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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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何事もやりすぎ

しかしながら,新上流階級の親たちのやり方もいいことづくめではない。そこにはマイナス面もあり,それは何事もやりすぎてしまうことである。たとえばエリート家庭の子供たちには,バレエ教室,水泳教室,家庭教師,セラピーなどでスケジュールがいっぱいで,自由に遊ぶ時間もないといった状況がよく見られる。また,子供を有名幼稚園に入れようとして,そのための準備学校に通わせる親もいる。これは都市伝説ではなく,裏づけのある事実である。幼稚園でもそうなのだから,大学となれば推して知るべしで,子供を名門大学に入れるためならどんな努力も惜しまないという親が少なくない。そうした親たちは子供が大学に入っても干渉をやめられず,それがとうとう社会現象化して「ヘリコプター・ペアレント」[子供が大学生になっても子離れできない親。ヘリコプターのように子供の頭上を旋回し,何かあればすぐに降りてきて助けようとする]と呼ばれるほどになった。この言葉はアメリカの大学管理者のあいだでは日常的に使われている。さらに,エリート層の親たちは絶えず子供を褒めるが,これには逆効果もありうるとする研究結果が数多くだされている。なぜなら,たいていの場合,親たちは子供の行ないを具体的に褒めるのではなく,子供が賢いことを褒めるからである。その結果,多くの子供たちが「自分は賢い」というイメージを守ろうとし,そのイメージを危うくするチャレンジを避けるようになる。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.68
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新上流階級

では実際のところ,新上流階級の人々は一般のアメリカ人とどこが違うのだろうか。とりあえず見た目の違いを知りたければ,小学校の保護者相談会に顔を出すといい。まず世帯所得が全米の平均レベルにある地区の小学校へ行き,それから有名私立小学校へ行くのである。
 すると,駐車場からして様子が違っている。普通の小学校では駐車している車のおよそ半分が国産だが,有名私立小学校では圧倒的多数が外車である。続いて中に入って父母たちのあいだを歩いてみると,年齢層が違うことに気づくだろう。普通の小学校では母親は20代後半から30代半ばだが,エリート小学校では20代の母親は見かけず,逆に40代が多い。父親の年齢差はもっと大きく,エリート小学校ではかなりの父親が40代で,50代も少し交じっている。さらに上も見かけなくはない。
 もう1つの見た目の違いは体型である。普通の小学校では両親の3分の2が太り気味で,そのまた3分の1は明らかに肥満である(2009年の国立健康統計センターの肥満調査から算出した割合)。一方,有名私立小学校では両親はだいたい痩せていて,肥満はまれである。新上流階級は健康とフィットネスにかなり気を配っているので,スポーツクラブに通って締まった体をしている人が多く,なかにはマラソンに参加したばかりでげっそり,といった人もいるほどである。ほかには毎日1時間ヨガをする,週末にマウンテンバイクに乗る,平日にまめに泳いでいるなど,方法は各人各様だが,いずれにしても新上流階級が一般のアメリカ人より太っていることはまず考えられない。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.60-61

最上層

この集団の最上層を占めるのは,アメリカの文化,経済,政治に直接影響力をもつ地位に上りつめた人々である。その一部は政治権力を握り,別の一部は財界を動かし,さらに別の一部はマスコミを動かしている。この小集団を「狭義のエリート」と呼ぶことにしよう。狭義のエリートには,たとえば,憲法上の法解釈にかかわる弁護士や裁判官,,全国放送におけるニュース報道のあり方を決めるマスコミ上層部,主要な活字メディアやウェブサイトに署名入りで寄稿しているジャーナリストやコラムニストなどが含まれる。また,国内最大規模の企業や金融機関,財団,NPOなどの最高幹部も含まれる。さらに,映画やテレビドラマの制作にかかわるプロデューサーやディレクター,ライター,一流の大学や研究所の著名な学者・研究者,そして高級官僚と政治家も含まれる。
 この狭義のエリートは10万人に満たない。いや,実のところ1万人程度にとどまるのではないだろうか。少なすぎると思うなら,特定の分野について具体的に考えてみていただきたい。

