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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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十字架としめ縄

鏡と剣,そして樹木については,次のように考えられる。女神の姿を写し,身を隠すという休息から女神をむりやり引き出した鏡は,この世,つまり反射像の世界の象徴である。そこで,女神は自分の輝きを見ることに喜びを覚え,その喜びが,顕現,すなわち「創造」という行為を引き起こす。剣は雷と対をなす。樹木は地と天空をつなぐ「世界軸」であり,願いを叶え,豊穣を表す。キリスト教徒の家庭で冬至に飾る木(クリスマスツリー)も,これと同じである。冬至は太陽の復活と再来の時期であり,クリスマスツリーはゲルマンの異教徒からの楽しい慣習として受け継がれ,それによってゲルマンの異教徒は,現代ドイツ語に女性名詞の「太陽(ゾンネ)」をもたらした。またアメノウズメの踊りと八百万の神のどんちゃん騒ぎは謝肉祭(カーニバル)の一種である。最高位の神の隠遁により世界は混乱に陥るが,その再来により,また喜びに湧く。そして,しめ縄,アマテラスが再び姿を現したとき,その背後に渡された稲藁の縄は,太陽の光が戻るという軌跡を起こした神の慈悲深さを象徴している。このしめ縄は,日本土着の神道における伝統的な象徴の中でも,きわめて目立つ,重要な,そしてものは言わないまでも雄弁な象徴の1つである。しめ縄は,神社の入り口に吊るされたり,正月に門口に飾られたりし,再来の境界線から世界が変わることを表している。キリスト教の十字架が死の淵への神話的な道筋を表す最も雄弁な象徴であるなら,しめ縄は最も単純な復活の象徴である。この2つの象徴——十字架としめ縄——は,この世とあの世,実存と非実存の境界線の神秘を表している。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][下] pp.39-40
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イニシエーション

伝統的なイニシエーションの考え方は,若者に仕事の技術や職務,特権を与えることと,親のイメージに対する感情的な関係を合理的に見直すことを結び付けている。秘義を伝授する者(父親または父親の代理)は,不適当で幼稚な充当(カセクシス)をすっかり取り払った息子にだけ,仕事の象徴を託すことになる。そういう息子なら,自己強化や個人の好み,または憤りという無意識な(意識的で合理的な場合もあるが)動機のせいで,正しく客観的に力を行使することが不可能になる,ということはない。理念的には,託された者は単なる人間性を取り払われ,人格のない宇宙的な力を表すことになる。つまり,「二度生まれた」。自分で父親になったのである。その結果,今度はイニシエーションを授ける人間や,案内人や太陽の扉といった役目を負う資格を持つようになる。そしてそれを通じて人は,幼稚な「良きもの」「悪しきもの」という幻想から脱して宇宙的な法則の権威を経験し,希望や恐れを取り去って,本質の現れを理解した心穏やかな状態になれるのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.204-205

私達の問題の一部

疑問をさしはさむ余地はないだろう。過去の世代の人々が神話や宗教の形で受け継いだ象徴や精神的修練に導かれて通った心理学的に危険な事態を,現代の私たちは(信仰心がないならば,または信仰心を持っていたとしても,継承された信仰では現代社会の現実的な問題が説明できないならば)1人で立ち向かわなければならず,助けがあったとしても,せいぜいあやふやで間に合わせで,たいていはあまり役に立たない手引きがあるだけだ。これは,現代的で「啓蒙された」人間としての私たちの問題で,そういう私たちのせいで,神や悪魔は合理的に説明されて存在しなくなってしまった。それでも,残されていたり,地球上の隅々から集めたりしたたくさんの神話や伝説の中に,人間的な振る舞いの何かがまだ残っていて,それが描かれているのを見つけられるかもしれない。しかしそれを聞いて役立てるためには,ともかく魂を浄化し身をゆだねなければならないだろう。そしてそれが私たちの問題の一部なのだ。どうしたらいいのだろうか。「亡くなった人々が経験したような試練を受けずに『至福の園』に入ろうと思うのか」

