忍者ブログ

I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

どちらが使い捨て

「若者向けヒット曲は使い捨てだが,演歌は1曲の寿命が長い」といった物言いは,現在の「演歌」を積極的に評価する際の決まり文句となっています。つまり,「演歌」は,「手作り」の地道なプロモーションを通じて聞き手の「生の」生活心情に訴えかけることで長く愛される「真の流行り歌」になるのであって,華々しい宣伝やタイアップによって人為的に仕掛けられ,すぐに忘れ去られる「流行らせ歌」ではない,というわけです。それに付随して,苦節何年を経ての成功という美談が,「演歌歌手」の真正性の重要な根拠となります。
 歌の寿命についていえば,確かに「昔は1曲のヒットの寿命が長かった」というのは間違いではないでしょう。昭和20年代には「1曲ヒットがあれば10年実演で食える」と言われていました。しかし,それはヒットが出た後の話であって,1曲だけの持ち歌を何年もかけてヒットさせようとすることではありません。
 美空ひばり,三橋美智也,島倉千代子,フランク永井,橋幸夫といった大スターはもとより,《愛ちゃんはお嫁に》の鈴木三重子や《バナナ・ボート》の浜村美智子,《東京ドドンパ娘》の渡辺マリなど,現在では1曲しかヒット曲がないかのように思われている歌手であっても,当時の芸能雑誌付録の歌本を見ると毎月のように新曲を発表しています。つまり,1曲を長く売るのではなく,大量にレコードを吹き込む中で,半ば偶然にヒットした1曲が長く流行り続けたということだったのです。
 その意味で,出す曲ごとに膨大な経費をかけて綿密な宣伝戦略を立てタイアップを仕掛け,数十万枚売れないと赤字になるような「J-POP」のアーティストに比べ,かつての歌手のほうがよほど「使い捨て」的にレコードを量産していたともいえます。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.99-100
PR

違和感と拒否

よく知られているように,藤山,淡谷,東海林らは,昭和40年代以降「ナツメロ歌手」として復活後,現役の若い歌手たちの技術の欠如に対して厳しい非難を繰り返しますが,それはむしろ昭和30年代から40年代を通じて流行歌手に必要な素養が,旧来の西洋芸術音楽に基盤をおいたものから決定的に変質してきたことを意味しています。
 藤山の「古賀メロディー」,淡谷の「和製ブルース」,東海林の「股旅調」のように,彼らは現在の「演歌」の原型といえる諸曲調を確立した歌手であるにもかかわらず,淡谷の「演歌嫌い」や「歌屋」発言にはっきりと示されているように,「クラシックに準ずる楽曲」を歌っていると自認していた彼らにとって,西洋芸術音楽の歌唱法に依拠しない「戦後派」の歌手の歌唱(それは現在の「演歌」を最も強く特徴づけているものですが)は,強い違和と拒否をもたらすものであったのです。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.74-75

誤り

具体的な検討に入る前に,ありがちな誤解を解いておきましょう。
 誤解とは「日本のレコード歌謡は,元々の日本的なものから,徐々に西洋風(アメリカ風)になっていった」というものです。
 そのような歴史観は「日本的な演歌が洋楽的なポップスに変化していった」とパラフレーズできるものですが,それを肯定的に「ダサいものがカッコよくなっていった」ととらえるか,逆に「民族的な伝統が外来文化によって侵略された」ととらえるかはさておき,日本のレコード歌謡に関する一般向けの書き物などで,かなり広範に認められています。しかしこれは端的に申し上げて,誤りです。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.67-68

演歌の時期

歴史的に見れば,「演歌」と明示的に呼ばれた新作歌謡が商業的に一定の成功を収めた時期はきわめて短く,長く見積もって1960年代後半から1980年代後半までの20年です。「演歌」という呼称に注目するならば,それは「ニューミュージック」や「アイドル」と同様に,一時的な現象であったとみなすべきでしょう。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.48

