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I'm Standing on the Shoulders of Giants.

読んだ本から個人的に惹かれた部分を抜き出します。心理学およびその周辺領域を中心としています。 このBlogの主な目的は,自分の勉強と,出典情報付きの情報をネット上に残すことにあります。書誌情報が示されていますので,気になった一節が見つかったら,ぜひ出典元となった書籍をお読みください。

   

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性文化

居住者であれ旅行者であれ,ドイツにいたアメリカ人にとって,この国の活気あふれる性文化はたまらなく魅力的だった。エドガー・マウラーはこう書いている。「大戦直後の時期には,世界中がセックスの喜びにあふれていたが,ドイツはまさに乱痴気騒ぎといった様相を呈していた。[……]なにしろ積極的なのは女性のほうなのだ。道徳観念,純潔,一夫一婦婚,さらには良識さえ,偏見と一蹴されてしまう始末だ」。マウラーはまた「性的倒錯」についても言及し,古い常識はまるで通用しないと驚きをあらわにしている。「当時のドイツ以上に寛容な社会など,想像することもできない」

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.84-85
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女性の活躍

リリアンの目から見たヴァイマール共和国での生活におけるもうひとつの印象的な側面は,女性の役割だった。リリアンが渡独した当時,国会には36名の女性議員がおり,この数は他のどの国よりも多かった。女性は大学で多岐にわたる学科——法律,経済,歴史,工学——を学んでおり,かつては男性に独占されていた職にも就いていた。さらにリリアンはベルリンで「一人前の屠殺人」にも会っている。マルガリーテ・コーンというこの女性は,木槌をひと振りしただけで雄牛を殺すことができたという。「ヴァイマール時代のドイツでは,女性は自分のやりたいことができた」とリリアンは書いている。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.79

当然のように

歴史のなりゆきというのは,あとから振り返ったときにだけ,当然の帰結のように感じられるものだ。しかしそのなりゆきを目の前で見ていたアメリカ人たちが下した判断は,さまざまな要因の上に成り立っていた。個々の性格や,彼らが目撃したそれぞれに異なる現実の断片もあるし,またときには自分が見たいものだけを見ていたこともあっただろう。それが実際には,正反対の意味を持っていたとしてもだ。シュルツはアメリカとドイツがふたたび交戦状態にはいったあとで,レーダーが1919年に語った言葉を引き合いに出しつつ,ヒトラーの運動は,先の大戦の敗北によって誘発された憎悪がもたらした当然の帰結だという持論を展開してみせた。しかしその他多くのアメリカ人は,第一次世界大戦後の混乱期に自分たちが受けた温かいもてなしが忘れられず,あの戦いの犠牲が大きかった分だけ,ドイツ人にとってはそれが教訓になっているはずだという思いを捨て切れずにいた。<シカゴ・トリビューン>のライバル紙,<シカゴ・デイリー・ニューズ>のベルリン特派員であったエドガー・アンセル・マウラーによれば,1920年代には「ドイツにいたアメリカ人の多くが,大戦での敗北,屈辱,インフレ,内政の混乱によって,ヨーロッパの覇権を狙うのは愚かな行為だとドイツ国中が悟ったはずだと,心から信じていた」という。

アンドリュー・ナゴルスキ 北村京子(訳) (2014). ヒトラーランド:ナチの台頭を目撃した人々 作品社 pp.13-14

説明と理解

どういうことか。本書の関心に即して私なりにまとめると,およそ次のようになる。「説明」と「理解」とは,同じ水準に並び立つような営みではないし,ましてや対立する営みでもない。また,学問(科学)には「説明」的方法と「理解」的方法という2つの方法があるのでもない。つまり,自然を対象にしたときには「説明」的方法が用いられるが歴史や芸術を対象にしたときには「理解」的方法が用いられるとか,自然科学は「説明」するが人文科学は「理解」する,とかいうわけではないのだ。強いていえば「説明」だけが方法的である。学問とは「説明」という方法と,それによって獲得された知の総体にほかならない。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.352

