学の誕生(下) 中央公論新社 pp.12

中立主義

この中立主義は新上流階級文化の最も不可解な特徴の1つである。新上流階級のメンバーは病的なまでに勤勉だが,勤勉ではない人に対して軽蔑的なレッテルを貼ることはない。新上流階級の若い女性たちは婚外子出産とは無縁だが,婚外子出産に対して軽蔑的な表現を使うのはご法度だと思っている。犯罪者に対してさえそうであって,何らかの軽蔑的な表現を使えば,周囲の何人かは軽く眉をひそめるだろう。要するに,新上流階級の世界では他者に対して軽蔑的な言葉を使ってはならないのであり,例外は次の三種類の人々に対してだけである。——政治的見解を異にする人,キリスト教根本主義者,そして田舎の白人労働者階級。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.419

普遍的優しさの掟

今日の新上流階級は,トインビーにいわせれば間違いなく支配的少数派だが,彼らの行動規範はいい人であれという漠然とした命令でしかない。これを「普遍的優しさの掟」(the code of ecumenical niceness)と呼ぼう。子供たちはおもちゃを取りあうのではなく,仲良く共有し,代わりばんこに使うよう教えられる。つまり”いい子”でなければならない。実際,新上流階級の子供たちはおおむね”いい子”に育つ。だが同時に,子供たちは他人のやり方に口を挟まないようにと教えられている。つまり,性別,人種,性的嗜好,文化的慣行,国籍を問わず,他人のやり方を尊重しなければならない。そこから,「普遍的優しさの掟」に決定的な欠陥が生じる。支配的少数派の行動規範は本来社会の基準になるべきものなのだが,「普遍的優しさの掟」は結局のところ,支配的少数派が選んだ人々——要するに自分たち——にしか及ばない。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.418-419

振り返る

では,どのようなことを達成できていたら,老年に達したときに,自分が何者であったか,自分が何をしてきたかを振り返って満足を得ることができるのだろうか。これについてじっくり考えた人が,それぞれ何らかの”達成”を思い浮かべることができたとしたら,そこには3つの共通点があるだろう(とわたしは思う)。第一に,その達成は何か重要なものと関係がある。ささいなことからも喜びを得ることはできるが,そうした喜びと深い満足とは別のものである。第二に,その達成は努力,それも多くの場合,ある程度長期にわたる努力と関係がある。よく「大事なものは簡単には手に入らない」というが,まさにそのとおりである。第三に,その達成は基本的にある程度の個人的責任を伴うものである。卑近な例だが,「わたしでなかったら,こんなふうにうまくはいかなかった」といえるような場合である。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.370

「勤勉」

建国の父たちは「勤勉」という美徳にしばしば言及したが,そのさいには18世紀の表現である「industry」を使っていた。この「industry」は,独立革命のそもそもの原動力となった一連の資質のことを意味している。アメリカの独立革命が起きたのは,ただたんに人々が表現の自由や信仰の自由,「代表なくして課税なし」といった原則を望んだからではない。そこには,自力で成功をつかみ取り,自分と子供たちの暮らしを豊かにすることができてこそ人生だという,アメリカ人の骨身にしみこんだ気負いが働いていたのであり,そうした精神こそが「industry」だった。わたしはなじみのある現代語「industriousness」を使うが,「industry」と同じように,かなり広い概念を念頭に置いている。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.195

勤勉・正直・結婚・信仰

これについてはさまざまな見解があり,またどの見解もさまざまに解釈できる。つまり,アメリカ国民の徳とはこれらであるという決定的なリストが存在するわけではない。しかしながら,少なくとも次の4項目——あるいはアメリカ社会の4つの側面——は誰もが認めるところであり,18世紀の建国の父や19世紀の評論家たちの記述を調べあげても,この4つを否定するような内容はまず見つからないだろう。その4つとは,勤勉,正直,結婚,信仰で,前の2つはそれ自体が徳であり,後の2つはそれを通して徳が育まれる制度である。便宜上,わたしはこの4つを合わせて「建国の美徳」(founding virtues)と呼ぶことにする。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.194

リベラル派

一般のアメリカ人に比べて新上流階級にはリベラル派が多いと広く考えられているが,それには正当な理由がある。名門校の教授陣が左寄りだという点はすでに具体的に検証されているし,メディア界のエリート・ジャーナリストたちに占めるリベラル派の割合も明らかにされている。映画産業にいたっては調べるまでもなく,トップスターやプロデューサー,ディレクターが公然とリベラリズムを標榜している。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.148