チャールズ・マレー 橘 明美(訳) (2013). 階級「断絶」社会アメリカ:新上流と新下流の出現 草思社 pp.36

合意を放棄

代表民主制のある種の欠陥は,選挙で衆参両院の多数派を占めれば,次の選挙まで政権党は強行採決という手法をとれば,なんでもできてしまう。いまの自民党のように党内にこれといった反対勢力がなければなおさらである。安倍首相はまさにこの「代表民主制の欠陥」を逆手にとって,合意する道を投げ出した分断・対決型の劇場政治を断行,限りなく「独裁」に近い政治をおこなっているのである。
 そして,その最大の武器が「断定口調」「レトリック」「感情語」という「アベ流言葉」である。合意することを放棄しているので,反対勢力を説得する必要はなく,分断し対決する状況をつくるための言葉であればいいのである。政策と民意のずれは各種世論調査が物語っている。安倍首相の発する言葉を引き金とした「政権の暴走」を止める手立てはないのだろうか。

徳山善雄 (2015). 安倍晋三「迷言」録:政権・メディア・世論の攻防 平凡社 pp.230

不毛

「イスラム国」が凄惨な虐殺を繰り返しているのは事実だ。しかし,「正義」と「邪悪」,「善」と「悪」,「敵」と「味方」という二分法で色分けした場合,その行き着く先はどちらかを殲滅するまで戦うということになりはしないか。不毛の戦いがつづくだけだ。新聞のコラムでこのような書き方をするのは変だという指摘だった。
 電話の向こうの少し興奮した声を,なるほどと思いながら聞いた。

徳山善雄 (2015). 安倍晋三「迷言」録:政権・メディア・世論の攻防 平凡社 pp.122

二分法

両極端に振れ続ける二極化,分断化現象のなか,賛成派は「戦争を抑止する平和法制」,反対派は「憲法違反の戦争法案」という一方通行の主張に終始し,かみ合うことがなかった。善か悪か,白か黒か,正義か邪悪かという二分法の構図をつくり,それを利用したのが安倍政権であった。安倍首相の断言口調やレトリック,感情的なヤジ,側近の失言などさまざまな言葉がその都度,問題あるいは話題になるなか,保守とリベラルの亀裂は深まっていった。
 分裂が広がれば広がるほど,国会の多数派に有利に働くのは自明である。オセロゲームのようにガラリと勢力図が変わり,政治家が育ちにくい小選挙区制の弊害も背景にあるのだろう。

徳山善雄 (2015). 安倍晋三「迷言」録:政権・メディア・世論の攻防 平凡社 pp.65

断定口調・レトリック・感情語

私は「アベ流言葉」には3つのパターンがあると考えている。ひとつは「戦争に巻き込まれることは絶対にない」「徴兵制は全くあり得ない,今後もない」などという「断定口調」。もうひとつは,象徴的なものとして戦後70年の安倍談話でみられた「私は」という主語を使わずに間接話法を用いる「レトリック」。最後は突然キレる「感情語」。これは第3章に詳しいが,出演したTBSテレビや日本テレビのキャスターに投げつけられた。国会で自席から飛ばすヤジもそうだろう。
 「断定口調」「レトリック」「感情語」がそれぞれ単発で使われることもあるし,「断定口調」と「レトリック」,「レトリック」と「感情語」を一緒に使う話法もある。留意しなければならないのは,これらに野党政治家とリベラル系のメディアが敏感に反応,激しく批判することで「アベ流言葉」を増幅し,分断を深めるという点だ。
 そして,安倍首相は謝罪させられたり,世論にも攻撃されたりしてダメージを負うことになる。しかし,これはあくまで初期現象で,この分断・対話型の手法が最終的には安倍氏にしばしば有利に働くことになるのである。