予見の困難さ

過去に起こった出来事や変化を眺めるとき,それらのすべてが「いま・ここ・われわれ」を目指してまっしぐらに進んできたという印象を拭いさることはむずかしい。過去を振り返るときには,つねに時系列の最終地点(=現在)からそうするしかないのだし,過去は現在に近づけば近づくほど現在に似てくるのだから,当たり前といえば当たり前の話ではある。
 しかし同時に,歴史の行く末を見通すことはきわめてむずかしい。振り返ってみればそうでしかありえなかったとしか思えない出来事も,その時点において予見できるかどうかとなると話は別だ。パスカルが語ったように,歴史ではほんのわずかなちがいが重大な結果をもたらしうるようなかたちでカオス的に遍歴する。歴史とはそうしたものだということを,すでに私たちはよく知っている。本能寺の変,アメリカ同時多発テロ,QWERTY配列キーボードの普及,ベータ方式に対するVHS方式の勝利等々,後知恵でもって振り返れば一連の出来事が明確な方向性を持って推移してきたように見えるが,当時それを適確に予見することは不可能だっただろう。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.332-333

歴史をどのように語るか

基本的な語彙の選択においてすらむずかしい問題が生じる場合がある。侵略か進出か,テロリズムか革命か,保護か隷属化か等々,私たちは歴史を語る語彙をめぐって争うことをやめない。歴史的事件の当事者や歴史家にかぎらず,既存の歴史に規定されながら新規に歴史をつくっていく存在であるところの私たちは,歴史的な事実にどのような意味を担わせるか,どのような語彙を用いるかを通じても,歴史に参加している。歴史とは解釈であり実践であると言われるのはそういう意味だ。歴史にかかわる論争がしばしば平行線をたどる背景にはこうした事情がある。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.314-315

出来事のユニークさ

自然科学による説明は,一般的な法則,つまり自然法則によって対象を包摂する。説明対象は(たとえサンプルが1個だけであったとしても本質的には),一般的な法則に服する一事例として位置づけられる。でも,歴史を理解しようとする場合はちがう。歴史的な出来事もまた種々の一般法則に従うと想定することは妥当なことだし必要なことである。しかし,それは単なる一事例として(だけ)扱われるのではない。当の歴史的出来事は,究極的には唯一無二の,とりかえのきかないユニークなものとして遇される。そして,その出来事のユニークさを把握することを通じて,歴史の真理へと至ることが目指されているのである。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.310

図々しい

また,私たち素人というものは,まことに貪欲というか図々しいもので,当該分野についての包括的な理解を手っ取り早く,できれば一冊とか一晩で,場合によっては数分で,一気に手に入れたいと望むものだ。ふつうに考えればそんな大それたことなど望むべくもないはずなのだが,そんなことなどおかまいなしにそのように望むのである。結果として,当該分野の「可能性と限界」を安易にパッケージにした情報,その性質からして相当の誇張と省略を含んだ情報が重宝されることになる。こうした諸事情によって,業界内で実際に通用している常識とは異なる「世間の常識」が流通するようになるのだと思われる。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.255-256

アルゴリズムとヒューリスティクス

ところで,心理学の読み物などではアルゴリズムとヒューリスティクスが2つの対照的な方法として紹介されることがある。たとえばアルゴリズムは論理的・科学的な解決方法であるのに対して,ヒューリスティクスは直観的・人間的な解決方法である,というように。機械やプログラムと人間を対比するこうした説明は,わかりやすい反面,無用な誤解を生むのではないかとも思う。広い意味ではヒューリスティクスもアルゴリズムの一種なのだから。それはかぎられた資源をもとに近似的な解を求めるアルゴリズムなのである(人間の直観的思考もかなりの程度までアルゴリズムの観点から解析可能だと思う。心象やイメージの感覚についてはわからないが)。だから,必要以上にアルゴリズムとヒューリスティクスを対照させると,自然淘汰のアルゴリズムと適応主義のヒューリスティクスがまるで別物であるかのように誤解してしまうかもしれない。実際には,適応主義のヒューリスティクスは(自然淘汰がアルゴリズムであるのと同様に)アルゴリズムの一種であるし,自然淘汰のアルゴリズムも(人間のヒューリスティクスよりさらに非効率的かもしれないが)ヒューリスティクス的な解決を行う。自然淘汰という研究対象と,適応主義という研究方法とは,ともにアルゴリズムという点で同じものだ。それが適応主義プログラムの有効性の秘訣なのである。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.248