いつから

結論だけを言えば「演歌」とは,「専属制度時代の諸特徴を引き継ぐレコード歌謡スタイル」や「専属制度時代に登場した歌手の楽曲」を指す,専属制度解体後の用語です。
 音楽評論家の北中正和は,戦後のレコード歌謡の優れた通史『にほんのうた』において,「フォークや和製ポップスやGSやフリーのソングライター」の台頭によって「それまでの専属制の中で主流を占めてきた歌謡曲とのちがいが目立」つようになり,「都会調,日本調,浪曲調などと形容されてきたやや大人向けの音楽は,次第にジャンルのようにみなされ,60年代末には演歌とよばれはじめ」たとしています。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.46

演歌は日本の心か

小林が正当に指摘するように,現在「演歌」と呼ばれているものは,1960年代のある時点まで,それまでは広い意味での「流行歌」ないし「歌謡曲」に含まれ,必要に応じて「民謡調」「小唄調」「浪曲調」,あるいはそれらをひっくるめて「日本調」の流行歌として「洋楽調」(「ジャズ調」,あるいは「ポピュラー調」)と区分されていました。
 現在「演歌」の下位ジャンルとみなされる「ムード歌謡」を構成する「和製ブルース」や「ラテン風」の曲調は,「都会調」としてどちらかといえば「洋楽調」側に分類されていました。
 それがいつの間にか,「演歌」が独自のジャンルとして認識されるようになり,「日本の心」といった物言いと結びつけられるようになり,この言葉が存在していなかった過去の流行歌に対しても当てはめられるようになってゆくのです。その過程で,「演歌」誕生以前から活動してきた美空ひばりや春日八郎などは,新たに誕生した「演歌」イメージに添うような形で自らの活動を「演歌歌手」として鋳直してゆきます。

輪島裕介 (2010). 創られた「日本の心」神話:「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 光文社 pp.14-15

真珠湾攻撃に対して

プッツィ・ハンフシュテングルがかつてヒトラーに言った,次に起こる世界規模の戦争において,アメリカの敵につくことは致命的だという警告を,彼が覚えていたかどうかはわからない。どちらにせよヒトラーは,日本がアメリカを攻撃したと聞いた瞬間,これ以上のことはないと喜んだ。いまやアメリカは太平洋での戦争に主軸を置かざるを得ず,イギリスやソ連にはエネルギーや物資をあまり割くことができなくなるだろうと考えたのだ。真珠湾攻撃の翌日,ヒトラーはこう断言した。「われわれがこの戦争に負けるはずがない。いまやわれらには,3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」
 真珠湾攻撃による情勢の変化を,もっとも歓迎した国家指導者はチャーチルであった。運命のその日,大西洋を挟んでつながれた電話でルーズヴェルトは,イギリス首相が待ち望んでいた言葉を口にした。「われわれはいまや,同じ船に乗っている」。12月26日,チャーチルはアメリカ議会で演説をした。「わたしにとってなによりの吉報は,アメリカ合衆国が,かつてないほど一致団結して,自由の剣を抜き,その鞘を投げ捨てたことである」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.465

男性の強さ

ナチ党は活動の初期から,男性の精力の強さを誇示することに力を入れていた。「ナチ党が人々の性への本能を掻き立てようと,さまざまな手段を駆使してきたことをわたしは知っている」とシュルツは書いている。「大規模な集会のスピーチでは,ナチ党の男たちによる性の武勇伝が延々と語られ,それを聞いた突撃隊員たちはさっそく実践してやろうと勇んで会場を出て行くのだった。パートナーならすぐに見つかる。女性たちは集会場の外で待っているのだから」。ヒトラーは出生率を上昇させることに熱心で,新聞の売店には「ヌードの男性や女性で埋め尽くされた本や雑誌」が並んでいたと,CBSの新人キャスター,フラナリーは書いている。「ナチスドイツがこうした計画を進めている理由は,ひとつしか考えられなかった」
 多くの男たちが家を離れて敵地へ向かい,とくに1941年6月にドイツ軍がソ連に侵攻し,兵士たちが現地でバタバタと死んでいくようになってからは,当局は出生率向上政策をさらに進化させ,女性の配偶者の有無を問わないことにした。「『非摘出子』という言葉は,ドイツ語から抹消されるべきである」。ドイツ労働戦線の指導者ローベルト・ライはそう宣言した。フラナリーによると,世間体が気になる場合は,女性は戦死した兵士の名前を合法的に貰い受けることができたという。ナチスは,未婚の母親たちは「若きドイツの英雄」の子どもたちを生んでいるのだと喧伝していたが,実際のところ,子どもたちの父親はたいていは「年若い秘書や事務員,販売員たちの既婚の上司」だったと,シュルツは指摘している。こうして「ナチ党が自分たちの非嫡出子を守ってくれるという理由で,ナチズムにしがみつく」女性層ができあがっていった。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.433-434