徳山善雄 (2015). 安倍晋三「迷言」録:政権・メディア・世論の攻防 平凡社 pp.11-12

歴史展望

ならば,ついでに書ききろう。
 私は国旗や国歌,日の丸や君が代に伝統を感じる人々のことも,いぶかしく思っている。あんなものは,東京が首都になってからうかびあがった,新出来の象徴でしかありえない。嵯峨が副都心だった平安鎌倉時代には,まだできていなかった。そこに,たいした伝統はないんじゃあないかと,彼らには問いただしたくなってくる。
 どうして,近ごろの政権は,ああいうものを国民におしつけたがるのだろう。東京政府が,近代化の途上でひねりだした印ばかりをふりかざすのは,なぜなのか。明治政府ができる前の象徴には値打ちがない。そう言わんばかりのかまえを見せる現政権に,私は鼻白む。
 もちろん,京都の文化からも,国民へ強制する要素をえらべと言いたいわけではない。嵯峨の文化項目を,私が国家的な象徴にしたがっていると,誤解をされるのはこまる。私は故郷の嵯峨を,こよなく愛している。そして,愛する嵯峨の何かが人々におしつけられ,怨嗟の的になるのは,たえられない。
 何かで国民をしばろうとする姿勢じたいに,私は違和感をおぼえる。それが何であれ,うとましく思う。そして,強制の対象が東京時代の産物でしめられる点には,べつの意味であきれてきた。けっきょく,現政権の歴史展望は,明治より前にとどかないのかと,がっかりする。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.209-211

大文字焼き

だが,私のおさないころは,それらを「大文字焼き」と言っていた。嵯峨の鳥居もふくめ「大文字焼き」であると,そうよびならわしていたものである。「大文字焼き」の日は,鳥居も山にえがかれる,などと言いながら。
 「大文字焼き」の呼び名をきらうのは,そこに見世物めいたひびきを感じるせいだろう。あれは,ほんらい祖霊をおくる盂蘭盆のしめくくりとなる行事,つまり「送り火」である。娯楽用の花火めいたもよおしなんかでは,ぜったいにない。「大文字焼き」とは言うな,「五山の送り火」とよべ。それももっともだと,このごろは考えられているのである。
 じっさいには,もう花火と似たような,夏をいろどる風物詩のひとつになっている。むらがる見物人のなかには,とりわけ若い人には,盂蘭盆の意味がわからぬ者も多かろう。そんな御時勢に危機感をいだくから,「送り火」であることを強調したくなってくる。「五山の送り火」という呼称のおしつけは,信仰心のおとろえを,逆説的に物語ろう。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.157-158

金閣寺と銀閣寺の言い値

庭園を案内する本なのに,有名な寺の庭を紹介するところだけ,写真がない。たいていの庭を写真でしめしながら「金銀」級の庭だけは,イラストであしらっている。そういう本を見るたびに,私はあわれをもよおしてきた。
 ——ああ,「金銀」の言い値が,この出版社にははらえんかったんや。経費はおさえなあかんし,苦肉の策でイラストにしてしたんやろな。写真がらみの出費がイラストレーターへの謝金より,高うつく寺もあるということや……。
 四大寺あたりへの志納金は,噂のとおり高いのだろうと,私が想像するゆえんである。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.109

拝観料

同じことは,いわゆる拝観料の収入についても,あてはまる。これも,いちおう参拝客からの寸志,つまりは宗教的な献金だとされてきた。税務署が介入できない,神聖な金銭として,みとめられている。
 いわゆる観光寺院は,これで台所がうるおうようになる。寺の経済にしめる比重は,写真掲載の許諾をめぐる利鞘,いや志納金をはるかに上まわる。そのおおきな収入が,非課税だとされているのである。
 寺を見にくる来観者に,拝観料のことを宗教的な出費だと思っている者は,まずいない。だいいち,入口の料金所には,大人何円,学生何円などと,書いてある。しはらうべき金額が,寺から一方的にきめられているこの経費を,お布施だとは思えまい。テーマパークへはいる時の入場料めいた支出として,うけとめられているはずである。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.110-111