事実と価値

進化生物学では,「進化」とは端的に事実(遺伝的性質の累積的な変化)を指すものであり,それ自体よい意味もわるい意味もない。そもそも,生物の諸個体のあいだに性質のちがいがあり,その性質が子孫の数と相関しており,その性質が次代に伝えられるという三条件がそろった場合には,勝手に遺伝的性質の累積的な変化,つまり進化が生じる。その事実にはよいもわるいもないし,いわゆる「退化」も進化のうちだ。
 でも,私たちの通常の用法において,「進化」はたんに事実を表す言葉ではない。それは必ず,「進歩」「改良」「向上」「発展」「前進」といったプラスの価値を帯びている。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.167

偶発性

それを可能にしたのが自然淘汰説である。先にも少し触れたように,次の三条件——個体間に性質のちがいがあること(変異),その性質のちがいが残せる子孫の数と相関すること(適応度の差),それらの性質が次世代に伝えられること(遺伝)——がそろったとき,自然淘汰のプロセスによって進化(遺伝的性質の累積的な変化)が起こる。これらはすべて自然主義的に説明できるものであり,その上位や下位に進化の方向性をつかさどるような存在や原理を想定する必要はない。
 この考えは,ラマルクやスペンサーの発展的進化論が想定した進化の発展法則を不要にする。これが発展的進化論とダーウィンの進化論(ダーウィニズム)とのあいだにある決定的なちがいであり,非ダーウィン革命において忘れられた大義であった。
 これは学説上の些細なちがいではない。帰結は重大である。これによってダーウィニズムは発展的進化論とはまったく異なった進化観をもたらすことになるからだ。進化とは「偶発性」(contingency)に左右されるものだという新しい進化観である。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.160

スペンサー主義

ダーウィンの信奉者たちがジャーナリズムを通じて熱心に吹聴したのも,その結果として近代人の心に根付いたのも,もっぱらこのスペンサー流の進化思想だ。だから,これまで「社会ダーウィニズム」と呼ばれてきた思想は,実際にはかつて一度もダーウィンの進化論であったためしはないということになる。それは実質上は「社会ラマルキズム」ないしは「スペンサー主義」であり,本来ならそう呼ばれるか,あるいはたんに「社会進化論」などと呼ばれるのがふさわしいものだったのである。
 結局,誰もが「ソースはダーウィン」としながら,発展法則にもとづく非ダーウィン的な発展的進化論を好き勝手に開陳していたのである。日本においても,明治期に導入されて以来,少なくとも一般社会,つまりお茶の間やジャーナリズムにおいては,「進化論」はつねに社会進化論であり,「ダーウィニズム」はつねにスペンサー主義であった(し,現在でもおそらくそうである)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.158-159