個人の経験

彼らがなぜこれほど鈍感だったのかと言えば,それはひとつには,個人的な付き合いの場では,アメリカの若者たちにとってドイツ人はやさしく親切だと感じられたからだ。1936年にはじめてドイツでひと夏を過ごしたハワード・K・スミスは帰国したのち,<ニューオーリンズ・アイテム紙>の記者としての仕事に復帰したものの,翌年の夏,またドイツに戻ってきた。ドイツの政治制度についてもっとよく知りたいと考えたスミスは,倹約のためにヒッチハイクをすることにしたが,あまりに簡単にどこにでも行けることにひどく驚いたという。「バッグの上から小さなアメリカの旗をかけておくだけで,あの素朴で親切な人たちはすぐに車を停めてくれた。ドイツ人の外国人——とくにアメリカ人——に対するやさしさや,こちらが圧倒されるほどの歓待ぶりには,目を見張るものがあった」。1年前のオリンピックでのアメリカ人アスリートの活躍が,「アメリカ人がドイツ人のいちばんお気に入りの外国人」になった理由だろうと,スミスは考えていた。こうしてドイツ人の親切を受けた旅行者たちは,最後まで無邪気な外国人として機嫌よく過ごし,自分たちのまわりで起こっていた事の本質を見抜けずにいたのだった。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.339

ヒトラーとオリンピック

皮肉にもヒトラーとナチ党は,ずっと以前から,オリンピックなどの国際スポーツ大会をドイツで開催するというアイディアを,辛辣な言葉で批判し続けていた。彼らは1923年には,ミュンヘンで開かれたドイツ体操祭に反対している。この大会が「ユダヤ人,フランス人,アメリカ人」の参加を受け入れているのがその理由だと,ヒトラーの署名がある請願書には記されている。政権を取る直前の1932年,ヒトラーはオリンピックを「フリーメイソンとユダヤ人の陰謀」と糾弾した。しかしオリンピックをベルリンで開催することは,すでにその1年前に決定された事項であった。ナチ党が政権の座に就いてからも,彼らはまだ,”ユダヤ人や黒人を含めた国際的な競技会”という概念に納得がいかないようだった。<フェルキッシャー・ベオバハター紙>は怒りもあらわに,黒人が白人と競うことができるなどという考えは「オリンピックの概念にとっての不名誉であり,その価値を貶めるものだ」と書き立てた。「黒人は除外すべきだ。われわれは断固要求する」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.285-286

神秘的で宗教的

翌日には,ヒトラーがなぜあれほど熱狂的な賞賛を受けているのかが,シャイラーにも少しわかりかけてきた。ルイトポルト・ホールで開かれた党会議の開会式を見学したシャイラーは,ナチスがここでやろうとしているのはたんなる「派手なショー」ではなかったと書いている。「そこには神秘的で宗教的な情熱が感じられ,まるでゴシック様式の壮大な教会で行われるイースターやクリスマスのミサのようだった」。色鮮やかな旗がひらめき,音楽を奏でていたバンドは,ヒトラーが威風堂々と入場してくるときにはピタリと静かになったかと思うと,ふいに耳馴染みのいい行進曲を演奏しはじめる。やがて「殉教者」の名前が順に読み上げられた。殉教者とは,あの失敗に終わったビアホール一揆で命を落としたナチ党員たちのことだ。「こうした雰囲気のなかでは,ヒトラーが発する一言一句が,天上から聞こえてくる御言葉のように感じられても不思議ではない」とシャイラーは書いている。「人間の——少なくともドイツ人の批判能力は,こうした瞬間には,どこかへ吹き飛んでしまうのだ」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.262