写真の経費

その写真掲載にかかる経費が,じつはあなどれない。さきほども書いたとおり,一点につき三万円ほどを寺へおさめるしきたりが,できている。
 もちろん,現代建築の場合と同じで,寺の建築や庭などにも,肖像権や意匠権はない。ほんらいなら,出版社側がそういうものをしはらう義務は,ないはずである。金はいっさいださずに,雑誌などへ写真をのせても,法的にはとがめられないだろう。法廷闘争という話になっても,寺が勝つとは思えない。
 にもかかわらず,たいていの出版社は,寺への納金というならわしに,したがっている。これにそむいたという出版社の話は,聞いたことがない。たぶん,どこも寺の言いなりになっているのだと思う。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.105-106

芸子遊び

京都については,大学の先生たちがよくあそぶせいだという声を,しばしば耳にする。京大あたりには,好きそうな先生が多いんじゃあないか。そう首都のメディア関係者から,たずねられることもなくはない。
 なるほど,京都は人口規模のわりに,大学や研究機関がたくさんあつまっている。だが,いわゆる研究職の給与で,日常的に芸子あそびができるとは思えない。すくなくとも,花街をささえる社会層として,ひきあいにだすのは,まちがっている。なかに,お茶屋好きの研究者もいくらかはいるというぐらいが,関の山であろう。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.69

突破口

かたい話になるが,近代化は社会階層の平準化をおしすすめた。下層とみなされた人々を,あしざまに難じるふるまいも,社会はゆるさなくなっている。
 だが,人間のなかには,自分が優位にたち,劣位の誰かを見下そうとする情熱もある。これを全面的にふうじこめるのは,むずかしい。だから,局面によっては,それが外へあふれだすことも,みとめられるようになる。比較的さしさわりがなさそうだと目された項目に関しては,歯止めがかけられない。
 たとえば,身体障害については言及しづらいが,ハゲをめぐる陰口は,ゆるされる。ハゲが,障害というほどの重い状態だとは,考えられないせいである。いや,それどころではない。障害方面では出口のふさがれた暗い情熱が,ハゲ方面に鬱憤の捌け口を見いだすようになる。そのため,ハゲが,おおっぴらな揶揄の対象となってしまう。あるいは,デブやブスなども。
 重い差別が,社会の表面からはけされていく。しかし,かつての差別をささえた人間の攻撃精神じたいは,なくならない。そして,それは,軽いとされる差別に突破口を見つけ,そこからあふれだす。あるいは,差別の対象ともみなせぬ小さな負の印に,というべきか。ハゲなどばかりがからかわれやすい状況は,こうしてもたらされる。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.45-46

誤解

東京には,京都のことなどなんとも思っていない人だって,おおぜいいる。よほどのできごとでないかぎり,東京以外の現象には興味をしめさない人も,少なくない。見聞きにあたいするものは,みな東京にあるという考え方さえ,被地では流布している。
 だが,そういう人たちは,洛中人士の前にあらわれない。教徒にあこがれる物好きだけが,近づいてくる。あるいは,メディア人もふくめ,京都をたてまつることで利益のみこめる人々が。
 そして,彼らとの出会いがかさなるおかげで,京都人は誤解をしてしまう。首都東京も,京都には一目おいているのだ,と。どんな雑誌だって,企画にこまったらよく京都特集を,くむじゃあないか。そういって鼻をうごめかす洛中の旦那に,私は何度も出会ったことがある。
 ああ,こういう人たちが洛外をばかにするのだなと,私はそのつど考えこむ。嵯峨などを低くみるのは,首都のメディアにもてはやされ,うれしがっている連中だ,と。言葉をかえれば,けっこう底が浅いんだと,私は思いたがっているようである。まあ,それが私の精神衛生につながっているということかも,しれないが。