適者は生存→生存したのは適者→誤解

進化論が言葉のお守りとして用いられる際,適者生存(自然淘汰)の原理には次のような操作が加えられていることになる。それは,適者生存のトートロジーを,言語の文法に導かれて「適者は生存する」という(トートロジカルに正しい)擬似文法とみなし,こんどはそれを,自然淘汰の足跡消去に導かれて「生存したのは適者だった」という(トートロジカルに正しい)命題で確証するという操作だ。つまり,トートロジカルにのみ正しい命題をあたかも法則のように扱い,こんどはその法則を,トートロジカルにのみ正しい命題によって確証するというマッチポンプである。私達は必ずしもそうと意識しているわけではないが,たしかにそのように行う(©マルクス)のである。
 このような次第で,私たちは自然淘汰説のアイデアを誤解しつづけることになる。基準と法則との,定義と説明との,前提と結論との取り違えによって,進化論を理解し使いこなしていると思い込むのである。そのとき私たちは,ちょうど進化論にたいする反対者や批判者が指摘するとおりのやりかたで,言葉のお守りというトートロジーをつぶやいていることになる。反対者や批判者によるトートロジー批判に,もし一理あるとしたら,こうした進化論のお守り的使用についての批判としてであろう(とはいえ,反対者はあくまで進化論の全体に反対しているのだろうから,あまり意味のない想定だが)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.145-146

問題は個々の仮説

でも,学問の世界において,トートロジー問題が不都合をきたすことはない。学問としての進化論は,特定の仮説——粒子遺伝,突然変異,遺伝子導入など——の集合体だ。学問研究の場においては,研究成果はその真偽が検証可能なものとして提出されなければならない。だから進化論の諸仮説も,さまざまな学問的約束事に則って,真偽の検証が可能なかたちで構築される。つまりそこで問題になりうるのは,自然淘汰説そのもののトートロジー性ではなく,あくまで個々の仮説なのである。その意味で,進化論の学説は学問的な限定がなされることで,その有効性が確保されているのだといえる。
 他方で,日々の暮らしのなかで進化論の言葉やイメージが用いられる場合,事情はまったく異なる。私たちは多くの場合,生物の世界や人間の社会の実相を一挙にとらえる世界像として,進化論の言葉やイメージを利用する。つまり,進化論的な仮説や学説が本来必要とする学問的な限定をいっさい解除したうえで,進化論を利用しようとするのである。「適者生存の世の中だ」とか「適応できなきゃ淘汰されるだけ」といった言葉を発するとき,私たちはなんらの仮説も構築するつもりがないし,なんらの学説も提唱するつもりがない。そもそも,進化論由来の言葉を発することそれ自体が目的であり,ただ言いたいだけなのだから。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.135-136

適者と強者

私たちは自然淘汰の意味を大雑把にではあれたしかに理解できるはずなのに,それにもかかわらず,ことあるごとに適者を強者や優者と取り違える。また,過去の勝者や敗者があらかじめ決まっていたかのように語るし,未来の勝者や敗者があらかじめ決まっているかのようにも語る。しかもそれを,当の進化論の用語で語るのである。なんと反—進化論的な態度であろうか。たとえば,「ビジネスAND進化論」といった言葉でウェブを検索してみれば,その種の事例にいつでも触れることができる(後に述べるように,私たちは進化論が大好きはずなのだが,そのじつ,まったく別のものを愛しているだけなのかもしれないのだ)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.103

適者を強者と取り違える

私たちは自然淘汰の意味を大雑把にではあれたしかに理解できるはずなのに,それにもかかわらず,ことあるごとに適者を強者や優者と取り違える。また,過去の勝者や敗者があらかじめ決まっていたかのように語るし,未来の勝者や敗者があらかじめ決まっているかのようにも語る。しかもそれを,当の進化論の用語で語るのである。なんと反—進化論的な態度であろうか。たとえば,「ビジネスAND進化論」といった言葉でウェブを検索してみれば,その種の事例にいつでも触れることができる(後に述べるように,私たちは進化論が大好きはずなのだが,そのじつ,まったく別のものを愛しているだけなのかもしれないのだ)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.103