マスコミ対策

ナチ党はこのころになると,特派員を無理に追い出した場合,プロパガンダ合戦に負けることに気付きはじめていた。追い出された記者たちは,母国で一躍注目の的となるからだ。ナチ党はその代わり,新たな手段として,気に入らない相手に不名誉な罪を着せるというやり方を思い付いた。記者たちのところには,自分はナチスドイツに反対していると称するドイツ人が近付いてきて,極秘の軍事情報を提供すると言ってくるようになった。シグリッド・シュルツは,その手の男たちを一度ならず<シカゴ・トリビューン紙>のオフィスから追い出し,同僚たちにも,あいつらとはいっさい関わらないようにと言い含めていた。1935年4月のある日,シュルツが自宅に戻ると,留守のあいだに一通の封書が届いており,表には「重要情報」と書かれていたため,持ってきたのはどうやら例の男たちの仲間だと思われた。封筒を開けると,中身は飛行機のエンジンの設計図で,シュルツはすぐさまこれを暖炉で燃やした。もしこんなものが自宅で見つかれば,スパイ容疑の裁判で格好の証拠として使われてしまう。
 シュルツがオフィスに戻ろうと歩いていると,以前,秘密警察と会ったときに顔を見たことのある3人の男が,彼女の自宅のほうへ歩いているのを見かけた。シュルツは男たちの前に立ちふさがり,もうあの封筒は燃やしたから,わざわざ家に行かなくてもいいと告げた。3人は言葉を失って立ちすくみ,シュルツはタクシーを止めて,運転手に大声でアメリカ大使館へ行ってくれと告げた。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.259-260

反ユダヤ小冊子

ヒトラーの台頭を間近に見たアメリカ人記者たちが当時興味を持っていたのは,なぜ多くのドイツ人がヒトラーの運動に惹き付けられたかという議論ではなく,全面支配に向けて突き進むヒトラーの動向であった。働き者のニッカーボッカーは,1933年の春から夏にかけて,おびただしい数の記事を書き続け,ヒトラーがどこまで政権を掌握したのかについて詳細に伝えていった。「アドルフ・ヒトラーはアーリア人の救世主となった」とニッカーボッカーは書き,ヒトラーが「人種の純粋性」を保つための運動に全力を傾けていると説明した。そのころ発表された反ユダヤ主義者のための小冊子には,6種類のユダヤ人が列挙されていた。「血なまぐさいユダヤ人,嘘つきのユダヤ人,搾取するユダヤ人,堕落したユダヤ人,芸術界のユダヤ人,金融界のユダヤ人」。これについてニッカーボッカーはこう書いている。「こうした出版物が許されているという事実は,国外に出た難民たちの判断が正しかったことのなによりの証拠である」。また別の記事で彼は,ヒトラーは「至上のボス」にのしあがり,その権威は「民主主義政権にかつて君臨したあらゆる権力者のそれを[……]凌駕している」と述べている。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.227

最悪の事態

ベルリンを訪れる二ヵ月前,マクドナルドは,巨大銀行ゴールドマン・サックスのヘンリー・ゴールドマンに会っていた。ゴールドマンもやはり,近いうちにベルリンに行く予定だということだった。マクドナルドは彼に,ドイツ新政府の苛烈な反ユダヤ主義は,ドイツの人々がどこかおかしくなっている兆候ではないかと言った。ゴールドマン・サックスを創設したドイツ系ユダヤ人移民の息子であるゴールドマンは,マクドナルドの質問を鼻であしらい,「そんなことはありません。ドイツの反ユダヤ主義など,アメリカの反ユダヤ主義と似たり寄ったりですよ」と言い切った。マクドナルドは以前からゴールドマンのことを「ドイツの擁護者」だと考えていた。しかし4月8日,ベルリンのアドロン・ホテルでふたたび顔を合わせたとき,マクドナルドはゴールドマンの変わりはてた様子に目を見張った。「彼はまるで,憔悴しきった老人のようだった」
 この国でさまざまなことを見聞きした結果,ゴールドマンは,ドイツに対する自分の見解を大きく変えていた。「ミスター・マクドナルド,15世紀や16世紀に起こった最悪の事態が,この20世紀に,しかもドイツ全土で復活しようとは,思ってもみませんでした」。マクドナルドがベルリンにはどのくらい滞在するのかと聞くと,彼は答えた。「耐えられなくなるまでです」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.171