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.156

英雄の旅

英雄が滑稽であろうが立派であろうが,ギリシア人だろうが未開人だろうが,キリスト教徒だろうがユダヤ教徒だろうが,英雄の旅は本質的な計画においてほとんど変わらない。よく知られている話では,英雄の活躍を肉体的に表現している。高尚な宗教では倫理にかなう行為で表す。それでも冒険やそこに関わる登場人物の役割,手にする勝利の形態には,驚くほど差異がない。元型的なパターンの基本的な要素が1つ2つ,目の前のおとぎ話や伝説,儀礼,神話などから取り除かれても,なんとか意味はわかる。このあと説明するが,取り除くこと自体が,歴史や異常を明確に示すのである。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.66

悲劇と喜劇

おとぎ話や神話,魂を表す神々の喜劇のハッピーエンドは,人類の普遍的な悲劇と矛盾するものとしてではなく,それを超越するものとして読むべきである。客観的な世界は過去の姿のままだが,主体の中で重要視するものが変わると,形を変えたように見えてくる。以前は生と死が争っていたのに,今では永続するものが見えてくる。鍋で煮立つ水が泡の運命に無関心だったり,宇宙が銀河の星々の出現や消滅に無関心だったりするのと同じように,時の偶然性とは無関係なのである。悲劇とは形あるものを壊し,形あるものに対する私たちの固執を壊すことである。喜劇は荒々しく無頓着で無尽蔵の,自分ではどうにもならない人生の喜びである。したがって悲劇と喜劇は,両者を内包し両者によって区別される。ひとつの神話的主題と経験を表す言葉となる。つまり下降と上昇(カトドスとアノドス)であり,ともに命という啓示の全体性を形作る。そして罪(神の意志に従わないこと)と死(死すべき形態と同一化すること)の毒から清められる(カタルシス=浄化[プルガトリオ])には,人はその両方を理解して受け入れなければならない。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.50-51

暴君と英雄

この暴君という怪物は,世界中の神話や民間伝承,伝説,悪夢の中に現れる。その性格は基本的にどこも同じである。皆の利益を独り占めにし,なんでも「自分のもの」と貪欲に権利を求める怪物である。暴君がもたらす暴力や破壊は,神話やおとぎ話の中で,暴君のいるところでは必ず起こるものとして描かれている。それは,怪物一家の話や,暴君自身の苦悩する精神(プシケ)の話,または,ほんの少し暴君が友情を示したり手を差し伸べたりするだけで枯れてしまう命の話にすぎない場合もある。または文明そのものの話にまでなることもあるだろう。暴君の大きく膨らんだエゴは,周囲の事柄がうまくいっているように見えても,当人やその住む世界にとっては災いである。そして自ら独立を獲得した大物の暴君は,自ら怯え,恐怖に取り憑かれ,周囲からの予想される攻撃——主に自分が抱えるものに対する抑えられない衝動が投影されただけなのだが——に立ち向かうためにあらゆる手段を講じようと構えるので,心の中では人間らしい意図を持ってひとり満足していても,世界に大惨事をもたらす使者になる。暴君が手をつくところでは,必ず泣き声が起こる(世間に広がる声でなくても,一人ひとりの心の中でもっと悲惨に)。それはここから救ってくれる英雄,光る剣を持つ英雄を求める声である。英雄が起こす風だけで,英雄が地に触れるだけで,英雄がいるだけで,そこに住む人々は解放されるだろう。

ジョーゼフ・キャンベル 倉田真木・斎藤静代・関根光宏(訳) (2015). 千の顔をもつ英雄[新訳版][上] pp.32-33

社会的判断

社会的行動理論の視点では,精神疾患,不適応,異常といった用語は,行動を示す人の内部に存在する仮定的な疾患や,特性または状態を指すのではなく,すべて人間の行動に対する社会的判断を意味するものである。「適切な」社会化や適応に関して言われていることには,個人が社会的に期待され,認められている行動をどの程度おこなうか,についての判断が関係している。こうした判断はまた,その人が文化的に是認された目標や行動をどの程度評価するか,という推理にしばしば左右される。不適応,逸脱,人格障害についての言明には,それに反して,個人の行動がその人自身や他人にとって,どの程度有害な,あるいは不都合な結果を生み出すかについての推断が関係する。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.210
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