井上章一 (2015). 京都ぎらい 朝日新聞出版 pp.38

試練にのぞむ

現代の英雄,つまり自分が呼び寄せられたことを気にかけ,人類が運命をともにする存在の住まう場所を探し求める個人は,自分が属する共同体が,うぬぼれた恐怖,合理化された欲望,聖化された勘違いといった古い衣服を脱ぐことを期待できない。ニーチェは次のように語っている。「生きよ,あたかもその日が来たかのように」創造する英雄を社会が導き救うのではなく,反対に,創造する英雄が社会を導き救うのである。こうして,私たち一人ひとりが究極の試練にのぞむ(救世主の十字架を担ぐ)。しかも,社会全体が大勝利をおさめる輝かしい瞬間にではなく,個人的絶望のうちに黙々と試練にのぞむのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.291

英雄の行為の根底

英雄の時代が始まるのは,人間の村や町があちこちにつくられた後のことである。原始の時代から生き延びた怪物の多くが,いまだ辺境に棲息し,悪意や自暴自棄の念をもって人間社会と敵対している。そうした怪物は退治しなければならない。それに加えて人間の専制君主が人々から略奪を繰り返してその地位につき,悲惨な状態をつくり出している。専制君主も討伐する必要がある。したがって,英雄の行為の根底には邪魔者を取り除く使命がある。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.215

神話の構造

そのため,私たちが受け継いできた神話の形状の価値をきちんと把握するためには,神話が無意識(実際は,人間のあらゆる思考や行為)の表れであるだけでなく,制御され,意図された,ある種の精神的な原理——人間の肉体そのものの形や神経組織と同じように,人類の歴史が始まってこのかた,ずっと不変の原理——を表現していることを,知っておく必要がある。まとめると,万物の教えは,この世界の目に見える構造物すべて——あらゆる事象や存在——は,それを生み出す偏在する力の作用した結果であり,事象や存在が現れている間は,それを支え,満たしているが,最終的に,元の滅却状態に回帰するということである。その力は,科学でエネルギーと呼ばれ,メラネシア人にマナ,アメリカ先住民のスー族にワカンダ,ヒンドゥー教徒にシャクティ,キリスト教徒に神の力として,知られる。また,精神(プシケ)に現れるものは,精神分析学用語でリビドーと呼ばれる。さらに,宇宙に現れるものは,宇宙そのものの構造や流転である。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.102

深層の力

こうした見方にならえば,驚くような物語——伝説の英雄の生涯や,自然に宿る神々の力,死者の霊魂,トーテムの祖先の話として語られる物語——を通して,人間の意識的な行動パターンに隠された無意識の欲求や恐れ,緊張に象徴的な表現が与えられる。言い換えれば,神話は,伝記や歴史,宇宙論として誤読されている心理学なのである。現代の心理学者は,神話本来の意味を解釈し直し,それによって,人間性の最深部に眠る説得力のある記録を今の世に救い出すことができる。そこに表れるのは,X線透視装置で見るように,謎多きホモ・サピエンス——西洋人や東洋人,未開人や文明人,現代人や古代人——の,隠された変遷である。私たちの目の前にすべての場面が展開する。私たちはそれを読み解き,一定のパターンを調べ,バリエーションを分析するだけでよい。そうすれば,人類の運命を決め,公私両面の人生を左右しているに違いない深層の力を理解できるようになる。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.100

時間のずれ

楽園での1年が地上での100年にあたるというのは,神話ではよく知られたモチーフだ。100年での完全な一巡は,全体性を表している。同じように,360度の円も全体性を意味する。ヒンドゥー教のプラーナ聖典では,神界の1年は人間界の360年に相当する。オリュンポスの神々の目から見ると,時代から時代へと移ろいゆく地上の歴史は,完全な円という調和の取れた形をしている。そのため,人間には変化と死にしか見えず,神々には不変の形,終わりなき世界にしか見えない。だが今,問題なのは,差し迫った地上の苦痛や喜びを前にして,この宇宙的な視点をどう維持するかである。知恵の実を食べると,気持ちはその時代の中心から,その瞬間の周縁的な危機へとそれてしまう。完全性のバランスが崩れ,気持ちがぐらつき,英雄は転落する。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.55

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