ヒトラーの努力

マウラーによれば,ヒトラーとナチ党は,こうした場でつねに最大限の効果を得るために,あらゆる努力を惜しまなかったという。「ほかの人間が寝ているとき,彼らは働いていた。敵が1回話をするなら,彼らは10回話をした。ヒトラーはとくに個人的な接触,話し言葉,人となりを重視している」。そしてマウラーは,こんな不吉な一文を記している。「大衆をペテンにかける大掛かりなゲームにおいて,ヒトラーは並ぶ者のない達人だ」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.157

バーナム

ナチ党の運動に亀裂が入っているといううわさや,11月6日に行なわれた国会選挙でナチ党の得票が落ち込んだという事実もあり,これと似たような幻想を抱く者はシュライヒャーのほかにもいた。アメリカ大使サケットの場合はむしろ,第三党の共産党が議席を伸ばしたことのほうを気にかけていた。サケットは,左翼は極右よりも危険だとみなしていたのだ。共産主義の脅威に対抗するためには「当時はきわめて中央集権的な,多少軍事寄りの政権を持つことが重要なのはあきらかだった」とサケットは述べている。彼はワシントンに対し,ヒトラーはどうやら「自分ひとりによる支配」を狙っており,彼とゲッペルスは「さまざまなできごとを,自分たちの妄想や目的に都合のいいようにねじ曲げる名人で,また疲れを知らない雄弁家」であると報告するいっぽうで,その言葉の端々にはこのナチ党リーダーを馬鹿にしているような響きも感じられ,ヒトラーのことを「P.T.バーナム[1810〜91年。人気サーカス団を設立したことで有名]以来の大物芸人」と評していた。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.142-143

議席数

ニッカーボッカーがドイツのムッソリーニにはなり得ないと手紙に書いた男は,1932年春,2期目の大統領に挑戦する高齢のパウル・フォン・ヒンデンブルクの対立候補として出馬した。ヒトラーは健闘したが僅差の2位にとどまり,翌月には決選投票が行なわれることになった。2回目の投票では,ヒンデンブルクは1900万超,いっぽうのヒトラーは1300万超の票を獲得した。ヒンデンブルクはナチ党の暴行を抑制するため,突撃隊(SA)と親衛隊(SS)に対する解散命令の発動に同意したが,それでも社会全体に広がる不安を抑えることはできなかった。悪化を続ける経済状況が引き金となり,ストライキなどの抗議運動はその数を増していった。間もなく大統領はハインリッヒ・ブリューニング内閣を解散させ,後継の首相にフランツ・フォン・パーペン男爵を任命して,新たな総選挙の実施をうながした。もとはカトリック系の中央党の党員で,自分はナチ党をうまくコントロールできると考えていたパーペンは,ヒンデンブルクを説得してSAとSSへの禁止令の解除に同意させたが,この判断はたんにナチ党と共産主義との小競り合いを激化させただけに終わった。新首相——マウラーら特派員の彼に対する評価は,尊大で保守的というものであった——はこのほか,左派勢力を弱めるために社会民主党員を要職から追放し,また国防相クルト・フォン・シュライヒャーをヒトラーのもとに派遣して内閣への協力を要請したものの,ヒトラーはこれを一蹴した。
 1932年7月31日の総選挙で,ナチ党は230議席を獲得して大勝する。この数は2年前の選挙で獲得した議席の倍以上であった。これによりナチ党は国会の第一党となり,社会民主党は133議席で第二党に転落した。そのうしろには89議席の共産党,75議席の中央党が続いた。パーペンはヒトラーに副首相としての入閣を求めたが,選挙に大勝して勢い付くヒトラーには,パーペンの代わりに首相になる以外の条件を受け入れる気などさらさらなかった。交渉は失敗に終わり,1932年11月6日,ふたたび総選挙が行なわれた。このときナチ党は再度第一党となったが,34議席と200万票を失った。ナチ党の議席は196,社会民主党は121で第二党を維持し,共産党は100議席と支持を拡大した。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.120-121