病気・診断

異常行動を疾病としてとらえるアプローチでは,人を精神的な「病気」の犠牲になっている「患者」としてとらえる。耳下腺炎や癌のような,肉体的疾患と同じようにである。精神疾患はそれ自体仮説的なものだが,「精神分裂病」「躁うつ病」「強迫神経症」などといった,病理学上の医療的構成概念を使って概念化されている。この種の精神医学的構成概念は,クレペリン主義による分類法の遺産のひとつである。この分類法では,精神的問題は,比較的特有な特徴をもつと考えられる統合的な病気の実体全体を表しているものと解釈されていた。
 疾病としてとらえる視点では,行動は根底的病理の単なる「徴候」にすぎないとして,行動そのものに対する関心は根底的な精神疾患の推理の方へと直結されてしまう。伝統的に,「診断」とは器官に欠陥があるとか,病原菌に侵されているとか,その人の内部にあって行動上の問題の原因となっている,ある一定の精神的統合体とか,何か具体的なものがそこにあることを示唆している。診断的な検査は,治療ができるように病理を発見するためのものである。鑑別診断とは,徴候のもとになっている特定の病気を見つけ出すことである。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.206
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

測定の類似性

パーソナリティ特性研究の主要な知見のひとつは,表面上異なった特性を測定するためにいくつかの質問紙が用いられたときなどにパーソナリティ測度間に見いだされる相関の多くの部分が,測定法のフォーマットにおける類似性から説明されるということである。類似した,あるいは重複したフォーマットや装置を用いた測定技法を用いることが生み出す「方法による分散(method variance)」あるいは共通分散(common variance)は,計量心理学者たちによって「誤差」として解釈されてきた。この誤差に対抗するために,方法分散を統制し,低減するための新しい統計的技法が絶え間なく追求されてきた(例. Block, 1965; Campbell & Fiske, 1959; Norman, 1966)。しかしながら現在の視点からみれば,方法分散は誤差ではなく,共通の刺激条件が用いられたときに当然期待される「刺激分散」あるいは反応共通性を反映しているに過ぎない。刺激の般化についての知見から予測されるように,パーソナリティ測査における状況を通じた反応の一貫性は,状況が類似していないほど低減されるし,状況が共通の特徴をもつほど増加するのである。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.199-200
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

できることとすること

行動の学習や獲得とその遂行とを区別することは有意義である。人は,学習したことをすべて遂行するわけではない。その人が学習し,知っていて,遂行できるということと,その行動をある特定の場面で実際に遂行することとの間には,大きな隔たりがある。個人はたくさんの向社会的行動だけでなく,反社会的な逸脱した行動をも,もちろん学習している。例えば,青年男子の大半は石を投げたり,ナイフを振り回したり,窓をこわしたりする方法を知っている。しかし,そうした技能を身につけた少年たちのなかにも,それを実際に遂行するかどうかには大きな個人差がある。同様に,われわれの文化では男女ともに口紅や白粉のつけかたやタバコのくわえかたを知っているが,それらの行動の遂行頻度には性差がある。このようにそれぞれの個人において,その人ができることと,ある状況で実際にすることとの間には,大きな隔たりが存在するのである。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.169-170
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