適者生存

では,自然淘汰説を正しく理解するとはどのようなことか。それは,「適者生存」という言葉にあるとおり,生き延びて子孫を残す者を,まさしく適者として理解するということだ。生存するのは,強者(強い者)でも優者(優れた者)でもなく,あくまで適者(適応した者)であると理解するのである。これは言葉を字面通りに理解するというだけのことで,当たり前といえば当たり前の話なのだが,私たちの日常的理解にとっては,必ずしも当たり前のことではない。
 私たちは多くの場合,生き延びて子孫を残すべき存在を,強者とか優者としてイメージしている。強いものが弱いものを食い物にするとか(弱肉強食),優れたものが劣ったものを駆逐する(優勝劣敗)といったイメージだ。でも,こうした弱肉強食や優勝劣敗のイメージは,あくまで人間が自然や野生といった概念にたいして抱く印象や願望の反映にすぎない。私たちがふだん抱いている進化論のイメージは,大部分がこうした印象や願望,あるいは失望を投影したものだ。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.98-99

知的生命体は環境の撹乱の中で

ところで,もし地球外に知的生命体が存在するとしたら,どんな星に住んでいると思うだろうか。多くの人は,それは私たちが直接知っている現在の地球のように比較的過ごしやすくて安定した惑星だろうと考えるのではないだろうか。これもラウプが教えてくれたのだが,NASAをはじめとした地球外知的生命体探査(SETI: Search for Extra-Terrestrial Intelligence)の研究機関も,かつてはそのように考えていたとのことだ。でも,「かつて」ということは,いまはちがうということである。いまでは,もし高等な知的生命体が存在するとしたら,それは安定した惑星環境ではなく,種の絶滅を引き起こす環境の撹乱がたっぷりとあり,それによって種分化が促進されれるような惑星環境,つまり理不尽な絶滅が起こるような惑星にちがいないと考えられているのである。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.80

5つの絶滅

これまでに計五度の大量絶滅があったとされており,専門家からは「ビッグ・ファイヴ」などと呼ばれている。それぞれ,オルドビス紀末(約四億三千五百万年前),デボン紀後期(約三億六千万年前),ペルム紀末(約二億五千万年前),三畳紀末(約二億千二百万年前),白亜紀末(約六千五百万年前)に起こったらしい。原因については諸説あるが,天体衝突のほかにも,気温や海水面の変動,酸素の減少などが考えられている(当のラウプは,二千六百万年周期で起こる天体衝突がすべての大量絶滅をもたらしたという大胆な仮説を提唱したが,多くの支持は得られていない)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.77

自業自得にしたいバイアス

でも,それだけではないようにも思う。自業自得説の根強さには,私たちの認知バイアスが影響しているのではないだろうか。認知バイアスとは,人間が物事を見る際に無意識のうちに抱く特有の先入観で,いわば「脳のクセ」のようなものだ。
 そのバイアスとは,社会心理学で「公正世界仮説」(just-world hypothesis)と呼ばれるものだ(Lerner, 1980)。その名のとおり,世界は(不当な不運に見舞われたりすることのない)公正な場所だとする私たちの信念を指す。世界が公正なものであれば,失敗も成功も本人が自ら招いたものだということになる。努力した者は報われ努力しない者は報われない。あるいは,よいことをした者にはよいことが起き,わるいことをした者にはわるいことが起こるということだ。この信念のおかげで,私たちは努力や善行が無意味なものではないと信じて,それらを実践することができる。でも,この世には不運な事故や災害,不当な行為による被害など,公正世界仮説を脅かすような出来事や事態がしばしば生じる。そんなとき私たちはどうするか。あまり楽しい話ではないが,公正世界仮説が脅威にさらされた場合,人は往々にして被害者の人格を傷つけたり非難したりすることで信念の維持を図る傾向があるというのである。たしかに,週刊誌や匿名掲示板などでは凶悪犯罪の被害者や不慮の事故の犠牲者をことさらに貶めるような報道や投稿がどこからともなくわいてくる。また,地震と津波の被災者に追い打ちをかけるような言葉や行為を私たちはたくさん目にしてきた(もちろんそうでないもののほうがずっと多かったことは銘記しなければならないが)。

吉川浩満 (2014). 理不尽な進化:遺伝子と運のあいだ 朝日出版社 pp.67-68

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