悲しい一面

しかし,アメリカ人がふだん目にするごく普通のドイツ人の生活は,とうてい愉快などと言えるものではなかった。バークレーからの交換留学生イーニッド・キーズは,1931年11月17日の故郷への手紙に,ベルリンでの生活の「悲しい一面」について書いている。「通りを1ブロックでも歩けば,かならず目の見えない人,オーバーシューズに新聞紙を詰めて靴の代わりに履いている老女,手足がない人,物乞いをしたり,マッチや靴紐を売ったりしている白髪の元軍人を見かけます。背を丸めた,節くれだった手の老人たちが,寒さで青白い顔をしながら仕事を求めてうろつきまわり,寒々しい公園で小枝を拾い集めたり,側溝をさらって紙を探したりしています」。その翌日,キーズは,街の人々はさらに意欲を失っているように見えると書いている。「通りの物乞いは,恐ろしいほどに数が増えています」。女性たちが通行人に近づいては,お腹が空いているんです,子どもたちが「食べものが欲しくて泣いています」と懇願するのだという。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.117

フォードとヒトラー

未来のドイツのリーダーが口にしたこの言葉は,多くの示唆に富んでいる。ヒトラーはフォードの価値観に触れるずっと以前から,反ユダヤ思想を全身で呼吸するようにして生きてきた。だからヒトラーがフォードに賞賛の気持ちを抱くようになったきっかけとしては,フォードのユダヤ人に対する偏見があったのはもちろんだが,それと同じくらい,彼が自動車メーカーとして先駆的な仕事をしてきたことも大きかった。政権掌握後,ヒトラーはただちに,かねてより構想していたフォルクスワーゲン(大衆車の意)の製造に乗り出す。車は別の階級に属する人々を隔てるのではなく,結びつける道具となることを実践で証明してみせた「フォードの天賦の才」を,ヒトラーは信じていたのだ。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.97

反ユダヤ思想

当時は過激な反ユダヤ思想がはびこっていた時代であり,ヴァイマール共和国ばかりが特殊なケースだと見られていたわけではない。たとえばベルリンに1918年から20年まで滞在し,本人の弁によると,現地のアメリカ人記者団のなかで唯一のユダヤ人だったというベン・ヘクトは,ちょっと意外なこんな体験を語っている。「奇妙に思われるだろうが,ドイツにいた2年間,ユダヤ人であるわたしは,反ユダヤ主義運動など見たことも聞いたこともなかった。ドイツで過ごすあいだ,一度たりとも,Jew[ユダヤ人の意]という言葉が侮蔑的に使われたのを耳にしたこともなかった。[……]第一次大戦後のドイツで反ユダヤ主義運動について聞いたり,見たり,感じたり,気配を察したりする機会は,どの時代のアメリカよりも少なかった」
 あるいはヘクトは,以下に述べるふたつの理由から,あきらかな反ユダヤ的言論を意図的に見なかったことにしたとも考えられる。まずひとつ目の理由は,この問題に関して,アメリカ人は上から涼しい顔をして語るような立場にはないと彼が主張したかったため。もうひとつの理由は,第二次大戦とホロコースト直後の混乱期にこの文を書いたヘクトが,今回の惨事を招いた元凶は,平均的なドイツ人の国民性であるという理論を組み立てようとしていたためだ。ドイツ人はいくらか教養が高く学のある人物に見えたとしても,「個人の道徳観念よりも,指導者に従うという道徳観念のほうを優先していた」とヘクトは言う。別の言い方をすれば,ドイツ人は指導者の政策に魅力を感じて従ったのではなく,たんに指導者が忠誠を要求したため,それに従順に従っただけというわけだ。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.95-96

bitFlyer ビットコインを始めるなら安心・安全な取引所で

Copyright ©  -- I'm Standing on the Shoulders of Giants. --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]