増分妥当性とは

より廉価なデータ源からでも簡単に入手できる記述や予測と同じものを得るために,時間がかかる高価な性格テストや推論過程を用いるのは無駄なことである。例えば,臨床家が他人のロールシャッハのプロトコルに基づいて,その人の性別や職業や結婚状態を正確に記述できることを立証しても無益なことである。テストに基づく所説が,それまでに通常使用されてきたデータと単に一致するだけなら,その所説はとるにたらないものとなる。もしある診療所が所員による行動評定を定期的に得ていれば,その評定と一致する推論がテストから得られたとしても,ほとんど情報は増加しない。ただし,テストによる記述がより経済的に得られたり,より正確であるか,より豊富な内容を有している場合には,この結論はあてはまらない。同様にテストに基づく記述が,通常入手できる他のデータ源に比べてより速やかに,判明しにくい事実に関する所説を示すことができれば,記述を得るためのコストは正当と考えられよう。テストに基づくパーソナリティの記述は,より使用しにくく不経済な他のデータ源に比べて,妥当な情報を,有意に多く与える場合にのみ価値がある。これが,「増分妥当性」の意味する内容である。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.109-110
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

説明を増やすか

統計的に有意な結果は,集団間の差異や測度間の関連が存在し,その可能性が偶然によるものではないらしいことを示している。しかし,手続きの有用性を解釈する際に,統計的有意性に頼ることは誤りである。偶然仮説を棄却する結果が得られたこと自体は,その予測データの相対的価値や,他より低コストで使用できる予測変数以上に説明率を増分(increment)することができるかどうかについては,何も説明していないのである。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.109
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

パーソナリティ係数

他方,F尺度と非質問紙的測度との間に得られる関連の強さは,一般に低い。実際のところ,質問紙から推測されるほとんどすべてのパーソナリティ次元を,異なる手段で——つまり,他の質問紙ではなく——抽出された反応を含むほとんどすべての考え得る外的基準に関連づける研究では,.20から.30の間の相関が繰り返し見いだされているが,これを記述するために,「パーソナリティ係数」という語が作られるかもしれない。一般に,そのような相関はあまりにも低すぎて,大まかな選抜のふるい分け以外のほとんどの個人測査の目的に対しては価値がない。そのうえ,得られた関係のネットワークは,しばしばあまりにも散漫で,理論的に理解できない。そして最後に,パーソナリティ測度間で得られる相関は,ある程度は,単にそれらが知能や教育程度と,共通して関連をもつことを反映しているにすぎないかもしれない。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.82
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

解釈か刺激内容か

パーソナリティ測査やパーソナリティ研究においては,研究の焦点が観察者の解釈にあるのか,観察された行動のもつ刺激内容にあるのかが明確でないことが多い。ある研究では,他者や対象物についての観察報告から,他者や対象物によって観察者内に引き起こされた印象や判断を明らかにしている。またある研究では,観察者の印象や主観的判断を低減するような方法で,被観察者の行動そのものについて研究することも可能である。この2つの方略は全く異なっているのだが,実際には両者が混同されていることは,われわれが計量心理学的方法において見てきたとおりである。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.68
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

言語要素か

ダンドレイド(D’Andrade, 1965)は,大学生に,ノーマン(Norman, 1963)の20個の両極性尺度の各極に用いられた用語すべての,相互の意味類似を評定させた。こうして得られた語彙間の意味類似データが,因子分析にかけられた。その結果,意味類似評定の分析においても,ノーマンが対人評定から得たのと本質的に同じ5因子構造が抽出されたのである。すなわち,語彙自体の意味の評定から得られた構造が,対人評定から得られた構造と対応しているのである。このことは,パーソナリティ特性といわれているもののある部分は,外的世界を記述するための言語的要素のひとつとして存在してはいるが,必ずしも外的世界(すなわちパーソナリティ)そのものの反映とはいえないということを示唆している(D’Andrade, 1965)。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.48-49
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

認知スタイルの安定性

非常に注目すべきことに,ある種の認知スタイルに対しては,長期間を通じて,極めて印象的な安定性が見いだされた。例えば,ウィトキンのロッド・フレーム・テスト(RFT)における再テスト相関は,数年の間隔をおいても,.92という高い数字であった(Witkin, Goodenough, & Karp, 1967)。彼らの縦断研究で使われた最も長い間隔は,14年という期間であった。そのような長い期間の後でさえ,10歳の時にRFTの検査を受けた少年が24歳のときに再テストされたとき,得られた安定性相関は,.66であった。この種のデータは,認知的,知覚的機能における,正真正銘の永続性を実証する。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.36
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