似た者が近づく

学歴も認知能力も高い者同士のカップルは,文化的にも似た者同士になる可能性が高い。たとえば,片方は大学卒で認知能力もきわめて高いが,もう片方は高校卒で認知能力は平均を少し超える程度というカップルの場合,本屋映画の好み,余暇の過ごし方,友人,その他生活上の多くの面で二人のあいだに違いがあるだろう。そのような違いがあれば,結婚が文化分散の機能を果たすことになる。1960年には,管理職・専門職の世帯の三分の二がそうした学歴上の異種混交性を有していた。しかし2010年には,経済的に大いに成功している夫婦の四分の三が大卒同士になっていた。つまり,彼らは高学歴・高知能の人々に特有の感性や嗜好を夫婦間で共有していて,そうした嗜好を満足させる財・サービスへの出費を惜しまないのである。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.104

大学の序列

このように大学の階層化が進んだことによって,現在では,三流公立大学には全米平均レベルの学生ばかりが集まり,一方,名門校には認知能力が90センタイルを下回る学生など一人もいないという状況になっている。大学によっては,90センタイルどころか99センタイル以上,場合によっては99.9センタイル以上の学生がうようよいるところもある。どこを卒業しても,学士号さえあれば同じ「大学卒」だが,逆にいえば「大学卒」というレッテル以外にもはや共通点はない。大学の知的序列は誰の目にも明らかであり,就職希望者の履歴書を見る採用担当者も,子供の進学先に悩む親も,立身出世を夢見る高校生も,みなその序列を念頭に置いている。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.93

似た人々が集まる

新上流階級が一般のアメリカ人から離脱していった背景には,きわめて単純な人間の衝動が働いている。人は誰でも自分を理解してくれる人,話の合う人と一緒にいたい。そのために,飛び抜けて頭のいい人間が,同じく飛び抜けて頭のいい人間と出会う機会が生じるや否や,認知能力による分離メカニズムが動き出すのである。
 人より飛び抜けて頭のいい人間は,子供のころからそうした出会いの機会を夢見ている。なぜなら,認知能力はほかの能力とは違い,子供を孤独にするからである。たとえば,運動能力に秀でたティーンエイジャーなら花形のクォーターバックになれるし,たとえ性格が内気で,友達づきあいが下手でも,周囲のほうから友達になりたいと寄ってくる。あるいは対人能力に秀でたティーンエイジャーなら,まさにそれだけで人気者になれる。そもそも対人能力とはそういう能力のことなのだから。しかし,数学の成績は抜群だが対人能力は普通という男子生徒の場合には,変わり者とみなされるだけである。得意な数学の話をしたくても,相手になってくれるクラスメートはせいぜい1人か2人,運が悪ければ1人もいないだろう。言語能力は抜群だが対人能力は普通という女子生徒も同じである。T.S.エリオットの詩に心を奪われて,どんなにすばらしいかを説明しようとしても,理解してくれるクラスメートはまずいないだろう。ウィットに富む表現も理解してもらえないし,それどころかわけのわからない言葉を使うからと嫌われてしまうだろう。『灰の水曜日』[エリオットの詩作品]について話をしようと思っても,まずぽかんとした顔で見られ,それから冷たくされるのが落ちで,そのことを彼女自身もよくわかっている。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.86-87

子供の教育にこだわる

新上流階級の親たちが最もこだわるのは子供の大学進学である。子供が10代になると,彼らの頭は大学入学制度のことでいっぱいになる。これは一般のアメリカ人にはまず見られない現象である。アメリカの大学で入学が難しいのはごく一部でしかなく,それ以外の大学は,願書に高校の一定水準以上の学業成績証明書と大学進学適性試験(ACTあるいはSAT)の結果を添付して提出すれば,それだけで入れる。もちろん一般の親たちも,子供が第一志望の州立大学に入れるだろうかと気にかけはするだろうが,それ以上に悩むことはない。子供の進学先が『USニューズ&ワールド・リポート』誌の大学ランキングでベストテンに入っていないからといって,眠れぬ夜を過ごしたりはしない。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.70

酒と煙草

アルコールはどうかというと,新上流階級が飲むのはたいていワインかクラフトビールである。どちらを飲むにしても,彼らの多くはその飲み物について微に入り細にわたって語りたがる。だがの無料は控えめである。また,タバコは吸わない。上流階級の家庭を訪問するときは,軽率にタバコに火をつけないほうがいい。それだけで軽蔑されてしまうかもしれない。疾病対策センター(CDC)によれば,アメリカの成人のおよそ3分の1がまだタバコを吸っているそうだが,新上流階級に囲まれて暮らしているかぎり,そんなことは想像もできない。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.63

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