信頼性と妥当性

行動の一般性—特定性に関するデータは,通常,「信頼性」という項目に入れられ,「妥当性」の証拠とは切り離される。信頼性と妥当性のこの区別は,それほど明確ではない。信頼性と妥当性は,どちらもさまざまな刺激条件に対する反応間の関係を実証することによって確かめられる。その刺激条件とは,反応を抽出するのに使われる特定の測度や場面である。信頼性は,最大限に類似した刺激条件の下での反応測度間の一致に関連している(Campbell, 1960; Campbell & Fiske, 1959)。妥当性は,信頼性と対照的に,最大限に異なった,独立の刺激条件や測度に対する反応が,一点に収斂することを要求する。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.13
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

環境の安定性

高度に普遍的な傾性があるという過程に導かれていることもあって,パーソナリティ心理学の主要な目的は,個人を1つかそれ以上の次元(例えば,不安,内向性)上に位置づけることにある。そのためには個人を何らかの基準と比較する必要があるが,その基準は標準化された状況下でたくさんの人びとをテストすることによって作成されたものであって絶対的な基準ではない。しかし,ある次元上に占める個人の位置がテスト状況の違いや長い時間の間隔を超えて比較的安定すると信じている人びとにとっては,測査における主要な強調点は次のようになる。つまり,個人が内部にもっている,安定性があり持続性があると仮定されている根底的な特性や状態を正確に引きだすために,標準化された条件下で施行される信頼性の高い道具を開発することである。このことはまさに伝統的な特性理論の重要な関心であった(例. Guilford, 1959)。その一方で,環境的条件にはほとんど注意が払われていないが,このことも人間の特性には一貫性があるという基本的な仮定と一致している。例えば,不安特性についてこの点を認識したレヴィット(Levitt, 1967, p.71)は次のように述べた。「不安特性は,理論的に個人内で変化することのない条件なので,状況に応じて変動しない。」

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.10
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

共通点

精神力動理論は,特性理論が個々の部分からなる「測定可能の個々の特性」に興味をもっているがゆえに,内的機能の力動的で相互作用的な側面やパーソナリティの異なる諸側面の相対的位置関係を見落としている,といって批判する。しかし,力動論的理論家によって仮説上の内的状態に割り当てられた名前(イド,エゴ,防衛,内的葛藤など)が,計量心理学的指向の理論家が好んで用いている特性の名前と異なっているとはいっても,2つのアプローチはいくつかの重要な特徴を共有している。まず,力動(状態)的理論も特性理論も,人の反応や行動は根底に流れている精神構造の直接的あるいは間接的徴候でしかないと考えている。次に,推論されたにすぎない根底的な諸傾性(特性,状態,過程,力動,動機,あるいは他のラベル)が,行動に普遍的で持続性のある効果を及ぼすと仮定する。そして,これらの仮説的な根底的傾性を推論するときに信頼できる指標として役に立つ行動徴候の探索に熱心である。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.9
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

特性

「特性」は,いくつもの異なった用法で用いられるという点で,混乱した用語であるといえる。最も単純なレベルでは,特性とは2人以上の人間に見られる直接観察可能な行動や特質(character)の,ある定義された次元城での差異である。例えば,「特性とは人間が他人から変動する様式であり,その様式には弁別力がある上にかなり持続性がある」(Guilford, 1959, p.6)。この意味での特性は,安定的な行動の個人差が観察されるときに用いられる概略的なラベルである。
 特性は,パーソナリティについて説明する際に,説明の便宜のためと説明力を上げるために創られた構成概念でもある。この意味での特性は,持続する行動の一貫性や差異を説明するための構成概念,抽象概念であり,したがってそれは,人のなかにある「もの」「状態」「過程」のような具体的実在と必ずしも対応するわけではない。

ウォルター・ミシェル 詫摩武俊(監訳) (1992). パーソナリティの理論:状況主義的アプローチ 誠信書房 pp.5-6
(Mischel, W. (1968). Personality and assessment. New York: John Wiley & Sons.)

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